村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

『日野市立新選組のふるさと歴史館』のHPが開設される。

僕の勤めている『日野市立新選組のふるさと歴史館』、実はまだ、ホームページを開設していなかった。
今、この9月の末から、『巽聖歌(たつみせいか)展』と称して展示事業は行なわれている。
この巽聖歌という人は、有名な童謡“たきび”の作詞をした人で、晩年は日野に住んでいたのだ。
子孫の方からたくさんの資料提供があって、現在展示が当館で行なわれている次第だ。
ただ、新選組関係の展示ではないので、僕の方からは積極的なPRはしてきていない。
でも、12月10日からは、来年の5月一杯まで歴史館がオープンして初めての展示が行なわれるので、今その準備に急がしい日々を送っているのだが、同時にHPも開設することになっている。

ところで、日野には、様々な新選組関係の施設があるが、ここで整理してみると、日野市が直接経営しているのは僕のいる『日野市立新選組のふるさと歴史館』と『日野宿本陣』である。
この二つは、本館分館の関係にあって、その両方の責任者は僕になっている。

日野宿本陣は、ご存知のように、佐藤彦五郎という日野の名主の屋敷で文久三年に建設が始まったものだが、本陣も兼ねていたから、甲州道中を行き来する高貴な人たちが休憩したところであるし、歳三の姉のぶの嫁いだ先でもあった。
京都の新選組の第1の支援者でもあり、近藤が郷里に残してきた親夫婦、妻つねや長女のたま、さらには天然理心流の弟子たちの面倒も彦五郎が見てきていた。
大河ドラマにも、勿論出てきていたが、三谷さんは彦五郎をいつも酒飲んでいる男風情に書いていて、そんなに立派には書いていなかった(子孫の方々には、その辺りがご不満らしいが)。

そして、子孫の方が直接、資料館を敷地内にお建てになってお客様をお迎えしておられるのが、『土方歳三資料館』と『井上源三郎資料館』である。
その他、歳三の菩提寺として、また関東の三大不動に数えられる高幡山金剛寺(通称、高幡不動尊)、歳三の墓のある石田寺などである。
また、皆さんがよく行くのが、佐藤家の菩提寺の大昌寺、源三郎の墓のある宝泉寺などである。

昨日、僕がNHKから貰ってきた大河ドラマや今度の続編に関する様々な小道具類も、今後は新選組のふるさと歴史館のHPで詳しく載せることになるので、そちらにも飛んでいって欲しい。
開設は、11月中旬になる。
ただ、あの小道具類はあまりにも数が多いので、整理してからということになるから、徐々に紹介することになるだろう。
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憲法改正って、ほんとにやるの?約束どおり、本日(昨日か)NHKに行ってきた

今、政府の中で、憲法改正の準備が進んでいるらしい。
特に、前文の中に、《愛国心》を盛り込むということだ。
《愛国心》
これは、各人、捕らえ方が様々である。
そもそも、国ってなんだろう。
日本の国土、人民、文化をも含めた総体。靖国参拝。
恐らくそれらすべてなのだろう。
若者たちは、オリンピックやワールドカップ予選で、国旗や国歌をどのように感じ、歌ったのであるか。

この話題となると、僕の悪い癖で、幕末の頃の有識者といわれる人たちは、どう考えていたのだろうと、なってしまう。
この話題となると、勝海舟。
坂本龍馬が、勝を殺しに行って、その場で勝の考えに感心して直ちに弟子になってしまうという、芝居みたいなほんとの話。
この時、地球儀を持ち出してきて、土佐勤皇党の一員であった竜馬の目を開かせたといわれている。
地球儀といえば、近藤勇が松本良順の家を訪ねたときも、地球儀をもち出したといわれているが、どっちにしてもそういうイメージなのだろう。

勝海舟は、国の概念について、若い頃は随分と悩み続けたらしい。
その当時の常識として、国といえば、生まれた地域、藩、藩主などであって、まだ六十余州日本国という観念は大方ない。
その日本国について、勝は坂本に教えた。
坂本は、この国を徳川に任せておくわけには行かないと思うようになった。
自分のお家の繁栄のために政を行なう幕府に、国の舵取りを任せるわけには行かないと。
アメリカは、大統領自らが、下女の生活が成り立つにはどうするかを考えるという。
その上で、国家を考えた。
また、アメリカの国民は大統領の息子や子孫のことなぞ、全く関心がないという。
次の大統領は、入れ札で決めるからだ。
日本は次の将軍様は、と、息子や親戚関係に関心を寄せる(まるで、今の北朝鮮)。
このような徳川は倒さなければならないと、竜馬は思った。
あの時代には、ヨーロッパ先進国からの侵略を防ぐために、日本国を守らなければならないという使命感があった。
そのためには、いとも簡単に自らの命を投げ出した。
清河八郎は攘夷実現のために、東奔西走した。
あまりの過激さ、策士であったばかりに暗殺される羽目になってしまったが、その志は受け継がれた。
そして、維新史に、初期の運動家として名を残した。

三谷幸喜は、その辺りを、あの大河で面白おかしく台本を書いた。
今日、NHKに約束どおり行ってきた。
49話までに使われた、殆んどすべての文書類を貰ってきた。
勿論、清河の建白書もその中にはある。
おまさの店の暖簾もある。
山南の位牌もある。
もち、コルクもだ。
誰かさんが言っていた、西本願寺へ移ったとき、近所に配った手ぬぐいもある。
もっとある。
正月に放映される、函館湾のジオラマももらった。
重かった。

でも僕は、交渉は、まだこれからなのだ。
あの、シルクの焼けただれた誠の旗が欲しいのだ。
所在がNHKではなかった。
購入するようになるかもしれない。
何しろ、作るのに300万円かかったといわれているものだから。
皆さん、一度は見にきて欲しい。

土曜スタジオパーク、耕史君久しぶり。相変わらず、爽やか。でも、久方ぶりに、土方歳三の心境に触れることになってしまった

土曜スタジオパークのビデオを友人が撮っておいてくれたので、早速見てみた。
久しぶりで、山本耕史を拝見したが、相変わらずさわやかな印象を与えてくれた。
そして、以前と変わらず正直もんに思えた。

あの「誠」の旗、破れちぎれて無残に見えたが、余計に欲しくなった。
25日にNHKに行くが、どうにかならないものか。

耕史君が番組の中で言っていた。
「前のときは、ぐっさんなんかと撮影の合間に冗談話などしていて楽しかったが、今回はみんな死んでしまっていて、僕一人で大変寂しかった」と。
そして、「本物の土方さんも、寂しかったに違いない」
う~ん。
そうだろうね。間違いない。

でも、僕はちょっと違う。
実際の土方歳三は、京都時代から一人ぽっちだったに違いない。
ズーっと寂しい想いをしてきた。
耕史君は慎吾君やぐっさんや堺君などと、友好的にお話できたり、酒飲んだり出来ただろう。
本物は、新選組最盛期にあっても、独りぽっちだったと思っている。
一緒に酒飲んでくれる人なぞ、近藤しかいない。
たまに、総司や源さんが気を使って誘ってくれるぐらいであった。
ミーんな、土方歳三を避けた。
怖くて目も合わせられなかったのだ。
否、むしろ、自分からそう仕向けた。
簡単に、隊士たちと会話を交わすなどはしてはならないことなのだ。
ソレが、新選組の副長の威厳であり、恐怖なのであった。
これが必要だった。
この恐怖が、新選組を強くした。
その恐怖が、幕末京都の街を震撼させた。
ソレを土方は演じてきた。
だから、新選組は徳川の最強軍団になりえた。
土方歳三だって、時には息を抜きたい。
だから、宮川町に通った。
八千穂がいた。

僕は、このように考えてきた。
歳三は終始、気の休まることなぞなかったのだ。
常に、硝煙の中に身を置いてきている。
そうでしか、生きられなかった。
ふるさとを捨て、京都にも江戸にも何処にも行くところがなくなっていた。土方には、戦うしか遺されたものはなかったのである。

時代の節目には、いつも、流れに逆らう若者達がいた。
新しい時代を気づこうとする一団と、既得権益を守ろうとする一団の衝突である。
どちらも、一命をとして必死に戦った。
そして、多くの男たちが死んでいったのである。

僕ら男でも、ロマンを感ぜざるを得ない。
女性なら、余計だろう。
今、新選組を支えているのは、80%以上が女性ではないかと思えてならない。
日野にやってくる新選組のファンの多くがそうだし、京都でも函館でもそうに違いない。
そして、今度の京都ツアーも、ヤッパそのような構成になっている。

現代の女性たちが、何故、幕末の男たちに魅力を感じるのであろうか。
ソレは、現代の男たちに原因があるのかもしれない。
この辺り、京都でじっくり話してきて見たい。

大河ドラマ新選組の中で、印象に残った小道具類はなんだろう

ツアーで出るかにづくしにアレルギーのある人は、今なら間に合うので、僕にメールして欲しい。

前回書いたブログで、京都新徳寺住職山田一道さまからいただいただるまさんの絵と書のことを書いた。
これをやっぱり、皆様にご覧になっていただこうと思い、ここに載せることにした。
達磨

(画像クリックで元サイズの写真が開きます)

この方のだるまさんには、なんとなく眼力というか白目に迫力を感じる。
早速表装して、僕の家宝にしよう。

もう一つ、これはこのコーナーをご覧の方々にお願いなのだが、昨年の大河ドラマをご覧になった人で、印象に残った小道具類、様々な装飾品などで、「あれをぜひ、生で見てみたい」というものがあったら、僕にメールで教えて欲しいということだ。
それらが実現できるように、何とか努力したいからだ。
正月に放送される続編の中で使用されたものでもいいのだが、これはまだ放送されていないので、無理に決まっている。
でも、この間のスタジオパークでは、続編のPR版を一部放送したらしい。
その中で、印象に残ったものでもいい。

また、僕のツアーに参加される方々に、前回のこのお知らせで、初日の食事の場所が変わるお知らせをした。
かにづくしのお店に行くことにしたのだが、危惧していることが起こってしまった。
そう、かにの駄目な人がいたのだった。
早速連絡を取って、牛肉のメニューに変えてもらったのだが、その本人も自分ひとりじゃ気きが引けるかもしれないのである。
だから、このブログを読んだ人の中に、このツアー参加者がいれば、そしてかに以外のものがいいとの希望があれば、今のうちに言ってきて欲しい。


京都ツアー、後1名空きがあります。
今週木曜(20日)まで受け付けますので、思案中の方、お申し込みください。

夕食の場所、再び変わります。また、松原忠司の心中話、ほんとだった

今日、京都から帰ってきた。
メールのチェックを何よりも先にしたのだが、3日で69件もたまっていた。
そのうち、大切なのは15件程度で、後は全部、『迷惑』って奴だ。
最近、携帯は減ってきたのだが、ネットの方がすごくて、消すのに大変。

京都へは、勿論、今度僕のツアーがあるから、ご挨拶や下見に言ってきたのだ。
まず、光縁寺の住職にお会いできて、ゆっくりお話してくださった。
朝の10時前で、陽の光がまだゆるやかで、穏やかな日和だった。
光縁寺山門の目の前の狭い広場で、保育園の子供たちが遊んでいる、その声が境内に響いてきていた。
どうやら、オリンピックの入場行進の真似事をしているらしかった。
日本の旗を6人の子供たちが隅を持って、行進している。
他の子らは、口三味線だ。
開会式の、例のアレである。
保育園の、最近の保育士さんも最近、面白ことを考えるものだと思った。

光縁寺では、様々なことが、新たにわかった。
新選組の隊士たちを弔ってあるのは、光縁寺だけだそうだ。
これまでは、壬生寺にたくさん霊が眠っていると思い込んでいたのだが、それは間違いだった。
そもそも、壬生寺には隊士の墓なぞはなかった。
あったのは、光縁寺だけだそうだ。
えっ?そう?
と、意外だったが、そのように言われた。
壬生村には共同墓地があって、そこに弔われていたものを、昭和にはいって壬生寺の中に移したらしい。
だから、芹澤鴨の墓も最初から壬生寺にあったのではないと。
このことは、その後に伺った新徳寺でも同じ事を聞いてみたのだが、こちらの住職山田一道さまも同じことをおっしゃった。
昨年、香取慎吾がテレビのバラエティで、壬生寺境内内の手水で水を飲むことがあったそうだ。
「近藤さんも、こうして飲んだのかなあ」
というような表現を香取君が言ったそうだが、
実は、その水のみ場、3年前に作ったものだそうだ。

光縁寺の住職は、こうした現象が多いのに、お怒りであった。
新選組の隊士の菩提寺は、光縁寺だけだそうだ。
だから、くるときはそのつもりで、弔いに来て欲しいと力説されていた。
決して、観光では来て欲しくないとおっしゃった。
そういえば、光縁寺は観覧は出来るのだが、1人、100円の供養料となっている。
今度のツアーは、隊士たちの霊を弔いたい人たちが多いので、その意味ではよかった。

光縁寺に弔われている隊士の中で、当時、新選組から供養料として支払われていた事実が過去帳に載っているが(公開)、この金額を改めて考えてみると、住職の言われるように松原忠司が最も高額であった(詳しい金額はうつろ)。
山南敬助なども入っているのに、何で松原なんだ。
そこで松原の死に様を思い返してみた。
そうか、彼は一人で死んだのではなくて、ご婦人も一緒だった。
二倍に場所を掘らなければならなかったから、多く支払っただけなのだ。
理由は、このように簡単だったのだが、よくよく考えてみると、これはすごいことで、今まで言い伝えられてきた松原忠司の心中話は史実だったということになる。この話は子母沢寛さんの三部作の中に出てくるものだが、ほんとなんだ。
僕は、小説として書かせていただいたが、この辺のことは実に興味深いので、今度11月5日に伺った時には、もう少し詳細に調べたいと思っている。
光縁寺も新徳寺も、ちょっとしたご挨拶程度で伺ったのだが、どちらも優に1時間を超えて、ご住職のお話を聞くことが出来た。

新徳寺を入ると、屏風らしきものに「達磨」の絵が目に入った。
僕は、絵のこと、水墨画については全くのずぶの素人だが、その達磨の絵には勢いが感ぜられた。一種、異様な、怖ささえある。
山田住職にお聞きした。
「僕は、この道には疎いのですが、このだるまさん、目に勢い、鋭さを感じるのですが」と、伺った。
「そう、感じられますか。その通りでございます。目えというものは、白目が多いほど鋭さが、勢いを感ずるものなんです。これは黒目が比較的小さく描かれています。でも、そのほうが訴える力がある」
といわれた。
なるほどと感心して、しばらく眺めていたら、住職はいつの間にか奥へ下がられた。
再び出てきたら、一通の丸めた書を手にされていた。
床に広げて見せてくれた。
ご自分でお書きになった達磨の絵に「平常心是道」とかいた書であった。
それを、僕に下さった。
びっくりした。
そう、それらの襖絵は、住職自らがお書きになたものだった。
新徳寺は、臨済宗で禅宗である。
山田さんは小さい頃、金閣寺でご修行なさっていたらしいが、その後鎌倉の円覚寺で再び修行したとのことだ。

その後、京都市の話、壬生の話し、新選組の話などたくさんさてもらった。
どの人と話しても長くなってしまうのが僕の悪い癖で、反省しよう。

ところで、今度のツアーに参加される方々にまた、お詫びしなければならないことが発生してしまった。
5日の夕食場所が変わります。
それは参加者の女性に言われたことなのだが、
「私は、お風呂に入りません」と。
僕は単純に、汗を流してから皆で夕食をと思ったのだったが、女性にしてみれば、お風呂はいいとしても、その後のお化粧がまた手間のかかることらしいのだ。
そういうものなんだ。
せっかく『誠の湯』へ行っても、ふろに入らないのでは意味がない。
入浴料金も無駄になってしまう。
それと、これも僕の不手際だったのだが、『誠の湯』では、宴会が出来ないということだった。
和風のレストランに大勢の団体客ということなので、周りに大勢客がいるとのことだった。
そんなところで、ゆっくりは出来ない。
こんどは、宴会しながらゆっくり新選組談義をするのが最大の目的だからだ。

そこで、5日の夕食は、僕がよく行く四条の『カニ料理』屋さんに決めました。
あそこなら、ゆっくり座敷でいくらでも話は出来る。
何より、かにがうまい。
かにづくしになりますが。
それに、バスで迎えに来てくれますし、交渉したら、宴会後、ホテルにも連れて行ってくれるとのこと。
それに、かにのコースも良心的で美味です。
そこは、四条川原町通り沿いにありますが、高瀬川の脇なので、鴨川を渡ると、そこはもう、宮川町です。

夕食の場所、二転三転しました。
申し訳ありません。

京都新選組ツアー、あと一人で締め切りです

この時期、京都観光のトップシーズンなので、ホテルの予約が殆んど取れない。
3ヶ月以上前からおさえておかないと、紅葉シーズンには宿は取りづらいのが実情だった。
数人ならともかく、3~40人となると、一箇所のホテルでは最初から無理があった。

20人分、シングルの部屋を確保しておいた。
それが精一杯だった。
尤も、このたびのツアーはスタートが遅れてしまったこともある。もう少し早く企画していれば、部屋も参加者も増えたのかもしれない。

でも、今のように20人程度が僕にとっては丁度よい。
参加の人たちと、ゆっくりコミュニケーションが図れるからだ。
多分、メガホンを持っていかなくても済む人数だろう。
皮肉なもので、部屋が取れないことが結果として、丁度よい人数になってしまったものだ。

今回、今19人の申し込みがあったので、あと一人で締め切りになる。
若し、申し込もうと考えている人は、急いで欲しい。
あと一人で締め切りになりまーす。

今回のツアーは、僕のプライベートの企画で、まったくの一人で行なっているので、事務手続きと様々方面への予約やご挨拶がとにかく大変だ。
ご参加される予定の方々に対するご通知が、遅れてしまっているのが実情で、お詫びしなければいけない。
ここで、大方参加者が決まってきたので、ようやく、『参加のしおり』を作ることができる。
参加の予定をされている方は、しばらくお待ちを。

函館の土方歳三(伊藤さん)が着ていた軍服、歴史館に届いた。着てみたい人は、今からいつでもいいですよ。

僕の勤める『新選組のふるさと歴史館』のオープニング事業は、12月10日から来年の5月一杯まで行なわれる。
タイトルは ”新選組誕生“ である。

この事業は、実は、当歴史館の学芸委員によって既に半年前から準備が進められているもので、僕が赴任してきたときには既に概略が決まっていたのであり、その学芸委員の指導によってすべての展示が進められる。
かといって、その事業のすべての責任は僕にあるから、まったく無関心というわけには行かない。

展示部門は彼に任せるとしても、このような事業は、歴史館全体としてどのような魅力を持つことが出来るかによって、客足に影響があると思っている。
日野は東京ではあるけれども、決して便利なロケイションとはいえない。
東京の中心から1時間以上もかけてJR日野駅や京王線の高幡不動駅経由で当歴史館に到着する。
だから、『行ってみたくなる』魅力を持たせなければならない。

以前、このコーナーでも紹介したが、NHKの大河で使った小道具類を展示できることになっている。
出来るだけたくさんの小物類をそろえるつもりでいるが、まだ確認していないのでなんともいえないが、例のコルクのほか、隊士たちがはいた草履、脚絆、よれよれの隊服、武田観柳斎のめがねなど様々なものがあるに違いない。

だが、これらは大河にはまった人たちにはお宝かもしれないが、そうでない人には、たいした感動はないだろう。
もっと他に何か魅力を持たせることは出来ないか。
だが、ここは役所であり、すべて予算で動いている。
年度当初に予定されていないものには、金を使うことができない。
それなら、金なしで魅力的なものがそろえられるか。
そうなると、人的なつながりを頼るしかない。
早速、函館の伊藤さんに電話を入れた。

土方歳三の軍服。
これが、飾れれば。
だが、本物があるわけはない。
何せ、遺体そのものをいまだに探しているくらいなのだから。
恐らく、五稜郭の中のどこかなのだろうがーーー。

この伊藤さんという人、何年も前から日野の新選組まつりにお見えになっている。
そう、箱館凌雲社・蝦夷新選組の土方歳三です。
とにかく格好いい人で、惚れ惚れするような土方歳三でした。
あまりに立派なので、あのNHKの『その時歴史がーー』で土方歳三のシルエットで出演したほどのお人である。

その伊藤さんから頼まれて、僕は、3年前の土方歳三コンクールの審査委員をしたことがある。
五稜郭まつりの前日にタワーで毎年行われるあのコンテストだ。
審査のあと、僕が“かに”好きだと言ったら、「滅多に食べられないかにを食わせるよ」と、一本木関門の近くのある店に連れていってくれた。
珍しい毛がにを食べた。
兎に角美味かった。

この人、土方役をやっていたから、あの衣装を一式持っている。
それも、2着目を作ったばかりなので、前のが開いているはずだった。それを借りようと思った。
久しぶりで、お声を聞いた。
気持ちよく貸してくれた。
何回も袖を通したから、ちょっとよれているが、それがまたいい。
全国には土方歳三ファンならぬ、伊藤土方ファンがたくさんいることを、僕は知っている。
なんたって、日野の土方歳三資料館の土方陽子館長自らが伊藤さんのファンである。
その人達には、たまらない筈だ。
えっ、山本耕史の着た軍服も~、それもかよ。
じゃ、わかった。
それも、NHKに交渉してみましょ。

ところで、その伊藤さんの着た軍服、既に、当歴史館に届いている。
気が早い。
まてない人は、今でも、お見せしますよ。
いや、袖を通してもいい。
歴史館に電話ください(042-583-5100)。
今、当歴史館では、巽聖歌展”というのをやっています。
この巽聖歌という人は、あの童謡『たきび』の作者で、日野にお住まいでした。
で、今、うちの館で展示をしているのです。

ところで、この軍服、誰が着る。
そっくりさんはいないか。
いるわけはない。
う~ん、じゃあ、人形にしよう。
片っ端から、人形屋に当たった。
蝋人形というのがある。
調べてみたら、たか~い。
一体、7~800万円だって。
安いのを探したが、どんなに安くても100万円はくだらなかった。
あきらめた。

だが、アマチュアで、既に土方歳三の人形を作ってしまっている人がいることを知った。
それも複数、いる。
今週、人形商の鈴藤さんと一緒に、歳三人形の持ち主に会いに行く。
鈴藤さんの先祖は、日野で人形やさんを天保年間からやっている。
店はあの有山家のまん前だ。
有山家には、新選組の資料がたくさんあるが、有名なのは近藤が彦五郎に贈った『志大略』である。
ここの蔵に、歳三の日記があるのではと僕はひそかに期待している

オープニングには、魅力あるものを皆さんにお見せしたいからだ。

京都新選組ツアーの中間報告をいたします

このツアーは、皆様のアンケート結果に基づいて企画したものなのだが、最初の意図と実際の募集は変わってしまった。

アンケートでは、島原に行きたい、花街で遊んでみたいというのが多かったので、思い切ってその線に沿って考えてみたのだが、募集に入ったら、意外や応募は少なかった。
だから、今度は規模縮小で再募集した。
といっても、2日間のコースの中の輪違屋さんだけをはずしただけなので、まだ、豪華版には違いない。
新徳寺から始まって光縁寺で隊士の供養、勿論八木邸は行く。
輪違屋はなくなったが、誠の湯で一風呂浴びたあとは、その場で食事をしながら宴会だ。
そのまま、皆さんと新選組トークに入る。
今回の申込者は、京都で思い切り新選組を語りたいという人が殆んどだ。
だから、この宴会は相当盛り上がるだろう。

また、参加費用を3万円台におとしたので、そして色街をはずしたことによって、参加できる人が出てきた。
今のところ、まだ申し込みには間に合うので、その気のある人は急いで欲しい。
この時期、追加は一切出来ないという。
京都でも、トップシーズンだからだ。

2日目は、保津川下りと嵐山で湯豆腐だ。
湯豆腐は、京都では何処でもあるから、何もあえて嵐山でなくても、と思われるかもしれないが、理由がある。

僕の本では、死を決意した山南敬助が、雪の嵐山で湯豆腐をすすりながら総司と語ることになっているからだ。
勿論、この部分は創作なのだが、実は、白状すると、このシーンはあの新選組血風録からきている。
司馬遼太郎というよりも、結束信二さんの脚本にあるあの情景である。

アレっと、
あれは血風録ではなくて、『燃えよ剣』だったかも。何だか混乱してしまった。
でも、あの辺りの映画のワンシーンが僕の脳裏に焼きついていて、山南さんは脱走なんかするわけがないっていう以前からの信念というより僕の信仰みたいなものと絡み合って、『渡月橋の花嫁』っていうフレーズが出来上がった。
このツアーに参加される方には、是非、あの部分を読み返して京都にやって来て欲しい。
そして、山南さんと総司について、熱く語ってほしいのだ。
光縁寺で、山南さんをはじめとした隊士たちの供養はするのだが、真剣に二人の仲を振り返ることこそ、真に二人への本当の供養になるはずであるからだ。

日野の佐藤家に、総司の数少ない手紙があるが、慶応元年三月20付けの彦五郎宛のものに、『山南兄』の死を伝えている。
土方歳三も近藤さんも、多くの手紙を残しているが、まったく山南の死について触れていない。
ずるいというより、触れられない事情があったに違いない。
それを考えてみるのも面白い。
総司のその手紙は、土方歳三が江戸に向かって、直接彦五郎に届けている。
歳三は、自分の手紙には山南さんのことは残さなかったが、彦五郎には口頭で説明したに違いない。

二人の考え方、意見の違いは、以前から、彦五郎は知っていたはずであるが、このような結果は、起こってしまったこととはいえ、日野あたりで慕われていた山南の死であり、彦五郎をはじめ日野の山南(三南)支持者には、落胆は大きかったに違いないのだ。

壬生辺りでも、親切者は山南と松原忠司だと子母沢作品では伝えられているほどなので、何処へ行っても人格に優れていた山南は慕われていたはずなのだ。
その彼が、切腹した。
脱走なんて、武士にあるまじきことは、彼はしないのだ。
僕がそのように決めつけている。
子母澤さんや司馬さん、三谷さんまでが『脱走』としているが、僕は違うと思っている。
参加者の方々とは、この辺りも徹底してお話してみたい。
何だか、今からぞくぞくしてくる。
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
    サイトに関してのお問い合わせ(動作不具合など)は管理人までお願いします。
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