村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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土方歳三の武士道は「オレ流」だった

近藤や土方が幕府直参、正式に武士として迎えられたのは、慶応3年6月10日からである。近藤は見廻組与頭格、土方は見廻組肝煎格で70俵5人扶持であった。
では、それまでの身分はと言うと、新選組は京都守護職のお預かりの身分であり、浪人であり、浪士組であった。
よく、新選組は武士の集団であり、武士としての規律、行動を隊士達に強要していたと伝えられるが、武士になれたのは徳川が大政を奉還し、政権が瓦解する4ヶ月前のことである。
文久3年3月から京都で仕事を始めた壬生の浪士たちは、直参に抱えられるまでの4年余りの間、どのような身分意識で仕事をしていたのであろうか。

新選組は、近藤にしろ土方にしろ沖田、井上にしろ、試衛館道場の大黒柱、四天王が多摩の百姓上がりであって、天然理心流といってみたところで、世間からは田舎もんの集まりと下げずまれてきていた。
だから、幕府は無くても良いと思われる京都見廻組を、敢えて創生し、守護職が大藩、所司代が中藩、見廻役が小藩という三重構造で治安維持に臨んだ。
大事な京や大坂の治安を、烏合の衆の新選組のみに任せておくわけにはいかない、武士の身分を持った者たちで市中取締りを行なうという訳だ。
元治元年4月26日のことである。
近藤を始め、命を張って不逞浪士の取締りを行なってきた新選組の隊士たちは、これ以降、随分と悔しい思いをさせられてきたに違いない。
局長近藤勇は、新選組が単なる殺人剣の集団と世間から非難されないよう、頼山陽の日本外史を座右において毎日読書し、書を書いて教養を身につけることに専念した。また、幕府や守護職の高官や公家らと積極的に交わり、自己研鑽することも欠かさなかった。
一方土方は、「俺たちは武士じゃねえが、あいつらが震え上がるような極限の規範を作り、それを実践する事によって武士以上に武士らしい軍事集団を作り上げる」という厳しい戒律で臨んだ。
だから、新選組は敵を葬った数よりも、隊内での粛清の数のほうが多いのだ。

土方歳三の武士道とは、修行僧の自己規制とよく似ていて、外に向けられたものというより、内に秘めたもの、戒律の厳しさを自分の体内に求めたものといえよう。それは、自分の生き方そのものにつながっていく。
少なくとも、歳三自身は自己の信念を曲げなかった。また、その信念に従って箱館まで貫きとおした。
近藤は学問をしたがために、教養を身につけてしまったがために、変化したがった。
土方はこの変化を嫌った。ことあるごとに諫言してきた。
だが、とうとう、このことが二人の生き方の違いを生む最大の要因となってしまった。

土方は、己の武士道精神とは違った、藩や主君、時の権力者の都合によって自分の運命、生命が決まってしまうという武家社会の矛盾に反発した。
元亀天正以来の武士道とは、要するに、“御家”の安泰を図る事によって手柄を立て、己の出世を優先させた『出世競争』なのだ。
そうはいっても、出世で最も大切なのは、手柄を立てることではなかった。
いかに時の権力者にとりいるかということであり、今の社会となんらかわるところは無い。
土方歳三がこのことを痛切に感じたのは、元治元年6月10日に起こった「明保野亭事件」であった。

次回「明保野亭事件」へ続く
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管理人より出版記念パーティーのお知らせ


Shougo.Netの管理人よりお知らせです。
先日、発起人代表の方から「村瀬彰吾『人間 土方歳三』出版記念祝賀会」についてのHP掲載依頼がありましたので、お知らせします。
日程会場は以下の通りです。

村瀬彰吾『人間 土方歳三』出版記念祝賀会

日時 平成17年4月23日(土)
    開場 午後5時30分
    開会 午後6時
会場 京王プラザホテル八王子 五階「翔王」

詳細は、記事上部のバナーから祝賀会HPをご覧ください。
村瀬ミニ講演会や第十代宗家・平井泰輔氏一門による天然理心流演武などの催物も企画していますので、ご興味のある方は是非お申し込みください。
お申し込みは祝賀会HP内の申し込みフォームからお願いします。

また、本の発行日である4月1日が迫ってきましたので、28日までにお振込みくださった方々には本日付で商品を発送させていただきました。4月3日になってもお手元に届かない場合はご連絡ください。
4月1日以降も本の通販は続けていきますので、ご検討なさっている方もご安心してご利用ください。

「人間土方歳三」を書くきっかけは、”坂本龍馬つながり”にあった

2002年の夏に、家族で京都へ行ったことがある。
末の娘が毎日のように、武田鉄矢のアニメ「おーい竜馬」をビデオで見ていたので、夏休みに、京都国立博物館で開催されていた「坂本龍馬展」を見に行ったのだ。

龍馬が、慶応2年の1月に伏見の寺田屋で、幕府の捕り方に襲われたことがあった。危うく、寺田屋の娘おりょうと薩摩屋敷に逃げ込んだのだが、その後、西郷隆盛の媒酌で結婚し、薩摩の船で、九州へ新婚旅行に出かけた。
これが日本で最初の新婚旅行といわれている。
その新婚旅行で霧島に登ったときのことが、龍馬自身の手紙で述べられていて現存しているのだが、その実物を前にして娘に、どんなことが書いてあるのかを説明していたら、後ろから一人の品のよい男性に声をかけられた。

「よくご存知ですね、何か、専門のお仕事をされているのですか」
 と、問いかけてきた。
「ええ、でも私は龍馬ではなくて、新選組なんですよ」
 と言って、名刺を差し出した。
 その人は一瞬戸惑いを見せ、私の名刺を見ながら、
「日野市というのは、東京にもあるんですか。すぐそこに、琵琶湖の向こう側になりますが、日野というところがありますが、東京にもあるとは、初めて知りました。
 それより、この名刺を拝見して驚いたのは、市役所のお仕事で『新選組特命』でいらっしゃることです。そういう方がこの日本の国にいらしたとは……。あっ、失礼」
と言いながら、ご自分の名刺を出された。

『高知県立坂本龍馬記念館館長 小椋克己』とある。
その場で、娘は小椋氏に直接さまざまなことを教わっていたが、小椋氏はそばにいた私に、
「ところで、あなたに見てもらいたいものがあるんですが」
 と、私たちを奥の展示室のほうへ案内した。
 展示ケースの中に横長の絵巻物が置かれていたが、戦闘風景が描かれていた。どうやら鳥羽伏見の戦のシーンである。
 小椋氏は絵巻物のひとつの場面を指差し、
「あそこに『誠』の旗が見えますが、その前で馬に乗っている人は誰ですか」
 ときた。
 私は、初めて見る巻物だったので、即座には答えられなかったが、どうみても土方しか考えられなかったので、
「土方歳三に間違いありませんね」と答えた。
「でも、あれは隊長ですから、近藤勇ではないのですか」
 と確かめてきたが、
「いや、あの時は、近藤は肩を打ち抜かれていて、大阪城に運ばれていったんで、土方しか考えられませんね」
 などと、会話を交わした。

この時のことが縁になって、翌年には京都国立博物館(以下、京博)の同じ場所で、「新選組展」を開くことができた。
小椋氏が私に、京博の学芸員、宮川禎二さんを紹介してくださったからだ。宮川さんは龍馬は勿論だが、『おりょうさん』の専門家で、昨年、『龍馬を読む愉しさ』という本を出版された。

その後、私と小椋氏と宮川さんの三人は仲良しになって、よく会話を交わしたが、はるばる高知と日野から京都に集合して、三人でよく食事をした。

 三人で美味しいものをいただいている時、小椋氏が言った。
「村瀬さんは、新選組についてかなりお詳しい。そろそろ何かお書きになっては……」
 その勧めに応じて『書いてみようか』という気がメラメラ湧いてきた。そして、小説『人間土方歳三』が誕生した。

日野新選組めぐりの実施について

先週からここで少々書いてきましたが、ゴールデンウィーク中に行なう日野市内の新選組探訪の日程スケジュールの予定がたちましたので、お知らせします。(多少の変動があることもございます)

■ゴールデンウィーク日野新選組探訪■

日時:平成17年5月3日(火)
場所:新選組ゆかりの資料館、施設など
案内人:日野市企画部新選組特命主幹 村瀬彰吾
参加費:無料(実費のみ負担--バス、入館料、昼食代)
巡回コース:9:00モノレール万願寺駅改札口集合~9:20石田寺~10:00土方歳三資料館~11:00(徒歩で移動)~11:30高幡不動尊~(昼食及びバスで移動)~13:30日野宿本陣(嘗て道場があり歳三が昼寝をしたりした佐藤彦五郎家)~14:00八坂神社~14:30井上源三郎資料館~15:30宝泉寺~16:00日野駅解散

実費の詳細は追って記します。

※この日は仕事とは関係なく(私事)Shougo.Netからのお申し込み者だけをご案内しますが、日程が合わない方は、仕事として4日、5日も決行しますので、そちらでご参加なさっても構いません。
4日、5日については日野市からのお知らせになるのでお申し込みはしばらくお待ちください。
3日のお申し込みについては、近々HPで(こちらでもお知らせしますが)近日中にお申し込みフォームを作る予定ですのでお待ちください。
定員は30名前後と考えております。
雨天決行、少人数でも決行しますのでご安心ください。

ご質問などはコメント、メールからお受けします。

大河ドラマ「新選組」の人気は、今でも健在だった

3月13日は「新選組」の日で、今年は高幡不動尊でイベントがおこなわれた。
お不動様には五重塔があって、地下が無料休憩所兼イベント広場になっているから、ここでいろんな催し物が開かれる。
五重塔の下がホールになっているなんぞ、聞いたことがないとおっしゃる方もいるでしょう。
この塔は建立して未だ20年ほどで、新しいものなのです。時代的な有り難味はないが、とても美しい塔なので、参詣者は記念写真というと、この前か歳三像の前が多いのです。

今回は、ドラマで源さん役の小林隆さんと周平役の浅利陽介君がゲストだった。
会場は五重塔の下で、スペースはそんなに大きいわけではないから、いすを並べても500席が限度か。
そこへ300席を作ったのだが、整理券は「あっ」という間になくなってしまい、後の人たちは立ち見だった。
立ち見の観客だけでも、300人以上はいたと思われるから、会場内は熱気でムンムン。
「大河」が終了して3カ月が経過しようとしているが、この異常さは何なんだろうと、正直、思った。
次のドラマの「義経」が好調で視聴率もよく、見ていてなかなか面白いのだが、新選組もいまだ健在だった。
大概は、ドラマの終了と同時にその熱気も一気に下降するものだが、新選組だけは違う。
いや、新選組はもともと人気があるのだ。
以前にも言ったことがあるが、ここ日野では、大河以前から土方、新選組を求めて人々が来ていた。日野にしてみれば、元に戻っただけなのだが、上乗せが続いているのだ。
源さんや周平役の役者が来て、大騒ぎになったのは結構なことで感謝しているが、もし近藤役や土方役が来たら……、どれだけの人がやってくるのだろう。
全国から大勢のお客様がお見えになることは喜ばしいことで、当日野市としてはありがたいことには違いないが、これがなかなか難儀なのだ。
「おもてなし」が十分にできればいいのだが、なかなか行き届かないことも多い。中にはご不満をお持ちになってお帰りになることもあるのだ。
私は市民会館に勤務したことがあるが、日野市民会館は1100人以上ははいれない。「消防法」という法律があって、これが結構厳密なもので、立見席というのは許されていないのだ。
あぶれたお客さんはシャットアウトされて、外で立ったままになってしまうのだが、何ともお気の毒である。
この人たちに対するケアー(?)が考慮されているかどうかで、本当の「おもてなし」が整っているかの評価があると思っている。
例えば、会館前の広場で新選組に関する楽しいイベントごとを用意しておくとか、ゲームでもよいし、『新選組弁論大会』なんてのもいいかもしれない。
この日野というところは、プロ野球の球団とは違って、『永遠』に新選組が続いていくところなんで、次に映画やTVで新しいのがヒットすれば、再び人々は日野にやってくる。忠臣蔵をやると『赤穂』にお客が来るように。

そしてこれは内定ですが、5月第2週の7日「土」・8日「日」に「日野新選組まつり」が開催されますが、7日の午後に山本耕史さんの出演が予定されたらしい(まだ内定なのでこの表現で)。詳しいお知らせは、今後、日野新選組同好会のHPをご覧になればよろしいと思います。
その日に来られない方もいるでしょう。その方々のために、そのときの模様は、このHPでも詳しくご紹介する予定です。

京都見廻組組頭、蒔田相模守広孝のお孫さんがご健在だ。

 京都見廻組といえば、近藤、土方の新選組が活躍していた同じとき、同じ京都で市中見廻を担っていた幕府の軍事組織だ。 
旗本の次男以下で、腕に覚えのある武士たちで結成された治安部隊である。
蒔田相模守は、元治元年4月26日に結成された京都見廻組の最高責任者で、今の岡山県、浅尾藩の藩主で一万石の大名であった。そのお孫さんがまだご健在でいるということだけでも驚きなのだが、何と日野に住んでいたのだ。
 そのお孫さんは大正12年生まれだから、81歳になる。30年以上も前から、この日野にお住まいだったのだが、ご自分の素性を誰にも明かさず、ひっそりと生活なさっておられたので、これまで、誰も知らなかった。
 それが、どういう因縁なのか、私が今の任務についた直後に、そのお孫さんからお手紙をいただいた。
(私は約3年前から、新選組特命の辞令をもらっている。また個人情報に関わるので、お孫さんのお名前は伏せさせていただく)
 その後お孫さんと、何度か手紙のやり取りをおこなううち、この蒔田相模守と土方の親交を小説に書きたくなってきた。たまたま土方歳三を執筆する機会が訪れたので、今回「小説土方歳三」の中で思いっきり書かせていただいた。

 新選組と京都見廻組は、同じ時期に、同じ京地で、同じような任務にあった二つの組織だったので、お互い、ライバル意識むき出しの対立は伝えられているのだが、親しく交わったことについてはほとんど伝えられてきてはいない。
だが、お孫さんがおっしゃるには、おじいさまの相模守広孝の晩年、
「昨日も、土方さんの夢を見たよ」
という言葉を思い出すとおっしゃっておられたので、私は、二人が親しく交わっていたに違いないと確信するようになった。
 親しくもなかった人の夢を、大正の時代になってまで、見るはずがないと思うようになったからである。  
相模守が京都で土方と接触した当時は、まだ18歳の頃である。沖田総司よりも二つ三つ若かった。
この二人の交わりのきっかけは、あの明治の大実業家渋沢栄一が深くかかわっているのだが、ここから先は来月出版される本のネタバレとなるので、ブログでは控えさせていただく。

 昨年が大河ドラマ新選組の年でもあり、この機に乗じて日野新選組同好会は3月13日を「新選組の日」と定めた。今年から、記念イベントを行う事になったのだが、3月12日と13日、2日間にわたって七生公会堂と高幡不動尊で記念行事が行なわれた。
 3月12日(※)、私はこのお孫さんを新選組ファンの方々に紹介した。お孫さんはおじい様の写真をお持ちくださって、ステージの上から出席者にご披露された。
 見廻組というと、多くの人たちは、あの坂本龍馬と清河八郎を暗殺した佐々木只三郎を連想するのだが、佐々木は与頭であり、その上に君臨して統括していたのが組頭蒔田相模守広孝であった。
 お孫さんは言う、
「私が日野に住むようになった理由は、よくわからないのです。母は『きっと土方さんのお引き合わせに違いない』と、よく言ってました」と。
 お孫さんは、ご自分の出自を明かさず、土方歳三資料館に三度ほど、密かに訪れていた。


(※)この日の模様は日野宿本陣文書検討会様のブログにてUPされています。
見廻組組頭、浅尾藩主ご子孫を村瀬が紹介した模様なども載っています。

日本人は、いわしのように、群れの中に入っていることが心地よいのだ

日本人は、右向けといわれれば、ほとんどの人がそうする。
箸は右手で持つもので、鉛筆も然りだ。そのようにしつけられてきたし、そうでないといけないと思わされてきた。僕は元来左利きで、野球でも字を書くんでも左なのだが、右に変えさせられた。おかげで今は左でも箸はもてるし、変に感謝しているのだが。
剣でも同じで、左はだめといわれてきた。(土方は、左利きの斎藤一に、坂本は斬られたと思ってきた)
オリンピックの頃、ビートルズが日本にやってきたと、時たまテレビなどで放送しているが、僕の記憶では、ミニスカートの「元祖」ツイギーという女性も、この後やってきたと思う。そして、わが国全体がミニブームになって、この頃、ひざまであるスカートなぞはいていたら、世間から奇異な目で見られ、非難されているのではと落ち込むほどのブームだったように記憶している。だから、50を過ぎた女性でもみんながミニをはいていた。僕はその頃学生で、ミニを喜んで鑑賞させてもらった口だが、年配の方々までそうするのかと思っていた記憶がある。
今は大分それも変わってきて、自由になった。
自己主張が許される時代になったのか、個性とかが出てきているようだ。つまり、ミニでも、ロングでも、パンタロンでもキュロットでも何でもOKだ。
でも、これはきっとそうではなくて、流行も一通り流行ってしまうともう、行き場がなくなって「何でもあり」になるだけなのだ。
最近のTVのCMで気がつくのは、昔のJAZZをよく使っていることだ。JAZZって奴もいろんな流行があって現在に至っているのだが、ニューオリンズから始まってスウィングに行って、モダンになって、アヴァンギャルド、ヒュージョンなど経過して、再び古風なものが好まれることになってきている。
このことは改めて、別な日にまた書くとして、とにかく我等日本人という人種は、一斉に同じ方向に向きたがる癖があるように思う。そのほうが安心?目立たないから非難される対象にもならないし、また、流されているほうが、上流へ向って泳ぐよりも楽チンだし。
選挙をしても、政策がいい悪いじゃなくて、兎に角わが国では現職が強い。有権者は投票所へ行ってから、誰を書くか考える人がいまだに多いから、聞いたことのある候補者、知っている人になるのだ。私は公務員で、もう、30年も投票所で事務をしてきているから、このことはズーと観てきて判っている。いくらハマコーや三宅さんが私を怒鳴ってもだめだ。

一斉に杉を伐採したり、植樹してみたり。
ゴルフ場を作って次々に倒産してみたり。
隣が株で大もうけしているからと手を出したら、結局泡がはじけて、無一文になったり。
土地つき一戸建てを持ったてんで、親戚から「いよいよお前も一人前だ、立派だ」と評価された途端、その土地がいまや半値以下とか、数えればキリがないくらい、同じ方向に向っていていいことはない筈だが。

山本耕史は研究熱心でまじめな青年だった

山本耕史と田丸麻紀

 山本耕史さんは、三度は日野に来ているはずなのだが、色々事情があり、すべてお忍びであった。
 彼は大河ドラマが終わっても、現在でも(今は3月だが)人気が衰えていないらしい。彼本人もなかなか人気が出てきているのだが、歳三としての山本人気が盛り上がっているのだ。
栗塚旭が、土方歳三から生涯離れられなかったのと同じように、はまり役とか、当り役とでも言うのかもしれない。
渥美清もとうとう、『寅さん』にされてしまった。ショーン・コネリーは『ジェイムス・ボンド』にイメージされるのを嫌って、自らその役を降りたと伝わるが、役者とは、そのように固定されるのを元来好まないらしい。
山本耕史は私の見るところ、歳三役にピッタリはまっていたように思う。だから、大河を見ていてまったく違和感はなかったし、私も耕史の歳三に引き込まれていた一人である。それは何度か日野を訪れて、歳三のイメージを自己の中に固定させ、役柄にぶつけていたからだと思われる。その真摯な態度に、日野の関係者はこぞって称賛していたものだ。

大河ドラマは流山で終わってしまったけれど、歳三が最期を締めくくる箱館まで放映して欲しいと願ったのは、私だけではないだろう。
山本人気が衰えていない現象が、この2月の初旬におきた。高幡不動尊の節分会に彼がゲストで招かれた時の事で、毎年恒例のこの行事で異変が起きたのである。
5万人ほどの人手があったということだが、豆まきの会場となった大日堂の前のほうから中ほどまで、通常なら考えられないことだが、若い女性で占められ、彼が登場した途端に、会場は轟音とも思える歓声に沸きかえったと言う。新選組ファン、歳三ファンとしては、この現象ができるだけ長続きして欲しいところだが……。

日野では、昨年1月10日から新選組フェスタが始まったのだが、色添えに、「オープニングに相応しい俳優を派遣して欲しい」とNHKに頼んでいた。だが、その日がたまたま土曜日で、その日は大河の収録日に当たっていたので、「キャストの男性人は大方撮影で、日野には行かれない」という返事だった。
新選組は男の物語で、その男が誰もこれないでは格好がつかないのだが、それでも、撮影にあたっていない人をお願いしたいと頼んだら、『お琴』役の田丸麻紀さんを決めてくれた。
この人を私はオープニングの日に、会場内をご案内した。
田丸麻紀。
この女優さんはその後、随分とTVに出演したしCMにもでるようになった。でも去年の1月ごろは、私も全然知らなくて、ただただ、呆然と上を眺めるだけでした。
そう、彼女は、めちゃくちゃに背が高いのだ。
ハイヒールを履かれちゃうと、180センチにはなってしまうのじゃないかな。
新選組の資料を説明して歩いたのだが、常に見上げて話をしていた記憶がある。可愛い笑顔のお人だったが、何せ、格好がつかなくて。
いま、そのときのスナップ写真が手元にあるが、確実に10センチ以上は私より背が高い。

上川隆也と風間杜夫そして葛山信吾を案内した時のこと(2)

(その2)上川隆也と風間杜夫

歳三役の上川さんと近藤役の風間さんが日野へ来たのは、葛山さんが来た翌週だった。葛山さんのときは、トークショウだったから公然とやってきたのだが、この時はいわゆる“お忍び”って奴で、ファンに悟られないようにそっとやってきていた。

この日の夕方まで市内をご案内したのだが、終始、明治座側と上川の事務所の人間が合計7、8人でガードを固めていた。一般の人が人気俳優と悟って、サインや握手などをせがむ場面もあったのだが、周りの付き人たちが、一切拒絶して断っていた。
案内した私でさえ、サインももらえなかった。いわんや写真も。本人達に直接頼めば、サインでも写真でもOKだったに違いないだろうが、何しろガードが固いのだ。案内役の私にさえ、監視の目がついていて、決して写真など撮らせないのだ。

この日の模様は、明治座で売られる分厚いプログラムの中で紹介されるものであったので、専門のカメラマンがついていた。後日、そのプログラムを見たら、私が日野宿本陣で説明している場面が載っていた。上川氏と風間氏が熱心に聞き入っているシーンである。

私が上川さんと風間さんにお会いしたのは、万願寺フェスタ会場の駐車場で、彼らは乗ってきた車から市内を行脚するマイクロバスへ、誰にも姿を見られないようにすばやく乗り移った。
当時の上川さんは上から下まで黒ずくめで、ちょっとした髭面(わざとか)、髪の毛は長め。例のキャベジンのCMあのままである。そうした中で、あの眼光である。彼の目の輝きが、不気味なほど印象的であった。
彼の真摯な態度は、何処へ行っても好感を持って迎えられた。土方歳三資料館で、畳の上に正座して兼定をうかがう眼差しは、今でも鮮明に記憶しているが、役に入り込もうとするその意気込み、真面目さは、飛びっきり上等なものを感じた。そして、その生真面目さを歳三にぶつけて、そのまま舞台で演じていた。
日野宿本陣は歳三の義兄彦五郎の屋敷でもあったので、歳三が昼寝をした部屋というのがある。上川さんと風間さんと私と三人でその部屋に座り、近藤と土方という人間、その生き様について語り合った。
確かこんな内容だった。

風間氏、
「近藤が自首したときの土方の心境には、辛いものがあったでしょうね。幼いときからの友人だったんでしょう」
 村瀬、
「そうですね。二人が最初に出会った場所は、今、お二人がおられるこの佐藤家ということらしいです。その当時は火事で焼けていましたから、仮母屋だったと思いますが、近藤が20歳、土方が19歳の頃ですね」
 上川氏、
「土方のすごいのは、ナンバー2に徹していたことだと思います。あれだけの才能、実力を持っていながら、決して自分は先頭に出ない。常に、近藤さんを立ててきた。そして、近藤さんの新選組として自分は影に甘んじていたんですね」
 風間氏、
「二人の性格は大分違うと思いますが、どうして気が合ったんでしょう」
 村瀬、
「恐らく、この二人は凹凸の関係にあって、お互いにないものを持ち合わせているってことを、最初出くわした頃から感知していたんじゃないでしょうか。そして、次第に求め合うようになっていった。
何か、男と女の関係に似ていたのかもしれません。女房は旦那の欠点を隅々まで知っていて、常にカバーしていたんでしょう。近藤はそんな歳さんにいつも感謝していて、試衛館にいるころから、先輩の山南を超えて土方を自分の片腕と決めていたんでしょうね」
 上川氏、
「歳三は近藤を失って、自分が新選組をしょって立つって考えはなかったのかもしれないですね。だから、もう自分は幕府脱走軍の中の一員でいいんだと。そして、闘えるだけ闘って、後はどう締めくくるか考えていたのかも」

その後上川さんは、NHKの6回連続の時代劇に主役で出演していた。金曜日の9時15分から10時までの、あの番組である。役柄は赤穂浪士のただ一人の生き残り、寺坂吉右衛門だったが、忠臣蔵のその後を描いたもので、寺坂の艱難辛苦の生き様が品良く描かれていて、とても好感が持てた。来年のNHK大河では、主演で決定しているそうだ。それだけのものをもっている俳優だと思った。

この案内の最後は高幡不動尊であったが、五重塔の前で再び上川氏と風間氏と私とで『歳三論』を互いに交わした。
上川さんは既に大分研究していて、
「箱館の歳三は死に場所を探していた」
と、力説しておられたから、歳三役への準備、心構えは既に十分整っている風だった。

上川隆也と風間杜夫そして葛山信吾を案内した時のこと(1)

(その1)葛山信吾

2004年はNHK大河ドラマ「新選組」の年であったが、実は5月に明治座で「燃えよ剣」を上川隆也の歳三、風間杜夫の近藤、葛山信吾の沖田で舞台も行なわれていた。
約一月間の公演だったが、連日盛況で、わたしが観に行ったときも、ほとんどんど女性人で客席が占められていて、白粉(古いか)と香水の香りでむせ返っていた。

明治座のロケイションが日本橋の浜町という場所柄からか、着物姿の人たちも大勢いて、平成の時代になってもこのあたりにはまだ江戸情緒というものが感じられる。この界隈も当然のことながら、ビルの建設で街中が埋まってしまっているのだけれど、人々の気分はまだ十分江戸っ子の延長である。

公演に先立つ約一月前、確か4月の初旬だったが、日野新選組フェスタ実行委員会主催の「葛山信吾トークショウ」が行なわれた。午前中に日野市内の新選組関連施設を私が葛山君を連れてご案内したのだが、若いのに礼儀正しいすがすがしい奴だなあと思った。彼と私とでトークを行なうので、朝から一緒にあちこち廻って親交を暖めておいたのだ。実はこの日まで、申し訳ないが葛山信吾という俳優を知らなかった。

案内が終わって、いよいよフェスタが行なわれているトークショウの会場へ行ってみたら、大変な騒ぎになっていた。ステージの周りばかりでなく、客席の周りも人、人、人で歩けないほどだ。
若い女性ばかりでなく、30代以上の女性たちも大勢いた。彼女たちも追っかけだった。事務局に聞いたら、昨晩から徹夜で会場受付前に並んでいた人たちは、50人をくだらなかったという。

私はこのトークショウの中で、次のような逸話を紹介した。
「幕府の奥医師で松本良順という人がいましてね、会津で久々に土方歳三と会ったときに、松本が言いました。『総司の奴は、あれで、女をしらねえで逝っちまった』と。葛山さんもどこか沖田総司に似た爽やかさを感じますね」
 この時、会場は『キャアー』、と言う声と『爆笑』が混じっていたのだが、私にはその意味合いが良くわからなかった。
私は葛山っていう人はてっきり独身だと思っていた。実際はお子さんまでいると言うことが、後でわかった。だから、私の言った『爽やか』っていうのは、“ずれた”表現だった。それが爆笑のほうだったのだ。
ステージでしゃべったり演奏したりは、私は長年経験してきているのだが、時に失敗は当たり前のようにある。ステージ上の失態は、やってるこちらは冷や汗モノなのだが、奇態なもんで、こうした失敗、アクシデントがお客に受けたりして、世の中何がよく作用するかわからない。

トークショウが終わって私が帰ろうとしたら、ファンの女性人に取り囲まれた。私は単に司会役、聞き役だったに過ぎないのだが、何故か囲まれた。
一瞬、「俺って、まだいけるのか」と錯覚してしまったのだが、すぐ誤解だと夢は覚めた。
追っかけの女性たちは、
「とてもいいトークショウでした」
「来て良かったです」
と、ここまでは良かったのだが、次には、
「葛山さんてどんな人でした」
「楽屋なんかで、いろんなお話しなさったんですか」
「何でもいいですから、どんなこと、葛山さんが言ってたのか教えてください」
と言う。
私は躊躇してしまった。最初は5、6人だったのがどんどん増えて、終いには20人以上が私を取り囲んだ。
「彼は大変いい青年でした。人気者だからもっと態度が大きいのかと思いましたら、そんなところは微塵も感じられませんでしたよ」と言ったら、
「そうですよね」「やっぱり」「いい人なんですよ」
彼女達、お互いに確かめあっている。

要するに、私なぞどうでもいいのだ。当たり前だが……。
この人たちは、昨晩から来ていた女性たちだったが、一体何処から来たのか聞いてみた。
「私は新潟」「うちは京都」「熊本」「高知」……と様々な方面からだった。中には亭主も子供もいる人が何人もいた。お互いにスケジュールを確かめ合って、示し合わせて現地集合しているらしい。勿論最初は赤の他人だったのが、何度か顔をあわせるうちに気があって友達になったのだそうだ。
「それから?」「まだありませんか」「握手とかしました?」
私が「ええ、握手はしましたよ」と言うと、
「さわれせてもらっていいですか」
と、私の手を握ってきた。
ファンの心理とは、こういうものかと衝撃を受けた。

楽屋の出口の周りはファンで溢れていた。今か今かと彼が出てくるのを待っているのである。既に公演が終わってから、1時間は経過しているのに…。余計なことだったが、楽屋へ戻ってみた。そこには既に、葛山の姿は見えなかった。別の出口から逃走していたのである。
楽屋の窓からそっと、外を覗いてみた。
まだ、数百人の女性達が出てくるのを待っていた。

仇討禁止令は、明治22年にでていた

 仇討といえば、高田の馬場でおこなわれた中山安兵衛の助太刀を思い出すが、忠臣蔵もそうだった。
 国立市の野球場で、中学生が互いに対立しているグループ同士、敵味方に分かれて一対一で次々と対戦して殴りあった。これがこの法律に引っかかって逮捕されたという。
 私も12歳の頃、中央線の線路向こうの連中と団体戦をしたことがあった。場所と時間を決めて、双方5人ずつ出して一斉に殴り合いをおこなったのだが、午後6時開始だった。
こちらは線路手前の『柳屋』という蕎麦屋に集合して、作戦を練ってから出発した。血だらけになって帰ってきたのを思い出すが、私の弟の守正というのが最もダメージがひどく、気の毒に思った記憶がある。終ってから、再び先の蕎麦屋に戻ってきたが、そこに居た叔父さんに、「お前ら、よくやった」と褒められた。子供ながら、向こうの島の連中と決闘をおこなったことは、その人にすれば賞賛すべきことだったのかもしれない。
江戸の頃は、届ければ仇討が許されていた。親の仇、兄の敵討ちなどは武士道からすれば当然のことで、立派な行為だという事になるのだろうが、その禁止令が明治22年に発布されていて、いまだに生きていたとは知らなかった。
子供たちの喧嘩も、それに該当するのか。

勝海舟は、百年後の日本を憂えて行動を起こしたが

勝海舟は、元治元年9月の11日だったか、薩摩の西郷吉之助と初めての面会を大坂で行なった。
 この時、「幕府はもうもたねえから、薩摩をはじめとした雄藩で連立して政を行なうように」と、幕臣とも思えない発言をして西郷を驚嘆させ、また、其の時から二人の友情が始まったと伝わる。
 この時点で、勝は藩や幕府を否定して、日本国全体をどうするかを考えていたのであり、この発想が、弟子の坂本龍馬に伝えられた。
 果たして、百年後の日本はどのようになったのか。
 新選組が池田屋に襲撃をかけ、幕末の最終幕がきって落とされたのは元治元年であった。これは西暦で1864年だが、百年後の1964年は例の、東京オリンピックが行なわれた年で、私は高校二年だった。確か、入場行進を池袋の大スクリーンで、女の子と一緒に観ていた記憶がある。
まあ、それはいいとして、このオリンピックの年に新幹線が東海道を走り出し、日本の国が高度成長期に突入したわけだ。一面、何もかも、物、金が優先される時代に入り込んだともいえる。
よい大学を卒業して、よい企業に就職して、一生を会社にささげ、いわゆる企業戦士といわれる男たちが出現した。
この人たちのおかげで、日本という国は発展した(?)。
家庭なぞ顧みない、仕事のためという「印籠」を前面にブル下げれば、有無を言わせず女房子供を黙らせ、その実、休みの日には、接待と称してゴルフ三昧だ。だから、この狭い国土におびただしい数のゴルフ場が開発され、生態系まで壊してしまった。この頃、私もゴルフを始めた。そして今も行なっている。だから大きなことを言えた義理じゃないのだが、ゴルフそのものが面白いから仕方ない。
結果、親父とほとんど会話を交わしたことのない子供たちがたくさん出現し、夫の定年まで我慢して、晴れて離婚を楽しみにする妻たちまで現れた。定年後に、妻から引導を渡されて、慌てふためく馬鹿な男たちにあきれるのだが、そういう自分も気をつけなければならないが。
この間に、妻たちの不倫という社会問題も起こったし、ゆがんでいく子供たちが大勢できてしまった。

ここ数年、3月あたりから、毎年『花粉症』で悩ませられる人たちがいる。僕はたまたま罹ってはいないのだが、今年の花粉の量は半端じゃないらしい。去年の10倍にもなると、連日ニュースは伝えている。
百年前には多分、花粉症などという症状はきっとなかったに違いない。いや、僕の若い頃だってそんなものなかった(自分じゃ今でも若いつもりだが)。
何故。
この花粉、そのほとんどが杉の木のものという。人工的に植えたものらしい。人工的なら、人工的に除去できないの?と思うのだが。

日野の豊田駅で、津波被害の募金活動を行った

2月5日

 今年の冬は、てんで寒い。
ここのところ、裏日本一帯は連日の大雪で大変だ。特に、昨年地震で大きな被害をこうむった新潟地方の人々の生活ぶりは、テレビで見たのだが、気の毒を絵に描いたようで、心が寂しくなる。
 あの、屋根からの雪下ろし。半端じゃない。お年寄りがやっている姿が目に付くが、おっこって死んだというニュースは毎年のように聞く。
ああゆうの、
雪下ろし専門のボランティアって駄目かなあ、と思ったりする。
全国の若者たちで、その気の人たち結構いるんじゃないの、と思ったりもする。一人じゃ危険だが、チームでおこなえば効率も良いと思うが……。
募金して、お金を集めるのもいいけど、雪下ろしをしてあげれば、あの地方の人たちは随分と助かるんでは、と思ったりして。
でも、こういう手の事を言うと、大概、
「じゃ、お前が、まず行けばいいだろう」と言われそうな気がして、滅多なことは口に出来ない。
「俺は別だ」なんて言ったら大変な事になる。周囲の顰蹙をかってしまい、却って、「言わなかったほうがよかった」なんて反省が読めるからだ。
毎年、1回は雪かきしなければならない大雪が東京の日野あたりでもあるが、職員たちで市役所の周りをシャベルでかいたことがあった。2時間程度のことだったが、デスクワークばかりの自分には応えて、3日は腰が痛かった。

 つい、先月の末、日野市内のJR豊田駅で、昨年暮れに起こった未曾有の津波災害援助募金活動を駅頭で行った。
朝、6時起きで。
その日は夜半からの雪で、手はかじかむし、寒いのなんのって。
 朝の忙しいのに、果たして、募金してくれる人がいるのかなあと、心の中でそっとつぶやいていたのだが、これが驚くことに、随分と集まった。
ああゆうのって、最初「お願いしマース」と声を出すの恥ずかしいけど、3回くらいやると、変に自信がついてしまって、そのうち、隣の仲間よりもっといい声出して振り向かしてやる、というような闘争心まで沸いてきて、一種、恍惚状態に入ったりするのだ。
 通勤、通学で皆さん走っているのに、わざわざ足を止めてハンドバッグを開けて、下のほうに入っている財布を取り出して、カンパしてくれた。一人や二人じゃなかった。小学生や中学生もいた。職人風のお兄さんもいた。俺は、果たしてカンパするだろうかと思った。呼びかけながら、恥ずかしながら自信は無かった。
みんな、お金持ちの人かといえば、むしろそういう風には見えない人のほうが、カンパしてくれた。なんか、目頭が熱くなってきた。  
でも、こういう募金って、本当に困っている人たちのところにまで届くのだろうか、という不安はいつもある。

その時歴史が動いた(おりょう)

2月7日

 坂本竜馬の妻、おりょうをNHKの『その時歴史ーーー』で放映していたが……

この間の水曜日、NHKの「その時歴史が動いた」で『おりょうさん』をやっていた。あの番組は好きな方なんだが、なんとなく不満が残った。おりょうが主役なのだから、もっと輪郭をはっきり彼女に当てて欲しかった。どちらかというと、龍馬に寄っていたような気がする。
これまでにも散々放送されてきている龍馬の一部始終を、再び繰り返えしていた。(ペリーがやってきたときの、あの黒船、ひょっとして、『新選組』で使ったフィルムじゃないの、って言ったのは、一緒に見ていた私の娘です)
その分、おりょうに割く時間が無く、中途半端だったような気がする。もっと、おりょうの幼い頃からの波乱の人生、その人となりを描いて欲しかったのに、付け足しみたいだった。
『おりょう』の研究といえば、京都国立博物館の宮川禎二さんを思い出す。あと、高知県立坂本龍馬記念館館長の小椋氏だが、偶然、このお二人とも仲良くさせていただいている。
また、解説の女流作家(名前は忘れた)も、よくなかった。松平アナの質問もよくない。あんな質問されたって、誰だって答えに窮する。それだけ、あの題材に気合が入っていなかったのかもしれない。例えばこんな風だ、
松平「日本で初めての新婚旅行、どうでしょうか」
女流作家「ええ、ううん、○△×▼#★♀」
松平「さて、いよいよ、今日のその時、慶応3年11月15日ですが、どうでしょう」
女流作家「ううん、○×△▼%#★♀」

質問の内容を、もっと具体的にしてあげればいいのに。
あの番組、打ち合わせってものしてないのかなあ、なんて思ったりもして。
「おりょう」の研究といえば、宮川さんなのだから、彼を出せばよかったのに。それに、『その時歴史はーーー』は関西のNHKで収録している筈だから、と余計なことまで思いをめぐらせた。
この不満は、昨今の海老沢会長辞任やプロデューサーの『自民党大物政治家実名入り』内部告発騒ぎとは関係ありません。

「桜田門外の変」を思い出すような大雪だ

3月4日 今日は、「桜田門外の変」を思い出すような大雪だ

 早朝からの降雪で、日野は大雪である。
今日は3月4日だが、万延元年3月3日におきた桜田門外の変を思い出す。あの事件が契機になって、維新へと一直線に向かうこととなった。
土方歳三はあの時分、何処にいたのか。万延元年は安政7年に当たるが、歳三はかぞえで26歳になっているはずだ。この頃は既に牛込柳町の試衛館道場に食客として転がり込んでいたはずである。
井伊大老が暗殺されたのは、今の時刻で言えば午前9時ごろであろう。その一報が柳町界隈に届くのは昼ごろであろうか。土方歳三は、聞くないなや、桜田門に足を向けたと思われる。凄惨な現場を目にして、これからやってくるであろう時代の変革を、肌で感じ取ったに違いない。そして歌を詠んだ。
婦り奈可良  き由る雪あり  上巳古楚
(ふりながら きゆるゆきあり じょうしこそ)
このうたは、豊玉発句集41作の後ろから10番目あたりに載っているものだが、あまりうまい方とはいえない歳三の俳句の中でも、出色の出来栄えだと思う。
この俳句の意味だが、「きゆるゆき」とは殺された井伊直弼のことであるのは間違いないところだが、それを悲しみ惜しんだのか、当然殺されるべきと思ったのか、意見の分かれるところである。私は後者をとりたい。
徳川の大老といえば最高権力者で、いまの総理大臣以上の権力を振るっていた。その人の首が真昼間に飛んだのだから、天地のひっくり返るほどの事件だったのだが、この当時の歳三は剣術修行を只管近藤のもとでおこなっていた時期である。未だ、徳川に恩義があるわけでもなく、徐々に攘夷の思想に入り込んでいった時期であろうと思われる。
万延元年の頃は、前年に交わされたアメリカとの通商条約で未曾有の物価高に庶民は苦しんでいたのと、コレラの蔓延で江戸でも死人が連日道端にあふれたときなので、徳川の政治に批判的な町衆が多かった。貧乏道場の試衛館も、その経営が苦しく、米や味噌の調達にも苦心していた時期であったろう。
その原因を作ったのが、外国人であり、勅許なしで条約を結んでしまった井伊大老であったのだから、江戸の庶民らは悲しむようなことはなかったと考えるべきである。むしろ、吉良邸討ち入りのときのような一種、「あっぱれ」的な賞賛さえあったと私は思う。弱いものいじめをする権力にたして、制裁を加える小気味よさを、当時の江戸の人たちは評価していたのである。
歳三も、この頃はそうしたうちの1人であったに違いない。

栗塚氏と会うのは、いつも南座前のステーキ屋だ

2月3日

 昨日の晩、栗塚さんから電話があった。
 そう、そのとおり。「血風録」「燃えよ剣」で土方歳三を演じたあの栗塚氏です。約2年前から、親しくお付き合いさせていただいているのだが、たまに電話が来る。
 一番最後に会ったのは、昨年の「新選組フェスタ」のフィナーレだったから、10月31日だった。その晩は立川のホテルに泊まっていただいたが、私もお付き合いした(誤解なきよう)。
 京都では、お世話になった方々も多いので、小説「人間土方歳三」が出来上がったら、持参して、お礼に行かなければならない。京都府観光課、宮川町の置屋、四条大宮商店連合会の理事長、国立博物館の学芸委員、京都市観光課、その他大勢。そして栗塚さんだが、このお人と会う場所はいつも決まっていて、南座の前のキッチン「宮田」だ。
ここはステーキ屋だが、ちょっと見には飲み屋風だ。ここの親父の焼くステーキは絶品だ。たいして高級な肉を使っているとも思われないのだが、ソースもいいのだろう、実に美味だ。
東京の銀座辺りで、昔風のレトロなレストランが最近人気だが、ああゆう系統の味で、伝統的な日本の京都版洋食だ。それとハンバーグも美味い。店は広くてカウンターだけでも20人は座れるだろう。コースで出してくれるので、何がいくらだか未だにわからないが、飲んで食っていつも5000円だ。
 親父さんの話しはいつも面白くて、私はつい聞き入ってしまうのだが、栗塚氏とは昔からの知り合いらしい。もともとは映画関係の仕事をしていたらしく、その手の話が実に興味深く、京都の映画界の裏話が聞ける。嵐カンさんはどうだったとか、市川右衛門は、知恵蔵は、錦之助は、ひばりはみたいに。
高倉健、あの人の例のやくざ路線だが、京都のあちこちでロケをするときは、関西方面のその筋の方々が集まってきて、交通整理から、撮影のための裏方さんを買って出て、様々な手助けをしてたそうだ。
本物のヤクザが、映画をお手本にして、「ああなりたいものだ」と、自分たちのあり方を勉強している話しは面白かった。元禄時代以降の武士たちが、大石内蔵之助を始めとした赤穂の浪士たちをお手本に、武士道のイメージを描いたのと似てないか。
ここの店は9時過ぎに行くと、南座の公演がハネた俳優さんたちが食事に来るので、結構有名人に会える。

 私の「人間土方歳三」の原稿が書きあがったのは、昨年9月の初めだったが、いち早く原稿をお送りしたのは栗塚旭さんだった。3日後には連絡が入って、「感激した」「泣けた」といってくれた。このお言葉で、自分も出版しようという決心がついた。

 「血風録」「燃えよ剣」全巻のDVDが当家にあるので、たまに見る。その度に感激する。原作が善い、脚本が素晴らしい、演出もいい、音楽もいい、キャストがまたいい。なんて素敵な作品なんだろうと思う。
 彼とはあまりに親しくさせていただいているので、まさかあの歳三役のすごい人とは思えないなあといつも感じているのだが、幸福にも、現実だ。

土方歳三の子孫が『笑っていいとも』に出ていた

 約2年前のことだが、お昼の長寿番組「笑っていいとも」を観ていたら、歴史上の人物の子孫だということで、一人の子供が出てきたことがあった。なんと、「土方歳三の子孫」だという。今の名は近藤という姓らしい。
 あまりにびっくりしたので、すぐさま土方歳三本家の陽子さんに電話したら、そんな人知らないという。まさか偽者とも思えないのだが、現在埼玉に住んでいるとテレビではいっていた。
 よくよく考えてみれば、歳三の時代からは五代も経過しているので、兄弟姉妹が嫁入りしたり、もらったりして子を作り、またその子がーーー、とやっていけば数十人は血のつながっている人たちがいても不思議はない。
 佐藤彦五郎は歳三の従兄弟でもあり、義兄でもある。彦五郎の四男が彦吉で、佐藤家からすぐ近くの有山家に養子として入った。今、この家のご当主は京都のミヤビジョンというケーブルテレビで仕事をなさっている。
私が京都へ行くと、よく面倒を見てくれる。お世話になりっぱなしなのだが、つらつら考えてみると、歳三の子孫という意味では、このお人も歳三の姉ノブさんの子孫だから、血は引いているのだ。そしてその人の子がいてお孫さんもいる。全員が歳三と血縁ということになる。

昨年は大河ドラマ「新選組」の年だったから、土方歳三資料館は押すな押すなの大盛況だったが、実はその前の年だって、その前だって休みの日には全国から結構なお客さんでにぎわっていた。すごいときには門から30メートルぐらいは並ぶのだ。
大河が去ってしまったから、新選組は「もうお終いだ」なんていう輩もいるが、そんなことは無い。新選組人気って、想像を超えるものがある。去年のようなわけには行かないが、相変わらずの大盛況には違いないのだ。それに、この4月から土方歳三資料館が改築されて、これまでの3倍の広さになる。(これまでが狭くて、並んで待っている人がいるから、15分程度で交代しなければならなかったが、これからはゆっくり拝観できる)
「笑っていいとも」で歳三が歴史上の人物扱いにされていたのも、こうした大盛況現象で、成る程と思うのだ。
だから、当日野市も、大河が去っても日野市の貴重な資産として新選組を大事に扱うことにし、近々「新選組歴史館」をスタートさせることになった。

はじめまして

小説「人間土方歳三」の出版とホームページ開設にあたって
日野市新選組特命主幹 村瀬彰吾

 2005年4月に小説「人間土方歳三」を出版するに当たって、それに合わせてホームページを開設する事になりました。
 東京の日野市に勤務して30年を過ぎましたが、3年前から、専ら新選組特命の職務に従事しております。仕事の内容は、新選組の研究と各方面から訪れるお客様のご案内などですが、この本は、土方歳三の生まれ故郷であり、新選組のふるさとの日野ですから、それらに思いを込めて昨年一年をかけて書き綴ったものです。
 昨年(2004年)が丁度、NHK大河ドラマ「新選組」の年であり、全国から大勢の新選組ファンが日野にいらしたので、延べ7~800人の方々をご案内してまいりました。その際、ツアー参加者の人々から、「もっと話しを聞きたいから、本を書いて欲しい」という声が多く寄せられ、それらの方々にあと押しされて、筆が進んだという次第です。
 この物語は、歳三を主軸にして、近藤勇、井上源三郎、沖田総司を歳三自身に語ってもらったものですが、特に近藤と土方の内面と精神性を重視して、また二人の苦悩にスポットを当てて書いたものです。
 これをお読みになられた方は、読後、それぞれに感想をお持ちになられることと思います。そうしたご意見、ご批判をいただきたくてこうしたコーナーを開設いたしました。
 それにつけても、作者の村瀬という男がどんなやつなのかを知っていただけるよう、エッセイを綴る事にしました。
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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
    サイトに関してのお問い合わせ(動作不具合など)は管理人までお願いします。
    村瀬へのメールはこちら






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