村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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この4月から、僕は、すべての勤めを終えた―巨泉・竜馬のこと―

この4月から、僕は、すべての勤めを終えた。
巨泉が死んだ。
それと、竜馬のこと。


そうなんです。
この3月いっぱいで、規則正しい勤務を終えました。
そして、巨泉氏が逝去された。
時代は、確実に移り、進んでいくものだと痛感する。

大学を卒業してからだから、僕は、もう40年以上も勤務をしていたことになる。
いや、小学校に入ってから、平日は学校へ行く毎日だったのだから、もっと長い間、何処かへ通っていた。
そのせいか、毎日自由な最近の日々に、もう8月に近いのだが、身体が未だになれないでいる。

身体が緩んで、運度不足になるのが怖いから、毎日朝はストレッチと簡単な小走りの運動を1時間以上はしている。
でも、昨年肺の手術をしているので、ふつうの人よりは疲れやすい。

ところで、
この4月からは、前回書いたように、『多摩市民塾』で半年の新撰組講座を担当している。これを毎月2,4の土曜日に行っている。そのほか、村瀬塾もやっているので、何かとやることはある。

医者からは止められているが、最近では、サックスを再び吹き始めている。我慢できないのである。
悪くすれば、再び、肺が破れてしまうかもしれない。
そのときは、それでいいと考えた。
「やりたい事を我慢して長生きするのと、やりたい事をやって人生を終えること」との比較である。
先日亡くなった大橋巨泉氏は「寝たきりで長生きしても、意味がない」と言っていたが、僕もそう思う。

山椒嫌いの巨泉

思えば、巨泉がいての僕の人生だった。
学生のころから、師匠だった。
あまり口外したくはないところだが、「競馬」である。
巨泉は、競馬の神様であった。
僕は、学生のころは神保町のジャズ喫茶に毎日、入りびたりだったが、その頃、巨泉はジャズの評論を始めていた。
そのジャズ喫茶は「響」という店だが、神保町の交差点すぐ近くにあった。近くには、三省堂書店やいもやという天婦羅屋、いろは寿司、カレーの南海、レストラン・ランチョン、パチンコ屋「人生劇場」なんてのもあった。
すべてが懐かしい。
その「響」に麻雀や競馬好きの仲間がいて、よくやった。
丁度70年安保の頃で、大学がストライキで閉鎖されていたので、やりたい放題遊んでいた。

競馬のエピソードを一つ紹介しよう。
その当時、(昭和47~48年ごろか)東京競馬場に行くと、午後12時15分ごろにラジオ関東から巨泉の予想が始まる(今は、ラジオ日本に変わった)。ラジオだから、何も競馬場でなくたって家でもどこでも聞けるのだが、競馬場の雰囲気が異常なのである。
競馬場全体が、巨泉のラジオから流れる「声」一色になるのである。
今じゃ、考えられない。
つまり、その時間に競馬場にいる競馬ファンの多くが、巨泉の予想を聞いているのであった。一応聞いておいてから、それを参考に自分自身の検討を開始する人が多いのであった。
だから、巨泉の予想の後は、オッズが変わってしまうなんてことも往々にしてあった。

僕は、20歳の頃、競馬のラジオ番組にゲスト出演したことがあった。
ラジオ関東だが、ハイヤーで府中の競馬場まで連れて行ってくれた。そこに、巨泉がいた。彼は、二度目の結婚をしたばかりだった。
一度目は、女性ヴォーカルの今じゃ大御所”マーサ”三宅さんだ。彼女との間にできた女の子が、今もジャズヴォーカルを歌っている(大橋美加)。
再婚相手は、当時、人気のあったモデルで浅野ジュンコという人だった。彼女が、競馬場の放送席の後ろの部屋で、走り終わった馬のデータをノートに記録していた。このまめな作業が、彼の予想の原点だったのだ。(この人が寿々子さんで、巨泉氏の最期を看取った)
昼飯の注文のとき、
巨泉が御用聞きのおばさんに言っていた。「僕のうなぎには、山椒はいらないからね」「大嫌いだ」と言っていた。
今でも、耳に残っている。山椒を食べていれば、四回もがんの手術をしなくてもすんだかも。

巨泉氏は、皆さんよくご存知のように、人生の遊びの部分については天才であった人だ。競馬のほか、麻雀、ゴルフ、釣り、将棋(4段)など、枚挙に暇がないほどだ。
テレビでは名司会者だったが、CMも大ヒットしていた。

でも、僕が何より感心したのは、社会全体に対する鋭い観察眼である。
特に権力が支配する「政治」に対して、鋭く批判を加えていたのであった。
彼の原点は、戦争を体験してその反省から出発しているから、「反戦」なのである。だから、彼の友人には、そうした考えの人たちが多い。巨泉より少し前になくなった永六輔氏とは、
大の親友であった。数日の間隔で死んでいったのも、何かの因縁か。

小泉首相が国民から80%の支持を得ていた頃、メディアを始め、多くの報道番組でも、小泉さんの批判をする人はほとんどいなかった。
自民党内で批判した人は、党から排除されたのであった。その頃、電波を通して、独り巨泉氏は大きい声で批判していた。
度胸のある男だと思った。
石田純一が都知事選に出馬するかもと言っただけで、仕事が減ってしまった。原田佐之助役をやった山本太郎は、原発反対を運動したばかりに、一切テレビ界から追放されてしまっている。

巨泉氏が参議院選挙に出馬したときは、ダントツのトップ当選だった。それだけ、世間からの支持があった人だった。ああゆう人は、もう出ないかもしれないな。

龍馬のこと

ここのところ、
「村瀬塾」のメンバーが、龍馬についてコメントしてくれている。どうも、世間の龍馬に対する評価が違っているのではないかと言う不信感らしい。
過大評価しすぎているのではないか、と言うこと。
このことについては、以前、僕の塾でそのような内容で(過大評価)お話したことがあったので、僕にも責任があるのである。
でも、どうしても、作られた英雄であるような気がしてならないのである。
この理由については、長くなるから、別な機会に譲るとして、
最後に内輪の話を一つ紹介しておく。

うちの奥さんが四国を旅行して、昨日、帰ってきた。
いつも、ろくなお土産を買ってこないのだが、一枚のチラシを僕にくれた。
高知の『龍馬記念館』に行ったら、こんなチラシがあったから、もらってきたと言うのである。つまらないもの持ってくるなあと、なんとなく見るとそうでもなかった。
タイトルが「龍馬の評価展」で、『龍馬を誇張しすぎていて、間違っているのでは』という内容なのである。龍馬記念館自らがこういうタイトルで特別展をすることが特筆すべきことであって、勇気のあることだと思った。
できれば、高知へ飛んでいきたいところだが、少し遠い。
内容を確認してから、また、コメントします。

竜馬のチラシ

竜馬のチラシーー裏


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〝TAMA市民塾〟の講演が4月から始まる


3月は清水港へ。
~~次郎長と嘉右衛門と仲居屋重兵衛と~~


今月は、僕の『新選組江戸歴史・村瀬塾』が、清水の次郎長を訪ねて、清水港にウォーキングをする。
日帰りでは見きれないので、一泊することになるが、夜の宴席が楽しみなのだから、それでいい。
次郎長の後半生の功績には目を見張るものがあるが、清水には、彼の作った船宿「末廣」や三保の松原、久能山東照宮など名所旧跡がたくさんある。

この村瀬塾は、僕が第2回目の〝TAMA市民塾〟の講師を務めた時、塾生たちが、その後も研究を続けたいという一念で作ってくれたものだが、毎月第2土曜日の講座の合間を縫って、新選組関連の都市をあちこちとツアーして楽しんできた。
京都を皮切りに、函館や横浜などに行ってきた。
今月は、清水港である。
ここは、新選組や土方に直接は関係ないが、幕末つながりで次郎長の研究で尋ねることになった。世間では、次郎長といえばやくざの親分だし、それほどの人だとは気付いていない人たちが多いが、今の政治家たちに見習ってほしいほど、人道的な侠客だった。
侠客とは、「弱きを助け、強きをくじく」人だからだ。

このブログでも、何回か、高島嘉右衛門や仲居屋重兵衛、次郎長について触れたことがあったが、皆、幕末の横浜で活躍した人物だ。この人たち、歴史的にはほとんど有名ではないが、その実績ときたら、幕末から明治にかけて活躍した偉人たちの中でも、群を抜いていると確信している。
つい最近の歴史番組で、「おやっ」っと、驚いたことがあった。
仲居屋重兵衛の名が、出てきたのである。
これまで、この人がマスコミの電波に乗ったのを見たこともないし、聞いたこともない。だから、多くの人は、彼の名さえ知らないのではないか。

重兵衛は、上州妻恋村の育ちだが、江戸に出て佐久間象山の塾に通った。そこでは、勝海舟や吉田松陰をはじめ有数の実力者と交わったことだろう。一流の火薬商人になった。
横浜に出て、郷里の生糸を商いにして群馬から八王子を通る『絹の道』を切り開き、大いに設けた。そして、当時、『銅御殿』と言われる横浜で最大で豪華な店を営んだのである。
火薬商人であったことから、意外な一面を持っていた。
あの井伊直弼暗殺に使われたピストルが、この仲居屋重兵衛から提供されたものだと番組で紹介していた。
昨年あたりだったか、水戸脱藩浪士のリーダー格の関鉄之助に重兵衛が渡したものだと、このブログで書いた覚えがあるが、まさか、番組でそのようなことをいう歴史考証家がいたのかと、驚いた。

村瀬塾では、横浜を歩いたことがあったが、主たる目的は高島嘉右衛門と仲居屋重兵衛の足跡の調査だった。嘉右衛門は、家業は材木屋であったが、易の名人であったから、元祖「高島易断」の人で有名である。
伊藤博文は、よく嘉右衛門を訪ねている。
伊藤の様々な成功話は、100発100中の嘉右衛門の易占に頼るところが大きかったといわれる。
伊藤は、易ばかりでなく、私財を投げ打って公共に尽くす嘉右衛門の人柄に惚れたのだろう。だから、伊藤の息子と嘉右衛門の娘は結婚している。

嘉右衛門は、横浜にガス灯をともしたり鉄道を走らせたりした人物である。
馬車道通りに今でも人気スポットの馬車道十番館があるが、ここは、嘉右衛門の住まいのあったところである。その馬車道通りを港のほうへ歩いて右に折れれば、仲居屋重兵衛の大店の存在したところである。今では、看板でしか確認は出来ないが。

横浜で、清水の次郎長が嘉右衛門と親しく交わったことは、まず間違いはない。
横浜・函館航路を切り開いた嘉右衛門だから、次郎長が、横浜と清水港との連絡航路を作りたいと嘉右衛門に相談したのだった。その後、次郎長は、自ら2隻の船を購入して、商用のためにそのルートで運航させている。
次郎長は、静岡のお茶や生糸などを輸出したかったのだ。

また、次郎長は、徳川の浪人どもに職業を与えたいと考えていたし、鎖につながれていた囚人たちの手を自由にさせ、労働を作ってやる必要があると思っていた。だから、いざこざを避けるために、大政小政をはじめ子分たちを見張りに使い、同時に労働もさせた。
この富士のすそ野開墾には、嘉右衛門もここを訪れ、樹木を植樹して全面的に応援した。

次郎長は何度も横浜に足を運び、嘉右衛門と関わりのある神風楼を定宿とした。そして、富士の裾野にある牧の原に『次郎長開墾』と『高島開墾』を隣合せて開発している。
これは、以前ここでも、その当時の地図で示したから確実なことである。

4月開講の〝TAMA市民塾〟とは……

今度で3回目になる僕の新選組講座。
〝TAMA市民塾〟とは、多摩交流センターという東京都の外郭団体が運営するカルチャーセンターである。


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半年間、土方歳三や新撰組をテーマに月2度のペースで研究する企画であるが、受講生募集は、すでに終了済みだ。
受講生26名。
タイトルは、  「人間土方歳三」~足跡を訪ねて~
その大体のカリキュラムは、以下のとおりである。

4月 2日  映画鑑賞『燃えよ剣』第1話 “新選組前夜”
        班づくり(研究課題設定)
4月16日  『ウォーキングⅠ』 近藤勇菩提寺「竜源寺」、野川~深大寺付近
5月 7日  講座 京都守護職制定から浪士組募集
        8・18政変から新選組誕生
5月21日  『ウォーキングⅡ』 試衛館跡地~小石川伝通院
6月 4日  講座 芹沢鴨暗殺 見廻組誕生 近藤の尊王攘夷
       映画鑑賞『燃えよ剣』第9話 “池田屋”
6月18日  『ウォーキングⅢ』 土方歳三生家~石田寺~高幡不動尊
7月2日  『ウォーキングⅣ』 日野宿本陣~佐藤家~井上源三郎資料館
7月16日  講座 山南敬介切腹~長州征伐
       映画鑑賞『新選組血風録』“流山”
 8月6日   『ウォーキングⅤ』 流山~綾瀬金子家~板橋駅
 8月20日  講座 短編小説『すってん業平、土方歳三』講師作
       班内調整 (研究課題)  
9月3日  『ウォーキングⅥ』 品川宿~泉岳寺
9月17日  研究発表 (各班)
      まとめ、村瀬塾について 

この中で、8月6日に綾瀬の金子家を訪ねることになっている。
前回(2年前)の見学時だが、ここのご夫婦のご厚意で敷地内ばかりか部屋の中まで拝見させていただくことができた。
この金子家の先祖に金子健十郎という人が幕末にいた。その直系の子孫が、ここの奥様なのだ。僕は、その方に約12年前に
土方家でお会いした。
その時の様子は、このブログの「2014-05-29」をご覧になれば、詳細に写真入りで紹介している。
僕は、生来運がいいほうなのか、普段見学できないところを見せてもらえるケースが多い。
今年も、こうしたサプライズを期待しているのだが。

中桂小五郎の逃避地〝但馬出石(いずし)〟

中桂小五郎の逃避地〝但馬出石(いずし)〟は、しっとり落ち着いた美しい街並みだった

出石の街
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昨年8月の手術後、初めて遠くへ出かけてみた。
術後3か月は、激しい痛みでそれどころではなかったが、今はもう大丈夫。
一度は行ってみたかった出石や姫路城、この二つが含まれているツアーがあったので、というより、僕の奥さんが新聞で見つけてくれたので、素直に申し込んだ。
このツアー、岡山空港まで行って倉敷、鳥取砂丘、出石、神戸、姫路城というルートをバスで走るものだった。
ただ、キャッチフレーズはタグ付きのカニを食べるという呼び込みだった。
僕は、カニが大好きなので、こちらのほうも魅力で興味がわいた。

冒頭の写真は、豊岡市出石の街なかである。天気も良かったせいか、実に静寂な味わいのある界隈であった。
ここは、桂小五郎が禁門の変ののち、命からがら京都を出て、約1年近く潜伏していたので、記憶にあった。
一度、尋ねてみたかったところだ。
それと、大石内蔵助の妻りくが、まだ山科にいる頃、突然内蔵助から離縁を言い渡されて、生まれ故郷に力(ちから)以外の子らを連れて帰っていくシーンがあったが、その故郷がここ豊岡であった。

桂の店のあった記念碑など
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『死を恐れない』若者たち


桂小五郎は、出石で商人に変装し、荒物屋を営んでいたという。
その横に当時から蕎麦屋があったらしいが、今でも立派に営業していた。
よく、桂は『逃げの小五郎』と言われて揶揄されているが、それは、司馬遼太郎の小説のイメージから来ているものかもしれない。司馬さんの小説はストーリーが魅力的で史実もきちんとしているし勉強になるが、創作も多いので少しは気を付けないと。

すぐ思い出すのは、井上源三郎である。
小説や映画では、剣術の下手なよき好々爺のように描かれているが、源三郎はまだ30代であるし、井上の子孫はそれを認めてはいない。
天然理心流の免許が見つかっていなかったからであったが、司馬さんが亡くなってから、井上家と姻戚関係にある近所の安西家で免許状が見つかった。だから、源さんは『強かった』というのだ。
でも、司馬さんの小説は、書き直せない。井上本家は、源三郎の強さを力説する。

実際、桂はどういう人だったのか、興味はある。

神道無念流練兵館の塾頭に若くしてなり、免許皆伝まで精進したというから、竜馬の北辰一刀流と並んで大変な上達ぶりである。
武田鉄矢の「お~い竜馬」では、この二人が土佐の山内容堂の御前試合で手合せし、竜馬が勝ったことになっていた。
僕の長男が幼いころ、一緒にアニメを見ていたのを覚えている。

確かに同じころ、江戸で二人は剣術の修業をしていたのだから、可能性はある。
作り話だとしても、夢がある。
竜馬にしても小五郎にしても、相当な剣の腕前がありながら、実際、刀を抜いたという話は一度も聞いたことがない。
二人とも、目先の小さな争い事には関心を示さず、もっと大きい変革に命を捧げようとしていたに違いない。
まあ、逃げ回っていたことには違いないが。
竜馬の場合、その逃げ方が半端だったから、殺られてしまった。逃げることに、どこか、躊躇があった。周囲の忠告も、半分は無視をしていた。それに、土佐藩も竜馬を匿おうという積極性に欠けていたし。

あの時代、志士と自負していた若者たちは、「潔さ(いさぎよさ)」も大事にしていた。だから、死を恐れないという任侠的なところも少しはあった。

桂が、池田屋事変の後、憎き新撰組に復讐しようと思えば、壬生の屯所を襲って一瞬のうちに成敗することは可能であっただろう。何せ、このころの新撰組ときたら脱走や病人が多くて50人にも満たない。
確かに、長州藩の中には、そういう輩もいたと聞く。
だが桂は、新撰組を襲って世の中が変わるわけではない。われらの目的は徳川なのだ。もっと大きく、世の中を見渡さないといけないと考えた。

池田屋で変事があって翌月の19日には、長州は京都を三方から攻め上がっている。これにも桂は消極的で、姿を消している。
久坂玄瑞などは血の気が多いからか、ここで命を落としてしまっている。生きていれば、相当の活躍が望めたものを。
もったいない話だが、幕末には、若くして命を落としてしまった有能な志士が何人もいた。
それが当時、『死を恐れない』という一つの若者の生きざまであり、形であったからであろう。
原田佐之助はいきがって、まだ10代のころ、自分の腹を刺したという。

早まったことをしてしまった下級武士が多い中、桂小五郎は、生きて生きて生き抜いた。
幕府の追手から逃げなければならないから、ずいぶんと変装もしたが、乞食にまでなって、愛妾の幾松に握り飯を運ばせたという逸話まで残っている。
でも、こういうタイプの英雄はよく言われないし、小説家も良い印象を持たないらしい。
とにかく、日本国では、最後まで戦い抜くほうが人気が高いのである。
真田親子は、父昌幸の功績は息子の幸村などより大きいが、人気は断然幸村である。
最後まで豊臣に殉じて戦って死んだからかもしれないが、父の昌幸だって、戦うことに関しては、幸村なぞに負けてはいない。
稀有の戦国武将である。
真田丸だって、実は、父からの受け売りだし、それ以前からああした戦法は戦略としてあった。
でも、人気は幸村なのである。日本の歴史とは、そのように作られてきている。

西郷や大久保は、剣は苦手だったに違いないが、勝海舟は男谷道場で免許皆伝だったという。
が、抜いたことはなかった。
京都で、勝の身辺を心配した竜馬が、用心棒に岡田以蔵をつけて警護させたら、案の定刺客に襲われた。その時、以蔵がいとも簡単に人を斬ったので、勝が注意したという話が残っている。
これは、勝自身がのちに語っていることなので史実だろうが、剣の達人とは其の奥義に、いかにして『抜かないで勝つか』というものがあるのかもしれない。


鳥取の砂丘は寒く、前日の雪が残っていた


空の碧さと海の青さ、砂丘の砂の色と雪の白さがコントラストとなって、独特の美しさを現していた。

砂丘
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このたびの旅行、タイミングが中国の春節に重なったせいか、どこへ行っても日本人より多かった。ここまで、金を落としてくれると、地方の活性化にも役立つだろうから、一概に非難ばかりしてはいられない。
最近では、東京や京都、富士山ばかりでなく、地方都市や中小の観光名所が人気があるという。
確かに、鳥取の砂丘でも、中国語が飛び交っていた。
中国は広いから、雪などは、日本と同じように降るだろうし、珍しくはないと思っていたが、実際はだいぶ違うらしい。
我が国に降る雪は、サラサラで、パウダーのようなのだ。アジアの多くの人々ばかりでなく、オーストラリアのスキーヤーまでもが、北海道のニセコの雪質にあこがれを感じるらしい。

修復を終えた姫路城だが、白すぎた天守閣は今ちょうどよいほどに落ち着いている

出石の街中を歩いているとき、これは、中国じゃなくてベトナムあたりの団体の観光客らしいが、そのしっとりとした美しさに感動したのだろう、歓声を上げている。
西洋人もいたのだが、彼ら彼女たちに共通しているのは、皆さん感動を大声とジェスチャーで表現することだ。そこへ行くと、日本人たちは、総じておとなしい。何かが、逆転している。
こっちのほうが外人みたいだ。
あの人たちに、こういう雰囲気がわかるのかと疑いたくなるのだが、最近は、日本的なものがよいらしい。

そういえば、姫路城の天守閣の急な階段を上って4階あたりだったか、チャイナの5歳ほどの男の子が、ほとんど忍者になりきって一人で演技をしていたっけ。
本人は得意になって、国宝のあの分厚い板の床を寝転んでいる。
ドラゴンボールZのスーパーサイヤ人なのだ。
母親も、ニコニコ顔でわが子を眺めている。多分、日頃から、本国でも日本の忍者にあこがれていたに違いない。
晴れて、夢がかなったのだった。
我が国の子供たちはそうしない。
おとなしく見学する子が、よい子なのである。

天下一の美しさ、白鷺城


姫路城
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このお城、超有名だから、幼いころからその名はよく知っていたが、誰の城だったっけ?
僕が知る限りでは、黒田官兵衛が秀吉にプレゼントしたことと、その後、秀長が城主になり、大坂夏の陣で秀頼が死んだあとは、あの千姫が一時住んでいたというくらいなのだが。
そのほか、池田輝政が関ヶ原の戦のあとは、その功績で住んでいたような。
でも、なんで、これほど大きくて立派で美しいのだろうかと感動ものである。
同じ国宝でも、松本城や彦根城などと比べても、桁違いである。
熊本城も石垣は立派だが、城そのものは昭和になって再建されたもので、魅力はない。

姫路城は、今、その白さも落ち着いて、ちょうど見ごろである。
皆さんにも一度は行く価値のある逸物であるから、お勧めする。
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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