村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

小説『人間土方歳三』出版記念祝賀会、盛大でしたよ!

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僕のために開いてくれた祝賀会に対して、自分自身で盛大だったというのもおこがましいというもの。
でも、大勢来てくれた。

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総勢160人は会場内にいたと思うが、京王プラザ八王子の『翔王』という宴会場は広い部屋だったが、程よい人数で埋まっていた。
出版記念パーティーなるもの、そもそも初めてのことで、どういうしきたりで事を運ぶべきなのかも判らず、発起人の方々と相談の上、『自分流』で式次第からアトラクションまで進めた。

出席者は僕の親戚知人を始め、古い友人、これまでの仕事の関係者、新選組関係の人々、市内経済界(ロータリークラブや商工会、観光協会など)、そして音楽仲間(特にJAZZ)の人たちだった。

何よりも、土方歳三資料館館長の土方陽子さん、井上源三郎資料館の井上雅雄さん、佐藤彦五郎子孫の佐藤福子さんが揃って壇上でご挨拶してくれて、有難かった。

一通りの挨拶と僕のミニ講演の後は、参加者にエンジョイしていただこうと、まずは天然理心流の演武から始めた。第十代宗家・平井泰輔さんとは以前から知り合いのなので、一門の人たちを引き連れて三鷹から駆けつけてくれた。
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平井先生
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天然理心流の演舞

次は、日野で地元紙を発行している小林和子さんのシャンソンだった。
結構いけるんです。
今、新宿のライブで歌っていますよ。
僕は学生時代からずーと、[zu-ja]をやってきているので、t.saxで伴奏をさせてもらった。
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小林さんと村瀬

引き続き僕が単独で2曲演奏した。
最初はボサノバの定番で『イパネマの娘』、そしてエンリオ・モリコーネの『ニューシネマ・パラダイス』から“愛のテーマ”をプレイした。本来なら、ピアノ、ベース、ドラムは最低サイドメンで必要なのだが、今回は予算の都合でジャズカラオケでやった。
僕はカラオケがそもそも駄目で、殆んど歌わないのだが、まさかサックスでカラオケやるとは思わなかった(サックスのためのマイナス1が市販されている)。

実践女子大学の「着付クラブ」の女性たちも、振袖姿で駆けつけてくれた。この人たちは殆んど毎年、コンクールで優勝しているほど優秀なクラブなのだが、実は、この大学内に2年ほど前、『新選組研究会』を作ってもらった際、このクラブの人たちが核になって協力してくれた経緯があって、それ以降のお付き合いなのである。

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本を出版してくださった舞字社の吉川さん

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娘と村瀬

そう言えば、昨日、ネットの『アマゾン』というサイトを見てみるよう促されて見てみた。
土方歳三で検索すると、『売れている順番』でなんと2位に入っていた!多くの人たちに読んでいただければ嬉しいと思う。
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土方歳三、鳥羽伏見戦争体験記

鳥羽伏見の戦争について、途中まで書いて横道にそれてしまった。
御香宮に布陣した薩摩軍からの激しい攻撃によって、伏見奉行所に屯集していた新選組・会津軍は余儀なく後退させられた。

御香宮は今でも立派に残っているのだが、伏見奉行所は、薩軍からの攻撃で焼け落ちてしまい、現在は跡形もない。

この奉行所があったとおもわれる場所に【伏見奉行所跡】という碑が建てられているのだが、桃稜団地という公団住宅の一角であった。
ここがよく知られている跡地なのだが、一緒に歩いた女性が「この先の中学校の中にも碑があると聞いたことがある」というので、俄然冒険心が出て、探検してみた。

土曜日なので学校は休みだったが、用務員さんに挨拶して、中に入らせてもらった。
正門を入ってすぐのところに草むらがあった、奥のほうに古めかしい碑が見えたので掻き分けて入ってみると、【維新戦跡】という石碑があった。
さらに奥へ奥へと学校の中に入って行くと、校舎の向こうはグランドで、中学生が野球の試合をしていた。
遺跡なぞ、もう何もないようだったが、三塁側ベンチの中の後ろに碑が見えた。
図々しくベンチの中に入り込んで眺めたら、なんと、ここにも【伏見奉行所跡】の碑があった。

さて、どう考えたらよいのやら。
二つ碑が出てきてしまった。
両方とも正しいのかもしれない。だとするとこの奉行所はドでかい敷地を持っていた事になる。
先ほどの団地からこのグランドまで、500メートル程度はあるからだ。

いづれにしても、散々な目にあった幕軍は中書島の方向へ後退したのであり、新選組は淀近辺まで撤退した。
土方は淀城を根城(ねじろ)にして闘えば、まだ十分だと思っていた

鳥羽の城南宮付近で負け、伏見の奉行所が焼かれたといっても、徳川方はまだ先鋒隊だけの戦力で戦っていたのだから、負けたといっても大阪城に屯集している新手の兵をもって闘えば、十分に勝算のある戦況だった。
この時の薩長軍はせいぜい三千五百程度の兵力で、大阪城には一万の兵士が待っていた。
それに、大阪湾には榎本武揚率いる優秀な徳川海軍艦隊が遊弋して待ち構えていたのだから、歳三には、まさか負けるなどということは考えられなかったのである。

だが、負けてしまった。それも大負けだ。
何故だ。
一に兵器、二に錦旗、三に裏切り、寝返りである。
銃器の差のことは先きに書いたが、四日になって新政府軍は仁和寺宮嘉彰(よしあき)親王を征東大将軍に任命し、天皇から錦旗と節刀を賜り、幕府軍が賊軍であることを明示した。
これが恐ろしいほどの威力を発揮し、外様はもちろん徳川譜代の大名までが敵に寝返ってしまったのであった。

1月4日になって、淀城を根城(ねじろ)にするべく徳川勢は開門を要求した。
だが、なんと拒否されてしまった。
淀藩は譜代で、現に当主の稲葉正邦が老中として江戸で勤務しているにも拘らず、寝返りを打った。
伊勢の津藩の藤堂家は外様ではあったが藩祖高虎以来、徳川家に忠誠を誓うこと深く、もし西国にことあって徳川家が出陣する際は、譜代第一の彦根藩と並んで左右の先方をつとめる事になっている家である。
この時は京都盆地の咽喉部である山崎を守備していたのだあるが、これが薩長側になびいて、淀川越しに八幡や橋本にいる徳川方に大砲を撃ったのであった。
この両藩ですら、このとおりであるから、それまで形勢を傍観していた諸藩は一斉に雪崩をうつがごとく薩長方に味方する事になる。

土方歳三は、まさか譜代の淀藩が寝返りを打つとは思わなかった。
やむを得ず淀城の外に陣を敷かざるをえなかったのであるが、鳥羽街道(桂川沿いの道)では愛宕茶屋付近、伏見街道(宇治川沿いの道)では淀堤千両松付近だった。

私たちは宇治川の派流となっている濠川沿いを歩いてから中書島に行き、そこから再び電車に乗って淀駅までいった。
直ちに、淀駅から歩いて10分ほどの日蓮宗妙教寺を尋ねた。
ここの本堂に一つの位牌がある。
【戊辰役東軍戦死者霊位】とあり、
  愛宕茶屋士17名、卒18名
  八番楳木士38名、卒 3名
と、死者の数が記されてあった。
徳川軍だけで、合わせて76名がこの時戦死したのである。

八番楳木(うめき)とは、淀堤千両松付近をいうのだが、新選組はここに陣を敷き、会津兵らと共に戦ったのだが、井上源三郎ら14名が戦死してしまった。
今の京都競馬場の駐車場の角に、慰霊碑がある。
ここ妙教寺の本堂には砲弾が打ち込まれた跡が残っていて、内柱が貫通していた。
その弾は向かって右横の側面を打ち破って中へ入り込んだものであるが、当時の住職16世日祥上人はその時のまま、一切修理を加えずに後世に伝えるようにと残させた。だから、本堂の中から、その穴を通して外の青空が眺められる。
その傷跡が、生々しい。

現、日胤上人は『妙教寺物語』の中で、「妙教寺の柱の弾痕が、過去の戦争の物語となったように、地球上から、戦争というものが過去の物語となるように」と書いている。

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円山公園の有名なしだれざくら

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通説の伏見奉行所跡

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中学校グランドベンチの中の伏見奉行所跡

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伏見濠川沿いの酒蔵群

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寺田屋正面

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妙教寺銃弾通過痕

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淀千両松の慰霊碑

日野ニュース掲載

管理人より

村瀬が4/20の日野ニュースで紹介されました。
プレビューはこちらです。

村瀬ご案内「ゴールデンウィーク日野新選組巡り」のお知らせ

募集は募集人数に達しましたので、締め切りさせていただきました。
ですが、参加する方の為に日程詳細は残しておきます。

申し込みされた方には、全て村瀬から一言添えた確認のメールが届いていると思います。
もしまだ届いてない方がいらっしゃいましたら、ご連絡ください。

当日楽しみにしております。
晴天を願って・・・


管理人よりお知らせです。

■新緑と次々に咲く花の美しい季節に、
「新選組ふるさと日野」で新選組巡りをしませんか?

案内人は日野市企画部新選組特命主幹 村瀬彰吾です。
昨年の日野新選組フェスタ開催期間中、700名以上のお客様をご案内した実績で、いつもHPをご覧になってくださっているお客様を、お迎えいたします。
今まで日野を訪れたことのない方は、この機会に是非、いらしてみては如何でしょうか?
また、2度目、3度目、もちろん地元の方々も大歓迎です。
一緒に日野の新選組巡りに出かけましょう。

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■巡回コース
9:00モノレール万願寺駅集合---9:15石田寺---10:00土方歳三資料館---11:00高幡不動尊--(昼食及びバス移動)--13:00日野宿本陣---14:00八坂神社---14:30井上源三郎資料館---15:30宝泉寺---16:00日野駅解散
※多少状況により変更があるかもしれませんが、現在はこの予定です。
※高幡不動から日野駅までのバス以外は基本的に徒歩になります。

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■日時:平成17年5月3日(火) 雨天決行、少人数でも決行します。
  ※この日は仕事とは関係なく(私事)Shougo.Netからのお申し込み者だけをご案内しますが、日程が合わない方は、仕事として4日、5日も決行しますので、そちらでご参加なさっても構いません。 4日、5日については日野市からのお知らせになるので、お申し込みはしばらくお待ちください。
■定員:30名前後(定員になり次第受付終了とさせていただきます)
■場所:新選組ゆかりの資料館、施設など
■参加費:無料(ただし以下の実費のみ負担)
  入館料:高幡不動尊300円、土方歳三資料館500円、
  日野宿本陣300円、井上源三郎資料館500円、八坂神社100円
  バス代(高幡不動~日野駅)200円
  昼食代1000円(池田屋か開運堂を考えてます)
  保険料100円
  合計3000円

土方歳三と『森の石松』 その2

 前回は、『鳥羽伏見の戦』で土方歳三がたどった軌跡を歩いてみようと、京都を出発して伏見へ向った話をした。藤森神社から始まって、御香宮、伏見奉行所跡を見て、旅籠寺田屋を過ぎ、三十石舟の運行する宇治川支流と濠川の合流する地点までやってきた。
このあたりを散歩し始めたら、次郎長一家の石松のことを思い出した。森の石松がその三十石舟に乗ったときのことを紹介しようとも思ったが、あえて新選組にパロディ化して話をはじめたところで終わった。
今日は、その続きを書く。

「新選組は、京都を根城に大坂方面へも出張するってから、運がよけりゃ、これからお目にかかれるかも知れねえよ」
 連れの若いのが、さらに寄り添ってきた。
「その新選組ですがね、頭目はどんな奴なんですか」
 商人風の男、持っていた猪口をグイッと口の中へ運んでから、
「新選組は、……頭領を局長といってな、近藤勇という男が仕切ってる。この男、出は多摩地方の百姓なんだが、天然理心流という流派の四代目をついで、道場主になった。だが、ひょんなことから食客を引き連れて京都へ行くことになっちまった。天下の名刀、虎徹ってやつを振り回してな、あの京で、今最も恐れられている新選組の局長さ」
「へええ、京都は、一昨年あたりから、天誅とかでぶっそうな世の中に変わっちまってますが、今度は幕府の方にも天誅団が現れたってわけか。そんな強い奴らの集団でも、序列ってもんがあるんでしょうね」
「そりゃそうさ。この衆、変わった役職をつけていてな、聞いたこともねえ役柄をつけていやがる。局長の下に副長って者を置いていて、二人いる。その下はその副長を補佐する副長助勤てのがいてな、10人ほどいるはずだ」
「そんなつええ奴らの中で、一番つええのを教えてくださいな」
「ふむ、」
 この二人に背を向けて座っていた原田、話が佳境に入ってきて、そのままの姿勢で二人に尻をずり寄せた。
「一番つええのは、……そうさな。その試衛館道場で師範代を勤めていた沖田総司って奴さ」
「ほうう、年の頃は」
「確か、新選組の中でも一等若い部類で、二十歳そこそこだ」
「どんな筋を使うんですか」
「この沖田っていう若いのは、天然理心流の得意技でもある突きの名人ということだ。お前さんも知っての通り、京都の町屋は天井が低いし、道筋も狭い。長い刀は禁物で、この男の突きが大いに役立ってるってことさ」
 すぐ横で耳をそばだてじっとしていた原田、一番が沖田と聞いてがっかりしたが、
『まあ、しょうがねえか、あいつは確かに強いからな』
と納得。
 連れの男、自分も美味そうに杯を一気に含んでから、
「そいつが一番か。じゃ、二番は誰ですか」
「うん、そうさなあ。……蝦夷は松前藩脱藩の永倉新八だ。この男は神道無念流をつかうんだが、道場よりも真剣による実践に強い」
 原田、自分の名が出てこないので、腹立たしくなってきた。
『永倉さんか、面白くねえが、俺より確かに稽古が進んでる。ま、仕様がねえか』
と諦めた。
「次は、どうですか」
「うん、そうさなあ。まあ、副長の土方歳三ってとこかな。こいつは、決して真面目に天然理心流をやったわけじゃない。だから、ほとんど自己流ってとこだが、そもそも喧嘩に強い型の男でな、おまけにとにかく色男だ。色街だけではなく、堅気の女にも持てる。役者にでもしてえくらいの色男振りさ」
 『あの土方がもてる……。馬鹿野郎、俺だってもてるじゃねえか。まっ、仕様がねえや。奴がもてるのは事実だしな。それに、腕の立つのも尤もだ。もうそろそろ俺の番だろう』
「その次は誰ですか」
「うん、そうさなあ。……仙台出身の山南敬助というとこだ。こいつも土方と同じ副長だが、北辰一刀流の使い手でな、人柄の良さと博識で、局長の近藤に気に入られている。近藤という奴は、自分が百姓の出だからだろうが、教養のある奴が好きなんだ。その分、自らも勉学に励んでいたんだが、土方はそういった近藤に困っていたようだ」
「次は」
「井上源三郎」
 我慢ができなくなった原田、とうとう二人の方へ向き直ってしまった。
「おい、お前ら、さっきから聞いてりゃ、知ったようなことばっかり抜かしやがって、本当に新選組のことがわかってんのか」
 あっけにとられた二人だったが、講釈師の方が、
「あっ、一人忘れていた」
「そうだろう、そうだろう」
「これは血筋のよい男でな、伊勢は藤堂藩の出身で、お殿様のおとし子だといわれている藤堂平助」
 いらいらも限界に達してきた原田佐之助、
「おい、もういい加減にしろ。知った振りしやがって、おめえなんか、何もわかってやしねえじゃねえか。大体、江戸者のお前らに新選組の何がわかるってんだ」
「おっと、大事な奴を一人忘れてた」
 原田の顔色が変わった。
「おいおい、そうだろう、そうだろう」
「こいつは、つええ」
「あっ、そうかい。あんた、江戸っ子だってねえ。まあ、いっぱいやってくんな」
 原田、自分の徳利を講釈師の猪口に強引に注いだ。
講釈師は続けた。
「こいつは強いんだが、槍が専門さ」
「うんうんうん、そうだ。それでいいんだ。そいつを忘れちゃいけねえよ。で、そいつの名は」
 江戸者の二人のやり取りを、いつの間にか原田が取ってしまっている。
「こいつはな、伊予は松山の出身でな」
「いいね、いいね、あんた江戸っ子だってね。寿司食いねえ、酒飲みねえ」
「神田の生まれよ」
「早く言ってくれよ」
「槍の筋は、宝蔵院流を使うってんだが、いまひとつ信用できねえ」
「なんだと」
「だが、男っぷりは新選組でも一・二を争うといわれている。槍を持たせりゃあ、敵なしさ」
「さささ、遠慮すんなよ。寿司食いねえ、酒飲みねえ。……だからさ、そいつの名はなんていうんだよ」
「原田佐之助」
「おいおい、あんたいい男っぷりだね。月代の剃り加減もいきだし、しかも声もいい。さぞかし吉原あたりじゃ、一晩じゃ返してもらえねえだろうな。江戸っ子だってね」
「神田の生まれよ」
「寿司食いねえ、酒飲みねえ」
「だがな、こいつはめっぽう腕は立つし、女にも持てる。喧嘩ぱやいのもいいが、ひとつだけ欠点がある」
「なんでえ」
「新選組の中で、こいつほどの馬鹿もいねえって、もっぱらの噂さ」


 浪曲、清水次郎長の『三十石舟』のくだりを新選組版に変えて作ってみた。
 主役を原田佐之助というより山本太郎にしたのは、別に他意はない。一番相応しいかと思ったからだ。

 次回は、土方歳三がたどった淀へのコースを書く予定だ。

土方歳三と『森の石松』 その1

4月9日から3日間、京都へ行ってきた。

鳥羽伏見の戦の折、歳さんが歩いた行程を一度は辿ってみたかったからだ。
本来なら、本を書く前に行っておくべきだったのかもしれない。自分の考えたことに対して、確証を得にいったようなものだ。

まず、新選組と縁の深い藤森神社からスタートしたのだが、その前に、桜が余りに見事に咲いているので、八坂神社を通り抜けて、円山公園に行ってみた。ここには、昔からさまざまな物語で描かれてきている『しだれざくら』があるが、もうこれ以上ない超満開で、見事というほか表現できないほどの美しさであった。
昨年私が日野をご案内した方の中に京都の女性がいたのだが、今回の旅は、その人が地元なのでご一緒してくれていた。僕はカメラなどを持つのが苦手な性質なので、その方の心遣いにより沢山撮っていただいた。そのしだれざくらの前でも、もちろん撮影してもらったが、朝の9時ごろでまだ早いのに、すでに観光客で埋まっていた。
それから、京阪電車で四条から墨染まで行った。ここはご存知のように、近藤さんが伊東甲子太郎の残党に鉄砲で肩を打ち抜かれたところで、その後の近藤の運命を決定づけた場所なのだが、これによって鳥羽伏見の戦いは、土方歳三が新選組の指揮を執ることになった。
藤森神社は、どうやら馬に縁がある社らしく、競馬に関する絵馬や有名馬の写真など、多数、勝利祈願のお札などで溢れていた。
次に、伏見桃山の駅で降りて、御香宮と伏見奉行所跡へいってみた。

そもそも戊辰戦争の発端は、鳥羽街道の方で砲声が轟いたのを聞いて、伏見の御香宮に布陣していた薩摩軍と伏見奉行所に陣を張っていた新選組、会津軍との合戦で始まったのだ。
この緒戦で、幕府軍は無残にも敗退してしまったのだが、その主な原因は第一に、双方の軍事的装備の差にあったとされる。大砲をはじめとした銃器類に最新鋭のものを身に着けていた薩摩軍と、関が原の戦で使用していた鉄砲と同レベルのものを持ち出してきて、鎧兜で戦闘に臨むものさえいた幕府軍では、勝敗は目に見えている。
いうまでもなく、新選組は白兵戦が得意で、刀槍での戦でしかその真価を発揮できない。薩摩が陣を張った御香宮は伏見奉行所の約500メートルほど北方の位置にあり、しかも高台にあることから、眼下にいた土方たち幕府軍の頭上に雨あられのごとく砲弾を落としてきた。接近戦に持ち込む前に、勝敗が決まってしまったのである。現場を検証してみて、なるほどと思わざるを得なかった。

土方はここでの戦闘を早々に切り上げて、南へ逃れた。
私たちも、坂本龍馬が幕府役人に襲われた例の寺田屋まで歩いたのだが、ここの先で宇治川の支流と濠川が合流している。昔は三十石舟が上下に淀川を行きかって、酒とつまみで旅人を和ませていたのだが、今でも三十石舟と十石舟がここらあたりを観光客相手に運行をしている。乗ろうとしたが、人気があって予約でいっぱいだった。
仕方なく、その船が運航しているのを眺めながら、土手沿いを散歩したが、ここで“森の石松”を思い出した。

森の石松とは、『清水次郎長』を浪曲化した浪花節に出てくる次郎長一家の一員だが、思い出したのは、その石松が次郎長の名代で四国の金比羅様に詣でて刀を納め、その帰りに三十石舟に乗ったときのシーンだ。
今の若い人たちは大方知らないだろうが、僕の若い頃は、平沢虎造という人が浪曲の大変な名人で、ここのくだりを十八番としてよくラジオで放送していた。虎造の次郎長はテープに録音されて販売されているが、今聞いてみても、惚れ惚れするような美声である。
そのことを今紹介してみても、ピンと来ないだろうから、新選組に置き換えてパロディ化してみる。

新選組に、原田左之助という副長助勤がいる。別名、山本太郎ともいう。
元治元年四月も末、副長土方の命を受けて大坂西町奉行所与力、内山彦次郎の動静を探るため、大坂に下ろうとしていた。
酒好きの原田は、伏見で三十石舟に乗ると早速酒を注文し、あらかじめ買い込んでおいたすしの入った経木(きょうぎ)を開いた。

* 経木とは……菓子や握り飯を包むもの。杉やヒノキなどの木材を薄く削ったものだ。昔はこれに、経文を写したからこの名がある。

三十石舟は陽春の暖かい日差しを受けて、ゆっくりと大坂へ向け
て進んでいる。舟から両岸を眺めると、川沿いに見事にしだれ柳が並んでいて、まったく風流とは無縁の原田左之助でさえひと時の安らぎを覚えていた。
この辺りでもすでに行楽の季節に入っていて、船内は大きく揺れれば転覆してしまいそうなほど、人でむせ返っていた。

ふと気がつくと、原田のすぐ後ろに座っていた五十を過ぎたと思
われる商人風の男が、連れの若いのに講釈をたれている。
「お前、新選組というのを知っているか」
「ああ、近頃京都あたりで勤皇の志士を追い回している、守護職様預かりの浪人どもだってことぐらいは」 
「その連中だがな、仕切っているのは俺たちと同じ江戸者らしいんだが、こいつら、めっぽう腕が立つらしい。なんでも、牛込柳町の試衛館という田舎道場の奴ららしいが、薩摩の示現流に似た剣法を遣うって、もっぱらの評判だ」
「へええ、江戸に生まれて育ったおいらだが、知らなかった。一度お目にかかりてえもんですね」
 このやり取りが耳に入ってきた原田、持った徳利をそのままに、耳をそばだててしまった。商人風の男の話は続く。

ここからの続きは、長くなるので次回に

土方歳三の武士道は「オレ流」だった-その2

前回のブログから、日数に間隔があいてしまった。
この間、本の執筆でお世話になった方々に、お礼を兼ねてご挨拶に京都に行っていたからである。
今年は桜の開花が大分遅れて、4月9(土)10日(日)あたりが満開であった。これほど見事な京都の桜を見れるなんて、一生のうち二度はないかもしれない。それだけに、京都中人人人で埋まってしまっていて、祇園祭のときのような賑わいであった。
この京都行きの収穫については、後日この場でお知らせしるとして、今回は尻切れ状態になっている【明保野亭】事件について続きを述べたい。

池田屋での騒動が起こったのは、元治元年6月5日であったのは有名なことだが、その続編ともいえる事件が10日に起こった。
池田屋急襲で、当時の攘夷浪士幹部の何人かを討取ったのであるが、まだ京都市内には残党が潜伏していた。6日から早速残党狩りを行なっていたのであるが、一面、壬生の屯所が長州勢に襲われるという噂も飛び交い、新選組も厳重な警戒に入っていた。
しかし、この頃の新選組は脱走や病人も多く、戦闘に役立つ人数は40人にも満たない状態で、単独では到底防ぎきれるものでもなかったのである。
だから、6日から直ちに、守護職の会津藩に加勢を要請していたのであるが、やってきた会津藩士の中に年は20歳そこそこ、背丈は6尺1寸、爽やかで性格の明るい柴司(しば つかさ)という人物がいた。
新選組の面々は皆、この青年に好感を持ち直ちに親しく交わったのだが、この男、不遇な事件に巻き込まれる事になってしまった。

6月10日、長州系の残党が、東山の料亭明保野亭に20人ほど潜伏しているという情報が入り、武田観柳齊を筆頭に残党狩りに出かけた。
丁度昼飯時で、浪士たちは食事をしていたところであったが、新選組はそこを襲い、柴は逃げる一人の侍を背中から槍で一突きした。
たまたま軽症で済んだのだが、それが却って仇となってしまった。
刺された武士は麻田時太郎といって、実は土佐藩の藩士で、不逞な浪士ではなかった。
土佐藩は背後から槍で一刺しやられ、しかも応戦するでもなく、傷を負ったまま帰藩するなぞ武士にもあるまじき不覚悟として、翌日切腹の沙汰に処し、自害させてしまった。
さてさて、弱ったのは会津藩であった。
木屋町にある土佐藩邸は、殺気立った若い藩士たちが直ちに新選組の屯所と会津の本陣を襲おうと密議を交わしており、会津から用人が陳謝に訪れても、硬く門を閉ざして会おうともしない状態であった。
困り果てた会津側は、土佐藩との均衡を図る意味で、いらぬ軋轢を発生させないようにとの配慮から、柴司にも切腹を命じたのである。
振り返ってどう考えても、柴には何の落ち度もなかった。
不逞浪士狩りで、怪しい連中を尋問して逃げる相手に一刺ししたのであり、武士道にもとるところは何もないのである。
新選組は、柴司に落ち度らしいところはなかったのだから、まさかお咎めがあろうとは想像だにしていなかったところへ、切腹の沙汰である、まさに青天の霹靂というものであった。
6月12日、前日士道不覚悟として切腹した土佐藩士麻田時太郎のあとを追うように、柴司も兄柴外三郎の介錯で自害して果てた。
柴兄弟は仲がよく、端から見ていても微笑ましいほどであったのだが、兄が弟の介錯をするという尤も悲惨な形で事が処理されることになってしまった。
兄外三郎は、自分が落とした弟の首を抱き上げて号泣した。
その場に立ち会った土方歳三、井上源三郎、武田観柳斎らももらい泣きした。人前で涙なぞ見せたことのない歳三が号泣した。

このことがあって、土方は日本古来の武士道というもの、武家社会というものに不信感を抱くようになったのである。
そして心に決めた。
おれ自身の武士道を作ってやる。
新選組は時の権力者やお家の都合で切腹するのではなく、内部の規律、『法度』がすべてを支配するんだと。

読売新聞掲載&ひの新選組まつり講演会のお知らせ

管理人よりお知らせ
■4月3日の読売新聞朝刊に村瀬が紹介されました。
プレビューはこちらです。

■ひの新選組まつり1日目(5/7土曜)、13:00~14:00まで日野市民会館会議室にて、村瀬の講演会を行なうことが決まりました。(参加費無料)
お時間がある方は是非立ち寄ってみてください。
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
    サイトに関してのお問い合わせ(動作不具合など)は管理人までお願いします。
    村瀬へのメールはこちら






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