村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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あわてて黒鉄ヒロシ氏の『京都見廻組』を読んだのだが

前にも書いたが、3月12日に日野の七生公会堂というところで、『新選組の集い』があって、そこで僕は京都見廻組組頭蒔田相模守のお孫さんを紹介した。
あの時、日野市内で、新選組については大概のことはわかるというMさんが、僕に聞いてきた。
「見廻組っていうのは、佐々木只三郎がトップじゃなかったのですか」
「ええ、実はその上に一万石の大名で、備中浅尾藩の藩主蒔田広孝という人が組頭として京都に赴任してきまして、組織の上ではこの人が仕切っていたんですよ。佐々木は実行部隊の責任者だったんでしょう」
と、僕は応えた。
彼は、
「しりませんでした」と言った。

日野には新選組に造詣の深い方が大勢いて、僕のこのブログを結構みているらしい。
というより、書く内容をチェックしているみたいで、とても緊張感があるし、また有難い。

きのう、僕の職場に今度はSさんが来て、
「村瀬さんは、まだ黒鉄ヒロシさんの『見廻組』を読んでないんですか。駄目ですねえ、必須ですよ」
と、たしなめられてしまった。
子母澤寛や平尾道雄、西村兼文などを読んでいないということで、指摘されるならまだしも、漫画で叱られるとは思いもよらなかった。
Sさんは親切にも、黒鉄さんのシリーズを何冊かお持ちくださった。
とても、有難かった。
『京都見廻組』のほかに、『新撰組』『幕末暗殺』『坂本龍馬』などであった。
とにかく、あわてて見廻組を読んでみた。
うーん、そうか。
変に納得した。
僕は、『京都見廻組』というタイトルだから、その誕生の経緯や理由などが詳しく述べられていると思っていたのだが、実は、坂本龍馬暗殺の経過、実行犯、そしてとりわけ佐々木只三郎について詳しく書かれていた。
組頭の蒔田相模守については、その名は出てくるものの、殆んど触れられていない。
「ははーーー」
だから、先ほどのMさんならずとも、「京都見廻組は佐々木只三郎が運営していた」と、多くの幕末ファンや新選組ファンが思ってしまうのだと思った。

京都見廻組は、物情騒然としていた文久二年暮に守護職が設置された後、譜代中の刀槍の達人を選んで、京都市内を巡邏、非常警戒をする目的で創られたものである。
これは当時、尊皇攘夷を標榜する不逞浪士が横行し、天誅と称するテロ行為が幕府側に向けられていたにも拘らず、京都所司代、町奉行の威令が行き届かなくなってしまっていた事に起因する。

守護職は大大名、所司代は中大名、見廻役は小大名と、3段階で警戒に当たったのだが、このほかに守護職お抱えの私設部隊として新選組が存在していた。
幾重にも重ねて警戒を厳重にし、会津藩まで動員せざるを得なかったわけで、いかに幕府が、京都の情勢に頭を痛めていたかがわかるというものである。

見廻役というのは、幕府がその任に当たる人材の役職で、寄合蒔田相模守広孝、交替寄合松平出雲守康正を見廻役として配属した。
元治元年(1864年)4月26日、幕府は見廻役の人事を発表したが、出雲守の方は人数をそろえられなかったので、5月27日、蒔田相模守を入京させ、警備につかせたのである。
御役高300俵であった。
見廻組とは、見廻役の下につけた組織の名称であろう。
見廻組組頭蒔田相模守の下に『京都見廻役勤方』がつけられ、与頭、与頭勤方、肝煎、伍長などの職階が置かれたが、佐々木只三郎は『与頭』である。
慶応3年6月10日に、新選組は直参に取り立てられたが、近藤は見廻組与頭格、土方は肝煎格であった。
この場合、『組頭』は(くみがしら)と発音し、『与頭』は(よがしら)と、僕は発音したいのだが、多くの書物は『与頭』を(くみがしら)と発音している。
だとすると、『組頭』はどう発音するのだろうか。
同じ言い方するの?

京都見廻組については、資料が少ないので、正確なところがよくわかっていない。
新選組だって『正確さ』という意味では、不明なことが多い。
物語が先行して言い伝えられてきたので止むを得ないのだが、やっぱり、本当のところが知りたい。
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日野ケーブルTV出演模様の動画をUP

2005年6月8日
日野ケーブルテレビ『ウィークリーひの』

番組に村瀬が出演している模様(8分)はこちらから見ることができます。
プロフィール、日野での新選組情報、自著『人間 土方歳三』の紹介など。

朝日タウンズに掲載されました

6月9日の朝日タウンズに村瀬が紹介されました。
記事と写真が土方愛さんの記事と共にこちらのHP(多摩西をクリックし、6ページ目)で詳しく載っています。

■新聞の方をご覧になりたい方は、こちらからどうぞ。

新選組という組織、自由、平等、民主的?

こないだのサッカー。
日本が北朝鮮に勝って目出度くワールドカップ参加の切符を得た。
大変嬉しいことで、来年に向けて楽しみは出来たし、期待と希望が膨らむのだが、無条件に喜べないのが僕の性分だ。
何か、新選組の続編が決まった事に似ているような気がしてーーー。

決まったことは嬉しいのだが、新選組は正月番組で2時間枠と聞いている。
2時間であの後、全部やるのか?
今、会津地方では、ひょっとすると会津も仙台も飛ばされて、いきなり箱館から始まるんじゃないだろうか。
それじゃ、続編が決まった意味がないではないか、という議論があると聞く。
今年の会津秋祭りは9月22,23日、毎年恒例のこととして行われるが、山本耕史さんをゲストに迎える話が進んでいるらしい。
もし、箱館から始められたら、さぞかし会津の方々はがっかりするに違いない。

僕は、土方歳三の後半生を映像化するのに、最低5~6時間は欲しいと願っているのだがーーー。

あっ、サッカーのことだけど。
あの試合をご覧になっておられた方は、よく覚えていると思うが、北朝鮮の選手が試合中に日本の選手に暴力を働いた。
もちろんレッドカード。
『なんてこと、するんだ』と、あの瞬間は頭に来た。
だが、何度かそのシーンをビデオで再現したときに、加害者の選手の顔が如実に映った。
殆んど、泣きそうな形相だった。
僕には泣いているように見えた。
北朝鮮のイレブンは全員、彼と同じ想いだったに違いない。

北朝鮮国内での幼児期からの独特な教育で、日本という国に対する憎しみがああゆう形で出たといえるのだろうが、僕には、違うように写った。

『日本に負ける』などという為体(ていたらく)は、あってはならないことであり、あの国では国辱なのである。
韓国や米国に負けても同じなのだが、日本に負けるということは、もっと特別な意味を持つ。
過去に、オリンピックを始めとした国際大会で、負けて帰ってきた選手たちは、多くが収容所行きだったと聞くし、または、炭鉱などで強制労働だった。
これらは、もとオリンピック選手だった者が脱北して証言している。
負けた相手が日本だとしたら、もっと過酷な仕打ちが予想される。

イレブンたちは、負け試合をしながら次第に絶望的な気分になってしまった。
自分のこともだが、家族たちのこれからの行く末を思えば、悲しみ苦しみがああした行動を起こしてしまったのではないか。
その気持ち、痛いほどわかる。
だから、僕は彼らに同情してしまう。
でも、マスコミを始め、日本のサポーターたちはそうしたことに予測はついていても、誰もしゃべらない。
“大お祭り大会”
「よかった、よかった」
「バンザーイ」
せめて、古館さんぐらいは、そのこと、言ってもよかったんじゃないか・・・。
『寂寥感』

ところで、監督のジーコという人は、管理サッカーではなく、個々の選手たちに自ら自由に判断させるサッカーをさせたそうな。
ここのところ快進撃を続けているプロ野球のロッテの監督バレンタインも同じで、練習は程ほどにして家庭を大事にしろといっているらしい。
自分の調整は自ら管理すればよいのであって、チームや監督の命令で行なうものではないのかも知れない。
それがプロの世界か。
すると、これまでの日本の野球やサッカーはなんだったのか。
幼児期から青年期にあったのかもしれない。
だから、藤田、森、野村監督のような『管理する』人が必要だった?
イチローや二人の松井などのように、自分で考える。
これから大人になるんだ。

新選組という組織はどうだったのだろうか。
土方歳三の独壇場だったのだろうか。
きっとそうに違いない。
新選組は軍隊であった。
軍隊は隊規や命令、上官の指令が絶対で、個々がものを考えてなぞという甘いものではない。
反発すれば、震え上がれような制裁が待っていて、当然のこととして粛清の対象になる。
土方はこれで通した。
それが成功した。  
体内的にも、外的にも、怖くも悲しい統制のとれた組織が出来上がった。
だが、土方という男、頭のよい人で、むちばかりを振るわなかった。
同時に飴も用意しておいた。

「ここにいれば、飯の心配はいらねえ、女も抱ける」
「手柄を立てれば、給金のアップとボーナスもある」
「出世だって望める」

という出自、身分を問わない『完全実力主義』を貫いていた。
これは、徳川幕藩体制の中にあって画期的なことなのである。
なんと、平等、博愛、民主的?
といっても、本当のところは、だいぶ土方さんの個性が先行していたと、思える節がありますがね。

人間、こぶしを振り上げるのは簡単だが、下ろすのが難しい(夫婦喧嘩でも)。
土方歳三は、降ろすなんてこと、考えていたのだろうか。
部下たちのことを思えば、考えざるを得なかったであろう。
だから、ああゆう風に独りで死んでいった。

桧舞台に登場しているうちは、自らは気分はいいが、観客はいづれ飽きてくる。
時には、「もう、いい加減にしろ」とまで。
だから降壇が難しい。

権力を独り占めにしてきた人は、どういうわけかそれにしがみついて、離さない。
引き際、後輩へのバトンタッチが難しい。
往生際の悪いのは、成功した人間でも後味を悪くする。

『ナベツネ』さんの、往生際はーーー。

日野ケーブルテレビの録画取りをしてきました。

本日(6月8日)夕方、日野ケーブルテレビのスタジオで、録画取りを終えてきた。
ウィークリー日野という番組の中のひとつのコーナーなのだが、8分間、僕のために時間をとってくれまして、思い切り本のPRをさせてもらった。
日野地区では、今日から来週の水曜日まで1日に4回、連日放映される。(毎日8:00/12:00/19:00/22:30)

ケーブルテレビなので、日野地区の方々しか見られないのだが、他の地区の人でも見たい方がいるかもしれないので、何とか僕のHPでも見られるようにしようと思う。

ケーブルテレビのスタッフや役員の方々が皆、すでに読んでいてくれたらしく、テレビ局の人たちが積極的に宣伝してくれた形で進んだ。

お相手の人は、約4年前に実践女子大を卒業してアナウンサーになった方なのだが、思い返してみると、彼女のデビューの最初のインタビューも、偶然僕だった。
あの時は、僕がリサイクル課長をしていて、ごみ改革がうまくいきき、ごみが半分に減った。
そして、日野が全国でも評判になった。
だから、インタビューってわけだったんです(エッヘン)。
ーーたまには、自慢させてくださいーー

みんな顔見知りだったから、スタジオでも緊張するってことがなくて、リラックスして録画取りを終えてきた。

彼女の質問に答える形で進んだのだが、「作品を書くキッカケは」とか、「本の内容は」「土方歳三の魅力は」「皆さんへのメッセージを」とか「どこで本が買えますか」などだった。

ケーブルテレビの社長さんや専務さんも、僕の作品をすでに読んでくれていて、帰りに新選組、土方歳三談義をしてきましたが、特に社長さんが心をこめて言ってくださったお言葉がありがたく、今でも耳に残っている。
「村瀬さんの本、最後の、一番最後のページの三行がとってもよくて、涙が出ました」といってくれた。
「そうですか、有難うございます。実は、私もあの三行が書きたくて、筆を進めていたんです」と答えたのだが、嘘ではない。
僕は、本当にあの三行がどうしても書きたかった。
どうしたら、すんなりそこへ持っていけるか、そのことばかりを考えていた記憶がある。
結果として、うまく続いて、自分ではよくかけたと思っていたのだが、本日初めてそれを褒めてくれる方が出てきてくれて、今最高の気分だ。

僕の本、お持ちの方は、最後の三行、改めてご覧になってみてください。

京都見廻組と佐々木只三郎

3月16日に、このブログで京都見廻組、蒔田相模守とお孫さんのことについて書いた。
見廻組というと、新選組ファンのみならず、大方は、佐々木只三郎が首領だと思っているらしい。
実際直接の指揮を執っていたのは佐々木で間違いはないと思われるが、組織の上では備中の浅尾藩蒔田相模守が組頭であり、大名である。
佐々木は与頭であり、組頭の下である。
ついでながら、慶応三年6月に新選組は直参に取り立てられたが、このとき近藤勇は見廻組与頭格、土方はその下の肝煎格であった。
佐々木がトップであると間違えてしまうほど、京都見廻組についての資料が少ない。
だから、錯覚しても仕様がないし、また紹介しづらい。

文久年間に入って、安政大獄の反動で、京都では尊皇攘夷派(アンチ徳川)が猛威を奮い、特に文久二年の夏からは、天誅と称して連日のごとく幕府関係者が血祭りに上げられていた。
これは井伊直弼が起こした大獄と和宮降嫁に対する不満がその大きな理由だったが、どういうわけか、奉行所も京都所司代も下手人を逮捕できない状況にあった。
そこで幕府は、所司代の上に守護職を置いて厳重に取締りを行なう決意をしたのだが、紆余曲折の経過を経て、ようやく会津藩がその任に当たることになった。
守護職を大大名、所司代を中大名、そして見廻組を小大名というふうに幾重にも重ねて、見廻り、警戒に当たったのだが、実際のところ、最もよく機能し、働いたのは新選組だった。
前三者はれっきとした武士階級であるが、新選組だけが農民をはじめとした浪人グループである。その新選組だけが、どうしてそんなに働けたのか。
一言で言ってしまえば、前三者には上昇志向がなかったからである。その必要がないのである。
すでに武士であり、望むものがない。
むしろ騒然とした京都に赴任させられて、とんだ貧乏くじを引かされたという不満士族の集合体であったからだ。

京都見廻組は元治元年4月26日にスタートしたのだが、旗本の次男、三男で腕に覚えのある部屋住みの若者が選ばれたことになっている。
一時は400人いたといわれているのだが、とってもそうは思えない。人手がなくて困っていたのではないか。
その証拠に、新選組に隊士の引き抜きをお願いして、断られているからだ。
いくら腕に覚えがあっても、自ら危険な京都で、刺客を渡り合うなどという損なことをするはずがない。
幕末の頃は、身分制度も大分緩んできていたから、新選組に入って活躍すれば、金と身分が手に入るという希望が持てた。
だから、新選組は頑張った。

京都見廻組に入って、そのメンバーとなった者たちは、損な役回りをさせられていたのだった。
そんな中で、佐々木只三郎だけは違っていた。
彼の出自は、会津藩であった。
会津には、他の藩にはない、藩祖保科正之が定めた家訓(かきん)15条というものがあって、会津藩士たちにとって絶対的な法度であった。
『武備を怠るな』とか『婦女子の言うことは一切聞くな』『将軍のことは一心大切にしろ』などであるが、特に、徳川本家には絶対服従なのである。
江戸期を通じて、諸藩の藩士たちは、自分の藩主を飛び越して将軍に忠誠を誓うなぞという倫理はなかった。
会津だけの異常な、特殊な武士道感である。
武士の忠義とは、己の直接の藩主、主をのみを対象としているのであって、将軍に忠誠心をもてなぞという藩はどこにもない。
だが、会津藩は、所謂、二君に仕えることになっている。
若し、会津の藩主が将軍と違う意見を持ったときには、どちらに従うのか。
藩主を無視してもよいとなっていたのだ。
これは、藩祖の保科正之の出世経過によるものなのだが、紙面の都合上、別の機会に書くことにする。

佐々木只三郎は佐々木家の三男に生まれ、会津若松で育った。
長男の直右衛門(なおえもん)は、父の実家の手代木家を継いだ。
次男が当家を継いだので、只三郎は江戸へ出て旗本の佐々木矢太夫の養子になった。
こうした経緯が、只三郎の運命を決定付けた。
文久三年4月、清河八郎を葬ったのは周知のことだが、慶応三年11月には坂本龍馬まで惨殺した。
彼がもし、根っからの旗本の子弟であれば、あれ程の冷徹な殺戮は行なわなかったのではないかと思う。
会津で教育を受けたものが、徳川本家に直参として入ってしまったことで、徳川御家のために身命を賭すことに何のためらいもないのであり、彼が根っからの旗本連中と違った感性を持ち合わせてしまったということになる。

ついでながら、坂本龍馬暗殺にかかわったのは、見廻組になってはいるが、実は明治三年、旧幕臣今井信郎が供述したところによれば、メンバー以外の寄せ集めも参加していたことが判明している。見廻組には新選組のような機動性がない。
組織としてのまとまり、一貫性に欠けてしまっているところがあった。
佐々木には、坂本を葬るに当たって、腕の立つ連中を集めなければならなかった事情があった(この中に、斎藤一が交じっていても不思議はない)。

坂本龍馬は大政奉還を進言し、平和的な政権交代を望み、着々と準備していたが、幕府の雇った佐々木をはじめとした刺客団に殺されてしまった。
若し、殺さなければ、あのような鳥羽伏見戦争は起こらずに済んだに違いない。
すれば、その戦争で、佐々木只三郎も命を落とさずにすんだはずであるが。

土方歳三と大久保利通-その2-

土方歳三と大久保利通の比較について、文章が途中になっていた。
NHK大河の続編が決定したので、そちらの方を優先させてしまったのだ。
今回は改めて、歳三と利通の比較を考えてみたい。

前回で、西郷さんと大久保さんの生まれた生家が鹿児島の加治屋町というところで、目と鼻の先であり、明治維新最大の功労者、立役者が何故こんな近所なのか不思議でならないと書いた。
同じような意味合いで、鹿児島の二人ほどではないが、近藤さんと土方さんは調布と日野ではあるが近くである。
沖田総司も井上源三郎も日野の出だ。

でも、こうした現象はあの時代、いくらでも例はある。
特別、取り上げることでもないのかもしれない。
桂小五郎と高杉晋作だって、萩の城下で近所だし、高知の城下にも坂本龍馬を始め、優秀な人材が輩出している。
ただ、近藤と土方は新選組という組織を二人で作り、幕末の京都で未曾有の最強軍事集団を運営していた。
一方、西郷と大久保は組織を作ったわけではないが、二人が協力して徳川幕藩体制をひっくり返して、新しい政府を作り上げた。
その規模、歴史上の価値、意味合いには大分違いはあるものの、この二つのペアに共通するのは、どちらか一方だけではとても実現、成就不可能なことを、うまく二人三脚して、それぞれ魅力的なものを作り上げたということか。
そして、それらは同時期に、京都を核にして活躍していた。

よく、薩摩は新選組を襲って潰そうとしていた、又は乗っ取ろうとしていたという人がいる。
その手先が伊東甲子太郎で、高台寺党だと。

僕は、残念だが、薩摩も長州もそんな小さな事に拘っていなかったと思っている。
新選組なぞ、取るに足らない存在だと思われていた。

「我々の目的は、260年続いた徳川幕藩体制を崩して、外国勢力から日本国を防衛するのだ」と、大目的に向って全神経を集約させていたはずで、目先の小事にとらわれていたとは、到底思えないのだ。
もしそうじゃないとしたら、池田屋襲撃の直後に壬生の屯所は大砲の餌食になっていただろう。

池田屋事変で、長州や土佐の有能な若者が新選組に殺された。その直後は確かに、壬生の屯所を襲撃してリベンジしようという衝動は浪士たちにはあった。
しかし、それは幹部連中に直ちにたしなめられ、「新選組を襲ったとて、それで時代が変わるものでもない。
我々の目的は徳川本体ではないのか」と。

なんだか、新選組の存在の小ささにがっかりする向きもあるだろうが、気にする必要はない。
そのままで新選組は充分魅力的だ。
幕末の京都といえば、西郷や大久保でなくてやっぱ、新選組なのだ。
彼らがいない京都なんて……。
コーヒーはクリームがなくても飲めるが、新選組がいない京都なんて考えられないではないか。

またまた話がそれてしまった。
薩摩藩に島津久光という、藩主忠義の父親がいた。
幕末の頃は、前藩主斉彬(なりあきら)亡き後、実質この人が実権を握っていた。
例え、西郷であろうと大久保であろうと、この人の決断、指図がなければ、薩摩藩として何も出来ないのだ。
大久保は久光というガチガチの公武合体論者を倒幕に変えさせるために、血のにじむような苦労をしたし、命をかけたことは一度や二度ではない。
冷静で沈着な彼ではあったが、勇気は薩摩隼人そのものの人であった。
薩摩藩の若い武士たちほど尊皇攘夷の志旺盛で、血気にはやり、勇気があり、武士道を重んじ、命を粗末にする者もいない。
大久保はこの連中の突出を命を張って抑え、一方、久光に近づいて、倒幕へと実に見事に引っ張っていった。
それは、彼の「一藩勤皇でなければ、浪人の運動では到底事はなりもはん」という強い信念からだった。
この間の、彼の苦渋に満ちたジレンマを想うとき、想像するだに超人間的な強靭な精神力で乗り切ったと考えたい。

西郷は大久保を、こういった。
「石からでも水を搾り取ろうとするお人だ。この強靭な根強さは、自分にはないものだ」と。
幕末の薩摩藩は、倒幕のために藩として一つにまとまる必要があった。内部的にそれを見事にまとめたのが大久保であり、また、それがあったから、西郷が中央で縦横無尽に活躍できた。
二人はお互いに、充分すぎるほど理解しあっていた。
そして、それぞれの持ち場で、最大可能な限りの知恵を発揮し、行動に移した。

大久保利通という人がいなければ、ああゆう維新にはならなかっただろうし、明治期に入ってからも、大久保流で勧められたから、驚くほどの速さで殖産興業、富国強兵策は進み、列強と肩を並べ、侵略されずに独立を保ちえた。
こうした大久保と土方とが、僕の中で妙に絡み合ってしまう。
大久保利通という人、改めてその人となりを眺めてみるとこうなる。

 冷静沈着で着実、計画的な物事の進め方。
 白皙(色白)、端正、物静か、冷徹、着実性、感情に溺れぬ理性。
 簡単に揺れない不動性、勇気、凄まじい決断力、それでいて誠実、潔癖、他人の長所に対する謙虚さ、そして愛情。

これらの特徴は、ほとんどそのまま土方歳三に当てはまるように思えてならない。少なくとも、僕が本を書いたとき、土方の中にこうしたキャラを想定して筆を進めていたように記憶している。

西郷と大久保とは、正反対の性格といっていい。熱と冷、
黒と白の対比か。
全く相反する動き方をするのに、そのくせ二人はお互いに
誰よりも信頼しあい、助け合い、そして相手の欠点を補い
合いながら、同じ目的に向かって進んでいく。

この二人の性格と関係、どこか近藤と土方のコンビと似て
いないか。

西郷さんのことについては、改めて、書いてみたい。
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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