村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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この4月から、僕は、すべての勤めを終えた―巨泉・竜馬のこと―

この4月から、僕は、すべての勤めを終えた。
巨泉が死んだ。
それと、竜馬のこと。


そうなんです。
この3月いっぱいで、規則正しい勤務を終えました。
そして、巨泉氏が逝去された。
時代は、確実に移り、進んでいくものだと痛感する。

大学を卒業してからだから、僕は、もう40年以上も勤務をしていたことになる。
いや、小学校に入ってから、平日は学校へ行く毎日だったのだから、もっと長い間、何処かへ通っていた。
そのせいか、毎日自由な最近の日々に、もう8月に近いのだが、身体が未だになれないでいる。

身体が緩んで、運度不足になるのが怖いから、毎日朝はストレッチと簡単な小走りの運動を1時間以上はしている。
でも、昨年肺の手術をしているので、ふつうの人よりは疲れやすい。

ところで、
この4月からは、前回書いたように、『多摩市民塾』で半年の新撰組講座を担当している。これを毎月2,4の土曜日に行っている。そのほか、村瀬塾もやっているので、何かとやることはある。

医者からは止められているが、最近では、サックスを再び吹き始めている。我慢できないのである。
悪くすれば、再び、肺が破れてしまうかもしれない。
そのときは、それでいいと考えた。
「やりたい事を我慢して長生きするのと、やりたい事をやって人生を終えること」との比較である。
先日亡くなった大橋巨泉氏は「寝たきりで長生きしても、意味がない」と言っていたが、僕もそう思う。

山椒嫌いの巨泉

思えば、巨泉がいての僕の人生だった。
学生のころから、師匠だった。
あまり口外したくはないところだが、「競馬」である。
巨泉は、競馬の神様であった。
僕は、学生のころは神保町のジャズ喫茶に毎日、入りびたりだったが、その頃、巨泉はジャズの評論を始めていた。
そのジャズ喫茶は「響」という店だが、神保町の交差点すぐ近くにあった。近くには、三省堂書店やいもやという天婦羅屋、いろは寿司、カレーの南海、レストラン・ランチョン、パチンコ屋「人生劇場」なんてのもあった。
すべてが懐かしい。
その「響」に麻雀や競馬好きの仲間がいて、よくやった。
丁度70年安保の頃で、大学がストライキで閉鎖されていたので、やりたい放題遊んでいた。

競馬のエピソードを一つ紹介しよう。
その当時、(昭和47~48年ごろか)東京競馬場に行くと、午後12時15分ごろにラジオ関東から巨泉の予想が始まる(今は、ラジオ日本に変わった)。ラジオだから、何も競馬場でなくたって家でもどこでも聞けるのだが、競馬場の雰囲気が異常なのである。
競馬場全体が、巨泉のラジオから流れる「声」一色になるのである。
今じゃ、考えられない。
つまり、その時間に競馬場にいる競馬ファンの多くが、巨泉の予想を聞いているのであった。一応聞いておいてから、それを参考に自分自身の検討を開始する人が多いのであった。
だから、巨泉の予想の後は、オッズが変わってしまうなんてことも往々にしてあった。

僕は、20歳の頃、競馬のラジオ番組にゲスト出演したことがあった。
ラジオ関東だが、ハイヤーで府中の競馬場まで連れて行ってくれた。そこに、巨泉がいた。彼は、二度目の結婚をしたばかりだった。
一度目は、女性ヴォーカルの今じゃ大御所”マーサ”三宅さんだ。彼女との間にできた女の子が、今もジャズヴォーカルを歌っている(大橋美加)。
再婚相手は、当時、人気のあったモデルで浅野ジュンコという人だった。彼女が、競馬場の放送席の後ろの部屋で、走り終わった馬のデータをノートに記録していた。このまめな作業が、彼の予想の原点だったのだ。(この人が寿々子さんで、巨泉氏の最期を看取った)
昼飯の注文のとき、
巨泉が御用聞きのおばさんに言っていた。「僕のうなぎには、山椒はいらないからね」「大嫌いだ」と言っていた。
今でも、耳に残っている。山椒を食べていれば、四回もがんの手術をしなくてもすんだかも。

巨泉氏は、皆さんよくご存知のように、人生の遊びの部分については天才であった人だ。競馬のほか、麻雀、ゴルフ、釣り、将棋(4段)など、枚挙に暇がないほどだ。
テレビでは名司会者だったが、CMも大ヒットしていた。

でも、僕が何より感心したのは、社会全体に対する鋭い観察眼である。
特に権力が支配する「政治」に対して、鋭く批判を加えていたのであった。
彼の原点は、戦争を体験してその反省から出発しているから、「反戦」なのである。だから、彼の友人には、そうした考えの人たちが多い。巨泉より少し前になくなった永六輔氏とは、
大の親友であった。数日の間隔で死んでいったのも、何かの因縁か。

小泉首相が国民から80%の支持を得ていた頃、メディアを始め、多くの報道番組でも、小泉さんの批判をする人はほとんどいなかった。
自民党内で批判した人は、党から排除されたのであった。その頃、電波を通して、独り巨泉氏は大きい声で批判していた。
度胸のある男だと思った。
石田純一が都知事選に出馬するかもと言っただけで、仕事が減ってしまった。原田佐之助役をやった山本太郎は、原発反対を運動したばかりに、一切テレビ界から追放されてしまっている。

巨泉氏が参議院選挙に出馬したときは、ダントツのトップ当選だった。それだけ、世間からの支持があった人だった。ああゆう人は、もう出ないかもしれないな。

龍馬のこと

ここのところ、
「村瀬塾」のメンバーが、龍馬についてコメントしてくれている。どうも、世間の龍馬に対する評価が違っているのではないかと言う不信感らしい。
過大評価しすぎているのではないか、と言うこと。
このことについては、以前、僕の塾でそのような内容で(過大評価)お話したことがあったので、僕にも責任があるのである。
でも、どうしても、作られた英雄であるような気がしてならないのである。
この理由については、長くなるから、別な機会に譲るとして、
最後に内輪の話を一つ紹介しておく。

うちの奥さんが四国を旅行して、昨日、帰ってきた。
いつも、ろくなお土産を買ってこないのだが、一枚のチラシを僕にくれた。
高知の『龍馬記念館』に行ったら、こんなチラシがあったから、もらってきたと言うのである。つまらないもの持ってくるなあと、なんとなく見るとそうでもなかった。
タイトルが「龍馬の評価展」で、『龍馬を誇張しすぎていて、間違っているのでは』という内容なのである。龍馬記念館自らがこういうタイトルで特別展をすることが特筆すべきことであって、勇気のあることだと思った。
できれば、高知へ飛んでいきたいところだが、少し遠い。
内容を確認してから、また、コメントします。

竜馬のチラシ

竜馬のチラシーー裏


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〝TAMA市民塾〟の講演が4月から始まる


3月は清水港へ。
~~次郎長と嘉右衛門と仲居屋重兵衛と~~


今月は、僕の『新選組江戸歴史・村瀬塾』が、清水の次郎長を訪ねて、清水港にウォーキングをする。
日帰りでは見きれないので、一泊することになるが、夜の宴席が楽しみなのだから、それでいい。
次郎長の後半生の功績には目を見張るものがあるが、清水には、彼の作った船宿「末廣」や三保の松原、久能山東照宮など名所旧跡がたくさんある。

この村瀬塾は、僕が第2回目の〝TAMA市民塾〟の講師を務めた時、塾生たちが、その後も研究を続けたいという一念で作ってくれたものだが、毎月第2土曜日の講座の合間を縫って、新選組関連の都市をあちこちとツアーして楽しんできた。
京都を皮切りに、函館や横浜などに行ってきた。
今月は、清水港である。
ここは、新選組や土方に直接は関係ないが、幕末つながりで次郎長の研究で尋ねることになった。世間では、次郎長といえばやくざの親分だし、それほどの人だとは気付いていない人たちが多いが、今の政治家たちに見習ってほしいほど、人道的な侠客だった。
侠客とは、「弱きを助け、強きをくじく」人だからだ。

このブログでも、何回か、高島嘉右衛門や仲居屋重兵衛、次郎長について触れたことがあったが、皆、幕末の横浜で活躍した人物だ。この人たち、歴史的にはほとんど有名ではないが、その実績ときたら、幕末から明治にかけて活躍した偉人たちの中でも、群を抜いていると確信している。
つい最近の歴史番組で、「おやっ」っと、驚いたことがあった。
仲居屋重兵衛の名が、出てきたのである。
これまで、この人がマスコミの電波に乗ったのを見たこともないし、聞いたこともない。だから、多くの人は、彼の名さえ知らないのではないか。

重兵衛は、上州妻恋村の育ちだが、江戸に出て佐久間象山の塾に通った。そこでは、勝海舟や吉田松陰をはじめ有数の実力者と交わったことだろう。一流の火薬商人になった。
横浜に出て、郷里の生糸を商いにして群馬から八王子を通る『絹の道』を切り開き、大いに設けた。そして、当時、『銅御殿』と言われる横浜で最大で豪華な店を営んだのである。
火薬商人であったことから、意外な一面を持っていた。
あの井伊直弼暗殺に使われたピストルが、この仲居屋重兵衛から提供されたものだと番組で紹介していた。
昨年あたりだったか、水戸脱藩浪士のリーダー格の関鉄之助に重兵衛が渡したものだと、このブログで書いた覚えがあるが、まさか、番組でそのようなことをいう歴史考証家がいたのかと、驚いた。

村瀬塾では、横浜を歩いたことがあったが、主たる目的は高島嘉右衛門と仲居屋重兵衛の足跡の調査だった。嘉右衛門は、家業は材木屋であったが、易の名人であったから、元祖「高島易断」の人で有名である。
伊藤博文は、よく嘉右衛門を訪ねている。
伊藤の様々な成功話は、100発100中の嘉右衛門の易占に頼るところが大きかったといわれる。
伊藤は、易ばかりでなく、私財を投げ打って公共に尽くす嘉右衛門の人柄に惚れたのだろう。だから、伊藤の息子と嘉右衛門の娘は結婚している。

嘉右衛門は、横浜にガス灯をともしたり鉄道を走らせたりした人物である。
馬車道通りに今でも人気スポットの馬車道十番館があるが、ここは、嘉右衛門の住まいのあったところである。その馬車道通りを港のほうへ歩いて右に折れれば、仲居屋重兵衛の大店の存在したところである。今では、看板でしか確認は出来ないが。

横浜で、清水の次郎長が嘉右衛門と親しく交わったことは、まず間違いはない。
横浜・函館航路を切り開いた嘉右衛門だから、次郎長が、横浜と清水港との連絡航路を作りたいと嘉右衛門に相談したのだった。その後、次郎長は、自ら2隻の船を購入して、商用のためにそのルートで運航させている。
次郎長は、静岡のお茶や生糸などを輸出したかったのだ。

また、次郎長は、徳川の浪人どもに職業を与えたいと考えていたし、鎖につながれていた囚人たちの手を自由にさせ、労働を作ってやる必要があると思っていた。だから、いざこざを避けるために、大政小政をはじめ子分たちを見張りに使い、同時に労働もさせた。
この富士のすそ野開墾には、嘉右衛門もここを訪れ、樹木を植樹して全面的に応援した。

次郎長は何度も横浜に足を運び、嘉右衛門と関わりのある神風楼を定宿とした。そして、富士の裾野にある牧の原に『次郎長開墾』と『高島開墾』を隣合せて開発している。
これは、以前ここでも、その当時の地図で示したから確実なことである。

4月開講の〝TAMA市民塾〟とは……

今度で3回目になる僕の新選組講座。
〝TAMA市民塾〟とは、多摩交流センターという東京都の外郭団体が運営するカルチャーセンターである。


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半年間、土方歳三や新撰組をテーマに月2度のペースで研究する企画であるが、受講生募集は、すでに終了済みだ。
受講生26名。
タイトルは、  「人間土方歳三」~足跡を訪ねて~
その大体のカリキュラムは、以下のとおりである。

4月 2日  映画鑑賞『燃えよ剣』第1話 “新選組前夜”
        班づくり(研究課題設定)
4月16日  『ウォーキングⅠ』 近藤勇菩提寺「竜源寺」、野川~深大寺付近
5月 7日  講座 京都守護職制定から浪士組募集
        8・18政変から新選組誕生
5月21日  『ウォーキングⅡ』 試衛館跡地~小石川伝通院
6月 4日  講座 芹沢鴨暗殺 見廻組誕生 近藤の尊王攘夷
       映画鑑賞『燃えよ剣』第9話 “池田屋”
6月18日  『ウォーキングⅢ』 土方歳三生家~石田寺~高幡不動尊
7月2日  『ウォーキングⅣ』 日野宿本陣~佐藤家~井上源三郎資料館
7月16日  講座 山南敬介切腹~長州征伐
       映画鑑賞『新選組血風録』“流山”
 8月6日   『ウォーキングⅤ』 流山~綾瀬金子家~板橋駅
 8月20日  講座 短編小説『すってん業平、土方歳三』講師作
       班内調整 (研究課題)  
9月3日  『ウォーキングⅥ』 品川宿~泉岳寺
9月17日  研究発表 (各班)
      まとめ、村瀬塾について 

この中で、8月6日に綾瀬の金子家を訪ねることになっている。
前回(2年前)の見学時だが、ここのご夫婦のご厚意で敷地内ばかりか部屋の中まで拝見させていただくことができた。
この金子家の先祖に金子健十郎という人が幕末にいた。その直系の子孫が、ここの奥様なのだ。僕は、その方に約12年前に
土方家でお会いした。
その時の様子は、このブログの「2014-05-29」をご覧になれば、詳細に写真入りで紹介している。
僕は、生来運がいいほうなのか、普段見学できないところを見せてもらえるケースが多い。
今年も、こうしたサプライズを期待しているのだが。

清水次郎長もいたなあ―――2


次郎長の前半生は

清水次郎長の大変身、大活躍を語る前に、彼の人生の前半を振り返ってみよう。
彼は、維新の年に、自分のなりふりを180度転換させている。

●文政3年 1820年 
  1月1日に、駿河国清水町に、船頭の次男として生まれている。
  名は、長五郎。その後、叔父次郎八に養子として引き取られるが、次郎八の長だから、次郎長と呼ばれた。
●文政12年 1829年
  性格があまりにも粗暴なので、由比倉沢の伯父の元に預けられる。
●天保5年 1834年
  15歳の時、百両の金を持ち逃げし、それを元に米相場で巨利を得る。その後、旅の僧侶に、余生が25歳と告げられ、任侠の道へ。
●天保13年 1842年
  酔って帰路の途中、闇討ちに会って瀕死の重傷を負う。それを機に、生涯、酒を断つ。
賭博のもつれから人を斬り、清水を出て無宿者となり、三河の吉良の武一より剣術を学ぶ。
●弘化2年 1845年
  清水に戻り、甲州紳の文吉と駿州の和田島の太左衛門の喧嘩を仲裁し、一気にその侠名を高める。
●安政5年 1858年
  甲州、祐天の親分隠居を斬る。役人に追われた長五郎は、瀬戸の岡一に家族と子分たちで身を寄せるが、その後、名古屋で奥方お蝶は、病で逝く。
  (その後、文久3年2月、祐天仙之介は子分を連れて『浪士組』に加入、上洛し5番隊へ。清河八郎らと江戸へ戻った後の10月、同じ新徴組にいた男に仇討に会う。)
●万延元年 1860年
  森の石松、金比羅神社からの帰り、都田の吉兵衛・梅吉兄弟に惨殺される。
●文久元年 1861年
  次郎長、子分たちとともに、石松の仇を晴らす。
●文久2年 1862年
  甲州黒駒の勝蔵は悪事の限りをつくし、捕吏の追うところとなる。遠州に逃れてきたが次郎長は勝蔵を甲州に追いやる。
●慶応2年 1866年
  吉良の仁吉に加勢し、荒神山にて穴太徳・黒駒を倒す。
その後、次郎長の貫録が轟き、全国で有名になる。
●慶応4年 1868年
  駿府町奉行が廃止され、浜松藩家老伏谷如水が駿府町差配役となる。
  伏谷に見込まれた次郎長は、その際、街道警護役に任ぜられ、それまでの罪科を免じられ、帯刀を許される。

ここまでが、清水次郎長の前半生である。
ここから、彼が没する明治26年までの後半生が始まるのだが、波
乱万丈の出来事を、一つ一つ紹介してゆきたい。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「戦」に負ければ、野に下るだけ

関ヶ原の戦で徳川が勝ち、豊臣を完全消滅させて栄華を誇っていた徳川であったが、260年経過して今度は負けた。
ただ、それだけのことである。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

前回のこのコーナーで、上記の文章を書いた。
こういうことが興ると、権力の構造が変わるのだから、警察・司法
権力も治安体制も変わることになる。
(余談だが、数年前、民主党が政権をとったことがあったが、あの時、森喜朗という元の総理大臣が地団太踏んで悔しがった。「野に下ることとは、こんなにもつらいことか」と。その後、今は、再び政権の座に返り咲いて大いに喜び、自分はオリンピックの責任者になって意気揚々としているが、もう大分お歳のようで)

慶応3年から4年にかけて、15代将軍慶喜が政権を返上したが、実は、彼には思惑があって、その後も自分が「政」を行なえるように、周囲に準備させていたことは明白になっている。
でも、幕臣たちの多くはそんなことは知らないから、右往左往して、何をどうしてよいやらわからない状況であった。何しろ、260年以上も続いてきてる政権なのだから、崩れ去るなんてことは夢にも思えないし、思いたくもない。
だが、現実に、将軍が大政を奉還してしまった。
悲しくも情けない心境であったし、これから、家来や一族郎党をどのように面倒見ていくのか、路頭に迷った。
そして、慶応4年の8月以降、結論がないまま成行きで、新天地の清水港へ向かったのである。この人数、約18000人から20000人だったといわれる。
当時、清水港の世帯が全部で900だったというから、この幕臣家族たちが到着して、どのように生計が成り立って行ったのか、きっと悲惨な実態であったであろう。
後に、ゆっくり話すが、次郎長が幕臣たちの生活のために、かなり腐心して奉仕したことが伝わっている。

僕は思うのだが、慶喜が本心で政権を返上してれば、鳥羽伏見の戦も、その後の戊申の役もなくて済んだと思う。
現世の人は、竜馬が生きていれば、戊辰戦争は起こらなかったなんて言う人が多いが、そんなことはない。それは、後世になって、坂本龍馬を過大評価しすぎて、そうした風潮を生みだしているだけだ。
慶喜に野心がなく素直に政権を返上していれば、徳川家の領地も財産も、あそこまでみじめな仕打ち(駿河70万石)を受けないで済んだと思われる。
官軍側の幹部たちは、そこまで悪人ではない。恭順している相手を攻め落として殺すなどという仕打ちはしないはずだ。これは、当時、イギリスをはじめ、フランスやオランダなど、先進国がそうしたことを許さないからでもある。
現に、当時のイギリス公使パークスは、「白旗を上げている相手を殺すことが、武士道か」と、西郷に迫ったといわれているからだ。
西郷は、こういうことにはことに敏感で、後に、弟子の黒田清隆に『降参した藩主自らが白袴をはいて責任を取り、切腹の覚悟である。庄内藩には、寛大な処置をするように』指示しているし、榎本が函館で降参した時も、西郷は内緒で函館湾にいた。黒田の処置を確かめたかったと思われる。そして、函館政府の幹部連中誰一人殺さないで、東京に連れて行き、中野の刑務所に入れた。
その後、刑務所内では破格の待遇に驚いたばかりか、早々に釈放されて、その後、榎本を明治政府の大臣にまで抱えている。

もし、土方がこのなかにふくまれていたら、―――。
僕は、そうして欲しかった。
もし、そうだとしたら、榎本と一緒に蝦夷地に派遣されて、ロシア対策に当たっただろうし、歳蔵ほどの才能があれば、その後の日露戦争に東郷平八郎以上の働きがあっただろうと想像するからだ。
この時代の英雄たちは、人生の前半と後半が大きく変貌している人が多い。土方歳三も、次郎長同様、後半生が劇的に変わった可能性がある。
話しが、飛躍しすぎた。

だが、慶喜は新政権でも自分がトップの座に座って両院を支配しようとした。
それが、西郷や大久保を怒らせた。
危機を感じた官軍側は、朝廷を前面に出して戦を巧妙に仕掛けてきたのである。そして、戊辰戦争へとつながる。

次郎長の恩人、浜松藩家老伏谷如水

駿府では、徳川の時は町奉行が治安を仕切っていたが、慶応4年に入ってからは、幕藩体制が崩れているのだから、もういない。しかし、ここだけは誰かが権力を振るわないと、社会の安寧が保たれない。

そこで、浜松藩の家老伏谷如水が3月22日、駿府町差配役となって警察長官となったが、4月26日には、駿河、遠江、三河の裁判所判事も命じられた。
伏谷は、自分一人では、すべてに目が届かない。
誰か、有能な補佐役が必要なのだが、この街道筋を仕切れる人物が欲しかった。調査をした結果、清水に住む山本長五郎という人物に着目した。早速部下に命じて、足袋屋に変装させて次郎長宅に入り込み、人物を観察させ、伏谷に報告させたのである。

その結果、一介の博奕打ちではないことが判明した。さすが、東海道を仕切る大親分にふさわしい振る舞いと人気であった。
本当の侠客とは、この人のような人物を言うのだと思った。
(侠客――弱きを助け、強気をくじく人物)

次郎長のところに、駿府町差配役から出頭命令が来た。
「今、この街道筋では、事態が逼迫していて物騒なことが多い。取り締まる役人側も徳川だの官軍だのとはっきりしない上、ゆすり、たかり、人を殺めることが横行していて憂慮している。
そこで、その方に頼みがあるのだ。市中警護役を引き受けてもらいたい」
「とんでもございません。私のような身分の卑しい無頼の徒が、おかみの御用なぞ、勤まるわけがありません。むしろ、いつ捕まるか、びくびくしている毎日でございます。どうか勘弁して下せえまし」
このような返事が返ってくることを想定していた如水は、
「おい、入れ」
1人の役人が入ってきた。
次郎長、この男を見てびっくり。なんと、昨日も自分の家にやってきて足袋を売りつけた、その男だ。あまり熱心なので、いくつか買ってやったが、数日前から、この近辺を徘徊している商人である。そう、如水が放った探索方であった。
次郎長の言動は逐一、如水に報告されていたのである。
「自分を覚えているか」
探索方は、次郎長の顔を見て、ニヤリとした。
「いや、まいりました」

判事となっていた如水は、次郎長の態度にすっかり惚れ込んでしまい、うわさ通りの大親分に街道筋の治安を任せることにした。

積年の次郎長の罪科はすべて免除され、それどころか、平民としては破格の帯刀を許された。
天保13年、23歳の時に国を出て以来、実に27年もの間、常に命を狙われていて、1日たりとも世をはばからないときはなかった長五郎だが、ここに来て初めて、青天白日の身となった。

次郎長の宿敵、黒駒の勝蔵

黒駒の勝蔵は、この頃、甲州の博徒の大親分であった。多くの悪行を重ね、富士山を挟んで、東海道の次郎長とは抗争を繰り返していた。
その勝蔵が、あろうことか、官軍の先方隊として京都から進軍してきた。相楽惣三が組織した赤報隊の参謀として羽振りをきかせていたのである。

次郎長も今は、官軍側の十手を預かる身である。
時は、慶応4年3月。
有栖宮熾仁親王を総督とした慶喜征討軍の先遣隊である。
「あんな悪党が官軍の先方を勤めるなんぞ、許されるものじゃねえ」と、次郎長はいきりたち、子分たちを集合させてゆく手を遮ろうとした。だが、官軍総督府判事の如水になだめられて、悶着は起こらなかった。

その後、勝蔵は、明治天皇の皇居への入城までも、京都からお供をしたと伝えられる。だが、赤報隊は解散され、相楽は偽官軍として罰せられた。勝蔵は徴兵七番隊に編入され、隊はその後第一勇軍隊と名をかえた。
彼は小隊長を任命されたが、江戸を経て仙台まで従軍している。

博徒が何故、重用されたか

幕府は、博徒を取り締まりつつ、治安維持のために利用もしていた。
どうせ、悪行を働くのは博奕打ちをはじめとした悪人どもなのだから、奴らを雇ってしまえば、事件は減るはずだ。それに、事が起こった時は、どこのどいつがヤッタかをいち早く探索できる能力は、与力同心なぞよりも、ずっとすぐれていたのである。
だから、目明しとして雇われていた者たちの殆どは、火消しや香具師、博徒の親分なのである。

また、尊王攘夷運動の激化と暗殺の横行に頭を痛めていた徳川は、博徒の兵力と組織力が魅力であったから、彼らを活用した。
一方官軍側も、博徒の招集を活性化させている。幕府に終われている凶状持ちの勝蔵は、討幕派に入って活躍することになるが、結局は官軍に使い捨てにされて、明治4年、抹殺されることとなった。

つづく
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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