村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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京都で、みぞそば狩りをしたのだが――

8月の20,21日に、京都へ行って石田散薬の原料、みぞそばを探しに行った。

僕の本の中では、慶応元年8月に、総司の提案で新選組は暑気払いを行い、嵐山で遊んだことになっている。
その帰り道、嵐山の渡月橋を渡って松尾大社まで南下し、再び桂川を渡る辺りで土方歳三がみぞそば(牛額草)を見つけ、隊士たちに採取させるというシーンである。

実際にそのルートを自分の足で歩いたわけではなかったので、生で確かめたかったのである。
僕のイメージしたとおりの雰囲気だったのであるが、残念ながら、みぞそばは発見できなかった。
京都ではこの「みぞそば」を「かえるぐさ」とか「ぎゃーるぐさ」などと呼んでいるもので、ソバと同じタデ科の植物で、日本全土の山野の水辺に群生する一年草だそうだ。
溝に生えるから『溝蕎麦』というのだ。葉の形が牛の顔によく似ていることから、牛額草とも呼ばれる。

桂川沿いには発見できなかったので、翌日には下賀茂神社へ行って境内に流れる小川沿いをくまなく探して歩いたのだが、ここでも見つけられなかった。
でも、きっとあるに違いない。
そして、歳三は京都でも作ったに違いないと思うのだ。

日野でさえ、群生しているところは限られているのだ。
京都だって、何処にでもあるというものでもないだろう。
限られたところにあるに違いないのだ。
探し当てるまで、根気よく歩こう。

今回、一度は体験してみたかったから、保津川下りの舟に乗った。約1時間40分もかかる渓流下りで、結構スリルがある。
それに、眺めの素晴しさに加えて夏の暑さの中、身体に降りかかる水しぶきがなんとも気持ちよい。
船底が川底にある石にこすれて『ガガガ』と響き渡る。大きく揺れるたびに、お客たちが歓声を上げる。
流れが緩やかになったと思うと、再び急流に変わる。
何度も繰り返す。
行き着く先の終点が、皆さんよくご存知の、あの平安絵巻を再現して舟遊びをする、渡月橋の北側の川幅をゆったりととってある情緒あふれる嵐山なのである。
これも千年の都、京都である。
一度は体験されることを、お勧めする。

今回、嵐山にこだわったのは、僕の本の中で『渡月橋の花嫁』という山南さんと総司との別れのシーンがあって、それも検証したかったからである。
現場をよく確かめもしないで書いてしまったことに対する無責任を詫びなければならないのだが、後からでも確かめておきたかったのだ。
本の中では雪のちらつく嵐山であったのだが、慶応元年2月23日はどのような天気だったのであろうか。
雪のちらつく嵐山にさせていただいたのだが、よくよく考えてみると旧暦だからもう春めいていたのかもしれない。

でも、あの、井伊直弼が殺された桜田門外の変だって、3月3日だったのだから、2月23日に雪が降っていてもいいか。
などと、自分に言って聞かせた。

船を下りてから、総司と山南さんが二人で食べた湯豆腐屋を探した。ちょうどよいところに、それに相応しいお店があった。
江戸の末期にも、きっとこの場所に同じような料亭があったに違いないと確信を深めた。
そこで、湯豆腐を食べた。
えっ、真夏に湯豆腐。
でも大丈夫。
お店の中は冷房が効いていて、湯豆腐を食べるのにちょうどよい気温になっているのだ。

僕が書いたとおり、京都の湯豆腐は関東のものとは違って、薄めのスープ仕立てのたれの中に豆腐を浸して薬味と一緒に口の中へ流し込むのだ。
だから、総司が幼少の頃から口にしていたものとはちょっと違う。僕の幼い頃も、お袋が作ってくれた湯豆腐は、豆腐がゴトゴトしている脇に実に濃い目のたれの入った器が浸してあって、それにつけて食べるのだった。
ちなみに、僕の母親の生まれは浅草の三筋町というところだ。

真夏でも、湯豆腐はおいしいですよ。
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7月27日の写真

1 宗家代表の平井氏と私。
この日は、湿度が高く汗が流れ てくるので、だらしなくバンダナなどしていますが、お許しを。
平井氏のちょんまげが魅力的です。
このときは、確か、剣の筋の話をしていたように記憶しています。
平井さんは、刃のむきも大事で、軌道に沿って正しく刃が向いていなければならないとおっしゃっておられました。


2 境内の雰囲気。
八坂神社の境内は決して大きくはありません。
こじんまりとしていますが、安政年間から文久にかけて、近藤たちはきっと、この場所で稽古をしたに違いありません。


3 真剣を使った演舞。
この人は、まだ、入門して2年も経過していない方ですが、なかなか腰が入っていて、いい形ですね。

『夏休み親子新選組づくしコース』石田散薬作りは、大盛況だった

7月30日に石田散薬の原料、みぞそばを採取したが、本日(8月27日)晴れて薬にまですることが出来た。
今日行なったのは、「夏休み親子新選組づくしコース」のグループで、飛び入りの人たちも含めて約20名だった。残りの約30名は来月3日の専門コース組だ。
朝9時に集合してから午前中は石田散薬作り、昼は皆でバーべキュウ、午後は日野宿巡りだったから、盛りだくさんだったことに加えて今日の暑さだ、参加者の方々はくたくただっただろう。

今日は特別、八坂神社が開帳してくれたので天然理心流の奉納額を拝見することが出来たのと、それに合わせて天然理心流後継者の方々が境内で演武を行なってくれたから、参加者たちは大変得をした。

大人たちが喜ぶのは予測できたのだが、同時に参加していた子供たちが、あれほど興味深く食い入るように観るとは、意外だった。
天然理心流の後継者の平井さんは髪の毛がちょんまげ風で、いかにも昔風で雰囲気がよく、存在感のある人だが、とても気さくなお人だ。
NHKの『その時歴史が動いた』で、天然理心流を扱ったコーナーが去年あったが、そのときに解説をしていた人だ。
その上、サービス満点で、子供たちにも真剣を持たせてくれたのだ。
小さいながら感激して、喜びは一通り出なかった。下手をすれば、大怪我をしてしまう恐れもあるのだが、そこは大分気をつけて、生身の体験をさせてくれたのだ。

ところで、今日参加された親子は小さな子供たちが多かった。
昭島市の西山さんはお母さんと龍一君(11歳)と慶士君(6歳)。
横浜市の井上さんはお母さんと日菜子ちゃん(4歳)、八王子市の竹内さんはお母さんと日向子ちゃん(5歳)、文京区の関口さんはお母さんと言香ちゃん(10歳)、新宿区から参加の石塚さんは貴恵さん(15歳)と弟の修作くん(9歳)などである。

朝早くからの企画で休む暇もない強行スケジュールだったのに、不思議なことに、誰一人として眠くなるような子はいなかった。
むしろ、天然理心流の演武のときなぞは、午後2時半を廻っていたのだが、大人たちが疲労で精彩を欠いていたにもかかわらず、子等は、皆目を輝かせて身を乗り出していたのだ。

宗家の人たちも、場所が八坂神社であったし、ステージが新選組のルーツでもあったので気合も入っていたのだろう、見学者に伝わるものがあったのかもしれない。
僕も見ていて気持ちがよかったのである。

また、僕がブログで沖田総司の伯父の写真を公開したばかりだったので、そのことにも関心を寄せる方も多く、八坂神社で奉納額と天然理心流を見た後、井上源三郎資料館へ向かう途中も、総司ゆかりの場所を歩いたので、皆さん目を輝かせて辺りを眺めていた。

井上源三郎資料館では、子孫の雅夫さんが説明してくれたのだが、最後に井上泰助の例の《手紙の下書き》を見せてくれた。
このときになって、彼は突然、僕に説明を振った。参加者たちに、その内容について詳しく説明したのだが、皆さん、ここでも大きな関心を寄せられ、改めて総司が日野に縁が深いことを実感されたに違いない。

この後、日野宿本陣へも行った。
最後は、すでに午後5時を廻っていたのだが、子供も含めて誰もへたばってはいなかった。
昨年、大河の年で、おおよそ1000人の人たちをご案内したのだが、5時を廻ったことはなかった。
今日の参加者たちは、何とタフで新選組好きな人たちなのだろう。
みんな家族のように仲良くなっていて、次にはみんなして京都へ行きたいと。

ところで、前回の写真の公開で、宮原久五郎という総司の伯父に当たると思われる人を紹介したのだが、この人が総司との関係で証拠となるような文書は残されてはいない。
ただ、一つだけ、源三郎の甥の泰助が総司の姉ミツに宛てた手紙の下書きが井上本家に残っていて、その内容で、井上本家、分家、沖田家、宮原家の関係の深いことがわかると、前回のブログで書いた。
この手紙の下書きは、源三郎資料館で常に公開してくれている。
本日も、その現物を拝むことが出来た。

僕の『人間土方歳三』という作品の中で、沖田総司について大分詳しく土方歳三に語ってもらっているのだが、その根拠も実は、その泰助の手紙の下書きが元になっている。
近々、その下書きについて、ブログの中で検討を加えたい。

●スクープ!!総司の顔は…●沖田総司の伯父、宮原久五郎の写真を発見

管理人より注:
このブログは数日前に村瀬氏から送られていたのですが、写真掲載の許可をいただいていた為、UPは今日になりました。
また、写真の無断転移などはご遠慮ください。


――母、梅は宮原家の出であると日野では伝わっていたが、本日さらに確信を強めた――



↑宮原久五郎氏(総司の叔父)
写真の拡大模写絵
画像クリックで大きな画像
顔アップはこちら

今日(8月10日)、朝一番から総司の母親の実家といわれている宮原家に行ってきた。
御当主の宮原久男氏が体調を崩されて長らく横になっておられたのだが、ここでようやく人と話ができるまでに回復したと、お嫁さんからご連絡いただいたので、さっそくお邪魔したのだ。

ここ日野では、ごく一部の人たちではあるが、惣次郎の母親は宮原家の出であると語られてきている。
勿論、宮原家ではそのように伝わっているし、子孫の久男氏自らそのようにおっしゃておられる。
だから、僕は自分の作品の中でそのように書かせていただいた。
だが、もっと確信を得たい。
じかに宮原家の方々からお話しをお伺いして、一刻も早く生で確かめたかった。

総司について、何故こんなにも資料が少ないのか。
でも、これは総司に限ったことでもなく、新選組関係の資料、遺品類などは、明治に入っていち早く焼いたり埋めたりして処分したか、蔵や納屋などの奥底に隠したものなので、遺品は少ないのである。
特に、近藤をはじめ土方、沖田、井上などは新選組の中枢人物だったから、余計である。
土方家に残る天然理心流の中極意目録の免許状は『土方義昌』と改ざんされていたが、官憲の目をくらますための算段だったのだろう。

あの、板橋での近藤の処刑をみれば判るように、薩摩の有馬藤太が反対する中(西郷の温情があったか?)、土佐の連中の強引な厳罰主張に屈して斬首となり、しかも、その首は京都の三条まで運ばれて晒された。
当時は坂本龍馬の暗殺犯としての疑いが晴れていないときだったので、新選組に対する恨みが二重にも三重にも重なっていたから、運が悪かった。

総司の遺品は、一体何処に行ってしまったのだろう。
慶応4年5月30日に、千駄ヶ谷の植木屋の離れで亡くなったと伝わるのだが(浅草説もあるが)、それにしても遺品がまったくないのである。

幕末の京都を震撼させた、新選組。
この組織によって命を奪われ、また、命からがら生き延びた桂小五郎のような攘夷の志士は、長州や土佐をはじめ半端な数ではない。
沖田総司は、その新選組の一番隊隊長であり副長助勤筆頭である。
新選組が恐怖の対象なら、総司はその徳川方、反動勢力の象徴的な存在であった。それだけに、その死は極秘にされ、深夜人目を避けてそっと、麻布の専称寺に遺体は運ばれたに違いない。
遺品類は、ことごとく処分されたと見るべきである。
只、刀は残ってもよいような気がする。
菊一文字はありえないとしても、どこかに。

久男氏はおっしゃった。
「終戦の年まで、うちに刀がありました。戦争で挑発があったので供出しました」と。

もしかして、それがーーー。
もう、後の祭りである。
刀だけが残され、何処にも持っていく当てがなかったから、母親の実家に収めた可能性はあると思える。
宮原家は、今は建設業をしておられるが、昔は百姓屋だったそうだから、刀といえば総司のものの可能性は高いのである。

日野には、昨年お亡くなりになられたが、谷春雄という郷土史家がいて、この人が新選組について、また総司についてよい研究をされていたので、そのことについて、僕は、ずっと検証したかった。

宮原家にお邪魔して、とてもたくさんの収穫があり、今日は朝からルンルン気分だ。
だが、残念なことに、書類など文書では一切、残っているものはなかった。
すべてが言い伝えとしての『語り』なのだが、それでも、十分に納得のいく内容で、大変興味深いものがある。
ただひとつだけ、久男氏が最近発見されたと見せてくれたものがある。
総司の母の兄弟で、久五郎の写真とそれを拡大した絵だった。(上参照)

総司にしてみれば、伯父に当たるわけで、母の兄弟だけに似ていても不思議はない。

ちなみに、姉、みつの晩年の似顔絵というものが紹介されていて、多くの人がすでに知っているところだが、本日僕が見せてもらった久五郎氏の顔と比較してみると、なんとなく似ているような気がする。
少なくとも、昭和に入ってみつの子孫の要さんをモデルにして描いたという、例のあのヒラメ顔とはだいぶ違う。
僕が見た久五郎さんは、実に精悍で強そうな、武士にしても立派過ぎるほどの様相に見える人だ。
近藤さんや土方さんよりも、もっと強そうにみえる。
その人が久五郎である確認は、写真に宮原久五郎と書き入れてあったからだ。


↑これは下の写真(絵の元になった)の裏。



↑画像クリックで拡大写真。

今日、お会いした久男氏は「祖祖父の久五郎爺さんが立派な人だったので、祖父(磯次郎)が久の字を取って、つけてくれた名だ」といっていた。
久男氏の祖父の連合いは『ヌイ』という人で、この祖母からたくさんのことを久男氏は聞いてきたということだ。

肝心なことだけをいうと、総司は久五郎の姉妹の息子であると聞いてきたことである(姉の子か妹の子かがはっきりしない)。
これは、日野の昔話に詳しい、幾人かの人たちが言い伝えてきていることである。
僕は、土方が京都から何通も手紙を出している中で、そのうちの2通は平佐平宛だったように記憶している(1通は元治元年、正月10日だったか、将軍警護の布陣が描かれている絵入りのもの。
もう一通は、長州征伐に行くにあたって、命はないかもしれないから、高幡山の貴僧によろしくというもの)。

この平家は土方歳三の実家とは親戚関係にあって、その子孫が平拙三さんである。
拙三さんは今年で80歳にもなるお人だが、記憶は鮮明で、昔話を僕に、よく教えてくださった方である。
その拙三さんも、先日お伺いしたとき、「沖田は日野の人間さ」と力説されていた。

ただ、裏づけが欲しいのであちこち飛び回っているのだが、文書としては出てこないが、今日の話と写真でいっそう真実味が増してきたように思う。
文書として残っているのは、井上泰助(源三郎の甥)が沖田ご祖母様(みつ)あてに出す予定だった手紙の下書きが存在することである。
この中で、かなり沖田家、井上家(本家、分家とも)、宮原家の関係が尋常でないことを示している。そして、この中に宮原久五郎の名が2箇所で出てきている。
この下書きの中身は、ちょっと深刻で、ミツのせがれ芳次郎と泰助の妹花との縁談のもつれのことだから、内容的には公にしたくないところだが、すでに井上家は公開してくれている。
このおかげで、僕たちは、その三家の関係の深いことを知るのである。

それでは、沖田家と宮原家がなんで婚姻を結ぶような関係になっているのかという、難解な問題がある。
その後、沖田家と井上本家、分家と姻戚関係が生じてきていることは、周知の事実であるのだが、沖田と宮原がどうしてーーーというのはなぞである。
ただ、考えられないことはないな、という推測がひとつ、本日たった。
それは、次回のブログに回したい。

衆議院の解散と大政奉還

本日、衆議院の解散があったが、『ガリレオ解散』とでも言うのか。だが、この解散、どこか、あの慶喜の大政奉還と似ていないか。

慶応3年10月14日、徳川の15代将軍慶喜は京都二条城に各藩の代表者を集めて、大政を奉還すると発表した。
260年以上、政を行なってきた徳川氏が、政治の実権を朝廷にお返しするというのである。
大変な決断である。
慶喜は後年、
「徳川家康によって始められた幕府を、慶喜でどのように終わらせるか、そのことばかりを考えていた」と、
述解していたそうだが、嘘っぽく思える。

慶喜という人は、実は、政権にものすごく執着、未練のあった人で、陰ではいろいろな仕掛けをして、引き続き政権を維持するための工作を行なっていた。

だが、そうはいっても、あれだけの長期間政権の座にあり、誰も崩壊するなどと想像だにできない幕府機構を投げ出したのだから、すごい決断であったことには違いない。
当時は、そのようなことを考える、口にするだけでも、「獄門」に値するほどのありえない話であったはずだから、天地がひっくり返るほどの出来事であった。

坂本龍馬はその朗報を聞いて落涙し、お城に向けてお辞儀をしたそうだ。
「良くぞ、決断なされた」と。
その通りであったに違いない。
多くの人は、平和主義者の龍馬が「これで、戦争しないで革命が出来る」と喜んだと評しているが、僕はそうでないと思っている。
恐ろしいほど長かった徳川政権を、良くぞ投げ出してくれたというその勇気、英断に対して涙を流したのであって、「徳川を倒し、封建社会を終焉させる」という考えは変わっていなかったと思いたい。
だから、その後も龍馬は、相変わらず幕府の役人から命を狙われていた(新選組もか)。
このときには、近藤は土佐の後藤象二郎に心酔していたはずだから、新選組は龍馬の命を狙ってはいなかったかもしれない。
ここはなんとも、難しい。

薩摩や長州にしては、坂本は同盟の立役者であり恩人である。来るべく新政権には欠かせない人物として、西郷はリストアップしていたくらいだ。
身柄を匿っても、その命を狙うなぞありえないと僕は思い続けているのだが、暗殺犯「薩摩説」はいまだ生きている。

話がそれてしまった。
慶喜の決断からすれば、自民党の60年間の政権なぞ、「へ」のようなものに思える。
だって、小泉さんが就任する前に、「自民党をぶっ壊す」といって人気を博して、この4年間一時は80%を越える支持率で君臨してきたのではなかったか。
日本の有権者は、ぶっ壊しに期待して投票してきた。小泉さんは自民党の最後のカードであって、みんなそれに期待したのだ。
4年前の時点で、小泉の後にはもう、誰もいないと、彼に期待した。
僕は、そう記憶しているが。

そして、今日ぶっ壊した。
いや、壊したのではなくて、ただ解散しただけだから、選挙してうまく行けば、もう一回権力の座にという魂胆だ。

慶喜にしても、小泉にしても、再び権力の座につきたいという意欲、未練を感じてしまう。
なんにしても、一番困っているのは、権力の周りで甘い汁を吸ってきた取り巻き連中であって、『この世の春の終わり』を感じているのではないか。

森前首相が言った。
「野に下る(野党)ということが、どれほど辛いことか」と。
名言である。
あの方たちの本音を最もストレートに言い表している。
政権の座から、一大名に成り下がるのである。
徳川は明治になって、70万石にまで減らされてしまった。
それでも残っただけいい。
慶喜の首が飛んでいてもおかしくなかったのだから、お家断絶まで行かなかっただけでもよしとするべきか。

森さんにしては、野党になることが我慢がならないのである。
国民のための政治ではなくて、自民党や派閥内の権力闘争にすべてが集約されている。
国民もみんな知っている。
それが、堂々と言えてしまう。
だから、この1週間、懸命に改革賛成に廻るように引き止め工作を行なってきた。
だが、それもむなしかった。
本日の参議院本会議で、反対票のほうが多かった。

今日の出来事は、歴史的に大変意味のある、転換点だったように感じるが。

本日(8月6日)久しぶりに新選組パレードに参加したが、猛暑で

今日は新選組パレードで、横須賀へ行ってきた。
一昨年、横須賀市からの依頼で、『ペリー来航150年祭り』があったとき、初めて日野から新選組が参加した。

僕がお膳立てしたので、自ら参加したのだが、今日も、隊士姿のコスチュームで参加した。

今日は、たまたま茨城県の玉造町で行なわれたサミットと重なってしまったので、日野新選組同好会の隊士たちが分散されて人数が少なかった。
そのため、今回は、日野市役所の職員を23名募って日野新選組同好会の人たちと一緒にパレードした。
そして、パフォーマンスはLプロダクツの女性たちに加勢してもらって無事に責任を果たしてきた。

横須賀の街はなんとなくエキゾティックだ。
港が最初に目に飛び込んできたとき、バスに乗っていた我々日野市の職員たちが歓声を上げた。
平均年齢が30を超えている連中なのに、海が見えたからといって一斉に車窓の向うの光景に歓声を上げるなど、ちょっと変だが、理由はある。

天気がバカよくて海が美しかったのは言うまでもないことなのだが、港に停泊していた軍艦(古い?)にびっくりしてしまったのである。
潜水艦までそこにいるのだ。
横須賀は、日本で始めて造船所が設けられたところだそうだが、幕末に徳川の勘定奉行まで務めたあの小栗上野介忠順(ただまさ)がフランスの助けを借りて造船所の建設にかかった。
徳川の時代には完成できず、結局、明治になって落成し、明治政府が使用するようになったのだから、皮肉な現象になってしまったのだが、いまもその名残をとどめていて、港町であり、外人のいる町であった。

日野なぞに住んでいる人間には、ああゆうところの風景を目にすると、ちょっとした観光気分になれるものなのだ。
『開国祭り』だからそこいらじゅうに出店が出ており、中には黒人たちも混じって、公園のマーケットで自作の品物を売っていた。
海岸沿いのヴェルニー広場から歩いてパレード会場に行き、再びもとの場所に戻ってパフォーマンスしたのだが、アスファルトに照り返す日差しの強さにみんな参ってしまっていた。

一人の例外もなく、「あつい」「あつい」の連続で、気温はおそらく35度以上であったのではないかと思われた。

いよいよパレードの本番。
日野新選組が紹介されて歩き出すと、面白いもので、それまで暑さでぐったりしていた連中が、突然真顔に変身した。
沿道は、ぎっしり、人でうずまっていて、新選組に対して掛け声がかかる。
僕はこれまで、何回もこうしたパレードに参加してきたが、幸せなことに、贔屓目でもなく、新選組には特別声援が多いのである。
だから、出演者には特別なアドレナリンが出てしまうものなのだ。

今回は、地元から横須賀甲冑隊、そして川越、会津、函館などからも参加があったのだが、格別日野新選組に対する声援が多かったと思われる。
この現象は、会津でのパレードでも、京都でも、浅草でも何処でも同じだ。

日本人は共通して、新選組のあの羽織姿に格好良さを感じる何かがあるのかもしれない。
私たちが街中を歩いていたとき、ある工事現場の脇を通った。そこに働いていた工事人夫の人たちから、
「よお、新選組」と好意的に声がかかる。
4つ、5つの子供が、「あれ、着たい」と、親にせがむ光景もあった。
若い女性も、あのコスプレしたがる。
だから、歩いている我々も悪い気分はしない。
自然、『気』が入ってくる。
初めて参加した日野市役所の職員たちも、その意味合いが理解できたのではないか。
『新選組人気』とは、不思議である。昨年、NHK大河ドラマは終わってしまっているのだが、新たに獲得したファンがいまだに引きずっているらしい。
だから、来年、お正月に再び『続編』ということになった。
8日に、僕は当市の市長と一緒にNHKにいくことになっている。
頼みごとがあるのだ。

石田散薬作りから沖田総司、そして山南敬助

去年に引き続き、今年も石田散薬作りを行っているが、ついさっき、沖田総司のことが頭をよぎった。

昨年の今頃は、僕の作品の追い込みで、最後の箱館のシーンを考えていた記憶があるが、あとで石田散薬の話を突っ込んで仕上げたのを思い出した。
新選組というと、自害したとか逮捕したとか粛清したとかの殺伐な話が多く、ほっと息をつけるような、また微笑ましい話が少ない。
というより、ほとんどない。
だから、何か笑えるような面白い話はないものかと常々考えていたのだが、こうなると沖田君に登場してもらうほかはない。

沖田総司は言うまでもなく、剣は超一流。
江戸にいたころは試衛館道場の師範代を勤めたほどの腕前で、不遇な幼少時代であったが、剣筋に天稟の才を認められて11歳で近藤周助の試衛館に預けられた。
ミツ、キンの二人の姉とともに日野で育つのだが、井上の源さんとは姻戚関係にあたる。
日野育ちだけに、歳三や源さん、近藤などとの同郷意識が強く、副長助勤筆頭、一番隊隊長で新選組の四天王に数えられる。

肩幅が広くて背丈も土方と同程度、おまけに気性も荒いほうだと日野では伝わっている。
この気性というのは、剣術の稽古のときなぞは、相手がどんなに下手であっても手加減しなかったと地元に伝わっている程で(日野で)、みなが総次郎との稽古を嫌がったといわれている。
もうひとつ言えば、色黒で目が寄っていてヒラメ顔だったともいわれていて、爽やかな青年剣士沖田君のイメージを壊してしまう逸話になっている。
でも、何より、写真が残っていなくてよかった。
(近藤さんは、どれだけ損をしているか?)
(土方は、どんなに得をしているか)

だが、沖田は隊内で常に冗談を飛ばすほどの明るい性格だったとも伝わる。
そして、何よりも、鬼といわれた副長にズケズケものを言ってしまう性格であったとも。

だから、石田散薬作りのシーンでは思い切り冗談ぽく、沖田君に活躍してもらった。
総司の発案で、慶応元年夏、新選組は嵐山に『暑気払い』を行ったのだが、その帰り道で歳三が牛額草を見つけ、隊士達に命じて刈り取らせる。
一行は、渡月橋を西へ渡って松尾大社の際を左へ折れて四条通に出るのだが、桂川沿いに流れる用水の中にその草を見つけるのである。

数日後、屯所の西本願寺北集会所の裏手で、汗をカキカキ額にねじり鉢巻で土方の指導の下、隊士達は石田散薬を作った。
合間合間で、総司が茶々を入れるという設定なのだが、総司自身、日野にいた頃、石田散薬の製造工程を見て知っていたからである。

実はこの場面、僕は空想で作ってしまったのであるが、今になって無責任のような気がして、この夏、あの行程を実際に歩いて見ようと思っている。
今ちょうど、京都国立博物館で坂本龍馬展もやっていることだし、おりょうさんの専門家として名高い学芸委員の宮川氏とも、久しぶりで食事でもしたいからだ。

だが、ここで、もうひとつのことが気になってしまった。
なぜ、総司の発案ということに、したのかってことだ。

僕の本をめくってみると、この『石田散薬』という小見出しの前に『渡月橋の花嫁』という小見出しがあった。
これは、山南さんが雪の嵐山で総司と最後の別れを惜しみ、その日のうちに切腹して果てるという内容なのだが、そのことが尾を引いていたのだった。

総司の中では、山南さんが死んで半年たった慶応元年夏の時点でも、
山南のことが忘れられず、最後に二人で語ったあの嵐山で『暑気払い』をしたかったのかもしれない。いまだ、山南は新選組の一員であり、総長なのであった。

日野の佐藤家に残る沖田総司の手紙は、『山南兄』という文字を書いてその死を伝えているが、土方歳三も近藤勇も郷里への手紙には一切、そのこと(山南切腹)には触れていない。
沖田のみが、手紙に書いていた。
しかも『兄』と表現している。
僕は、江戸の試衛館時代から、総司は山南敬助を兄のように慕っていたのではないかと思っている。それだけに、兄を失った総司の落胆は大きかったに違いない。
多くの作品は、沖田が山南の首を落としたことになっているが、僕は作り話だと思っている。
恐ろしすぎる。
あまりに悲しすぎる。
それに、山南の名誉のためにも、脱走なんてことありえない。
『自害』である。

『梅雨が明けた慶応元年六月の初旬、うだるような京都の暑さの中、総司の提案で涼を求めて嵐山に遊んだことがあった』と、僕は、無意識のうちに書いていた。

『全英女子オープンゴルフ』を見ていたら、近藤勇、明治維新と発展してしまった

7月28日から4日間、毎日深夜、テレビに釘付けだった。
『全英女子オープンゴルフ』の中継が行われていたからだ。
日本からは不動裕理、宮里藍、東尾理子、俵(おもて)純子、服部道子などが出場し、宮里が7アンダーで11位タイ、不動が6アンダーで15位タイの成績だった。
よく頑張ったし、何より予選を通過して最後まで楽しませてくれたことに感謝したい。

だが、なんだか最近、一抹の寂しさを感じる。
一口に言って、日本の選手たちのレベルが低いのだ。
だって、優勝したのは韓国のジオン・ジャン(張晶)という25歳の選手で、身長だって決して高くはない方だし(160センチはないと思われる)、特別何に優れているという印象があるわけでもなく、普通に日本にいる女性となんら変わるところがないような人だった。
日本の賞金女王、不動裕理をちょっとだけ肉付きをよくした感じの人で、プレイ振りもとにかく正確で、不動によく似ていた。
その彼女が、いまや世界の女子ゴルフ界で押しも押されぬあの大女王、アニカ・ソレンサムをぶっちぎりで破ってメジャーのトロフィーを手にしたのだから、驚く以外何者でもない。

近年、韓国女性の活躍は目覚しく、世界の女子ゴルフ界では最も輝いているといってよいのではないか。
全米女子オープンや全米女子プロなど、メジャーといわれている試合で、優勝するケースが出現してきている。
今回だって、優勝したジオン・ジャンのほか、金英が4位だし、ほかにも何人か上位に顔を出していた。

日本はというと、僕の記憶では、樋口久子が全米女子プロで優勝したのがいつだったか、もう30年ぐらい前のことのように思うのだが、それ以降岡本綾子をはじめとして何人もの選手が海を渡ってチャレンジしてきているが、まったく歯が立っていない。
これまでは、場所が海外だからとか、コースが難しいとか芝が違うとか言い訳じみたことをマスコミをはじめ繰り返してきたが、韓国選手の大活躍で、そんな理屈にもならない理由はどこかへすっ飛んでしまっている。

僕は、近藤勇流に言って、『気組』だと思っている。別な言い方すれば、『ハングリー精神の欠如』かもしれない。
これは、相撲にも言えることで、朝青龍にまったく歯が立たないことに通じると思えるが。

男子にいたっては、丸山秀樹をはじめ毎年多くの選手がメジャー(マスターズをはじめ、全米オープン、全米プロ、全英オープンなど)にチャレンジしているが、青木功が全米オープンで二クラウスの2位に入ったのが最高で、その後はベスト3にさえ入れない。

その割りに、ゴルフは日本では結構人気スポーツで、ゴルフ場の数の多さでは、国土の広さからすれば群を抜いているはずだ。
飛行機に乗ったときに、空から国土を上から見てみればよくわかる。
何でこんなにも山を崩してゴルフ場を作る必要があるんだと、多くの人が思うに違いない。
辞典で調べてみたら、合計2400程度あるらしい(本当?ミニコースも含めてか)。
僕は東京住まいだから、羽田から乗ると千葉県のゴルフ場の多さに驚く。

長々とゴルフの話題を書いてしまったが、それが目的ではない。
日本と韓国と中国のことだ。
近年、バレーボールにしても体操にしても柔道でも、そもそも日本がお家芸としてきたスポーツが、韓国や中国の選手に遅れをとってしまっている。
その日本が、今から7、80年前に彼らの国を侵略して属国化した。この15日には、靖国参拝で一騒ぎ、またあるだろう。
日本が国連の常任理事国になりたいといって、盛んに運動しているらしいが、中国などは猛反対だ。

僕が何を書きたいか、敢えて言わない。
言わなくても、なんとなくわかってもらえそうな気がするからだ。

今から140年位前、元治元年(1864年)9月10日近藤勇は、京都から4日間という超人的なスケジュールで江戸に戻ってきて、松本良順邸を訪れている。
自身の攘夷思想に迷いが生じて、当時、西洋の事情に最も明るいと評判だった、和蘭医学を修めた奥医師松本を訪ねたのだ。
近藤は、その日から攘夷を捨てたといわれる。
いや、僕が勝手にそう思っている。
「攘夷などしていりゃ、日本は救われねえ。鎖国など続けていりゃあ、治る病もなおせねえ」とりあえず開国しかないのだと、良順に諭された。
その開国は、安政5年6月19日に『通商条約』として徳川が行ったものだ。
天皇を無視して条約を結んでしまったものだから、方法としてはまずかったが、近藤にとっては、そんなことはどうでもいい。
近藤にとって、自分たち(新選組)が存立してゆく基盤、基本的なテーゼ(定立、主義、主張)さえ見つかればよかったのだ。
だが、それはとうとう死ぬまで分からず仕舞いだった。
良順の当時の自伝では、近藤は『氷釈』といっていたそうだが、本当に氷解していたのかはよくわからない。

同じ日、大阪では重要な会談が行われていた。
あの西郷隆盛と勝海舟が初めて顔を合わして、談議していたのだ。
結果、相手の人間の大きさに、双方が驚愕してしまった。
そして、彼らに真の友情が芽生えてしまった。
このことが、後の維新、戊辰の役に発展してゆくことになった。
慶応4年3月13日と14日に行われた三田付近の薩摩屋敷で行われた例の会談と、それに続く4月9日の無血開城である。

西郷は、勝と初めて会って、清国と朝鮮と日本が協力して西欧列強と戦うべきだと教わった。だから、徳川だ島津だ毛利だと国内で争っているときでないと。
西郷は、それで新たに目が醒めたと思いたい(最初は、自身が最も尊敬していたお殿様、島津斉彬であったことは疑えない)。
明治になって、様々な障害がある中で西郷は、廃藩置県から版籍奉還、徴兵令から廃刀令などさまざまな諸策を行った。
迷いはなかった。
坂本さん(龍馬)からも、しょっちゅう聞かされていた。
「アメリカの大統領は下女の生計が成り立つために政治を考えるちゅうが、日本の将軍は徳川の繁栄しか考えていない。だから、倒すんです」と。
西郷も、自己や武士、封建制、そして藩を捨てて『国』という概念に行き着いていた。
もともと、勝から教わったものだ。

明治になって、薩摩藩が政治の中心になりうると確信していた島津久光に、徹底して嫌われた。西郷に裏切られたと。

全英オープンゴルフを見ていたら、余計なことを考えてしまった。
気がついたら、東の空が明るくなっていた。
あ~あ、今日もまた寝不足だ。
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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