村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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ご無沙汰でした。再び、始めます。


久しぶりのブログである。
こんなにも、間が開いてしまったのは、理由がある。
「肺」の手術をしたからである。

昨年の7月3日、突然左の肺に痛みが走った。
僕は、ここでも以前から書いてきたが、『間質性肺炎』という病気を持っている。
これがそうさせたのかと観念したのだが、近所の医者にその日のうちにかかったら、違うようである。

自然気胸?

その医者は、レントゲンを見てびっくり仰天、「すぐ、救急車だ」と看護師に命じて、立川の災害医療センターという国立の病院に運ばれた。
『自然気胸』という症状だった。

これは病気ではなく、一つの症状だという。
一口で言えば、肺に穴が開いてしまう現象だという。
若い男性に多いらしい。
なぜそうなのかは、医者でもわからないという。
僕は、決して若くはないが、何故こんなことになってしまったのか。
この症状は、原因は不明なことが多いらしい。
とにかく、空気が肺から漏れて身体の中に充満しているので、一刻も早くこれを体外へ抜かなければならない。
脇腹に即刻穴をあけてチューブを差し込み、中の空気を抜いたのだった。

親しくしていた指揮者が、後に言った。
「音大の管楽器奏者に、よくあることだよ」って。
「そうか」、そういえば、僕は、その日の前日にサックスを思い切り練習していた。それが原因で、穴が開いてしまったのかと。
僕が罹っている病気からではないらしいことから、先ずは一安心であったのだが、逆に、楽器を吹くことが出来なくなってしまった。
悲しいことでもあった。
それ以来、この半年間、サックスを吹いていない。

僕は、12歳のころからブラバンに入ってラッパを吹いたり、クラリネットを吹いたりして親しんできたから、今、もう楽器を吹くことが出来ないとなると、やるせなくて仕方ない。

8月末に左の肺の手術をして退院したのだが、3時間かかった結構な手術だったので、術後の痛みが激しかった。
肺の一部を切り取ったのだから、傷口が痛むのは仕方ないとしても、僕の場合は、『肋間神経痛』にかかってしまったことが最悪だった。

左の脇腹に3か所穴をあけて、内視鏡のお世話になったのだが、その際に脊髄から脇腹を通って胸の方に走っている肋間神経に触ってしまったのだろう。
それに傷がついて、神経痛になってしまったのだ。
この痛みが半端でなく、退院後も四六時中痛みが走っていて、家で唸っていた。
あまりの痛さに、医者に相談したのだが、今の西洋医術では治す方法がないというのだ。
この痛みが永遠に続くのかと思うと、普通の感覚ではいられなかった。
人に相談したり、様々に調べて医者を探した。

西洋でダメなら、東洋医術に頼ってみようと、指圧や針治療に出かけた。
東京の医者に7軒、8軒と伺って診てもらったが、どれも痛みは取れなかった。
昨日は中目黒の針、今日は銀座の著名な針の医者、明日は荻窪の指圧という具合だった。

9軒目だったか、『神経ブロック治療』というものにかかってみた。
僕の場合、これが良かった。
約一月かよって、ブロック注射を打ってもらったら、少しずつ痛みが減ってきて、お陰様で今は、殆んど痛みが無くなってきたのである。
一時は、この痛みと生涯付き合うのかと傷心の気持ちで打ちのめされていたのだが、なんとか元に戻ってきた。
なんと幸せなことか。
というのも、そのブロック治療に通っていたところ、世間にはこんなにも様々な痛みと戦っている人いるんだと、実感したからだ。
周りに、膝や腰の痛みがひどくて、そろりそろりとしか歩けない人が何人もいた。
ヘルニアや脊髄の治療の人も多い。僕みたいな、神経痛の人も幾人もいた。
若い女性たちも悩んでいる人が多く、隣りで首の治療していたが、こういう症状は、なかなか治らないらしい。
その中で、僕は、退院後3月程度で痛みが去っていったので、幸運だった。
治してくれたお医者さん(女医さんだった)に感謝なのだが、神様にもお礼を言うべきか。

病気の話が長くなってしまった。
入院していた時から、僕の「村瀬塾」の方々が複数回、見舞いに来てくれた。
まるで僕の家族と同じように、身体を心配してくれた。
この人たちのためにも、回復して、これまでと同じように新選組江戸ツアーをしなければと、真剣に思うようになった。

演奏はできないが、指揮はできる。


弱気になっている場合ではなかった。
楽器は当分演奏できないが、歴史のお話はできる。
以前にもまして、歴史書を読みふける日が続いた。
昨年の秋口から暮れにかけてすでに演奏依頼がいくつか来ていて、困ってしまった。
僕自身が演奏できないから、友人に頼んで代理を務めてもらったり、涙を呑んでキャンセルしたりした。
また、演奏はしないが、クリスマスコンサートでは、コンサートマスターとして指揮者で出演したりした。
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また、昨年の暮れは講演が多く続いた。
どういう訳か、八王子方面からの依頼が何回かあって、そちらの歴史的なお話をした。
八王子と言えば代表的なのは、「松姫」である。
この人に関わる取り巻きは多いので、話は尽きない。

再び、『松姫』

松姫の婚約者は、あの織田信長の長男「信忠」である。
勿論、信長と信玄との政略結婚である。
7歳で婚約したのだが、信長の寝返りがあって3年で破約になってしまった。その後、信忠自身が武田を攻めて、高遠城で松姫の兄仁科盛信を死に追いやり、信玄の跡を継いだ勝頼も天目山に自害して武田は滅んだ。
かつての婚約者に殲滅させられてしまった松姫だったが、彼女は八王子に逃避することが出来た。
信忠は、松姫を改めて迎えたいと使者を送ったらしいが、その直後天正10年6月2日、本能寺で信長が討たれて嫡男の信忠も翌日死んだ。
かつての婚約者ではあったが、松姫は恋心を持ち続け、いくつかの祝言の話はあったが、生涯独身で通した。そして、信松院で信忠と武田の人々の霊を弔った。

八王子市と山梨県の上野原市の間に和田峠というのがある。ここは別名陣馬山とも言って、僕もハイキングに何回か言ったことがある。
この峠を松姫は幼い女の子3人を連れて、八王子方面に超えたのであった。
そして、上案下というところの尼寺『金照庵』に匿ってもらった。
その後、北条氏照の庇護を受けて心源院に移り、信松院に移って1616年に56歳で亡くなった。
八王子では、代官頭の大久保長安をはじめ多くの武田の遺臣たちに守られて、美人の松姫は独り身で通し、繭を育てて絹織物を名産とし、近所の子供たちに書を教えたりして、3人の幼子を育てた。

母の油川夫人が美しかったせいか、妹の菊姫(上杉景勝正室)も美形だったという。それだけに、近所の千人同心どもが連日訪れては、松姫様に面会を求めたという。

保科正之もーーー

松姫には、もっと伝説がある。
あの会津藩初代藩主保科正之が幼いころ、松姫に育てられたということだ。
これは姉の見性院に頼まれて幼子を預かったということだが、2代将軍秀忠の隠し子であった。
母の名は「お静」といって、神田の大工の娘だったという。
器量の良かったお静は、大奥に上がって将軍の手が付いた。でも、正室「お江」の手前産むことが出来なくて、外で生んだ。
家康が信玄の娘で松姫の姉の見性院に頼んで、育ててもらったと伝わる。

今年の大河「真田丸」とも縁がーーー

NHKの大河が、始まっている。
今年はなんと、あの「新選組!」の脚本を担当した三谷幸喜が再び脚本だ。
2004年だったから、12年ぶりか。
主役が、山南啓助役だった堺正人だし、あの時の役者が結構出るらしい。三谷軍団か。
真田幸村(信繁)は、1567年生まれだから松姫とは6歳下だ。
幸村はまだ10代の頃、上杉に人質として出された。
上杉景勝の正室菊姫は、松姫の妹である。
それに、幸村の父昌幸は、武田の人質として捕らえられていたが、むしろ、その才能を信玄にかわれて、武田の幹部に迎えられている。こう見ると、今年の大河、松姫とも縁が深いように思われてーーー。




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「高島嘉右衛門」について講演依頼が来た(1)

あの、「高島嘉右衛門」について、講演依頼が来た―――その1

~~嘉右衛門の父、嘉兵衛は、それはそれは見事な人生を送った人で、この人だけでも、立派な小説やドラマになる人だった~~

以前、このブログで高島嘉右衛門について触れたことがあった。
あの偉大な人物について、日本の歴史では、殆んど紹介されてきていない。

何故なのか。
きっと、都合悪いことが多いからなのだろう。
明治以降、事をなした人物に対して、その評価が何か変だ。
明治維新の最大の功労者、坂本龍馬や西郷さんは、靖国に祀られてはいない。
日本の発展に功労のあった人を、祀っているのが靖国ではないのか。

靖国神社の正面参道にひときわ大きく銅像が際立っているのは、大村益次郎である。
日本陸軍創設に、功労があったということらしい。

僕は、学生時代、神田神保町のジャズ喫茶に毎日入り浸っていたのだが、九段会館でコンサートがあったりした後靖国が近いので、よく皆で、あの辺りを歩いたことがあった。
あそこへ行くたびに、何か、違和感を感じた。

大村は、戊辰戦争時に、朝廷側に立って戦った兵士たちを慰霊する目的で、東京招魂社(後の靖国神社)建立を提案したという。
だとすると、銅像が高く聳え立っていても不思議はないのだが、それだって、東軍に偏っているし、個人的なものだ。
(京都の霊山護国神社は、幕府側に立って戦った人たちは、祀られていない。
どういう訳か、でも、新見錦だけが慰霊されているという。
新見が祇園で切腹した話は、本当か。
殺られたのでは。もう一度再調査が必要だ)

もし、竜馬や西郷があと20年生きていたら、東軍・西軍ともに平等に戦死者を祀ったに違いない。

その後靖国は、日清日露、大東亜戦争で戦った兵士たちを慰霊する神社に変貌した。
日本陸軍、海軍が護ってきたのである。
もし、日本国が国のために亡くなった人たちを慰霊するのなら、ここじゃなくて、新たにそのような場所を設けたほうがいいような気がするが。

例によって、のっけから話がそれてしまった。
嘉右衛門のお話だった。
k公民館から講演依頼が来た。次のような趣旨でやってほしいというものだった。

     ~~~~~~~~~~~~~~~
題名「高島嘉右衛門の生涯」
~日本で初めてガス灯を灯した実業家~

目的 鉄道敷設のため、横浜港の埋め立て事業やガス灯の設置など、偉業を成し遂げた実業家の生涯について学びます。

     ~~~~~~~~~~~~~~~

僕の個人的な話で恐縮だが、僕の父方の家系の商売は暦の販売だった。
父、次雄は明治38年生まれで次男だったから、本家へ養子に入り『油商人兼金貸し業』になったが、上の兄力蔵は『高島易断本暦』の編纂で家業を継いだ。
今でも勿論、子孫が(僕のいとこにあたる)が継いで、商売は続けている。
親戚なので、来年の暦を送ってもらった。
表紙をめくると、高島嘉右衛門の写真が現れる。
正五位 勲四等 故呑象高島嘉右衛門
大正三年10月16日没82歳

暦
高島嘉右衛門ーーp

こんなわけで、高島嘉右衛門のこととなると、僕も多少の縁があるのか、血が騒ぐのである。

幕臣で勝海舟という人がいたが、この人の父親は勝小吉という人で、
息子の麟太郎とともに小説などで「親子鷹」として知られている。

嘉右衛門の父嘉兵衛も、この人独自の伝記やドラマがあっても不思議はないほど傑出した見事な人物であった。まるで、時代劇の主人公になってほしいような人だ。
ここでは、嘉兵衛の偉業を取り上げてみたい。

嘉兵衛は天保年間、京橋三十間掘りあたりで材木商を営んでいた。
この頃、あの天保の大飢饉が起こった。
夏だというのに、朝から霜が降る始末。綿入れを着なければ寒くていられないほど、盛岡辺りでは冷害で、田畑は全滅であった。

遠州屋嘉兵衛の取引先南部藩江戸屋敷は、国許からの急飛脚で、餓死者が20万人は出そうであるとの知らせを受けた。
南部藩勘定奉行、江戸留守居役、用人たちは、一同、頭を抱えてしまった。国許にいる殿から、何か、対策を講じろというのだった。

そこで、兼ねて、機転機略が衆人より抜きんでていて、様々な相談に、これまでものってもらっていた嘉兵衛に善後策を持ちかけた。

「……、これは、大変な難問でございますな」

さすがの嘉兵衛も、腕組みしてしまった。
三人が帰った後、しばらく熟考した。
そして、駕籠を呼んだ。
「鍋島藩の江戸屋敷だ」

当時の鍋島藩藩主は直正と言って、天保元年に藩主の位をついでまだ4年しかたっていなかったが、藩政の改革を次々と実行に移し、『九州に鍋島あり、鍋島に閑叟(かんそう)あり』と、評判が高かった。
後日、彼は反射炉を築いて鉄砲の製造に勤め、官軍の勝利に大きく貢献した。
大村益次郎が上野戦争で使用したアームストロング砲は、閑叟が購入した鍋島藩のものである。

この鍋島藩にも、嘉兵衛は取引先として深く信用されていたが、藩主にお目通りなぞ出来るはずもなく、用人の成富助左衛門に会って、南部藩の窮状を訴えた。
成富は、「拙者も、深く、心からご同情を申し上げる」と、深くため息をつきながら、一通りの反応を示した。
つかさず嘉兵衛は、
「ありがたき仰せにございます。そのお言葉を伺ったら、向こうのご重役方も涙を流して喜ばれましょう。つきましては、この際、お言葉だけではなく、そのお情けを形に現してはいただけませんか」
「なんと、……」
「ご当家のお殿様は、常日頃から、諸侯たるものは一国一藩のことだけではなく、日の本、国全体に目を配らねばならぬ。諸外国の船が我が国の近海に相次いで姿を現すようになってきては、いずれ我が国も一丸となって、外夷に当たらねばなるまいと、おっしゃっておられました。これは、まことで…」
「いかにも」
「それならば、お願いいたします。南部の民も、肥前鍋島の民も、同じ日の本の民に変わりはございますまい。万一、鍋島御領内に凶作飢饉のようなことが起これば、お国元、江戸表のお役人方は、一人残らず死力を尽くして領民の救出に当たられましょう。南部藩の後家来衆は、今そのような立場に追い込まれておるのでございます」

「…、どうしろと、言うのじゃ」
「飢えたる者には、百万言の説法よりまず一椀の粥を与えよと申します。鍋島さまの余剰米を、一時、南部藩へご融通下さりたいのです」
「えっ、…して、その代金は」
「……、なんとか、コメの暴騰前のお値段で、…」

だが、この時、南部藩の江戸表の蔵の中には、支払うべき3万石に値する11万両の1割もなかった。
この大飢饉で、大阪の米相場では、米価が暴騰することは必死であったが、まだ、この時点では、情報が行きわたっておらず、その直前であった。
藩主、鍋島閑叟の好意で、直ちに3万石が、暴騰以前の金額で盛岡南部へ融通されることになった。

嘉兵衛は、
「…、手前も商売人の端くれでございます。殿様のお言葉に従われ、目に見えている当然の利ザヤを見逃されるとは、――さすがに『葉隠』の教えを継承なさるご家中、商人根性などは微塵もございませんなと、手前も心から感服仕りました」
用人の助左衛門は、
「そこで、代金だが、国元よりコメを積んだ便船の出港と同時にいただけるということで、よろしいな」
「当然のことでございます。命に代えて、お約束いたします」
とは言ったものの、11万両という途方もない大金である。全く支払う当てはなく、途方に暮れていたのだが、今はただ南部60万人の命を救うために後先はともかく、やるだけのことをやるとの心境であった。

つづく

被災地巡り

宮古で土方君と再会したが、被災地は、暗く冷たい空間だった。
すべて自粛ムードの中、吉祥寺アトレで最初に演奏したのは、自分だった。


昨日と一昨日、『被災地巡り』に行ってきた。
今、旅行会社では、大変な人気ツアーになっているそうだ。

僕が旅行会社に申し込みの電話を入れた今から約ひと月前、殆どのツアーが満杯だった。
なぜ、こんな人気に―――。
NHKの人気朝ドラの影響もあったのか、また、三陸鉄道が全面開通したからなのか、異常な混雑ぶりであった。

盛岡まで列車で行き、そこからバスで宮古の北、北山崎というとこらから南下するコースである。

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ここいらは陸中海岸国立公園であるから、すべて、その景観は見事である。
三陸鉄道には、久慈市の南に位置する島越(しまのこし)という駅から乗った。
流された駅舎が、まだ完成していない。
駅のホームには、あふれんばかりの人である。普段は、1輛か2輌だそうだが、今日は月曜日だったが、特別で、4輛編成であった。
長すぎて、ホームをはみ出している。
だから、はみ出したところは、ドアーが開かない。

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この三鉄、その大方がトンネルであった。約9割と言ってもよいくらいだ。
まるで、地下鉄状態。
だから、景色というものは、ほとんど見ることが出来ない。
完全に、生活のための鉄道で、観光用ではない。
でも、その鉄道が、開通したというので、全国からお客が殺到している。そのお客さんと僕の気持と、殆ど一致していたと思われる。
つまり、
きっかけは何でもいいのだ。とにかく、現地へ行って、生で見て、何かできることはないのか、という気持ち。

列車の終点は、宮古駅である。

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浄土ヶ浜という美しい景勝地が、宮古近辺にある。
『極楽浄土』とは、こういう景観なのだというところから、その名がつけられたというが、それも理解できるほどの美しさだ。

ここで、土方君に出会った。
観光遊覧船の、乗り場の目の前にいた。

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ここの【浄土ヶ浜ヴィジターセンター】には、伊藤さんという女性がいる。
彼女、2年前に、高幡不動で僕と栗塚さんがトークを行なった時に、宮古から救援依頼に日野へ来ていた人だ。
懐かしくお話をしたのだが、宮古市とは、新選組サミットでも当日野市とは縁が深い。

ここを皮切りに、海岸線を南下していった。
大槌、釜石の順であったが、僕は、学生の頃、釜石に貧乏旅行で行ったことがあった。
どこの地区へ行っても、海岸線の街は全く亡くなっていたが、釜石も同じである。

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昔、製鉄所があったところで、最初は安政4年からである。その下地は、あの高島嘉右衛門が、父子で苦労して開拓したところである。

大船渡の惨状も見て、碁石海岸を経て陸前高田へ。
ここは、あの『奇跡の1本松』で有名になったところだ。

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だが、この陸前高田、とてつもない大きな橋が建造中である。
陸地奥の山の土を、ベルトコンベアーで運んでいるという。
山を崩して平らにして、そこへ住宅を作るらしい。その土を海岸線近くに運んでいるというのだ。

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何やら、家康の江戸入りの頃を思い出す。
江戸初期、
神田山を崩し運河を掘り、その土で、日比谷をはじめとした入り江付近を埋め立て、新しい土地を造成した。江戸の城下町を完成させるためだというが、実は、北条の影響を受けていない徳川独自の土地を創造していくことが目的だったとも。
家康は、北条ばかりでなく武田の遺臣たちにも気を配った。一揆なぞ起こさせないで、一刻も早く、徳川の威光を敷延させる必要があったからだ。
武田の遺臣たちを、多摩地区で『千人同心』として採用した。500人は多摩地区の地元からだが、遺臣からは500人雇った。郷士のような存在で、家禄は低いがれっきとした直参である。

幕末、
その千人同心らは、敗戦濃厚の幕府軍に従って戦った。慶喜が恭順した後も、上野の彰義隊なぞに加わり、また、会津、函館へと多くが死傷した。
土方歳三は千人同心ではなかったが、徳川さまに恩があると、命尽きるまで戦い続けた。

気仙沼も大きな代償を払った。
でも、ここは、被災者の皆さんが、頑張って魅力的なお店を開店させている。海岸線のみではあったが、街に活気が出てきていた。

この旅、『自分探しだった』『何が、自分にできるのか』を探すのであった。
結果、何していいか、よくわからない。

9・11、飛行機がビルに突入して、ビルが壊滅する状況をニューヨークのアパートの窓から見ていた人がいた。
テナーサックス奏者ソニーロリンズは、『人々はなぜこうも殺しあうのだろう』『人間の歴史とは、殺し合いの歴史なのか』と考えたそうだ。
『今、自分にできることは、音楽をやって、人々に喜んでもらうことだけだ』
それしか、出来ない、と。

次の僕のライヴは、6月1日(日)、吉祥寺駅ビル“アトレ”だ。
思えば、3・11の後、すべて自粛の中、あの駅ビルで最初に演奏したのは自分だった。

村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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