村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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トカゲの尻尾きり

以前にも、このブログで書いたことがあるのだが、『年金』のことである。
昨日今日のニュースで、再び書きたくなってしまった。
僕は、今から約20年前に、年金事務の仕事をしていたことがあった。
昭和60年前後である。この頃、丁度、今の年金制度に改正(?)したのである。

あの当時のことを、今でもよく思い出す。
なぜなら、昨今、ここ数年、年金のことがよく取りざたされるようになったからである。
取りざたされるどころか、現在、政治を始め、僕らの市民生活にとって、最重要課題になっていると言っても、過言でない。
なぜ、これ程不祥事が起こることになってしまったのだろうか。

僕は、あの当時、年金の仕事をしていて、今日の事態になることは容易に予測していた。
僕だけではない。
ちょっと、真剣に年金のことを考えたら、こうなることは誰だってわかっていたはずだ。
でも、日本と言う国は、かなり多くの反対者がいても、何故だか数の論理と言う権力で押し切ってしまうのだ。
僕は、今の世の中、権力の構造ってものがよくわからないのだが、政治家が押し切ってしまったのか、厚生省の官僚がやってしまったことなのか、誰の責任なのかってことだ。
こんなこと言うのも、あのときの改革さえしてなければ、それ以前のままなら、今のような事態は起こっていないと、断言できるからなのだ。

今、世間でにぎわしていることと言えば、年金保険料支払いの『免除』のことである。
今の国民年金制度は、厚生年金や共済年金に入っていない限り、誰でも20歳になれば加入の義務がある。
学生さんも、である。
もう、最近、随分と、このことをマスコミでも話題にしているから、皆さんもご存知だろうと思うが、ここへきていろんな問題が起こって報道されているから、国民が知ってきているのであって、普通なら知らないままだ。

でも、この制度そもそも『変』だと、思いません?
何故、働いてもいない、所得もない学生が強制加入なのか。
こんなことすれば、保険料の徴収率が下がるのはあたりまえだ。
だって、学生が払えるわけないもん。
だから、親が払うのである。

丁度ここで、僕の息子が二十歳になった。国民年金の対象になってしまっている。
勿論、本人は払えない。
どうする。
僕がか?
すっごく、腹立たしい。
日本中みんな、同じじゃないのかなあ。

僕が、年金の仕事をしていた昭和60年以前は、学生は強制加入ではなかった。
卒業して就職してからでよかった。
でも、厚生省は、当時、「卒業してからだと、60歳まで40年かけられないから、満額もらえない」という理由と「障害者になったとき、障害年金もらえない」と言う理由から、強制にした。
この理屈もわからないではないが。

もうひとつ、その当時から、日本国民の人口構成の予測が為されていて(当たり前だが)、2025年には4人に一人は老人だ、なんて言われていた。
それが、どんどん早まっているらしい。
女性が出産する平均が、1.29人という予測は当時なかったから、2025年には3人に一人が老人かも。だから、それを見越して、その頃から年金保険料が毎年どんどん値上げされてきて、僕の頃は6220円だったものが、いまでは毎月13860円になってしまっている。
一応この保険料や年金額は、物価にスライドすることになっているはずだが。

この保険料、どの家庭でも大変な負担だと思う。
でも、自営業者をはじめ、皆さん働いて懸命に毎月払ってきている。
きたるべく65歳になって、年金生活を送りたいから。

少子高齢化問題は、様々に、各方面に影響があるが、年金には直撃である。
政治家はもっともっと真剣に取り組む必要がある。
僕は、軍事基地建設でアメリカから2兆だか3兆円だかを要求されている話を聞いて腹が立ったが、この少子高齢化のことについては、それに匹敵するくらいの税金をつぎ込んでもよいのではないかと思うのだがーーー。
人口が減って、若い人がいなくなって働く人が減ってしまうのだ。
日本が滅んでしまう、という問題を含んでいる。
外人に頼むのか。
難民受け入れを嫌がっている、この攘夷の民族が。

でも、ちょっと待って。
ここへきて、年金って「本当にもらえるの」という疑問が出てきてしまった。
これまでは、国が運営しているから、安心だと言われてきたのだが、今じゃ『国だから危ない』とささやかれるようになってしまった。

何せ、集めた140兆円ものお金、これが将来の年金支払いの原資になるのだが、社会保険庁をはじめ、天下りの役人に、いいように『無駄遣い』されていたことがわかったから大変だ。
正確なことはわからないが、以前報道されていた内容では、そのうち40兆円ものお金は運用の失敗などで、すでにきえてしまっているらしい。
誰が責任取るんだ。
この国、こういうことで責任論は出ないのだ。
幕末なら、天誅ものだと思うが。

今、問題になっている『免除』の問題だが、こうなることは容易に予測できた。
なぜなら、“検認率”が大幅に下がってしまうからである。
この言葉、業界用語だが、早く言えば“徴収率”のことである。
学生を強制加入にして、払わない人がたくさん増えて率が下がり、大きく保険料をアップして払えない人が出現して率が下がり、それにバブルがはじけて大変な不況になって、年金保険料どころではなかった時代が約20年も続いて率が下がった。
この検認率、僕がその仕事をしていた1985(昭和60年)年頃、なんと驚くなかれ、95%はどこの自治体でもあった。100%を誇っているところも、全国的にはあったのである。
それが、今では、何と60%台に堕ちてしまっていると言うことだ。
それを、僕は、予測できたと言うのだ。
こういう改革(?)をしたのだから、こうなるのは、その当時からよめていた。
実際に、こうなってみれば、現場の職員たちは、上から、「検認率を上げろ」と、かなりハッパをかけられる。
すれば、苦し紛れに、自然『免除者』を多くしてしまうのである。
免除者は、分母に入れないから、検認率がグッと上がるのである。小学生の能力があれば誰だってわかる理屈だから、全国的に、どこの社会保険事務所もやってしまう。

僕の推測だが、おそらく中央からの指令で架空免除者を作れとは言ってないだろう。
むしろ、『検認率を上げろ』と言う中央からの締め付けで、苦しいから現場の社会保険事務所は、本人の了解を取らずに勝手に『免除手続き』をしてしまったのだろう。
これは、最前線で働くヒラの職員の勝手な判断ではなくて、所長ぐるみである。
だって、社会保険事務所長の決裁の『はんこ』をついて始めて、免除が許される仕組みだからだ。
結果として、中央の社会保険庁や厚生労働省だって『架空免除者』については、知らなかったはずはない。
検認率が上がってきている理由は何かという、話題が出ないはずはないからだ。
でも、今度の一件で、結局処分されるのは、現場の人間だろう。
『勝手にやったこと』で片付けられるのだ。
何時の世も、こんなものか。
年金については、もっと言いたいことがたくさんあるが、この辺で元に戻す。

次は、庄内の西郷さんの話の続きだ。
幕末維新で生命をおとしていった人たちに、申し訳がない。
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――海音寺潮五郎談――6……2

「土方歳三はなかなかの戦上手、驚嘆した」
「天才だ」
「庄内藩にも、温情で接した西郷」
――海音寺潮五郎談――6……2

この間、『――海音寺潮五郎談――6……1』で、西郷自らが出陣して奥羽地方に向かったところまで書いた。
でも、途中、京都に寄ってみたら、とんでもないことが起こりつつあり、急遽鹿児島へとんぼ返りということになったのだ。
藩主の忠義が出陣して、敵方を制圧しようとしていたのだ。
とんでもないことである。
それでなくとも、薩摩が政権を握ろうとしていると世間から誤解されているのに、そんなことされたら、維新の精神が踏み潰されるどころか、戦争で死んでいった者たちに申し訳が立たないのである。
島津久光の政権が、現実のものになってしまう可能性があるからだ。

西郷は、これまでにない、新しい世の中を創らなければならないのだった。
それは、薩摩でも徳川でも毛利でも山内でもない、身分制のない近代的国家である。ただそれは、一部の良識のある学者や政治家、革命家、さらには民間人の中でも限られた人たちだけがわかっていることであり、多くはまだ幕藩体制が続くと思っていた。
西郷自身でさえ、(これは僕の推測だが)これには抵抗があったのではないかと思う。でも、自分のことはどうでもよいのである。とうに、捨てている。

だから、今度は、多くの人々は薩摩幕府なのである。
大方ががそう思っていたし、西郷が先頭に立って戦争を行なったのは、それが目的、つまり薩摩政権の樹立だと思われていた。
最も西郷を悩ましたのは、鹿児島地方の士族連中の多くが、お膝元がまだそう思っていたことであった。
『今度は、自分たちの番だ』と。

西郷が真に苦労したのは、敵方をやっつけることではなく、味方の者たちを、殿様から自分の手下までほとんど全部を、欺かなければならなかったことである。
「このたびのご維新は、薩摩や長州のためのものではごわはんど」を、言い含める作業が残っていた。
勿論、戦争の最中にはそんなこと、口が裂けてもいえない。腹の中に収めておかなければならなかった。尤も、この部分については、大久保もまったく同じ立場で、二人が眼と眼で解り合っていたことなのであった。

明治になって、これを、この思いを改めさせなければならなかった西郷の苦悩は、並大抵のものではなかったろう。
だが、日本の歴史上、戦争を行なって勝ったほうは、必ず次の政権の担当者になってきたし、それが世の常識だった。
古今東西、そうである。
それが、今回だけは、明治維新だけは違っているのであった。潰した大将の西郷は身を引いて鹿児島へ引きこもり、各藩から代表者が出て仲良く連立政権を作ろうというのである。さすがに、徳川だけは除いたが。
それは、龍馬が新政府の構想を練ったとき、自分の名を政権の中枢からはずして西郷にいぶかしがられたのとよく似ている。西郷は坂本に言った。
「これには、坂本さんの名がありもはんがーーー」
「わしゃあ、世界の海援隊を作ってーーー」
と言う、あの有名なやり取りである。

明治維新は、表面づらだけを見ていたのでは、本当のところを見失ってしまう。
海音寺先生は、それを指摘したかったのではないかと思う。勝海舟も誤解されてきている。徳川方からすれば『裏切り者』扱いである。
一面、そう見られても不思議はない。
本人も、覚悟の上だったろう。でも、信念を貫き通した。それは、きたるべく日本の未来のために、徳川に拘っている場合ではないということである。これは、榎本武揚も同じである。箱館では、徳川として戦ったが、その後は日本のために役立った。松本良順も同じである。

今、たまたま、『愛国心』が国会でも取りざたされている。
教育や法律で押し付けがましいのは、どうだろう。
最近、当家の前の有名なすし屋の駐車場に、右翼の街宣車が十数台まとまって止まっていた。何台かに『愛国』の文字がでかでかと焼き付けられている。
戦時中の『富国強兵』『挙国一致』など、思い出す。
『増税』『我慢』『欲しがりません、勝つまでは』の時代が来るのか。
そういえば、宮原久雄さんがおっしゃっていた。
「昭和19年に国からの徴発があって、刀を出してしまった」と。「それが、沖田総司のものではなかったか」と。

榎本や勝、松本は日本と言う国のために働いた。明治政府に抱えられたが、彼らは、裏切り者ではない。
でも、これまで伝えられてきている歴史は、必ずしもそうはなっていない。本人たちの本当の苦心、苦悩を伝えていないのだ。
表面づらのことばかりを語っているからである。
それを、海音寺さんは言いたかった。でも、途中でお亡くなりになってしまった。
僕に、少しでもお役に立つのなら、お手伝いをしたいのである。
だから、書く。

話を、『庄内攻め』に戻す。
上のような事情で、一旦西郷は藩主忠義を連れて鹿児島へ帰った。6月14日である。
西郷嫌いの久光を諭して再び、出帆できたのは8月6日だった。随分と時間を要している。この間、散々久光からの嫌がらせがあったのだが、粘り強く頑張ってようやくの出征なのであった。
西郷は、鳥羽伏見の戦のあと東征に向かってあの有名な無血開城にこぎつけたのだが、そのときの役職が『征討大総督主席参謀』で最高位の役職と言っていい。だが、今回は単に、三小隊の一将だった。久光の西郷に対する悪感情が伝わってくる。

西郷が、部下の兵を伴って新潟港に上陸したのは8月11日だった。
このときの有名な話として、
『あの、西郷さんの頭が、丸坊主だった』ということだ。
何故だ、と言うことが取りざたされてきた。
いろいろ、考察されている中で、やはりここは海音寺先生の論を披露したい。

  「何故の剃髪であるか、今日でも疑問にされています。徳富蘇峰翁は、当時越後地方に出ていた薩摩人と長州人との間にややもすれば感情の行き違いがあり、意思の疎通を欠く心配があったので、そのためではないかと考察していますが、これは薩摩藩内部のことを知らないための結論で、それをよく知り、久光の当時の心事を勘定に入れ、さらにこの出陣にこぎつけるまでの西郷の惨憺たる苦労を考えるなら、見解は違ってくるはずです。自分に対する久光の不服と疑惑とを解き、その心をなだめるためであったろうと、私は考えています。
   私は西郷の剃髪は、鹿児島出帆以前であったろうとまで考えています。彼は久光にその姿を見せ、自分が出陣するのはすべて日本国家のためを思えばこそのことで、自分一己の野心は露ほどもないことを形の上で示したのではないかと思っているのです。」

この先、当時の越後・東北地方の状況を述べるのですが、やはり先生の文章で紹介する。

  「西郷が越後に到着した時、最も官軍をてこずらした長岡城は陥り、官軍を恐れさせた河合継之助は戦死し、越後地方はほとんど平定していました。当時、官軍の本営は新発田にありました。官軍の参謀黒田了介、吉井幸輔、山形狂介らは、数ヶ月前には官軍の最高位の将軍であった西郷が今度は薩摩軍の一将として出陣してきたことに驚きつつも、代わる代わる訪ねてきて尊敬の意を表して、本営に来ていただきたいとたのみました。が、西郷はいろいろ理由をこしらえて出てきませんでした。
   この事実を、普通には、西郷の誠実で謙退の精神によると解釈しています。西郷の性格についてはずっと説いてまいりましたように、誠実で謙譲で無私無欲の人柄ですから、この通説も全然見当違いではありますまいが、私は主たる原因はやはり久光にあったと見ています。
   おそらく久光は、西郷が誠心誠意をつくして弁解し、髪をそりまでしてその心を表明したに関わらず、まだ疑惑を捨てず、その出陣に当たって、“与えられた地位を守り、決して越権の行為があってはならんぞ。違反したら容赦はせんぞ。心に硬く刻んでおけ”と言うようなことをいって釘をさしたので、越後についても薩摩軍の一武将たる分を守って、どう進められても官軍本営に顔を出さなかったのであると推理します。
   このことについては、書いたものなどは全然残っていませんが、以上のように考えるのが、最もすらりと胸に落ちるように、私には思われるのです」

この先、西郷がこうまでして何故出陣したのか紹介したいが、紙面の都合上、次回の予告編を書いて終わる。
後年、山県有朋が彼の著書「越の山風」の中で、そのときのことを書いている。
つづく

沖田総司対談

人間は、極度の緊張だとか、これまでに体験したことのない状況におかれると、時として意外な情念とか発想とかが生まれるものだ。

5月21日(日)午後から、日野の中央図書館と市ヶ谷試衛館を結んで、沖田総司対談が行なわれた。
面白かった。
こちらは僕が最初に30分お話し、向こうはあさくらゆうさんが30分お話してくれた。
その後は、ながーい対談だった。
もちろん、出席者からの質問もあった。
ただ、昨日は箱館で五稜郭祭りがあり、そちらに参加されている会員が多くて、こちらの参加が少なかったのが残念だった。
日野宿本陣文書検討会のメンバーたちも、結構山本さんファンがいるんだなあと思った。
それとも、関係なくお祭りに行ったのかなあ。
まあ、それはいいとして、昨日は、自分で話ししていて、今まで発想したこともないことを本番で言ってしまった。

それは、総司のお母さんの出と考えられる宮原家のことを、お話していたときのことだ。宮原家は、井上本家・分家のある日野北原の北側に位置するのだが、昔は四ツ谷と呼ばれていたところだ。今でも四ツ谷子供広場をはじめ、その名残はたくさん残っているが、以前は『四ツ家』とも書いたそうだ。
四つの家だから、四家である。それは、長く伝えられてきているのは、加藤・天野・小島・宮原で、確かに今でもあの辺はこの四家の名が多いし、(特に加藤と天野が多いが)それは武田の落人だといわれている。
僕も、勿論そのように考えてきたのだが、昨年の秋、宮原家のご当主久雄さんとお話していたとき、久雄さんのおばあさまが「うちは、もともと立川で、柴崎にいた」とおっしゃっていたということだ。
「玉川は通称“あばれ川“と呼ばれていて、川の流れが何回かここ数百年で変わった。(そういえば、歳三の家も弘化三年に大水で流されたということだ)もともと柴崎にいたうちは、いつの間にか日野に編入されていた」ということを久雄さんはおばあさまから聞いていたそうだ。

僕は、自分の本を書くとき、とにかく史実に沿って書くことを至上の鉄則に思っていたから、ゼンリンの地図を張り合わせて、あのあたりの地形を随分長い時間眺めていたのを思い出した。
そして、その地図を改めて、見てみた。
甲州街道を挟んで日野宿、その北側に北原、四ツ谷、井上本家と分家、そして宮原家と見ているうちに、多摩川が宮原家のすぐ北側にあることに気がついた。
確かに、おばあさまがおっしゃるように、川の流れが変われば、日野になってしまうことが地図を見ているとわかるのだ。
実は、昨日、あの中継をしている時、その地図を持ち出して皆さんに説明していたのだが、(四家のことと、大野姓が井上分家の周りに多いことを知ってもらうためだ)、説明しながら気がついたことがある。
 
ついでながら、沖田総司の墓石のことを言う。
麻布の専称寺に墓があるが、墓石に総司の戒名が彫られていて、その両側に違う戒名が彫ってある。横書きで見づらいが、こうだ。

  宝握全入信士(ほうあくぜんにゅうしんじ)        文政九年十月十一日
 賢光院仁譽明道居士(けんこういんじんよみょうどうこじ)  慶応四辰年五月晦日
  宝閣燿雲信士(ほうかくよううんしんじ)         嘉永七寅年九月五日

まん中が総司の戒名であるのは、当たり前だが、左右の戒名の人は、俗名大野源次郎と言う人だ。この人がどういう人だかは、誰もまだわかっていない。
ただ、北原あたりの地図をじっと見ていると、やたら、大野姓が多いし、特に、林太郎の出た井上分家の周りは大野姓で囲まれている。
ここに、今、おミツさんの戸籍が残されている。
この件については、別の機会にお話しするとして、話を元に戻す。

もし、玉川に洪水がなければ、宮原家は今も、立川市柴崎町だったかもしれない。おばあさまも柴崎だったと言っていたそうだ。
ここで、ひとつの疑問を思い出した。

総司のお母さんが宮原家の人だとして、(僕は宮原久五郎――天保5年10月9日生――のお姉さんに当たる人だと思っているが)、宮原家と沖田家とのつながりはどうしてあったのか、出来たのかということが、ここ数年の疑問だった。
だって、沖田家は白川の阿部家から扶持をもらっていた二十二俵二人扶持の下級の武士だったし、江戸屋敷は麻布にあった。
もう一方の宮原家は、日野である。
どこに、接点があったのだろうか。
だが、柴崎だとすると、疑問が解けてくる。今ここにある謄本によると、明治期の沖田さんの住所は柴崎なのである。(おミツさんの孫に当たる要氏は柴崎町にいた)もともと沖田サンは柴崎にいて、後に武士の株を買ったとすれば、なんとなく灯りが見えてくる。沖田家と宮原家は、同じ部落だったということになる。
だが、本当にそうなのかーーー。

人の発想とは、不思議なもので、これまで何十時間もかけて考えてきて、どうにも見えてこなかったことが、イントラネットの本番中にふと見えたりする。
人間は、極度の緊張だとかこれまでに体験したことのない状況におかれると、時として意外な情念とか発想とかが生まれるものだ。
僕は、JAZZを演奏していて、本番中、時に、これまで練習でも出てきたことのないフレーズがうまれることがあった(と、言っても、レベルは低いが)。
それと、よく似ている。
JAZZやROCKのプレイヤーが、昔はよく麻薬を使った。それは、自分の実力以上の神がかった演奏が期待できるからだ。今は、ほとんどない。一部のカブいている連中だけだろう。

それと、こんなことも問いかけてしまった。
昨日の本番が終わってから、検討会の人たちにまずい質問かなあ、と思いながらも、
「総司が京都にいた頃、はっきり誰々を斬ったという言い伝えでも、証拠書類でも何か、ありましたか」って。
でも、それをいうと、土方だって近藤さんだって、はっきり誰々を斬ったというのは、ほとんどない。
記憶では、宇都宮で、見せしめのために、後ろを見せた兵を土方が背後から斬ったという言い伝えはあるが、京都時代はない。
近藤だって、池田屋に急襲したってことだから、何人かは斬っているのだろう。沖田もそのとき一緒だったから、斬っているのだろう。だが、果たして本当に斬ったのか。本人は、ふるさとへの手紙には斬ったと書いてはいるがーーー。
そのほか、新選組は油小路事件や天満屋、高札引抜事件など、集団でチャンバラをしたとはっきりしている伝えはあるが、個人的に宮本武蔵の果し合いみたいな話は聞いたことがないのだ。
沖田総司について、はっきり、誰かと果し合いをしたって話し、誰か聞いたことある?いや、総司ばかりでない、土方だって、斬った話なぞ、聞いたことがない。
でも、剣豪、剣士で伝わっている。
すると、映画や物語が先行して伝わってきた新選組って、本当はもっときちんとした礼儀正しい集団だったのでは、と思えてきた。
一応、これまでは、めったやたらに斬りまくってきたような人たちのように伝わってはいるがーーー。

あの司馬遼太郎や海音寺先生らも、「元治元年に入ると、京都に潜入したところを新選組や見廻組に見つかれば、即座に斬られた」という表現を、多少の違いはあるが、されている。
本当なのーーー。
つづく

5月21日、イントラネットで沖田総司のお話をしますよ

5月21日、イントラネットで、沖田総司のお話をしますよ。
―――日野市中央図書館と市ヶ谷試衛館付近で―――

今度の日曜日に、日野宿本陣文書検討会からの依頼で、沖田総司についてお話しすることになっている。
この企画は面白いもので、僕が日野市の中央図書館にいて、あさくらゆうさんが市ヶ谷の試衛館近くにいて、お互いにパソコンのディスプレイを見ながら対談するというものらしい。
これをイントラネットというのだそうだ。
そのネットワークに参加しておけば、誰でもが自分の端末からその画面を見れるのだが、まだ試験的なものらしく、今回は、その現場にいないと見られないということだ。確かに、これが実用化されれば、会社などでの社長の訓示などは、全国でリアルタイムで聞けることになる。
でも、既に普及しているのかなあ。
このあたりの知識は、僕は、トンとダメだ。

ともかく、この21日の日曜日にはそれをやるので、改めて、沖田総司について調べ始めた。だから、西郷さんは一時中断だ。
取りあえず、自分の書いた作品、『人間土方歳三』でどう書いたのかを復習した。
書いたものと違うことを言っちゃあ、無責任てことになるからだ。
だが、無責任なことを言うようだが、あの本は小説として書いた。
だから、沖田君のことについては、断定的な言い方をしているのだが、実は、確証があって書いたものではない。
『かなり信憑性のある推測』によって書いた。
例えば、井上泰助が、総司の姉さんのおミツさんあてに出したと思われる手紙の下書きだが、(現存していて井上資料館に展示されているが)僕の記述の基本は、内容的にはあれがすべて原資料になっている。
あれには、井上本家・分家と沖田家、そして宮原家のつながりや経緯のことが書かれてあるが、出している相手がおミツさんだけに、嘘や記憶違いはありえないと確信しているからである。
あの頃の手紙とか記述には、違っていることがかなり多いので気をつけなければいけないのだが、井上本家の泰助が沖田家の長女のミツさんに出鱈目を言って、何の意味があろうか。
その上で、あの本を書いたから、結構確信があるのだが、今回復習した。すると、改めて、沖田家に起こったことは不思議なことが多くて、謎だらけだ。
一例を挙げれば、ミツさんの素性だ。近藤周助の長女という記述もある。
これまで知らなかった人は、「ええっ、?」となるでしょうね。
日野に残されている戸籍には、そうなっている。
そしてまた、沖田林太郎は総司の実の兄という記述もある。そして、以前から言われていることだが、総司の父は誰なのか。沖田勝次郎で間違いはないだろうが、井上林太郎元常の説もある。
沖田家の菩提寺、麻布の専称寺の過去帳には、総司は林太郎二男となっているからだ。とにかく、わからないことが多い。

そんな中、子母澤寛先生の新選組3部作を最近、読み返してみた。
以前読んではいたのだが、改めて、子母澤寛さんにこんな記述があったのかと、しばし、考えさせられる場面が出てきた。

3部作とは、『新選組始末記』『新選組異聞』『新選組物語』だが、今僕の手元にあるのは『物語』で、中公文庫版である。
沖田総司の例の、千駄ヶ谷の植木屋の離れで闘病生活を送っていた、慶応4年2月の頃の話だ。
黒い猫のことを、もう一回調べたかった。
すると、まったく違う“ある”ことに気がついた。それは、225ページの後半のことで、近藤勇が沖田のいる植木屋に見舞った後、実に文久3年以来何年ぶりかで廿騎町に戻り、妻のつねさんと一緒に床に入った時の記述だ。

 「お常、俺は今夜こそ、本当に安心してぐっすりと眠れるのだ。上洛この方、俺は一夜といえども本当に心を許し、身を休めて眠ることは出来なかったのだ。俺は、俺を守ってくれている人々にさえ安心することは出来なかった。血を分けた弟よりも親しい土方にさえ油断はならなかった。まったく、自分の刃が、何時自分に向かってくるか知れぬ危険の中に身を晒してきたのだ。今夜こそしみじみと、自分の家の嬉しさを知った。―――お常、俺は、やはりお前の夫として、貧乏道場の先生で江戸で粥を食って暮らしていた方が、仕合せであったような気がするんだ。天下、名を為して何になるものぞ、近藤は平凡な一個の夫、一個の父にすぎんのではないか」
  まだ雨の音がしている。
  それに交じって、お常の忍び泣く声がしている。お常の涙は、七年の間思いに余ったうれし泣きの声であった。

 子母澤寛先生は、物語として書いているのだからどうかいても自由だが、上のアンダーラインを引いたところだが、先生は小説とはいえ、あのように書いているということは、そう考えていらしたのでは、という推測である。
 先生は、この頃の近藤は既に死を覚悟しているという前提であるようだが、(この思いは僕も一緒なのだが)まさか土方に対してこのように近藤は京都時代もずっと思っていたのだろうかと、改めて考えさせられた。
 先生は、新選組関係の生き残りの方々と直接お会いになって取材し、生の声を随分と聞いた上で、お書きになっておられるし、だからずっと新選組のバイブルとして親しまれてきているのだが、今、気がついてみると、意外な記述もあったのだ。

 僕は、自分がものを書いてしまってからというものは、どういうわけか読む側より書く側で様々な文章を読んでしまう性癖がついてしまった。
だから、問題の記述でも、スピードを上げて読んでいればそう気にはならなかったのかもしれないが、書く側の子母澤寛さんの気持ちで読むからひっかかるのだ。
 よく、思い切ってこんな度胸のいることが書けたなあ、というのが実感なのだ。先生は、この二人の関係をどうみていらしたのか、以前より関心が深くなってしまった。

 ただ、それだけのことなのだが、でも、結構大切なことなので、今皆様に紹介させていただいた。

――海音寺潮五郎談――6……1

「土方歳三はなかなかの戦上手、驚嘆した」
「天才だ」
「庄内藩にも、温情で接した西郷」
――海音寺潮五郎談――6……1


越後の長岡藩が落城したのが明治元年の9月に入ってから、奥羽地方の会津が落城した。
のもおなじ9月24日、庄内が墜ちたのは2日後の26日だった。

庄内の酒井家は徳川譜代でも名門の家格で、幕府が開かれるずっと以前から家老役を務めた家柄だった。
その酒井家が江戸の警察任務に就くようになったのは、文久3年からだ。例の清川八郎の術策があって、京都から舞い戻ってきた浪士連中を浪士隊新徴組として預かってからである。
主に、三田界隈の警備を命じられた。
こんなことになったのも、幕府の権威が失墜して江戸の治安が乱れ、奉行所の行なう従来の警察力では始末に終えなくなったからだ。
特に、慶応3年の冬になると、江戸市中の治安は乱れに乱れ強盗殺人、焼き討ちなどが頻繁に起こるようになっていたのだが、こうした時、三田の薩摩屋敷に多数の浪人が集まって、いわゆる“御用盗さわぎ”が始まった。

西郷が、ここに浪人たちを集めさせたのは、事実である。間違いない。
でも、それは、それなりの考えがあってのことだ。
西で倒幕の挙を上げる際に、江戸界隈でも騒ぎを起こして幕府の武力を分散させる計画だったのだ。だが、実際には、江戸にいた無頼の徒が名を詐称して騒ぎを起こしてしまった。
西郷は、「まだ時機が熟していないから、しばらく自重しなさい」と指令したのに、はやりにはやって関東各地で騒ぎを起こしたばかりか、乱暴狼藉の度を一層上げて、庄内藩の屯所に鉄砲を打込んだり、江戸城二の丸に放火して焼き払いまでしてしまった。
この仕返しとして、幕府は薩摩屋敷を焼き討ちした。

この計画は、幕府が立てたのだが、戦術は幕府お抱えの砲術士官フランス人ブリューネ大尉であり、実行部隊は譜代の9藩で、主力は庄内だった。ブリューネは土方や榎本たちと一緒に、蝦夷地に遠征している。この焼き討ちが鳥羽・伏見の戦の動機になったことは有名だ。
この後、戊辰戦争は官軍側が勝ち進んでいよいよ奥羽攻めになったのだが、長州と土佐は会津を特に憎んだ。それは当たり前で、京都時代、京都守護職を初め新選組、見廻組にはいじめられ、特に文久3年8月18日のクーデター以後は、京都内に侵入すれば直ちに斬られたり捕縛されて拷問にあったりしたのだから、その怨念にはすざましいものがあった。その上、池田屋騒動では有能な若者たちが新選組に斬られた。この恨みは忘れようにも忘れられない。
その仕返しである。
一方、庄内と薩摩も因縁があった。例の薩摩屋敷の焼討ちである。だから、庄内藩は薩摩藩の憎悪の的となっていると思い込み、勇敢執拗に抗戦した。
庄内が官軍に墜ちた9月26日以降、庄内藩の酒井家は一同惨殺されるのは覚悟したし、お城も領地も没収されることを覚悟した。

西郷は、奥羽地方の諸藩が連合して官軍に反抗しているというので、自ら藩兵を繰り出して戦地に赴いた。
この時の逸話を一つ入れたい。
西郷はこのとき、6月5日に京都に着いている。すると、薩摩藩主忠義が自ら兵を率いて関東へ出兵する寸前だったのである。
何故。
これは推測だが、久光(忠義の父)が『薩摩幕府』を夢見て息子の忠義に手柄を立てさそうとしたに違いないのだ。だから、藩主自ら戦地に赴かせようとした。
西郷は、これを必死に止めた。
そして自ら供をして、島津家の当主忠義を薩摩に帰らせた。
なぜか。
この頃になると、『世間の目』というものが気になり始めているのである。
徳川政権を、取りあえず薩長主力の軍隊で崩した。薩摩は長州の何倍もの兵を繰り出して戦い、次の政権は島津で仕方ないと誰もが思い始めていた。
徳川政府が260年も続いた後だけに、その後の政体が近代的な身分制度のない国家になるなぞとは、誰もが思わない。この国は、鎌倉幕府が成立してから、670年以上ずっと武家による政治が続いてきている。幕府政治以外は考えられないのである。だから、次は薩摩が取って代わるのだろうと、誰だってそう思うし、そこいらじゅうで囁かれていたのである。

久光は、「当然自分が将軍になる」ぐらいの目論みはあったに違いない。だから、西郷や大久保の行なう革命に協力もしてきたのである。そもそも彼は、公武合体論者で幕府を倒すなぞという発想はなかったのである。それが、今日まで西郷の言いなりになってきたのは、きたるべく将軍の道が開けることを楽しみにしていたと思うべきである。
だから、息子の忠義を戦地に送ろうと発想した。
始末悪いことに、これは何も久光だけの思惑ではなくて、多くの薩摩武士が、また同じように思い始めていたということだ。そして、また、長州でも同じく毛利の殿様が次の将軍になるのではと思い始めていた。そんなことでは、何のために革命を起こしたかわからない。

西郷や大久保の革命の目的は、侵略してきている欧米の列強に負けない軍事力を持ち合わせた近代的国家の創設であり、版籍を奉還し、藩を廃して新たな県を置くということで一致している。この限りにおいては、薩摩幕府どころか、島津家の領地まで取り上げてしまうということになるのであった。
とても、久光の思惑とは合致するものではなく、内緒で政策を進めなければならなかった。
それが、たとえ西郷個人の主義にあおうがあうまいが、なさねばならないことなのであった。だから、西郷は、理想的な国家を作り上げたら、自分は腹を切って毒殺された先君斉彬様のお側へ行くと考えていたのかもしれない。

ところが、話は飛んでしまうが、西郷が考えていた理想国家とはまったく違うものが出来つつあった。
政府の高官たちは、豪華な邸宅に住み、夜毎酒池肉林にふけり、贅沢三昧に国民から吸い上げた金銭を浪費していた。そればかりでなく、政治は腐敗し、特に長州出身の高官たちは一部の商人と結託して贈収賄を繰り返していた。
こうした事態を西郷が見逃すわけがない。こんなことでは、維新で死んでいった若者たちに、何と申し開きが出来ようか。こんな国を作り上げるために回天を行なったのではない。こんなことなら、徳川のままでよかったということになるのだ。
明治期に入ってからの西郷の戦いは、新政府との戦いであった。維新は西郷を先頭に進められたといってよいが、その西郷自身が納得していない。新たな戦いが始まってしまったのである。
その相手が長州ならまだすっきりもするが、何と、二人三脚で歩んできたあの大久保一蔵と、公家の重鎮岩倉具視を筆頭とする連中なのである。その中にはのちに警視庁を創設した川路利良や弟の従道らもいた。皆、西郷吉之助が育ててきた連中である。その彼らに反目されてしまった吉之助はいかなる気持ちだったのか。
これが、西南戦争に発展する。
西南戦争とは、だから、『明治維新のやり直し』なのである。
不平不満の旧氏族の反乱なぞでは、決してない。少なくとも、西郷や彼を取り巻く人たちの中には、そんな人たちはいなかった。便乗した連中はいたとしても。
熊本の戦では、当初西郷軍が優勢だったが、警視庁は抜刀隊を急遽組織して熊本に送り込み、これが成功して政府軍は勝利した。この抜刀隊の中に、あの斎藤一がいた。
なぜ、斎藤一が警視庁に参加したのかは、謎である。

島津久光は、なにがなんでもわが子忠義が「海陸軍務総督」に任命されることを望んでいた。それには、自ら藩軍を率いて戦場に出て行って大勲功を立ててくれることが必要な条件だったからだ。だが、西郷は、総督の話が出たときは強引にも辞退させている。戦場におもむくこともさせなかった。
久光の不満と怒りは、頂点に達していたというべきだ。
西郷は、薩摩には、なんら野心はないということを、示さねばならなかった。それでなければ、革命の意味がないからである。新しい世の中はやってこないのである。
                                 つづく

――海音寺潮五郎談――5

「土方歳三はなかなかの戦上手、驚嘆した」
「天才だ」
「榎本たちが助かった本当の理由は」
――海音寺潮五郎談――5

前回は、明治2年5月、西郷が鹿児島を立って急ぎ箱館に向かったことを書いた。
この月は、11日に土方が戦死し、18日に榎本以下箱館政府が降伏したのだが、なぜ西郷が、戦局が終焉する箱館に自ら行かなければならなかったのか、大概のことはお分かりいただけたと思う。
一言で言えば、『敵将等を寛大に処するかどうか、見届けること』。
これだけだった。
心配で、いても立ってもいられず南の果てから蝦夷地へ飛んでいったということであった。
箱館に侵攻した官軍の中には、薩摩ばかりでなく、長州をはじめ土佐その他多くの藩の兵が混ざっていたのであり、参謀の黒田了介がいくら寛大温情の処置をしたくても出来ない雰囲気もあるかもしれない。
そのときは、西郷自らが発言しようと意気込んで鹿児島を出発したに違いないのだ。西郷は、自分の出発が遅れて、処刑した後であったら大変だと、とにかく急いでいったのだ。
そしたら、腹心の黒田が、実に見事に事を運んでくれて、敵軍の兵たちを寛容に遇してくれていたので安心し、自分の役目はないと判断して直ちに鹿児島へ戻った経過だった。

そういう西郷の心境について、前回の最後に、海音寺さんの言葉で『証拠があります』と書いて終わった。
今日は、その続きを書く。


  証拠があります。明治5年正月12日の日付で、西郷が国許の親友で、藩政時代に家老の一人であった桂四郎に出した手紙があります。
  西郷は、この前年の春、東京に出て参議に就任して、廃藩置県の大事を成し遂げ、11月半ばに、岩倉、大久保、木戸、伊藤らが欧米視察のために日本を去った後は、事実上の首相として国政を執っていたのです。
 必要な部分だけ口語訳して、左に掲げます。

  「さて、榎本などの処置については、ご承知の通り面倒で、薩摩の主張が寛大を主にし、長州の主張が厳格を主にする相違がありまして、なかなか決定せず、西洋への使節たちの出帆前も大論争が起こりまして、決定に至らず、困っていました。
  アメリカなどでは、南北戦争が済みますと、万事すぐに処置を決定した美談もありますこととて、使節らがアメリカにおいてこのことについて非難されましょうものなら、何とご返答なさるおつもりかと心配していたことでした。事実、アメリカの軍艦総督から、榎本らのことについて日本政府へ嘆願したいと申し出たのを、黒田了介が制止していたほどです。
  黒田の初心はずっと変わらず、時を見ては助命の議を持ち出していたのです。近来になって、長州人らも納得するところがあり、大体寛大の論になったのですが、木戸一人がなかなか強硬で運びかねていましたところ、長州の人々がひたすらに木戸に談じ込みまして、ついにいやいやながら木戸も承知しまして、やっと決定の運びになりまして(政府の決定は遣欧米使節の出立直前で、発表は翌年正月6日だったのです)、この4日(6日の誤り)に全員特赦を持って自由の身となりました。
  もっとも榎本一人だけはしばらくの間実兄の家にあずけられて謹慎ということになりました。これだけの差別を立てるだけで済んだことは、天下の大慶と存じます。小生は当時のこととしては榎本らのことだけを気がかりに思っていたのですが、もうこれで全部心残りはありません。(見るべし、西郷はずっと心にかけていたのです)ご安堵(あんど)ください。

  こんなに処置が決定しなかったのは、旧幕臣らが朝廷の処罰の寛大さを甘く見てまた事を起こすかもしれないと、人々が疑惑したところからのことです。しかし、こんなことを1日延ばしにいつまで決定しないでいては、かえって人心動揺のもととなります。猶予狐疑(こぎ)の毒害の大はどれほどのものになるかわからないものです。
  いろいろと困難であったことは筆紙に尽くしがたいほどで、黒田の勇力がなかったなら、とても榎本らは助命されなかったでしょう。全朝廷が殺すといっているとき、ただ一人奮然として、助命の正論を立て貫いたことは、千載の美談でありましょう。
  土佐も近頃では、寛論になっていましたので、まことにやり易いことでした。これまで正論を立て通したのは、黒田の誠心によることです。
  まことに頼もしい人物です。
  一時の奮発は普通の者にも出来ますが、こうまで長期にわたって粘ることは常人には出来ません。
  榎本らは赦に逢いますとすぐ黒田の許にお礼にまいりました由。元来、彼らは黒田に負けて降伏したので、普通なら憎むわけでありますが、かえって謝礼に参ったとは、戦いに打ち勝ったより重みのあることで、まことに味わいいうべからざるものがあると、脇に聞くさえうれしく思います。」

  西郷の喜びの情が紙上に躍るようでしょう。
  また、西郷が箱館で黒田の処置をほめ、必ずこの人々を助命することを骨折るようにと進め、その後も折にふれは励まし、出京してからは一層バックアップしていたことがわかりますね。この手紙は味読していただきたい手紙です。原文をお読みになりたい方は、平凡社の『大西郷全集第二巻』573ページに出ています。


以上は、学研文庫『敬天愛人 西郷隆盛』第四巻 海音寺潮五郎著から抜粋したものだ。
西郷さんが何を思い、行動したのかを改めて検証したかったので、ここに書いた。とても気持ちの優しい、温かい人柄が伝わってくる部分だと思われるので、長いけど紹介させていただいた。

しかし、明治10年には、西南戦争を引き起こしたとして逆賊にされてしまった。もともと、あの戦争も、明治政府が西郷暗殺の使者を鹿児島へおくり、政府から仕掛けたものであったのだが、薩摩の青年たちがうまくはめられて立ち上がってしまったのである。
西郷さんは、青年たちに将領に祭り上げられてしまった。それに、西郷自身も政府に申し上げたき一件があったので、自ら兵を連れて上京しようとしたのである。

これ以前に、実は征韓論の論争というものがあった。
それについても、是非ふれたいし、西郷さんが庄内藩に対してとった恩赦厚遇も紹介したい。 
つづく

新選組まつりは終わったが―――

ここのところ、ズーと、土方歳三の戦死からその後のことについて書いてきている。海音寺潮五郎氏の西郷さんをも、皆さんに紹介もしたいので、氏の文章から引用もさせていただいている。
でも、ちょっと、ここで一休み。

先程、僕のBBSコーナーへ書き込みがあって、なるほどと思った。
このまつりで、日野に来たのでしょう。
そして、ご不満を漏らされた。
というより、僕が前から言いたかったことをその人が指摘してくれたので、ありがたいと思った次第だ。
『入館料』のことです。
今、日野市内には、新選組関連の資料館なぞがいくつかあって、1日かけてすべてを廻ると2000円以上になってしまう。
これが、高いかそれとも適当なのかは難しいが、これまでの声を総合すると、結構な負担になっているってことだ。
自分ひとりの旅行なら我慢もできるだろうが、僕が歴史館にいたこの間までの経験では、家族連れの人たちが随分と多いのだ。
家族4人で、日野新選組巡りをしたら、入館料だけで8000円は突破してしまう。4人だから当たり前といえばそれまでだが、なんだか可哀想。
何とかならないものか。
例えば、共通券を作るとか。
全部廻って7000円とか7500円とか。
否、これを話題にしたことは、実は、あった。
でも、関係者から応じられない旨、返事があった。

このほか、日野に来られた方は感じられることだろうが、皆さん困っているのが、『食事』の場所である。大河ドラマ『新選組』が放映されたのは、早いものでもう一昨年になってしまった。
アレから、どの程度、日野市内の観光施設関係が充実されたのか。
自分も関わっていたのだが、まだまだ貧弱で皆様には申し訳ないと思っている。
新選組まつりなどのときは、会場内に模擬店などが出展するからまだいいのだが、普段来られた方は、大概、食事に困っておられる。
高幡には、例の「幕末めし処 池田屋」があるし、そのほかにもそれっぽい店もあってまだいいのだが、特に日野宿には、食事のできるところが殆んど何もないといってよい。
う~ン、近くの人ばかりならまだいいが、遠くからやってくる人も多いのだ。それこそ、四国、九州辺りから。

そういう人たちって、みな旅行であって、やっぱり食事は楽しみにしているはずなのだが、不備である。
新選組って、不思議で、東北や北海道から来る人ってそう多くはない。
何でだろう。
日本の歴史、幕末ってそういうものなのか。
現に、僕の本を読んでくれている人たちも、圧倒的に西から南の人たちが多く、10対1ぐらいの差がある。
でも、歴史好きの人が西や南に偏っているとも思えないがーーー。
不思議。

日野市内にビジネスホテルが高幡不動に1件しかないのは、頷ける。
もう、今更どうしようもない。
建設したからといって、お客さんがお泊りになるかは、なかなか計算が立たないだろう。
そう、簡単には言い出せない。
が、食事どころはあってもいい気はするが。
昨年度の日野市のスローガンは確か、『おもてなし』だった。
少しは、進んだ気もするが。
ちなみに、今年は、『着飾って歩けるまち』だ。
僕は、今、仕事では”芸術文化の振興“を図ることになっている。
まさに、着飾って歩けるように様々考えなければならないのだ。

そういえば、『日野宿本陣文書検討会』からの頼みで、今月の21日にテレビ討論会に出ることになった。
といっても日野に来なきゃ見られないものらしいが。
正式名称が討論会なのかどうかわからないのだが、内容としてはアサクラゆうさんと画面で対面して、沖田総司について語り合うというものだ。
主催者のスズトウさんによると、僕が日野市の中央図書館にいて、あさくらさんはどうやら市谷柳町にいるみたい。
詳細は、あとで。

今日は、ちょっと一休みして、日野市内のおもてなしのことについて触れたが、明日からはまた、函館の続きを書こうかと思う。

――海音寺潮五郎談――4

土方歳三は、「なかなかの戦上手であった」―――4
――海音寺潮五郎談――

ここのところズーと、土方が戦死した後、箱館の旧幕府脱走軍が降伏するまでの経過を、海音寺潮五郎氏の文章で紹介してきた。
僕の言葉で、僕の考え方・意見で言うより、どうしても海音寺さんの原文を読んで欲しいからである。
本当に優れている研究、文章、そして人を皆さんでもっとわかって欲しい、評価して欲しい。そんな気持ちから、書いている。

なぜ、しつこく書くかというと、氏の書いた西郷隆盛がすべて本屋さんから消えてしまって、まったく手に入らないからだ。僕が日野をご案内した人はたくさんいるが、その中で「そうまで言うなら、読みたい」とおっしゃる方がいるのだが、買えないのだ。売ってない。

前回は、明治2年5月11日に土方が戦死した後、榎本以下の脱走軍幹部たちがどのような経過で降参していったかを『氏』の文で紹介した。
官軍参謀の黒田了介と箱館政府軍総裁の榎本武揚との交渉・友情ぶりは、少し垣間見えたのではないかと思う。
では、このとき、西郷は何を思い、していたのか。
 
西郷さんは、安政6年の冬、安政の大獄で幕府の捕吏に追われ、錦港湾に清水寺の月照上人と共に入水自殺を図ったのだが、自分だけが助かってしまった。
その後も藩主久光の怒りにふれて、何度か殺されそうになったが、島流しで生きながらえてきている。こうした自分は、神から命を授かって、新しい時代に向かって世に役立つことを期待されて生きながらえてきたのであり、役目がすめば、さっさと身を引いて用なしであると考えてきた。

だから、明治元年の初冬には、戊辰戦争の先も見えてきたので本人はふるさとに帰り、後は西郷の精神を引き継ぐものに任せればよいと考えた。そんな訳で在国していたのだが、明治2年5月1日、何を思ったか、鹿児島をたって5日に品川に着いた。
箱館に行くためであった。

その頃、官軍を指揮していたのは長州の大村益次郎であり、一応挨拶に官軍軍務局に足を向けた。
このあたりのやり取りは、再び、海音寺先生のお言葉で続けたい。

   …………大村益次郎に会いますと、大村は持ち前の無愛想な調子で、
  「貴殿が北海道にお着きの頃には、もう平定しているでござろうから、おいでになる必要はないでござろう」
と言いました。
実際、西郷が品川についた5日頃は、まだ中央への連絡はありませんでしたが、蝦夷島軍は諸方面が破れて、五稜郭と弁天島堡塁につぼみつつあったのですから、大村の戦術眼の的確なことは驚くべきものがあります。しかし、西郷が北海道に行かなければならないと思い立ったのは、戦況が心配だったばかりでないと、私は推理しています。戦況のこと以外に、黒田がどんな受降ぶりをするか、それを案じていたのだと信じています。

 きっと西郷は、
「了介どんは、わしの第一次長州征伐のときの受降ぶり、江戸城の受降ぶり、庄内の受降ぶり、ずっと見てきているから下手をするとは思わんが、長州の人たちは幕府に対しては深い恨みをずっと抱いているから、ひょっとして押し切られて、情知らずなことをするかもしれん。行く必要がある」
と、思ったに違いありません。
ですから、西郷は大村に対して、
「ごもっともなお言葉でごわすが、せっかくそこまで来たのでごわすから、行かせて下され」
 といいました。西郷ほどのものがこうまで言うものを、大村も無下に拒みは出来ません。出張の命を授けました。
 …………
 西郷は5月16日に品川を出発し、25日に箱館に到着しました。
 申すまでもなく、五稜郭の明け渡しがあり、榎本以下の4人が陣門に降伏してから一週間たっています。
 西郷はすぐ引き返し、6月1日に東京に着き、15日には東京をたって帰国しました。

 この事実を、西郷と大村との戦術眼の優劣を語るものと言っている人があります。確かに大村は戦争の天才でした。これに比べれば、西郷は数等おとります。専門家が専門外の人より、その専門の分野で勝っているのは当然のことです。
 しかし、その優秀さは、その専門分野内でだけのことです。英雄は、将に将たる器でなければなりません。将に将たる器とは、優れたいろいろな専門家をうまく使いこなす人物ということです。即ち、自分以上の技術ある人物を使いうる人物ということです。
 漢の高祖が、「なぜ陛下は天下を統一して天下人になることが出来たのですか」という、臣下の問いに答えて、
「俺の競争相手だった項羽は戦争の大天才で、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ずとるという、不敗の人物であったが、人使いが下手だった。たった一人の謀臣である范増(はんぞう)ですら使いこなせず、恨みを抱いて立ち去らせたが、俺は人使いの名人だ。  
謀(はかりごと)を帷幄(いあく)のうちにめぐらして勝ちを千里の外に決する参謀的働きは、俺は張良におよばん。 
国家を鎮め民を撫し、切らさぬように糧食を送り続ける政治家的手腕は、俺は蕭何(しょうが)におよばん。 
百万の大軍を率い、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ずとるという将軍としての働きは、俺は韓信におよばん。この三人は皆人中の英雄じゃが、おれは三人を見事に使いこなした。これがわしの今日ある所以だ」
 と言ったという話があります。専門の技能などというものは、英雄を品評する場合にはさして重要なものではありません。専門の技能に執着する限り、自分の力量以上の者を使いうる人物、即ち英雄は網から漏れてしまいます。
 とりわけ、このとき西郷が来たのは、私の推察が当たっているとすれば、黒田の受降振りを心配したためでもあるのです。必ずや、西郷は黒田から詳しい経過を聞き、
「よかった、よかった、それでこそ了介どんでごわすぞ」
とほめ、さらに榎本はじめ降伏した人々の命を是非救うように骨をおりなされよ、それでなければ、仏造って魂入れずということになりもすぞと訓戒したに違いありません。
証拠があります。
つづく

――海音寺潮五郎談――3

「土方歳三はなかなかの戦上手、驚嘆した」
「天才だ」
――海音寺潮五郎談――3

この間、海音寺潮五郎氏の箱館戦争時の土方について、原文を紹介した。
じつは、あの西郷隆盛第4巻には、その続きがあって、それも興味深いので紹介したい。
つまり、土方が戦死した後、脱走軍の幹部たちは何を想い、自らの身の振り方をどのように考えていたのか。
官軍代表の黒田了介は、旧幕府脱走軍幹部連中に対して、どのように対処したのだろうか。そして、西郷はどう関わったのであろうか。結果は皆さんご存知のように、命は助けられた。その経過、情報について僕が余計なコメントを挟むより、海音寺氏自らの文章で紹介してみる。

  「なんと言っても、数が違います。蝦夷島方はせいぜい二千ぐらいしかないのに、官軍方は後から後から追加して、総計では1万近くはあったでしょう。東京湾脱出以来のいろいろなことで軍艦を失い、海軍力がひどく低下したことも計算に入れるべきでしょう。彼らは北海道にこもりきりで、ただ1回の宮古湾出撃を別にしては、ぜんぜん、本土出撃をしていません。もし、彼らが一衣帯水のところにある青森地方に攻撃をかけ、この地方を混乱させ、次第に南下していったら、天下平いで間がないのですから、諸藩はまた騒ぎ立ち、明治新政府の混乱は目も当てられないものになったかもしれません。そうできなかったのは、海軍力が微弱になっていたからだと思われます。
  
 ともあれ、蝦夷島軍は次第に圧迫されて、5月11日には五稜郭に追いこめられて総攻撃を受けることになりました。この日、土方歳三は戦死しました。
銃弾を首筋と肩の2箇所に受けて即死したのです。
  
 うっかり忘れるところでした。フランス人らは5月1日の夜遅く、港内に碇泊し
ていたフランスの軍艦に逃れました。彼らが榎本軍中にいることを、日本政府がフランス政府に厳重に抗議したために、この運びになったのです。フランスは幕末以来、幕府方にひいきして、いろいろ力づけていましたから、このフランス軍人らの榎本らに対する助力も、フランス政府の内意を含んでいた疑いがあります。

 総攻撃は翌12日にも続行されました。この日も蝦夷島軍の損害は大きく多数の幹部級のものが死傷しました。しかし、官軍のほうは敢て迫りませんでした。
 実は、この以前から、官軍側では招降の事を考えていたのです。これは黒田了介の発意だったようです。このときの官軍は薩長をはじめとして、諸藩も出兵していたのですが、なんと言っても薩長軍が主力であり、強くもありました。その将領としては長州から山田市之允(後の伯爵、顕義)、薩摩から黒田了介が出ていたのですが、その黒田がまず招降策を考えて、山田やその他の人の同意を得たと思われます。それは、戦後東京の大久保一蔵に顛末を報告した手紙の中に、榎本らの勢いが縮まって五稜郭に閉じこもったときの形勢を述べた次に、以下のように記してあります。

『天皇のお心は民の苦しみをお救いになることを第一として給うのである故、真に過ちを悔いて謝罪降伏の実行を挙げる者には、寛大のご処置を持って遇せらるるのであると、かねてから拙者は体得していますので、どうにかして賊中へ降伏せよと申し入れたく考えていました……』

この黒田の心は西郷の「敬天愛人」の思想ですね。この頃の黒田は最も熱心で優秀な西郷の弟子だったといえましょう。
   黒田はかなり前から勧降使を送ろうと考えていたのですが、その便宜がありません。ところが、ここに高松凌雲という人物がありました。蘭法医で、幕府の奥医師となっていた人ですが、榎本らと共に江戸を脱出して、軍医長となっていましたが、戦争が始まりますと箱館に病院を作り、ここに傷病者を収容して治療に努めていました。この病院は官軍側でも承知して攻撃を加えない了解がついていました。
   黒田はここを利用しました。
  
 あたかもこの病院に会津人で当時は遊撃隊の隊長を務めていた諏訪常吉という者が重症を負って入院していることを知りました。このものは薩摩人池田次郎兵衛という者と、昔知り合いでありましたので、池田を見舞いにやりました。12日の夜が更けてからであったと、高松凌雲が後日談しています。

   池田は病床を見舞って、武士は相見互いでござる。この上は、ご養生専一になさるようにと、25両の金を送り、その後、
「五稜郭の人々は飽くまでも戦われるご決意でござろうが、戦えば戦うほど人命を失い、国家の憂えが加わることになります。榎本さんはどんなお考えでごわすか。ここのところを、貴殿、よくお考え下さって、ご周旋いただくわけにはまいらないでござろうか」
と頼みました。
しかし、諏訪はなかなかの重傷で、この数日の後には死んでしまったほどですから、引き受けることができません。苦しい呼吸をつきながら申しました。
「拙者はご覧の通りの容態で、身動きもできません。その話はここの病院長の高松凌雲殿と小野権之丞(ごんのじょう)殿にしていただきましょう。ご両人をお引き合せいたします」
高松と小野とに紹介したわけです。小野も旧会津藩士で藩主容保が京都守護職時代には、会津藩の用人として京都でずいぶん立ち働いた人物でした。
高松と小野とは、池田の頼みを聞いて、榎本らに手紙を書いてもって行かせました。手紙は5月13日の夕方に、榎本の手に届きました。

榎本は、幹部らと相談の上、城を枕にして討死と決定して、この旨を高松らに返書しましたが、その「追って書き」のところにこうあります。
『入院中の者にたいして、官軍から手厚いお取り扱いしてくださいます由を承っています。厚くドクトル(原文のままです。高松のことですよ。榎本のハイカラぶりがわかりますね)から、よろしく御厚礼申し上げてください。それから、お届けします書籍2冊は、拙者がオランダ留学中に大いに勉強した海律に関するもので、皇国無二の書籍でありますから、兵火のために焼けてしまうことは残念であります。ドクトルから官軍の海軍アドミラルへお贈りください。』

   この書は、海上万国公法の書で、元来フランス人の著書であったものを榎本がオランダ留学中にオランダ人に頼んでオランダ語に翻訳してもらい、専心に熟読して愛蔵していたものであったそうです。
    ………………(中略)………………
   何よりも、城を枕に討死と心を決めている身でありながら、祖国のためを思ってこれを敵将に贈る心は尊いと言わねばなりません。
   黒田は感動して、鮪五匹と酒五樽とを官軍の名で贈りました。
    ………………(中略)………………
   五稜郭内では、首脳部の人々は涼しく覚悟が定まっていましたが、下々の士気は日に日におとろえて、脱走者が続出して来ました。こうなっては、最後の戦いもはかばかしいことは出来ません。榎本らはついに、自殺して士卒の命に変わりたいと、官軍に申し送りました。5月16日のことでした。
   官軍ではすぐこれを許し、翌17日に官軍会議所で榎本らに応対して降伏の条件を取り決めました。
………………(中略)………………
   翌18日、榎本は副総裁松平太郎、海軍奉行荒井郁之助、陸軍奉行大鳥圭介の3人を伴って、五稜郭近くの官軍の軍門に出頭して降伏しました。
   この4人が首謀者というわけです。ここは長州藩の陣屋だったので、長州藩の軍監が面会して、武器を取り上げ、かごに載せ、長州兵が護送して、箱館に連れて行きました。
   大鳥がこのときのことを、後年書き記しています。
   「自分はかごの中で、われわれ4人はきっと切腹させられるのだろうと考えてい
たのだが、やがて箱館につくと、官軍本陣の近くの猪倉屋という町屋に連れて行か
れた。
ここで護衛の長州兵は他藩の兵(思うに薩摩兵でしょう)と交代したが、いずれ
も少しも苛酷な取り扱いはせず、酒肴など供せられて丁寧なことで、不思議に思うほどであった」
   黒田が熱心に榎本の自殺を止めて、その志を翻させたことは言うまでもありません。 

   西郷は、明治元年初冬に鹿児島に帰り、ずっと在国していましたが、自ら薩摩軍の総差し引きとなって5月1日、藩船三邦丸で鹿児島を出発し、箱館に向かいました。5日に品川に着いて、直ちに大村益次郎に会いました。
                                つづく

――海音寺潮五郎談――2

「土方歳三はなかなかの戦上手、驚嘆した」
「天才だ」
――海音寺潮五郎談――2

海音寺さんも、深く調査する前は土方のことを、たかが新選組の副長で、せいぜい剣に長じている暴れん坊程度ぐらいに思っていたに違いない。それが、調べれば調べるほど、軍人としての資質に長けている土方を再発見した驚きがあったのではないか。 

僕は、自分の作品と海音寺さんの文章とを、格が違いすぎて比較するつもりは全くないが、たまたま同じような感性で土方を見ていることに痛快な感情を持った。
実は僕も、自分の作品『人間土方歳三』の”歳三の喧嘩極意“という小見出しがついている部分で、似たようなことを歳三自身に言わせていた。

   P173、
   ……素手の喧嘩のときも、剣を使っての決闘のときも同じですが、明らかに敵が自分より上手だと感じたときは、自分の得意技で突進する以外ないのです。
     そのために、日ごろから得手の早業を見につけておくことが大切です。その技は何処の誰よりも、自分しか出来ない十八番(おはこ)にしなきゃいけません。
   
  なぜかといいますと、道場の稽古や相撲などと違って、喧嘩でも真剣勝負でも一本勝負ですから、しかも同じ相手と何度も戦うことはまずない。だから、1つだけ自分の得意技を身につけておけば全員に勝てるってことになるんです。
   ……喧嘩のときは、私は人並み以上に足が丈夫だったので、相手に足蹴りを入れることに集中していました。  
     敵が私より体格がいい場合は、まず突進して相手の懐に飛びこびます。この間、少しぐらい殴られたってかまいやしない。すぐ後あとには、何倍にもしてかえしてやらあという気組がありますから、痛くなんてない。

…………
  この場合には特に、やはり『気』というものが大切で、まず気で相手を圧倒してしまうことが大事なのです。
この極意は、偶然なんですが、天然理心流と全く一緒でしてね、あとで私が天然理心流に入門したときも同じことを言われまして、「なんだ、俺がやってきたことじゃねえか」と思ったことがありました。安政六年の春のことですが。
 
 次に剣の極意ですが、例えば、井上の源さんの場合は、何ってたって上から振り下ろす剣の早さ、その重いことといったら天下一品でした。
  示現流のように、何度も袈裟がけにすばやく振り下ろすんです。示現流は打ち下ろすばかりですが、源さんの剣は跳ね上げがあります。つまり上下往復って次第です。それが速くて重い、ですから、受けるこちらの手がしびれてしまいます。あの人は、日ごろの鍛錬で十八番を身に着けていたことが、京で役立ちました。
 
 物事、稽古事でも剣でも同じだと思うんです。
  うめえやつは最初から上手い。
  例えばお花を生けるんでも、踊りを踊るんでも謡をうなるんでも、笛を吹くんでも、後に剣豪といわれたような人でも、何とかの達人とかいわれた人でも、連中は努力して上手くなったんではなくて、最初から上手い。

  世の中皮肉なもので、一所懸命努力してきている人が、なかなか上達しないもんです。源三郎さんはね、小さい頃から剣の修行に励んでこられた。しかしあの人はすぐには上達しなかった。だが、不屈の努力で十八番を身につけました。そして天然理心流の免許までお取りになった人です。
  逆にね、今度は簡単に身につけた奴は、付け焼刃ってもんですから、源さんのような筋金入りの剣豪には勝てないんです。

土方は剣だけに資質があるのではなく(沖田や近藤、井上は多分、剣だけだ)、鉄砲を持たしても大砲を与えても天性の闘争本能で、連戦連勝してきている。
彼は、小さい頃から、喧嘩が強かったと僕は決め付けた。
そして負けない。生来の喧嘩屋なのである。
その上、京都では、歴史上かつてない未曾有の軍事集団を作り上げ、運営してきた。
恐るべし、土方、なのである。
こんな男に、魅力を感じないわけにはいかない。 
                                  つづく

――海音寺潮五郎談――1

「土方歳三はなかなかの戦上手、驚嘆した」
「天才だ」
――海音寺潮五郎談――1

僕は、幕末を公平に研究し、幕府軍にも薩長軍にもどちらにも組しないで、功績を残してきた人物に光を当てて語っていきたいと願っている。

だから、ここは新選組関係のブログではあるのだけど、幕末のいろんな人たちをこれまで取り上げてきた。中でも、個人的に西郷さんが好きだ。
このコーナーを読んでくれている方々の中には、猛烈な『組』ファンの人もいて、薩長なぞ憎き敵であり、奴らこそ『賊』であると思い込んでいる人もいる。そうした人たちからは、裏切りの薩摩、戦争好きの西郷として、僕は顰蹙(ひんしゅく)を買うことになるのだがーーー。
心情的にはわかるが、僕はもっと冷静に考え、みんなで幕末を楽しみ、先人に学びたいと思っている。
幅広く遊び、研究なぞしていると、これまで知らなかった意外な一面にぶち当たることもあるし発見もあって、うれしくなることもある。
今日は、そうしたことを一つ紹介したい。

西郷隆盛研究者の第一人者は、なんと言っても、鹿児島出身で西郷を研究し尽くしてきた海音寺潮五郎に違いない。
海音寺さんは、小説を書かせても魅力的ではあるが、日本の歴史の実相を検分させたら、その調査内容といい洞察力といい、群を抜いていて他人の追随を許さないと思っている。
小説では、もしかして司馬遼太郎に一日の長があるのかもしれない。その司馬さんはずーっと海音寺さんを敬い、慕い、何回かこのお二人は対談しているが、それらは対談本として発刊されている。
僕は、文芸の評論家じゃないしそれほどの造詣もないから、ほんとのところ、彼らの価値はいまいちわかっていないのかもしれない。
だが、自分ではこの両者の薫陶をずいぶんと受けたし、何よりもこの二人が好きなだけに、今は故人となってしまったお二人だが、最大の敬意を払うし、今後も「わが国の歴史」を語る上で、この人たちの名が長く語り継がれることは間違いない。

海音寺さんの西郷は『敬天愛人 西郷隆盛』という書物で、学研文庫から4巻で刊行されていたのだが、絶版になっている。
また、それ以前にも、朝日新聞社や角川文庫などから出版されているのだが、どれも絶版で手に入らない。
残念ながら、どこへ行っても何も手に入らない。なぜなんだろう、維新最大の功労者なのにーーー。不思議でならない。
僕も、学研版を全巻手に入れるのに、相当苦労した。ほかに、氏の西郷さんが出版されていればいいが、僕は知らない。

海音寺さんは、歴史というものを、誰にもわかりやすく公平に見てきている人なので、どちらにも偏っていない人なのだが、それでも、西郷さんを書くときは特別な感情が働くみたいで、情がこもっている。
その分薩摩寄りかというと、そうでもない。
薩摩の当時の島津家のお殿様は忠義という人で、実際の権力は父親の久光が握っていた。こうした当時の体制については、かなり批判的である。
今、多くの人は、『西郷=薩摩』と見ているようだが、実はぜんぜん違っていて、西郷は、藩の中では武士としての位はせいぜい中ぐらいで、決して偉い方ではなかった。故に、お殿様の指令は絶対服従であり、逆らうことなぞありえないのである。幕末に、西郷が行なってきたことは、藩の命令であり、一個人の意思なぞではないのである。
そうはいっても西郷さんは特別で、実権を握っていた久光は、殺したいほど西郷がにくいのだが、彼の進言を聞かざるを得ず、しぶしぶ許可してきた。
その人気の絶大なのに対抗できなかったのである。

明治3年、鹿児島に隠遁してしまった西郷を中央に引っ張り出さなければ、新政府が成り立たなくなったことがあった。
何より、最大の改革『廃藩置県』を挙行するには、西郷の力を借りなければ出来なかった。なんてったって藩をなくして県を置く。ということは、大名でもなくなり、お城も土地もすべて国が取り上げてしまうのである。これまで、何百年も最高位に君臨して、武士階級と威張ってきた階級は、実質これでなくなってしまう。全国の士族の反乱は、必至であった。
勿論、政府は、そんな事態には出来ない。
こうなりゃ、西郷の偉容に頼るしかないのである。
だから、鹿児島へ呼びに行ったのだが、久光の許可が必要であった。
ことに窮した新政府は、考えた挙句、《天皇の願いである》という形をとることにした。
明治天皇がお願いするものを、久光といえども拒絶は出来ない。天皇は快く承諾した。そして、その使者に大久保利通は勿論、弟の従道、岩倉具視自らも鹿児島へ行った。
こんな大掛かりにしなければ、西郷を引っ張り出せなかったのである。
それは、西郷の意思もあったが、何より久光の許可を取るためであった。その上、久光にも上京を促した。政府で働いて欲しいと。久光に気を使ったのである。
これについては、さらにバランスをとるために、帰りに長州へ寄って毛利敬親にも政界進出をお願いしているのである。
ここまでしなければ、島津の殿様の顔が立たないのであり、西郷も鹿児島から出られなかったのである。
それは、幕末時も同じで、西郷の個人の意思で自由に動けたわけではない。
だから、西郷は久光の怒りに触れて、奄美、徳之島、沖永良部と3回島流しにされている。久光も、殺す勇気はないから、島流しなのである。

こういう殿様だから、西郷も大久保も、長年久光をだましてきた。
「きっと、徳川に変わる世の中を作り、あなたを慶喜の代わりに据えます」と。
これは、はっきり言葉にして発言はしてこなかったものの、そのように臭わしてきているのである。

海音寺さんは、ただ一念、『人間西郷隆盛』なのであって、薩摩藩はどうでもいいのである。

学研版の第4巻に興味深い内容が書いてあった。
海音寺さんが、徳川の脱走軍の、しかももと新選組副長で今は箱館で陸軍奉行並の役職を得ている土方歳三に触れている文章を目にしたのである。
学研文庫から出ている『敬天愛人 西郷隆盛』第四巻、340ページにそれは書いてあった。
いかに、氏が、物事を平らかに、偏りなく洞察してきているかがこれを読むとわかってもらえるのではないかと思う。
あまりの嬉しさに、皆さんに紹介したくなった。氏の文章そのままを紹介する。

 「官軍の北海道征伐が始まったのは、四月に入ってからでした。北海道軍はよく戦いました。中でも私の感心するのは土方歳三がなかなかの戦上手であったことです。土方は剣を取っての一人ひとりの斬り合いには長じていても、軍勢を指揮して火戦を主としての戦いはどうだろうかと疑っていましたが、その戦いの後を調べてみて、その巧みなことに私は驚嘆いたしました。西洋流戦術の専門家として当時有名であった大鳥圭介は、旧幕でも蝦夷島政府でも陸軍奉行に任ぜられていたのですが、土方のほうがはるかに戦術には長じています。戦術は生まれつきの天才によるものではないかと考えざるを得ません。後天的に努力して学んでも、天才のない者は高きには至れないものではないでしょうか。」

 海音寺潮五郎という作家、歴史小説では『天と地と』『平将門』、海音寺文学で有名な
のは史伝として『武将列伝』『悪人列伝』などである。特に、明治中期以降衰退していた
史伝文学の復興を願って多くの史伝を手がけた。
 海音寺氏の豊富な歴史知識と史観は、読者を大いに魅了し、圧倒するものだが、この正統派の文学者が、上記のように土方歳三を最大級にほめている。

長くなるので、また。
つづく
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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