村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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中桂小五郎の逃避地〝但馬出石(いずし)〟

中桂小五郎の逃避地〝但馬出石(いずし)〟は、しっとり落ち着いた美しい街並みだった

出石の街
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昨年8月の手術後、初めて遠くへ出かけてみた。
術後3か月は、激しい痛みでそれどころではなかったが、今はもう大丈夫。
一度は行ってみたかった出石や姫路城、この二つが含まれているツアーがあったので、というより、僕の奥さんが新聞で見つけてくれたので、素直に申し込んだ。
このツアー、岡山空港まで行って倉敷、鳥取砂丘、出石、神戸、姫路城というルートをバスで走るものだった。
ただ、キャッチフレーズはタグ付きのカニを食べるという呼び込みだった。
僕は、カニが大好きなので、こちらのほうも魅力で興味がわいた。

冒頭の写真は、豊岡市出石の街なかである。天気も良かったせいか、実に静寂な味わいのある界隈であった。
ここは、桂小五郎が禁門の変ののち、命からがら京都を出て、約1年近く潜伏していたので、記憶にあった。
一度、尋ねてみたかったところだ。
それと、大石内蔵助の妻りくが、まだ山科にいる頃、突然内蔵助から離縁を言い渡されて、生まれ故郷に力(ちから)以外の子らを連れて帰っていくシーンがあったが、その故郷がここ豊岡であった。

桂の店のあった記念碑など
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『死を恐れない』若者たち


桂小五郎は、出石で商人に変装し、荒物屋を営んでいたという。
その横に当時から蕎麦屋があったらしいが、今でも立派に営業していた。
よく、桂は『逃げの小五郎』と言われて揶揄されているが、それは、司馬遼太郎の小説のイメージから来ているものかもしれない。司馬さんの小説はストーリーが魅力的で史実もきちんとしているし勉強になるが、創作も多いので少しは気を付けないと。

すぐ思い出すのは、井上源三郎である。
小説や映画では、剣術の下手なよき好々爺のように描かれているが、源三郎はまだ30代であるし、井上の子孫はそれを認めてはいない。
天然理心流の免許が見つかっていなかったからであったが、司馬さんが亡くなってから、井上家と姻戚関係にある近所の安西家で免許状が見つかった。だから、源さんは『強かった』というのだ。
でも、司馬さんの小説は、書き直せない。井上本家は、源三郎の強さを力説する。

実際、桂はどういう人だったのか、興味はある。

神道無念流練兵館の塾頭に若くしてなり、免許皆伝まで精進したというから、竜馬の北辰一刀流と並んで大変な上達ぶりである。
武田鉄矢の「お~い竜馬」では、この二人が土佐の山内容堂の御前試合で手合せし、竜馬が勝ったことになっていた。
僕の長男が幼いころ、一緒にアニメを見ていたのを覚えている。

確かに同じころ、江戸で二人は剣術の修業をしていたのだから、可能性はある。
作り話だとしても、夢がある。
竜馬にしても小五郎にしても、相当な剣の腕前がありながら、実際、刀を抜いたという話は一度も聞いたことがない。
二人とも、目先の小さな争い事には関心を示さず、もっと大きい変革に命を捧げようとしていたに違いない。
まあ、逃げ回っていたことには違いないが。
竜馬の場合、その逃げ方が半端だったから、殺られてしまった。逃げることに、どこか、躊躇があった。周囲の忠告も、半分は無視をしていた。それに、土佐藩も竜馬を匿おうという積極性に欠けていたし。

あの時代、志士と自負していた若者たちは、「潔さ(いさぎよさ)」も大事にしていた。だから、死を恐れないという任侠的なところも少しはあった。

桂が、池田屋事変の後、憎き新撰組に復讐しようと思えば、壬生の屯所を襲って一瞬のうちに成敗することは可能であっただろう。何せ、このころの新撰組ときたら脱走や病人が多くて50人にも満たない。
確かに、長州藩の中には、そういう輩もいたと聞く。
だが桂は、新撰組を襲って世の中が変わるわけではない。われらの目的は徳川なのだ。もっと大きく、世の中を見渡さないといけないと考えた。

池田屋で変事があって翌月の19日には、長州は京都を三方から攻め上がっている。これにも桂は消極的で、姿を消している。
久坂玄瑞などは血の気が多いからか、ここで命を落としてしまっている。生きていれば、相当の活躍が望めたものを。
もったいない話だが、幕末には、若くして命を落としてしまった有能な志士が何人もいた。
それが当時、『死を恐れない』という一つの若者の生きざまであり、形であったからであろう。
原田佐之助はいきがって、まだ10代のころ、自分の腹を刺したという。

早まったことをしてしまった下級武士が多い中、桂小五郎は、生きて生きて生き抜いた。
幕府の追手から逃げなければならないから、ずいぶんと変装もしたが、乞食にまでなって、愛妾の幾松に握り飯を運ばせたという逸話まで残っている。
でも、こういうタイプの英雄はよく言われないし、小説家も良い印象を持たないらしい。
とにかく、日本国では、最後まで戦い抜くほうが人気が高いのである。
真田親子は、父昌幸の功績は息子の幸村などより大きいが、人気は断然幸村である。
最後まで豊臣に殉じて戦って死んだからかもしれないが、父の昌幸だって、戦うことに関しては、幸村なぞに負けてはいない。
稀有の戦国武将である。
真田丸だって、実は、父からの受け売りだし、それ以前からああした戦法は戦略としてあった。
でも、人気は幸村なのである。日本の歴史とは、そのように作られてきている。

西郷や大久保は、剣は苦手だったに違いないが、勝海舟は男谷道場で免許皆伝だったという。
が、抜いたことはなかった。
京都で、勝の身辺を心配した竜馬が、用心棒に岡田以蔵をつけて警護させたら、案の定刺客に襲われた。その時、以蔵がいとも簡単に人を斬ったので、勝が注意したという話が残っている。
これは、勝自身がのちに語っていることなので史実だろうが、剣の達人とは其の奥義に、いかにして『抜かないで勝つか』というものがあるのかもしれない。


鳥取の砂丘は寒く、前日の雪が残っていた


空の碧さと海の青さ、砂丘の砂の色と雪の白さがコントラストとなって、独特の美しさを現していた。

砂丘
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このたびの旅行、タイミングが中国の春節に重なったせいか、どこへ行っても日本人より多かった。ここまで、金を落としてくれると、地方の活性化にも役立つだろうから、一概に非難ばかりしてはいられない。
最近では、東京や京都、富士山ばかりでなく、地方都市や中小の観光名所が人気があるという。
確かに、鳥取の砂丘でも、中国語が飛び交っていた。
中国は広いから、雪などは、日本と同じように降るだろうし、珍しくはないと思っていたが、実際はだいぶ違うらしい。
我が国に降る雪は、サラサラで、パウダーのようなのだ。アジアの多くの人々ばかりでなく、オーストラリアのスキーヤーまでもが、北海道のニセコの雪質にあこがれを感じるらしい。

修復を終えた姫路城だが、白すぎた天守閣は今ちょうどよいほどに落ち着いている

出石の街中を歩いているとき、これは、中国じゃなくてベトナムあたりの団体の観光客らしいが、そのしっとりとした美しさに感動したのだろう、歓声を上げている。
西洋人もいたのだが、彼ら彼女たちに共通しているのは、皆さん感動を大声とジェスチャーで表現することだ。そこへ行くと、日本人たちは、総じておとなしい。何かが、逆転している。
こっちのほうが外人みたいだ。
あの人たちに、こういう雰囲気がわかるのかと疑いたくなるのだが、最近は、日本的なものがよいらしい。

そういえば、姫路城の天守閣の急な階段を上って4階あたりだったか、チャイナの5歳ほどの男の子が、ほとんど忍者になりきって一人で演技をしていたっけ。
本人は得意になって、国宝のあの分厚い板の床を寝転んでいる。
ドラゴンボールZのスーパーサイヤ人なのだ。
母親も、ニコニコ顔でわが子を眺めている。多分、日頃から、本国でも日本の忍者にあこがれていたに違いない。
晴れて、夢がかなったのだった。
我が国の子供たちはそうしない。
おとなしく見学する子が、よい子なのである。

天下一の美しさ、白鷺城


姫路城
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このお城、超有名だから、幼いころからその名はよく知っていたが、誰の城だったっけ?
僕が知る限りでは、黒田官兵衛が秀吉にプレゼントしたことと、その後、秀長が城主になり、大坂夏の陣で秀頼が死んだあとは、あの千姫が一時住んでいたというくらいなのだが。
そのほか、池田輝政が関ヶ原の戦のあとは、その功績で住んでいたような。
でも、なんで、これほど大きくて立派で美しいのだろうかと感動ものである。
同じ国宝でも、松本城や彦根城などと比べても、桁違いである。
熊本城も石垣は立派だが、城そのものは昭和になって再建されたもので、魅力はない。

姫路城は、今、その白さも落ち着いて、ちょうど見ごろである。
皆さんにも一度は行く価値のある逸物であるから、お勧めする。
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旭山動物園の狼と、壬生の狼弁当記事

僕の兄弟4人で、北海道へ行ってきた。
僕は戦後生まれで、8人兄弟の7番目だから、上は昭和の一桁生まれである。
8人のうち、既に二人の姉が欠けてしまった。
二人とも60代だったから、比較的若い。

今回一緒に行った2番目の兄は、今年で80歳になる。
ウチの兄弟の母親は明治43年生まれだが、その父は慶応4年生まれである。
沖田や近藤が死んだ年に生まれている。土方歳三はまだ生きていた。
それが、僕のおじいさんで、名は中山徳太郎といった。
この人は、水戸の中山備前守という家老の子で、高尾の「花や」(現存する)旅館に逗留してそこの娘と結婚した。
そして、僕のお袋が生まれた。

僕の兄弟の残りは6人で、まだ元気で、こうして一緒に旅行が出来ることに感謝したい。

ところで、涼しいと思って、この時期に北海道へ行ったのだが、連日の猛暑は北海道も同じで、驚いた。

あの旭山動物園では、炎天下、動物は勿論、我らも参ってしまった。
ようやくアザラシのショーが始まるってんで、外へ出たが、あまりの日差しにそこそこに引き上げて、カキ氷を頬張った。

有名な白熊もぐったりだし、ほかの動物たちも日陰で横になっている連中が多かった。

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白熊

客が来なくて、閉園に追い込まれる直前に、様々なアイデアを出して、ああして連日、全国からのお客で賑わっている旭山動物園、不思議である。
アザラシが通路に作った筒を垂直に上へ泳ぐ。
なんとも、愛嬌がある。

ペンギンが空を飛ぶように、僕らの頭の上を泳いでいる。
でも、僕が、じっくり見たのは「狼」だった。
狼は、きっと、何処の動物園にもいるのだろうが、改めてじっくり見てみると、なんとも不気味、怖い。
そういえば、京都の壬生にもいた。

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「カムイ伝」というアニメを思い出した。
確か、狼が群れをなしてたくさん出てきたように思う。
学生のとき、ジャズ喫茶でむしゃぶりついて読んだ記憶がある。
あの頃は、「巨人の星」や「あしたのジョー」、「バカボン」なぞが大うけのときだったが、僕は、そういうのはあまり好きでなく、「ゴルゴ13」や「カムイ伝」が好きだった。

今回の旅行は、洞爺湖から富良野、旭川、美瑛、札幌、小樽などを回るツアーだったが、天気には恵まれたのだが、何せ暑すぎて、喜んでいいのかどうか、複雑である。

この6月にベルリンに行って第九を歌ったが、その時に旭川の人たちと仲良くなった。
日本に帰ってきてからも、何度も通信を交わしてきたが、今回は旭川に行っても、特別連絡はしなかった。
こちらは兄弟だし、ツアーだし、ゆっくりお話している暇なぞないからである。

自宅へ帰ってきて、メールをチェックしてみると、なんと、その旭川の今田さんから来ていて、興味深い添付を送ってくれていた。

土方新聞
(北海道新聞)土方歳三弁当の切り抜き

札幌の女性が「土方歳三弁当」を作って、グランプリに輝いたという新聞の切り抜き記事であった。
今田さんは、僕の本を読んでくれ、感動してくれていた。
覚えていて、その記事を早速送ってくれたのだった。

今田さんは、札幌で来月、札幌交響楽団で「第九」を歌うそうである。
誘われた。
僕も、参加したくなった。
「第九」は便利なもので、あれ一曲覚えれば、世界中何処でもコンサートに参加できるし、その国の人々と仲良くなれる。

毎年、国技館で「すみだの第九」が演奏されるが、次は、スカイツリーの落成コンサートになるという。
出ようかな。

ベルリン『第九』体験記-5(終)

ベートーベンは、偉大である。
世界の人々に、共通の「歓び」を与えてくれている。
そう、ポンペイでも、珍事が起こった。あの遺跡の中の小劇場で「第九」を歌ってしまったのだが、それだけではない


――― ベルリン『第九』体験記-5 ―――


素晴らしい「第九」だった。
僕は、これを歌うのは3度目だが、今回が一番満足できた。
それは、病気をして、医者から「大丈夫」と、お墨付きをいただいた後だったので、体調が万全だったことが大きい。

そういった、個人的な事情もあるが、やはり、ベルリンフィルの本拠地のステージに乗れただけで満足なのである。

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ステージ

簡単には、経験できないことなので、良い思い出作りになった。
そして、よいお友達も出来たし、前回、旅行費用のことを話題にしたが、金には変えられない。

さて、本番が終わって、翌日には、直ちに日本へ帰る組とローマ、ナポリへ寄る組とに別れた。
僕は、もう一度ナポリとポンペイへ行きたかったので、イタリアへ飛んだ。

でも、あの飛行機の乗り継ぎには辟易する。
所謂、ハヴ空港ってやつだろうが、必ずどこかの空港へ寄る。
直接は、飛んでいないのである。

行きは、成田からフランクフルト経由でベルリンへ。
帰りは、ベルリン空港からミュンヘンへ寄ってから、乗り継いでローマ空港である。
その後も、ローマからフランクフルトで乗り換えて成田である。

飛行機そのものに興味があった時代には、それでも良かったのだろうが、現在のように移動の手段となっている今、それらが苦痛である。
何せ、日本からヨーロッパは、1回のフライトで10時間以上も缶詰にされるわけだから、こうした高齢化の時代になるほど、300人~500人ものる乗客の中には、具合の悪くなる人も出てきて当然である。

僕は、今回、そうはならなかったが、仲間で1人、気分が悪くなって歩けなくなり、飛行機から降りられなくなってしまった人がいた。
まだ50代の人である。
車椅子で、何とか降りたが、僕らは、その人が成田空港で、救急車で運ばれるまで見送った。

経営破綻したJALをはじめ、各航空関係の企業も生き残りに大変なのだろうが、マイレージとかいって様々なサービスをあの手この手と考えるのもいいが、これからは、長時間乗るフライトへの配慮なども、もっと必要になるだろう。
それは、子供や幼児向けの配慮も含めて、考え直すときがきている。

缶詰にして乗客を運べば儲かるかもしれないが、これからの時代、それでは客は離れる。
エコノミー症候群対策として、座ったままの体操なぞを最近、飛行機の中で放送しているが、あんなもの、大した効果があるとは思われない。

むしろ、軽い体操やストレッチなどが出来る空間、幼児が遊べるところをわざわざ作って、
「いつでも、お使いください」
と言った方が、客はつくのではないか。

あまり良いことではないが、僕は、あの狭いトイレの中で4~5時間に1回はストレッチをしている。
いろいろ、工夫して。

さて、《ナポリのごみ》だが、今回はバスの中から車窓でしか街中は見られなかったので、実態がどうなのかはよくわからなかった。
だから、現地のガイドに《ごみ事情》を聞いてみた。

すると、意外なことを言った。

「今は知りませんが、一時は、ごみの捨て場所がなくて、わざわざドイツまで捨てに行っていたそうです」

勿論、ドイツ政府の許可を貰ってのことだろうが、イタリアからドイツでは、間にアルプス山脈があるだろうに、大変だ。
僕が、今から約10年前、ごみの仕事をしていたころは、ドイツがごみ処理の先進国で、よく視察に(本当か?)出かけていく役人がいた。
今回、ベルリンの街中でゴミ箱を見たのだが、確かにここは、可燃と不燃の別がない。
今の日本では、考えられないことだ。

我国では、現在、できるだけ分別してごみを少なくし、多くのものをリサイクルすることが美徳とされている。
燃えるごみも燃えないごみもいっしょくたになぞという発想は、許されない。
だが、燃えないごみの埋立地にも限界がある。
実際、不燃の量が多すぎて、多く人が困っているはずだ。
いや、これは、量が多いのではなく、殆んどがプラ・ゴミだから、空気である。
それも、多くが脂っこく汚れている。
実際は、埋めているより燃やしている。
じゃなきゃ、最終処分地が直ちに満杯になる。

ナポリは、車窓から見たのだが、街中が相変わらず汚い。

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公演や道路のゴミ

景色は、抜群である。

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ナポリの風景

でも、下を向くとだらしがない。
ある人は言う。
それら全部を含めて、ナポリなんだ、と。

ところで、旅の最後に、ポンペイを見学した。

ここは、僕が、特にお気に入りのところで、2度目だが、なんとなくいいのだ。
遺跡に入ってすぐのところに、小劇場がある。
石造りの、アテネやローマにもあるあの半円形のものである。

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ポンペイアラカルト

ここで、椿事が起こった。
我等は60名の合唱団で、その半数が既に日本に帰っているが、残りの約30名は、このポンペイに来ている。
この人たちが、突然、その石舞台に勢ぞろいし始めた。

沖縄から参加してきた一人の男性が前に出て、仕切り始めた。
そして、指揮を始めた。
「男性はこちらへ、女性はそっちに並んでください」
「それでは、4楽章のフロイデ・シェーネのところを歌います」
と、誰の許可を取るでもなく、勝手に歌い始めたのである。

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小劇場で歌う合唱団

打合せをしたこともない。
沖縄の髭のおじさんが、自分勝手に言い出したのであるが、不思議なことに、誰も、
「やめようよ」とか「まずいんじゃない」とかも言わず、当然のことのように、全員が素直に歌いだしたのであった。

僕も、結構、図々しいところのある男だが、このときばかりは躊躇した。
だって、ポンペイというところは、勿論世界遺産だが、その中でも突出して人気のスポットで、世界中からワンサと観光に来ている。
だから、その小劇場の中には、世界の観光客でひしめきあっているのだ。
でも、我国の第九合唱団は、全く意に介せず、動ぜず、当たり前の如く「歓喜の歌」を歌ったのである。
それだけではない。
その指揮者は、
「次に、花を歌います」
『は~るの、うら~ら~のーーー』

それが終わると、《もりのくまさん》である。
ポンペイともりのくまさん。
なんとも、意外な取り合わせ。

日本から来た『第九合唱団』の歌声が、ポンペイの小劇場に鳴り響いた。
不思議なもので、世界中から来ている観光客たちももの珍しい顔で、拍手喝采なのであった。
『第九』は、世界共通言語なのだ。

こんな椿事も、第九好きが集まったツアーだから出来たことなのだろうが、旅の終わりに、あのポンペイで、良い想い出ができた。

ベートーベンは、偉大である。
世界の人々に、共通の歓びを与えてくれている。

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(おわり)

村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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