村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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ゴールデンウィーク『新選組ツアー』について

ゴールデンウィーク『新選組ツアー』
5月3日(水)&5日(金)

--日野市内をご案内します--

新しく新設された『佐藤彦五郎新選組資料館』や『新選組のふるさと歴史館』の見学に来られる方々のために、ツアーを企画いたしました。

行程と経費は、以下の通りです(3日、5日共通)。

9:00(9:10発)~①モノレール万願寺駅改札口集合
9:30~②石田寺
10:00~③土方歳三資料館(500円)
11:00~④高幡不動尊(300円)
12:00~⑤昼食
13:00~⑥高幡不動駅前発(バス190円)
13:30~⑦井上源三郎資料館(500円)
14:30~⑧日野宿本陣(300円)
15:00~⑨佐藤彦五郎資料館(500円)
16:00~解散⑩新選組のふるさと歴史館(300円)

基本的に、⑥高幡不動駅から日野駅へのバス移動以外は徒歩になります。
必要になる経費は入館料が2400円程度、バス代190円です。
そのほか、昼食は高幡不動近辺で、各自ご自由に取ってください。
また、このツアーは個人的なものなので、保険などはかけませんので、参加者は充分安全には気をつけてください。
朝の集合は9:10まで待ちますが、遅れた方は、追いかけてきてください。

申込み:人数の目安のために、一応、メールにてご連絡ください。
メールにはどちらに参加するか、住所、氏名、連絡先、参加人数(お子様がいる方はその旨も)を記入してください。
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資料館オープンセレモニーなどの感想

コメントに書いたものですが、こちらでもUPします。


本日、佐藤彦五郎資料館のオープンで、1時間のセレモニーのあと食事があり、2時間以上にわたって歓談の場がありました。

とても有意義な時間をすごすことが出来ました。
だって、今日の出席者の顔ぶれがすごい。

ざっと、思い出してみる。
子孫の佐藤福子さんは勿論だが、小島鹿之助子孫の政孝氏。
近藤勇子孫の宮川豊治、清蔵氏。
土方歳三資料館館長、陽子氏。
井上源三郎資料館、井上雅雄氏。
松本捨助子孫、松本一男氏。
中島登子孫、中島大成氏。
榎本武揚子孫、榎本隆充氏。
以下、新選組研究科の大出俊幸、萩尾濃、伊東成郎、菊池明、清水隆、釣洋一、山村竜也、各氏。
このほか多数関係者で、言い切れない。
これだけのメンバーが、一堂に会して交流を深める機会なぞ、滅多にあるものではない。
佐藤彦五郎が引き合わせしてくれたのだろうと思ったし、また、彼でなければ出来ない芸当だったのかもしれない。

会食は午後3時前に終えたのだが、みな、まだ話したりない。
料亭のマイクロバスが日野駅まで送ってくれたのだが、名残惜しい人たちで、二次会に行った。

二次会といっても、みな、もっと話がしたいのである。
日野駅近くのジョナサンへ行った。
メンバーは、菊池明、山村竜也、清水隆、小島政孝、土方智各氏と僕である。

ここで、6時過ぎまで3時間以上も新選組談義をした。
皆さん話に夢中で、便所にさえ行かない。
ドリンクバーだけしか頼んでいないのに、こんなに長居していいのかと思えるほど、むきになって話した。

新選組にまつわる様々な疑問点を、主に僕が皆さんに質問する形で、話は進んだ。
例えば、
「試衛館の人たちって、初めて人を斬ったのは京都に行ってから?」
「永倉と近藤の確執はいつから?」
「近藤非行5か条って、ほんとうにあった?」
「近藤への反発は、永倉が中心だが、斎藤一も一緒。どうして?」
あと、土方歳三の奉公話から剣術修行など、枚挙に暇ないほどだった。
みな、よく話した。
面白いのは、山村と菊池のやり取りで、この二人、共著が何作かあって、以前からコミュニケーションを交わしているのに、山村が、
「それ、菊池さん前と違うじゃないですか」と、やりあう場面が何回かあったことだ。

僕は思った。
この人たちは、少なくとも、今、この国で、新選組を語らせたら最も知識も深く、造詣の深い人たちである。その彼らでさえ、不明なこと、なぞになっていることがこんなにも多いのかと、改めて実感したことだった。

みんな、なかなか帰ろうと言い出さない。新選組が好きなのと、興味深いのだ。
店も混んできたので、「最後に、皆さんドリンクバーに行って、もう一杯飲んで、帰りましょう」と提案した。
みんな、後ろ髪を引かれる感じなのだが、節度ってものもある。夜も明けている風だったが。

てんで安い、ジョナサンでしたが、店側はかなわない。

佐藤彦五郎資料館オープン

本日、佐藤彦五郎資料館がオープン。
質、量ともに第1級のものが拝めるようになる。
http://satoshinsen.gozaru.jp/
5月3日、僕が日野市内をご案内します。詳細は、数日後に載せます。

待望の、佐藤家の資料が常設で見られるようになった。
今日、4月22日にオープニングのセレモニーが行なわれる。
僕にも招待状が来ているので出席させていただくが、これで、日野の新選組に関する資料館がさらに充実してきた。

佐藤彦五郎は、言うまでもなく、土方歳三の従兄弟(いとこ)であり義兄である。
日野宿で名主をしていながら、大名や高貴な人たちへの休憩所としての本陣の役割もしていた。
だから、当然、その住居、建物は立派なのだが、今、当時のまま日野に残っている。
日野に、来られた方は訪れたことがあるだろうが、とにかく立派なつくりで、3年前までは『日野館』という蕎麦屋だったものを市が買い取って、指定文化財として保存している。
『日野宿本陣』という名で、僕は最近までそこの館長をしていた。

彦五郎については、新選組への第一の支援者として有名で、自らが京都へ赴きたかったものを、まさか名主が行くわけにも行かず、泣く泣く、人選をしたといわれている。

文久3年2月8日に、幕府募集の浪士組が小石川の伝通院を出発したのだが、このとき、試衛館からの参加組と日野からの参加組とに分けた。
だから、2番隊と6番隊に配属されることになった。
2番隊の方は日野からの参加組で、源さんもここに入っている。
総司の兄(義兄?)にあたる沖田林太郎もここだ。
誰を参加させるか、どういう形にするかを整理したのは彦五郎に違いない。
試衛館からの参加者は近藤が人選しただろうが、日野とのトータルでの参加形態は彦五郎だろう。

浪士組が京都に到着したのは2月23日だったが、その後、近藤や土方らは、郷里の彦五郎をはじめ小島鹿之助や八王子の谷合弥七などに、刀をはじめ鎖帷子など必要な道具類を直ちに送ってくれと頼んでいる。
直接金銭までねだったかはわからないが、あっても不思議はない。

僕は、近藤が何故、上洛の決心を固めたのだろうかという疑問を今でも持ち続けている。
これは、近藤の我儘である。
だって、天然理心流の宗家四代目を継いで、まだ間もないのである。

道場をたたんだ。
常識的には、跡目を用意して、例えば師範代の総司を置いていくとかして、流派の存続をまず第一に考えて、自らは激戦の地へはせ参じるべきだろう。
このほか、当時娘のたまはまだ確か2歳だったはずである。
女房子供はどうして生きてゆくんだろう。
それに、義父の周助夫婦は老齢で、こっちの面倒はどうするんだろう。
当時、京都といえば、最も危険なところ。
前年の7月から始まった天誅が、連日の騒ぎで、幕府の捕り方その関係者なぞはまず第一に天誅の対象にされていた。
そこへいって、西国の殺人鬼と向き合うというのである。

今の社会だって、こんな我儘が許されるものではない。
まして、江戸の時代である。
でも、行った。
そして、あの新選組が誕生した。
新選組は、幕末の京都を華やかにも魅力的なものにしてくれ、後世の僕らに大きな夢を与えてくれた。
結果として、近藤に感謝だ。
でも、こんなことが出来たのも、彦五郎をはじめ郷里の友人たちが近藤を支えてくれたからであった。
そう、後に残ったつねさん、たまちゃん、老夫婦、天然理心流の弟子たちの面倒はほとんど彦五郎が引き受けたのだ。
近藤をはじめ、土方や沖田、井上、その他のメンバーたち全員が彦五郎を慕った。
だから、彼らが京地から最も多く、常に早く情報を送ったのは彦五郎のところであり、鹿之助のところであった。

今、京都に行ったって、新選組の資料はろくにない。
当たり前である。
彼らは、せっせとそれらを郷里の多摩へ送ってしまっていたのであり、仕事柄、そういうものは現場に残すはずがない。
佐藤家や小島家に、新選組関連の第1級資料が集まっている理由は、これでお分かりだろう。

また、逆に、そういうものが集まり、支援していた形跡が、慶応4年には裏目に出ることになる。
甲陽鎮撫体が勝沼で敗戦したあと、板垣退助率いる東山道軍は八王子から日野へ入ってきた。
そして、執拗な探索を繰り返した結果、彦五郎親子はばらばらに逃げることになった。
彦五郎本人は今の日出町の羽生家に逗留することが出来たが、息子の源之助は捕らえられてしまった。
その後、近藤や土方が勝海舟を通じて西郷に働きかけ、佐藤家はお構いなしという結果になったと伝えられている。
この話が本当なのかどうかについては、確証はない。
でも、ありそうな話ではある。
そして、官軍は東北の庄内地方を攻め、落とした。

 長州征伐の戦後処理もそうだったが、庄内藩降伏の折には、降将を辱めてはならぬと、西郷は、城を出る藩主酒井忠篤(ただずみ)のために、兵の宿所の戸を閉めさせ、路上の将兵には背を向けるよう指図した。
 黒田を始め、隊長らが、
「藩主が降伏したとて、油断はできもはん。危険すぎます。監視軍を駐屯させもそ」
と、吉之助に進言したが、彼は、
「勝者は後ろをみんもんでごわす。武士が一旦兜を脱いで降伏した以上、それを信じるのが武士でごわす」
と、寛大な処置をとるよう命じている。

 吉之助と庄内藩との付き合いは明治3年8月から始まっている。吉之助の寛大な戦後処置に感謝した藩主酒井忠篤が、謹慎が解けると親書を送り、親交を求めたからであった。
 彼は明治3年11月、朝廷の許可を得ると藩士70名を従え、兵学修行のため鹿児島へやってきた。その後、庄内の若者たちは、西郷を慕い続けた。
 明治10年におきた西南戦争の折、隣りの会津からは政府軍に組したものが多かったが、庄内からは大勢の若者が西郷軍に参加して戦った。
 庄内の人たちと薩摩の人達との交流は、今も続いている。


これまで、佐藤家の資料を見たくて日野を訪問された方々は多い。
でも、いつも陳列されていたわけではないので、はるばる遠方からいらしても、見られない人が多かった。
それを、これからは常に見られることになる。
本日は、セレモニーだが、明日から一般公開される。
他の日野の施設とあわせて見学に、また、皆さんに来て欲しい。

今、西郷さんの心温まる寛大な一端を書いたが、もっと紹介したくなってきた。
西郷さんは戦争好きのように思われている節があるが、とんでもない誤解である。
あの人ほど平和主義者で、人殺しや戦争嫌いな人はいなかったのではと思われるほど、気持ちの優しい人である。
慶応3年12月25日に江戸薩摩屋敷が、焼き討ちにあった。薩摩が仕掛けた誘いに乗って幕府が夜襲してしまったのだが、襲ったのは庄内藩士が中心だったといわれている。
本来なら、庄内の武士は薩摩に皆殺しにされていても不思議はないのだが、西郷は温情で接し、迎えた。
前にも少し西郷さんについては書いたことがあったが、尻切れになっていたように思う。
これから、少しづつ触れていきたい。

五稜郭に、新しいタワーが出来たんですね

今朝、知りました。
情報が遅いのかもしれませんね。
もう、みんな知っていたのかなあ。
今度のは、これまでよりずっと背が高いらしい。
何でも、高さが107メートルで、90メートルのところに展望台ができてるってことだ。
真下に五稜郭が見えるって言う寸法で、あの星のような西洋の城郭に似せたものが間近に眺めることが出来るのだ。
見てみたい。

でも、ロマンティックな話はこれまでで、どうしても、僕のひねくれ魂が出てきてしまう。
前に、『人間土方歳三』を書いたとき、五稜郭についてはほとんど書かなかった。
というより、正直言って、あそこのことがよくわからなかったから、書けなかったのだ。

五稜郭って、何のために造ったのだろうか。
どうやら、徳川幕府が、ロシアからの侵略に備えて、北方警備のために要塞として建造したものらしい。
それにしちゃあ、ちょっと貧弱なんじゃないだろうか。そして、場所も。
壁の高さはわずか6メートル程度で、堀も小さい。
僕は、一人であの堀をボートで一周したことがあるが、たいした時間はかからなかった。
城を攻める軍隊が大砲を進めれば、簡単に城の中に弾が飛び込む。現実に、明治2年5月には官軍の甲鉄艦の砲弾が3キロの射程を飛んで、ことごとく城内に落ち兵隊の命を奪った。
榎本武揚は何故、このような城にこだわったのだろうか。他になかったからという理由か。

大体、何故、あんな中途半端な位置に要塞なぞ造るのか、僕はまったくの素人だが、よくわからない。
あの城は、安政4年から数年かけて建造されたものらしいが、その当時の函館奉行は竹内保徳という人だった。
この人が監督し、武田斐三郎という専門家が設計したらしい。こういう中途半端な施設を作ること自体、何か、当時の徳川官僚のいい加減さを想像してしまう。
お役所仕事なのだろう。形式だけがまかり通る。

僕は、人間として、北海道のアイヌ人の生き方、人生哲学に感銘を受けることが多い。
何しろ自然というものを大事にする。人間を最優先には考えない。
すべての生き物と同等に見る。だから、この世の生き物たちみんなで、獲物は共有するし分け与えるのだ。
人間だけが、独占するようなことは決してしない。
それが、真の共存なのだ。
だから、自然をいじめるようなことは決してしない。
汚さない。
まして、破壊するなぞ、とんでもないのだ。
子供が川で小便でもしようものなら、顔中晴れ上がるほど父親に殴られる。
下で、その水を呑む人がいるかもしれないからだ。
でも、内地の人たちが蝦夷地に入り込んで、どんどん破壊していった。自然ばかりでなく、アイヌの人たちの生活権までも。
幕末から明治期に、日本人は北海道を破壊し始めた。
札幌農学校の第2期生の内村鑑三は、これを真剣に非難した。
僕は、自分の本の冒頭で、土方歳三に反省の言葉を言わせた。
蝦夷の自然と上手く付き合える人のみが、この地で生活できると。


それにしても、今度のタワーには、是非上ってみたい。そして、反対側から、あの美しい腰のくびれを拝ませて欲しいのである。

僕は、高校の修学旅行が北海道で、初めて函館山から半島を見たときに、筆舌に尽くしがたい感激を味わった。
こんな美しい風景ってものがあるんだろうかと、感心してズーと眺めていた。
それから、夜景も見てこのきれいさに勝るものがどこかにあるだろうかと関心を持ち、日本全国を旅するようになった。
六甲山から眺める神戸港も確かにいい。
稲佐山からの長崎もいい。
城山からの鹿児島・桜島も素晴しい。
でも、函館の夜景にはかなわない。

実は、五稜郭に新しい展望台が出来るってことは、今から約4年も前から知ってはいた。
五稜郭タワーの社長をしている中野豊さんと、一緒に土方歳三家に訪れたことがあったからだ。
五稜郭に、歳三の銅像を新しく作りたいので、土方歳三家にご挨拶したい。ついては、案内してくれと依頼があったからだ。
彫刻家の小寺さんという女性も一緒だった。
この人が、自分のアトリエのあるローマで制作したのが、今五稜郭にあるあの歳三の銅像である。

中野社長は、新しいタワーは、函館空港などの電波の関係でなかなか実現できずにいたのだが、規制緩和でようやく背の高いのを作ることが出来る、と、おっしゃっておられた。
ああ、それがようやくできたんだと思った。
あの時、社長は、『逆から見る半島はきっと、素晴しいですよ』といっていた。
僕は、そのとき、一時も早く見てみたいものだと思った。
それがようやく、この4月からオープンなのだ。
早くいってみたい。

ところで、僕はこの4月1日に人事異動で、再び企画部に戻ることになった。
新選組のふるさと歴史館の館長になって、まだ1年弱なのに早すぎる。
でも、僕らの仕事はそんなもの。
今度は、『芸術文化』を担当しろということだ。
まだ、具体的な任務は聞いていないので、なんともいえないが、自分の性分に合っているともいえる。
僕のことを知っている人が、うちの組織の中に結構いるってことかもしれない。

仕事が変わっても、このコーナーに影響を与えるものではない。
今後も同じ考え方で続けるつもりだ。
土方歳三~新選組~幕末という時代と人間像~そして現代について、コメントを申しあげていくつもりだ。
僕自身は変わらないので、今後もよろしくお付き合いを願いたい。
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
    サイトに関してのお問い合わせ(動作不具合など)は管理人までお願いします。
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