村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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ワールドカップサッカーを見た

昨日、というか今朝の3時30分に起きて、サッカーワールドカップ日本対ブラジル戦を見た。
僕は、小さい頃から野球で育った人間なのでサッカーには詳しくないし、評論する資格もないのだが、それでもこれだけ世間が騒いでいるから、関心を持たざるを得ない。

この間のトリノオリンピックのときも、確か2月24日だと思うが、ここに書いた記憶がある。選手たちが成田に帰ってきたら、暖かく歓迎してあげようよと。
今回も、今、同じような感覚で書いている。

今朝のサッカーを見た人は、夜中だったけど、日本国中でかなり多かったに違いない。
皆さん、どう思われたのだろう。
僕はこの2月のオリンピックのときと、まったく同じ感想なのだ。
一言で言えば、『マスコミの騒ぎすぎ』と『認識不足、調査不足』といいたい。
だけど、マスメディア全体が煽ることを使命と感じているのかもしれない。
盛り上げる。
「頑張れ日本」「にっぽんチャチャチャ」だ。
それで視聴率が上がる。
効果抜群。
だから、僕も踊らされて、朝の4時ですよ、観た。
ゴルフ好きの僕でも、そうは、そんな時間に起きて見ない。でも、今回は特別だ。

結果、日本の選手たちのプレイについて、様々なコメントが寄せられることになるだろう。それも、かなり批判的に。
前回の試合で(クロアチア戦)、「勝ってた試合だ」「なぜ、あそこでシュートしないんだ」「シュートの方向が悪いんだ、もっと左だろう」などと、特に柳沢は非難されてきている。
彼は、おそらく今後挽回のチャンスがなければ、一生言われ続けて人生を送ることになるのでは。
原田はジャンプで失敗して金を逃したが、次の長野オリンピックで雪辱を果たした。英雄になれた。よかった。高橋直子も昨年、東京国際マラソンで勝って見事復帰した。
でも、誰でもがみんなうまくいくとは限らない。

僕は、さっきも言ったが、サッカーのことは素人なのだが、柳沢選手、『ちょっと、カワイソすぎない』。いったい彼は、どんな気持ちで日本に帰ってくるのだろう。
だって、ああゆう失敗、誰だってあるでしょう。

僕は、トリノオリンピックのときも書いたが、荒川選手のメダル一つが日本の今の実力なんだろうと。
韓国は、確か8つか9つとったはずだ。
正直、その後のWBC(世界野球選手権)でも、結果はどういうわけか日本が優勝したが、韓国に内容は、実態としては負けていた。
最近アメリカで行なわれている女子のゴルフメジャー戦でも、宮里藍ちゃんは随分と頑張ったけど、優勝は韓国のパク・セリであった。そして10位以内に韓国勢が4人も入っていた。日本は、藍ちゃん一人だけだが。
一人でも入れば大したものだが、韓国がすごすぎる。
どうして?
『韓流』といわれるが、誰か、解き明かして欲しいな。
書き込んでくれ。
今回のワールドカップでも、韓国はフランスと引き分けるなど、決勝トーナメントへあと一歩である。

日本は、素人の僕がほざくのだが、ワールドカップに行けたこと自体が運がよかったのではないかと思うが。
だから、結果として2敗1分でいいじゃないの。期待が大きすぎるのではないか。
あと驚いたのは中田がブラジル戦の後 ”泣いていた”。
あの中田が、そして、中村俊介が。
あの涙は、なんだろう。
みんなの感想を聞いてみたい。

僕ら日本人の期待が大きければ大きいほど、選手たちに、それが重圧となってしまう。
それが実践に行って、からだが硬直してしまって、普段出来るプレイが出来ない。日ごろの実力を出せばいいんだと、よく言われるが、これ程難しいものはない。
ゴルフのように相手が自然で、自分自身との戦いであっても、思うように行かない。ましてや、相手(敵)のいる競技ならなおさらであろう。
尤も、僕の見たところ、日本が相手したオーストラリアにしてもクロアチア、当たり前だがブラジル、どれをとっても勝てる相手ではなかった。でも、前評判では、やりようによっては何とかなるかも、なんていう情報が飛び交っていた。

なんだか、競馬によく似ている。
今、JRA(日本中央競馬会)でも史上最強といわれている馬がいて、明後日の日曜日に宝塚記念と言うレースを走る。
その馬の名は、ディープインパクトと言う。
ジョッキーは、勿論武豊だ。
この馬、去年ダービーをはじめ三冠レースを総なめにし、ことごとく勝ってきているが、有馬記念だけは2着に敗れた。
でも、無類の強さで、今年の9月、世界の最強レースと言われている「凱旋門賞」に出る。日本の馬なぞ、世界では問題にされていないのだが、この馬だけは違う。今から国際的に注目されている。
今まで、この馬が出ると圧倒的な人気で、馬券なぞ当たっても妙味がない。だから、じっくりレースを楽しむことになるのだが、どんな馬が束になってかかっても勝ちはないくらい強い。すると、サッカーのブラジルみたいなものじゃないかと思う。
ブラジルは競馬で言えばG1を勝っている超一流馬で、日本は残念ながら未勝利馬に近いものがある。
競馬をやる人なら、多少はわかってもらえると思う。この違い、天と地の開きがあるのだ。100回走って、100回負けるくらいの違いがある。でも、競馬だからわからない。どんなアクシデントがあるかわからない。落馬だってある。だから、たまに大穴がある。
そう、日本がブラジルに勝つ確率ってものは、競馬の落馬の確率くらいのものじゃないかと思われる。
それが、2点以上引き離して勝てば決勝リーグに、と平気で言ってのける。
こういうことが、選手たちには大きなプレッシャーとなっているのでないのか。

サッカーのような競技は、歴史とか伝統とか言うものも少しは影響しているのかもしれない。ブラジルでは、殆どの子供がボールを蹴っているらしい。
日本という国は、まだこの競技に関しては若いのではないか。でも、その割りにお金も使っているし、サッカー人口も多くなってきているし、盛り上がりもすごい。
今回、一体、関係者は何人ぐらいドイツにいったのかなあ。トリノのときはそれが問題になっていたけど、サッカーくじだって、売れ行きよくないことだし。税金かなあ、それとも企業からの協賛金?

アフリカや中南米で、僕自身恥ずかしいが「こんな国あるの」と、今回はじめて知った国もある。具体例では、『トーゴ』『コートジボワール』『トリニダード・トバゴ』などだ。
それらの国々、結構強いよね。
みんな貧しい国のようだけど、小さい頃からボールを蹴って、ひたむきに生きているように映るのだが。
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――海音寺潮五郎談――6……5

「土方歳三はなかなかの戦上手、驚嘆した」
「天才だ」
「庄内藩にも、温情で接した西郷」
――海音寺潮五郎談――6……5


明治元年9月27日に、黒田は庄内藩の城下鶴岡に入っている。
西郷も一緒だった。二人のほかに薩摩の武将としては、大山格之助がいた。西郷は、黒田、大山とともに鶴岡城内を点検し、兵器を納受して、銃器は新発田の総督本営に送らせることにした。
銃器は、総数4900挺もあった。
官軍の諸隊は次々に鶴岡城下に入り、一晩か二番泊まっては立ち去っていった。このとき、総数15165人いたと、この頃鶴岡にいた会津藩士の南摩綱紀と言う人が計上している。
ここで、再び海音寺さんの文章で、

   この多数の兵が入っているのに、市中は至って平和であるとも、南摩は書いています。
「庄内の降伏においては、藩士は帯刀を禁ぜられず、前のままいつも佩びている。皆自宅に閉居謹慎しているが、用事があれば平日のごとく外出し、市中の商店も普段と変わるところがない。官軍もまたそう乱暴ではない」
   官軍が温情を持って降伏を受け入れ、軍規を厳しくして兵等を取り締まり、その占領が最も穏やかにいっていることがよくわかりますね。これは私には黒田の背後に西郷があって、指導したためと思われるのです。
   
「大西郷秘史」という本があります。
明治から大正にかけて『武侠世界社』という雑誌社が東京にあって、この社で出版した本です。この中で、当時薩摩藩士だった高島鞆之助の思い出話として、

   ある日、藩主酒井忠篤が西郷の宿舎に表敬訪問に来たと言うのです。
西郷の今度の出陣は、官軍の将領としての地位は至って低く、単なる薩摩軍の一武将に過ぎませんが、一般の常識では官軍の総大将と言う観念がありますから、酒井の殿様も敬意を表するために訪問してきたのでしょう。
   西郷は驚きながらも、周囲の人々を、かりそめにも無礼な振る舞いがあってはならないと戒めて、忠篤を迎えました。
   言語応対、まことに丁重で、忠篤を上座に座らせ、自分は下座に端坐平伏して、恭敬のかぎりをつくして応対しました。

   高島は、西郷のその応対振りを見て驚きもし、不思議にも思い、歯がゆくもあって忠篤が帰っていった後、西郷に向かって、
   「先生、ただいまの先生の応対振りは、あまりにもご謙譲にすぎて、どちらが降伏者か、わからんようでごわした。こちらは官軍、向こうは賊軍、そして戦い負けて降伏したのでごわすから、もう少し威を張って御応対なさるべきではなかったでしょうか」
   といいますと、西郷はにこりと笑って、
  「戦に負けて降伏なさったのでごわす。官軍に対しては、何事がなくても非常な恐れを抱いていなさるはずでごわす。仮にも17万石の大名ともある人が、あの慇懃な様子であったではごわはんか。それに対して、こちらが厳しい調子の言葉でも出したら、思うところを言いなさることもできんじゃろ。あれで丁度よかのでごわす」
   と言ったというのです。
 
     庄内藩は会津藩と並んで、東北諸藩連合の中で最も勇敢執拗に戦った藩です。その上、度々言うとおり三田藩邸焼き討ちの主力を勤め、秋田口の戦いでは島津一門の島津新八郎を討ち取っているのです。骨髄に徹する恨みを薩摩兵にもたれているに違いないと思い、降伏を申し込んでも大いに恐れていましたのに、最も温情を持って降伏を受け付けられ、その上西郷の藩主に対する態度がこのようでありましたので、全藩感激すること一方でなく、庄内藩士らは西郷を慕い、今日伝わる『大西郷遺訓』は、庄内藩士らが西郷を東京や鹿児島に訪ねたとき、彼らに西郷が語ったことを集録したものです。
   
   庄内の西郷崇拝は当時から深く、明治3年8月には酒井忠篤は、政府の許可を得て薩摩遊学のために藩士70余人を選抜して、引き連れて鹿児島に行き、翌年4月まで滞在して、西郷の教えと薩摩藩の軍事教育を受けました。
   明治4年から6年までは西郷は東京に出て、中央政府の参議になっていましたのでこの期間、庄内人らはよく東京に西郷を訪ねて教えを受け、明治6年秋以降は西郷は国に帰りましたので、庄内人らは遠く鹿児島に西郷を訪問しています。
   『大西郷遺訓』はこれらの西郷訪問の間に西郷の言った事を集めて、庄内人らが発刊して世に広まったのです。
   西郷崇拝と西郷研究とは、今日でも庄内では相当盛んに続いています。西郷の精神は、鹿児島よりむしろ庄内に残っていると言ってもよさそうです。
(庄内編は終り)

つづく

ここで、西郷さんの顔を皆さんに紹介したい。
あの人は、どういうわけか写真が1枚も残っていない。一般的には、『写真嫌いだった』ということになっている。
本当のところ、どうだかわからない。
一説には、常に命を狙われていて、暗殺者が狙っていたので、一目でわかるような写真は残さなかったともいわれている。確かに、敵方(徳川幕府側)に限らず、見方の薩摩藩内部から、それも最も実権を握っていた藩主の父久光から狙われていたのだから、危ないどころじゃない。
西郷は、最も尊崇する前藩主斉彬とその子供たち全員が久光派によって殺されたと思っていた節がある。自分だって、狙われていることぐらいは、知っていたに違いない。だから、写真を撮らなかった?
う~ん、わからない。
でも、西郷を尊敬する人が多かったので、似顔絵が何枚か残っている。
最初に紹介したいのは、昨年僕が鹿児島へ行った時に眼にしたものだ。
この絵(No1)がなんとなく、一等似ているのではと思っているので、好きなのだ。
実は、今、僕の携帯の壁紙に使っている。見るたびに、自分が叱られているようで、気が引き締まる。
なんとなくいいのだ。


(解説)No1 大牟礼南搪作
『西郷隆盛 ――その生涯――』東郷實晴著の表紙に使われていたものです。

次が、よくどんな書物、作品にも使われるエドアルド・キヨソーネ作の絵である(No2)。


キヨソーネは明治政府が招いた人で、明治天皇や岩倉具視、大久保利通などの肖像画も書いている。
ただ、この絵は、顔の上半分を西郷さんの弟の従道の写真を基に、下半分を従兄弟の大山巌の顔を参考に描いたものらしい。(黎明館所蔵)

次が、あの有名な上野の銅像である(No3)。


(デアゴスティーニ・ジャパン発行 『日本の100人』週刊紙NO.11』より)
西郷隆盛没後20周年に彫刻家の高村光雲が制作したもの。
顔が似ていないので、主賓にまぬかれていた奥様のいとさんは、
「宿んしは、こげんなお人じゃなかったこてえ」とつぶやいた。何故、晴れの式典の席で、そのような言葉を発したのか。
僕には、おいとさんの気持ちがわかる。
彼女は、うちの人ほど、国のために全身全霊を傾けて働いた人はいないと、強く確信していた。だが、維新の後は明治政府をはじめ、暗殺を試み、西南の役まで起こさせて殺したではないか。何故、維新の最大の功労者であるうちの人がそんな仕打ちを受けなければならなかったのか、その悔しさが鬱積していた。
そうしたのは、最も仲のよかった大久保一蔵だった。薩摩藩内部で殺し合いをしている。でも、一蔵どんも11年5月には紀尾井坂で暗殺された。何と、むごい(大久保を殺したのは石川県氏族上がりらしいが)。そして、戊辰戦争や西南戦争で、西郷の兄弟・息子まで命を落とした。
いとは、鹿児島で家を守っていたが、悲しくも無念でならなかったのである。そのうえ長らく主人は、「賊徒」にされていたのであった。
明治天皇をはじめ周囲の人々の尽力で、ようやくその汚名が晴れはしたものの、いとは気分がすっきりはしていなかった。

この銅像を見ると、吉之助の本当の姿ではないような気がしたに違いない。世間は、うちの人の見方を間違えているといいたかったのではないだろうか。顔が似ていないばかりではない。「あん人はこんな着流しで外を歩く人ではありもはん」といいたかったのではないだろうか。ウサギ狩りの模様だというが、ここは東京の上野ではないか、と言いたかった。
そして、それは、僕には、奇しくも作家海音寺潮五郎氏の感性(無念)と似ているのではないかとも思えるのだ。
「世間は、なんで、わかってくれないんだ」
どうして、「西郷という人間を曲げて伝えるんだろう」という恨めしさだ。

最後に、西郷さんの家の隣に住んでいたという画家の肥後直熊が西郷没後50年に描いた絵を載せる。


(黎明館所蔵・No4)(デアゴスティーニ・ジャパン発行 『日本の100人』週刊紙NO.11』より)

この人は幼少の頃から、西郷さんにかわいがられたそうだ。その時の記憶で書いたものらしいが、とっても表情が穏やかである。これも真実の西郷さんを物語っているようで、好感が持てる。
自分のなすべき仕事は、大方済ましてきたが、既に何回かは捨てたこの身命でごわす。あんたたちが、私のからだが必要だと言うなら、お預けしよう、と言う表情だろう。勿論、自分も政府に「申し上げたき一件」があったから、兵を連れて東京へ向かったのではあるが。
多分、暴発寸前の薩摩の若者たちを前にして、「おいの命は、おはんらに預けもそ」という心境になっている姿ではないかと思う。

西郷さんは、明治10年9月に死んでいる。
まだ、100年と数十年前なのに、あまりに伝説的過ぎる。この間の終戦後何年かの間、直接西郷さんの話を聴いたことのある人が、何人も生きていた。そういう人たちの回顧談が、今、テープで残っていて、鹿児島の維新資料館で聞くことが出来る。
でも、真実が伝わっていないように思えるがーーー。

つづく

――海音寺潮五郎談――6……4

「土方歳三はなかなかの戦上手、驚嘆した」
「天才だ」
「庄内藩にも、温情で接した西郷」
――海音寺潮五郎談――6……4

官軍の庄内行きの司令官は、薩摩人黒田了介だった。
副司令官は長州人品川弥次郎で、この二人、因縁の中である。
その意味では、西郷も。

慶応二年1月の薩長連合のとき、品川は新選組や幕府の厳しい監視の目をくぐって長い間、京の薩摩屋敷に匿われながら、長州藩の諜報作業をしていたことがあった。同時に桂小五郎(この頃は木戸貫治か)のお付のようなこともしていたし、監視役も兼ねていた。黒田はその際、西郷の手先となってその意を汲み、一等、最も働いたし、この頃から西郷は黒田を腹心の部下として育てようという思惑があった、と伺える。

まずは庄内で、酒井侯をはじめとした降将の人たちへの扱いについて、西郷自らが『範』を示す必要があった。
そして、仕上げが箱館だった。榎本以下の救済である。
このときも、心配で、自ら箱館に駆けつけた。このことは、既に書いた。
ただ、こういうことは、新選組や幕府軍サイドからのみ眺めていると近視眼的な見方になってしまうので、おうおうにして全体像が見えてこない。少し、紙面から眼を離して遠目で見てみよう。
土方が戦死したときの相手方、官軍側の状況は、実態はどうであったのか、知っておくのも必要だ。

新政府軍の参謀が黒田清隆であったことはよく知られているところだ。
極刑を主張する長州閥幹部に対して、榎本以下の命を救うために、粉骨砕身、どれだけ彼が苦労したか。また、このとき、どうして西郷隆盛が箱館にいたのか。
(榎本と黒田の交流、心温まる友情は、別な機会に書く)
戦争勝利のために西郷がいなければならなかったのか。
そんな必要はないと思うが、何か理由があったのか。

黒田と品川の二人は、西郷が第1次長州征伐の際に行なった寛大なる処置をよく知っている。次に薩長連合の際の采配も見ている。そして、次は奥羽地方の降将への扱いを適切なものにすることだった。
黒田と品川の両人だったから、薩長の不和や軋轢なぞはなく、見事に強調して行えたわけで、西郷がいたので、なおさらうまくいった。
西郷は、維新がなったこれから、敗残者に対する扱い方を、多くの指導者たちに伝授する必要性を感じていた。
決して人としての道をはずさないように、若い権力者たちに教えなければならないのだった。
そして、たまたま、この二人だったのが幸いした。
西郷の思い通りの結果に帰することができた。黒田が、見事な采配を振るったのである。
ここから先は、再び海音寺先生の達文をお借りする。

   (黒田清隆ら官軍)9月18日に庄内行き官軍は米沢を出発して、この日、中山駅まで行きますと、上ノ山藩主松平伊豆守の家臣が、主人の命を受けて待っていて、降伏謝罪の嘆願書を差し出しました。
   その日、官軍は上ノ山に入り、翌日、黒田は本丸で上納された兵器を点検した後、重役らを引見して、
「この上は官軍の先鋒として、帰順の実効を立てなされよ。必要な兵器は下附します」
と申し渡して、その通りにしました。
この黒田のやり方を見ますと、第1次長州征伐の時や江戸城納降の時の西郷のやり方に似ているとは思いませんか。黒田と言う人は酒乱の悪癖があって、後年にはいろいろ評判の悪い人ですが、この頃はその生涯において最もその人物に輝きがあって、世間でも西郷の跡継ぎとなるべき人物と言っていたのです。西郷もまた彼を最も愛していましたので、彼は西郷の一番弟子を持って自認し、事ごとに西郷のやり方を学んだのです。おそらく、西郷が手を取るようにして、裏面にあって教えたのではないでしょうか。これらのことは私の見当だけで、その証拠はないのですが、やがて庄内の降伏を受け入れた際には、歴然たる証拠があります。
この日、山形藩もまた降伏を嘆願してきました。これに対しても、黒田は同様な処置をしました。
この以前から津軽藩は官軍側となり、南部藩は秋田方面に一度出てきましたが、一戦に打ち破れ、さらに秋田藩兵に追撃されて領内に退いてからは、まるで萎縮して再び出てくる気力を失っていました。ですから、いまや庄内藩は会津藩とともに孤立無援となったのですが、それでもなお手ごわい抵抗を続けました。
9月22日は会津の降伏開城した日ですがおそらくそんなことは、庄内藩では知らなかったでしょうが、会津が重囲猛攻の中にあって、その抵抗の全力が尽きようとしていると言うくらいのことはあるいはわかっていたかもしれません。そのためであるかどうか、翌23日、官軍が進んで清水駅に入ったとき、庄内の家臣二人がいまや官軍先鋒を勤めている米沢藩人の介添えで、藩主酒井忠篤の降伏謝罪嘆願書を差し出しました。

このときのこととして、庄内藩に伝承される話があります。それはこうです。
『黒田はその旅宿において嘆願書を受けたのですが、庄内藩士らに応対している間、度々席を立って奥へ入っていった、どうやら奥に誰やらがいて、それに相談し、指図を受けるものの用であったと言うのです。またその際、庄内の使者の従者らは坊主頭の大男が風呂に入っているのを見たが、よほどに官兵らに尊敬されている人物のようであった』と言う話も伝承されています。

多分、庄内人らの観察は当たっていましょう。奥の部屋にあって黒田に指図した人物も、坊主頭の大男も、西郷であったに違いありません。思うに、西郷はひょっとして黒田が薩摩人の一人として藩邸焼討ちの恨みを忘れかねて、むごい扱いをするかもしれない、しかしそんなことがあっては王師仁慈の大精神にそむく、と案じたのではないでしょうか。西郷が久光の厳しい自由拘束を我慢し、大変な格下がりになってまで、このたびの出陣をした理由の一つはこれだったに違いないと、私には思われるのです。

黒田に情理そなわったよき受降ぶりをさせることは、単に黒田に男を上げさせるだけではありません。王師仁慈の大精神を日本国民に仰がせ、将来の日本のためにも大いに役立つと思ったのでありましょう。これはまた、敬天愛人の彼の信仰的哲学の自然の発露でもあります。

黒田がどんな風にして庄内藩の使者に応対したかは、庄内藩の記録に残っています。使者に選ばれた吉野遊平は、米沢藩士大滝新蔵に連れられて黒田の旅館に行き、名簿(名刺)を差し出しますと、黒田は吉野一人を一室に引見しました。その部屋には余人をおかず、唯一人で、言語応対すべて極めて丁重で、すこしもおごり高ぶったところがなかったので、吉野は意外でもあれば、一種の感動すら覚えたそうです。

このとき黒田は、使いの吉野遊平に恥をかかせないように、また土産を持たせてやった。
当時、降伏した側にとっての最大の関心事は、「お家」の継続が許されるのかどうかと言うことだ。
城の明け渡し、武器の没収は当然止むを得ないことなのだが、あとは殿様をはじめ幹部連中の斬首、切腹のこと。武士として、辱めを受けず、立派に死なせてもらえるのかどうか。
黒田はこの時、約束してやった。
「酒井家の社稷の継続は必ずお許しになるでござろう」と。そして、「それは、決してお疑いなさらぬように」とまで、付け加えている。
『社稷の継続』とは、命ばかりでなく藩の財産も保証するという意味であろう。ただこの場合、これまでの石高どおりかどうかはわからない。
あの徳川家だって、西郷は家来の数からしても最低100万石は必要だと考えていたのだが、70万石に減らされた。明治政府は、西郷の思惑通りには行かなかったのである。
使いの吉野は、多分、大泣きに泣いて感謝し、帰っていったに違いない。

つづく

沖田総司の出自について

この間の5月21日(日)、日野宿本陣文書検討会の主催で沖田総司の特集をやった。
これは日野と市ヶ谷試衛館をイントラネットで結んで、僕とあさくらゆうさんとでお話しする試みであった。


その時の報告は、何日かまえにここでしたのだが、今日は一歩進めて、面白い報告があるので、また書く。
その時僕が書いた記事の一部を、再び引っ張りたい。

それは、総司のお母さんの出と考えられる宮原家のことを、お話していたときのことだ。宮原家は、井上本家・分家のある日野北原の北側に位置するのだが、昔は四ツ谷と呼ばれていたところだ。今でも四ツ谷子供広場をはじめ、その名残はたくさん残っているが、以前は『四ツ家』とも書いたそうだ。
四つの家だから、四家である。それは、長く伝えられてきているのは、加藤・天野・小島・宮原で、確かに今でもあの辺はこの四家の名が多いし、(特に加藤と天野が多いが)それは武田の落人だといわれている。
僕も、勿論そのように考えてきたのだが、昨年の秋、宮原家のご当主久雄さんとお話していたとき、久雄さんのおばあさまが「うちは、もともと立川で、柴崎にいた」とおっしゃっていたということだ。
「玉川は通称“あばれ川“と呼ばれていて、川の流れが何回かここ数百年で変わった。(そういえば、歳三の家も弘化三年に大水で流されたということだ)もともと柴崎にいたうちは、いつの間にか日野に編入されていた」ということを久雄さんはおばあさまから聞いていたそうだ。

僕は、自分の本を書くとき、とにかく史実に沿って書くことを至上の鉄則に思っていたから、ゼンリンの地図を張り合わせて、あのあたりの地形を随分長い時間眺めていたのを思い出した。
そして、その地図を改めて、見てみた。
甲州街道を挟んで日野宿、その北側に北原、四ツ谷、井上本家と分家、そして宮原家と見ているうちに、多摩川が宮原家のすぐ北側にあることに気がついた。
確かに、おばあさまがおっしゃるように、川の流れが変われば、日野になってしまうことが地図を見ているとわかるのだ。
実は、昨日、あの中継をしている時、その地図を持ち出して皆さんに説明していたのだが、(四家のことと、大野姓が井上分家の周りに多いことを知ってもらうためだ)、説明しながら気がついたことがある。

このような記事を書いた。
これをご覧になった日野宿本陣文書検討会の主宰者、munn様が図書館で貴重な資料を探してきてくれた。
これは立川市側の書物なのだが、江戸時代の多摩川の流れが示されているものだ。この中の地図の一つに、1804年(享和4年・文化元年)当時の玉川の流れを示しているものがあった。
1804年と言えば、歳三の生まれが1835年で、総司が1842年だろうから、まだ30年ほど前のものだが、その頃の流れが、日野の北原や四ツ谷の丁度北側のあたりで、川の流れが二股に分かれている(下地図参照)。


宮原久雄さんのおばあさまがおっしゃっていた、「うちはもともと立川で、川の流れが変わったので日野になってしまった」という証言は、なるほどこういうことだったのか、と証明出来るのかもしれない。
つまり、宮原家は1804年(文化元年)当時は川の二股の中州にいたのだが(かなり広範囲)、大水によって南側の流れがなくなって、北側の流れだけになったのかもしれない。いづれにしても、1820年(文政3年)には宮原家は日野の台帳に載っているので、この頃は既に柴崎村ではなく日野の四ツ谷にいる。これは、もっと調べれば、正確なことがわかるはずだから、近々再びこの話題にふれるが。

ただ、玉川って川は通称「あばれ川」と呼ばれていて、しょっちゅう流れが変わったらしい。最近でも、ここ30年ほどで微妙に何回かかわっている。(といっても、現在は堤防が両岸にめぐらされているので、その範囲内でのことだが)僕が杉並から日野へ来た頃とは違う流れをしている。
僕が日野に来るようになったのは1974年だが、この年、有名な多摩川の決壊があった。狛江市で、流域沿いの住宅が流され、その映像が何回となくテレビで映し出されたあれだ。あの時は民家が19棟流され、1270戸が冠水した。
今、僕の手元に「おもな多摩川の洪水」と言う一覧表があるが、1742年からのものだが、大きいものだけで16回あった。
もし多摩川に、堤防が築かれていなかったら、今だって大きく流れが変わるはずだ。ただ、昭和30年ごろだったか、上流に小河内ダムと言う馬鹿でかいものが出来たので、今は水の量が極端に減ってしまい、当時の面影はないが、相変わらず、暴れることはしている。
土地柄か。

手元にある資料を見ていたら、日野側のもので、――「日野町有形絵図」貞享元年(1684年)3月佐藤信行家蔵―― が出てきた(下画像参照)。


図録「新選組のふるさと日野」より掲載
新選フェスタIN日野実行委員会発行

こういうコメントが書かれている。

  『日野宿の最も古い絵図で、甲州道中は万願寺の渡船場から日野宿に入っている。同年5月には、上流の日野渡船場に移り、既に下河原から北に向かう渡船場が見られる』
この図を見ると、明らかに玉川は南側に支流のような流れが描かれている。本流が上辺でカットされてはいるが。
これらについては、もっと調査する。乞うご期待!!

それから、僕のブログを最近読むようになった方には、『宮原』と言う家についてよくわからないかもしれないので、知っている人には邪魔かもしれないが、その関係について述べる。

新選組で6番隊長をした井上源三郎は日野は北原の出で、兄が八王子千人同心をしていた井上松五郎である。
この松五郎、天然理心流3代目宗家を継いだ近藤周助を物心両面で支えていたと同時に本人も周助の高弟でもあった。
この松五郎の長男で、泰助と言う人がいた。
この泰助、12歳で新選組に入隊し、あの鳥羽伏見の戦を体験した。
その戦で自分の叔父に当たる源三郎が戦死した。
戦死した叔父の生首を持って淀の辺りを徘徊していたのだが、とうとうある寺の前に埋めることにした。
だが、その寺の名を忘れてしまったので、今となっては何処に埋められているのかがわからない。
この意味では、土方歳三と全く同じである。
この泰助が後年、総司の姉ミツ宛に出した(と思われる)手紙の下書きが見つかった。
この下書きは今、井上源三郎資料館に展示されているが、どんなときに書いたかと言うと。

おミツさんの長男で芳次郎と言う人がいた。この人と泰助の妹との縁談が持ち上がり、様々経緯があってトラぶってしまった。
そのときに彼がミツ宛に手紙を出しているのである。
この中で、泰助は改めて井上本家と分家、沖田家と宮原家との関係をお互いに確認するためになぞっているのである。
これまで、総司の父は白川藩の沖田勝次郎だと言われてきている。
でも、最近、これについても異論を唱える人が出てきている。
そのくらい不透明である。

じゃあ、母親はと言うと、誰も全くわからないから、沖田総司のどんな専門家、著述家でも不明のまま済ましてきている。
もっと言えば、姉のミツについても、本当の姉なのかどうかわからない。
何故なら、残っている戸籍には『近藤藤蔵(周助)の長女』となっているからだ。
一般的には総司の実の姉で、井上分家の林太郎が沖田家に養子に入ったことになっているがーーー。
(このことについては、チョー複雑なので今は書かないが、近いうちに改めて、このことだけで僕の考えを述べる)

母親だが、日野では、一部ではあるけれども、宮原家の娘が『総司の母親だ』と言われてきている。
僕がそう思うのは、いくつか根拠があるが、並べてみると、さっきの芳次郎と泰助の妹ハナが祝言するときの媒酌人が宮原久五郎であったと言うことだ。
この人の写真を昨年の秋、このブログに載せたことがある。
この久五郎さんは、総司の母の弟じゃないかと僕は思っているのだが(天保5年10月9日生まれで、近藤勇と同じだ)、年齢的にである。
また、ミツの孫の重治が死んだときに、どういうわけか、沖田家の菩提寺の専称寺に弔わないで、薬王寺の宮原家の墓に入れていることである。
他にもいくつかあるが、なんにしても、昨年何度かお会いして、当主の久雄さんに様々宮原家に伝わるお話をお伺いしたとき、「沖田総司は、うちの先祖」だと伝えられてきていることである。

総司が死んでまだ140年足らず。
この間、新選組関係の子孫は、自分が子孫であることを固く閉ざして、口には一切出してこなかった。
賊軍であると言うこと以上に、悪役の新選組なのである。いまでこそ『新選組のふるさと』公言しているが、言っている行政だって、表立っていえるようになったのは、ここ10年ほどである。

ひっそりと暮らしてきた100年なのである。
だが、ようやくそれも晴れて子孫であることが言える環境になってきている。
宮原家の人たちも、多くは語らないが、問われれば話してくれるようになってきたのである。

――海音寺潮五郎談――6……3

「土方歳三はなかなかの戦上手、驚嘆した」
「天才だ」
「庄内藩にも、温情で接した西郷」
――海音寺潮五郎談――6……3


西郷は、薩摩藩藩主の父島津久光からは、極端に嫌われていた。久光にしてみれば、何一つ思い通りになったものはないからであり、それどころか藩内外の人望、声望は西郷一点に集まり、自分にはちっとも人気が集まらなかったからだ。
維新が行なわれれば、てっきり自分が薩摩幕府の将軍になるか、悪くても息子の忠義がなるだろうと思っていたに違いない。
ところが、ふたを開けてみれば連立政権であり、それも薩摩からは自分も息子も参加はしていない。どこの藩も毛利だって山内だって肥前だって藩主連中は、政府の幹部クラスにその名を連ねてはいなかった。
久光は、西郷に騙されたと思い続けている。
だから、あの時島流しなどにしないで、いっそのこと殺しておけばよかったものをと、臍(ほぞ)をかんで悔しがった。西郷の人気ばかりが上昇し、自分の評判は決していいとは言えない。
このままでは、薩摩幕府どころかお家の財産そのものだって怪しくなってくる。下手をすれば、明治政府に取り上げられてしまうかもしれない。そんなことはさせるものかと様々妨害をするのだが、西郷は久光の意に反して、苦難の末、『廃藩置県』まで持っていってしまった。
薩摩藩さえ、なくされてしまった。

それは明治4年以降のことであるが、今は、まだ元年の9月である。
官軍の総大将で東征を行なった西郷さんだが、今は単なる薩摩の一武将として3個の小隊をつれての参戦となった。
常識なら考えられないことだが、西郷はそれでも満足していた。急ぎ、奥羽地方に行かねばならない事情があったのである。
そうはいっても、大西郷である。彼に対するそれなりの扱いというものがあるだろうに。が、久光は彼を、自分の腹心としか見ていない。むしろ、あの偉大なる西郷を自分だけが操れる。俺だけが、命令できる、と、酔っていたかもしれない。
だが、心の底では西郷に馬鹿にされていることも悟っている。
だから、余計に腹立たしいのだ。

もし、西郷が普通の人間だったら、立身出世型の役人だったら、野心のある革命家だったら、あれ程のカリスマ的徳望があった人だったのだから、薩摩藩内でクーデターを起こし、自己に権力を集中させることは容易に出来たはずだ。何も、島津家を倒して西郷家を起こすと言うことでなくても、自分を見出してくれ、古今東西の名君と評判の高かった島津斉彬派の復権のために、運動する可能性はあったと思うが。
その斉彬は、久光派のために毒殺された。本人ばかりでない。子供たち全員が、謎の死を遂げている。西郷はすべて、久光派の呪詛によって行なわれたことだと思っている。でも、西郷は復讐なぞ考えない。
いや、側近の若者たちからは散々そうした提案、誘いはあった。斉彬を慕うニセ(青年)は多い。だが、西郷は、いくら尊崇する先君斉彬公のリベンジとはいえ、誠実一路な人間だっただけに、他人と争い、自らが頂点に立とうとするタイプの人間ではなかった。
飽くまでも薩摩藩から禄をいただいて一家を養っている薩摩武士なのだから、藩主の命令に従い、ご奉仕をするのである。
自らが権力の中枢に位するなぞという野心は微塵もない。この部分については、誰の誘致、助言も聞き入れない。
頑固一徹の人間だった。

前回の予告編で、山県有朋の著書「越の山風」の中から紹介すると言った。
こうだ。

   「予は十四日(8月)、新津を出発し、片野十郎と共に新潟に赴く。西郷に面会のためなり。西郷はさきに奥羽援兵の増遣準備中に、越後の急警しきりに至りしのみならず、戦地における薩・長の関係についても憂慮するところありし由にて、終に自ら越後路に来ることに決心し、兵を率いて越後に着海し、新潟に入りしなり」

兵の増援が必要で、西郷が引き連れていったと言うことだが、何も西郷自身が行く必要もないと思うがーーー。
むしろ、薩摩と長州の軋轢が既にあちこちで始まっていたので、その調停役としていった。彼しかいなかったということか。
う~む、こんな理由?僕は、西郷が行った本当の理由は、別にあったのではと、思っている。それは庄内藩をはじめとした各藩が降伏した際の、接し方・遇し方のことである。絶対に間違わないようにしなければいけないのだった。それを見守るため、また、参謀の黒田たちに教えるために、久光に散々嫌がらせを受けながらも、出征したことは間違いないと思っている。
この遠征で、西郷は最初から庄内を目指していた。それは、会津と庄内が最後まで屈強に抵抗していたと言うことも結果としてあるが、僕は、特に、庄内との接し方に失礼のないよう見守り、自ら指導するために行った思う。

鳥羽伏見の直接の引き金になってしまった薩摩屋敷の焼討ち、それを行なったのは新徴組を抱えて江戸を警備していた庄内藩だった。もともと江戸で挑発行為をしていたのは薩摩側でもあるので、この両者が凄惨な殺し合いをしないとも限らない。

慶応3年12月25日、三田にあった薩摩藩江戸屋敷が焼かれた。これは、そもそも薩摩側にその原因はあり、挑発したのだから当たり前である。
だが、西郷の狙いは飽くまでも、京都で事を起こす際、敵方の勢力を東西に裂くことにあって、だから東でも事を起こさせたのだった。しかし、戦争と言うものは苛酷なもので、予想外のことも引き起こしてしまうものなのである。この12月は既に江戸は無政府状態になっており、奉行所を始め幕府の治安能力は殆ど機能していなかった。だから、強盗野党の類が横行し、勿論殺人事件も平気に起こっていたが、犯人は検挙されない。
これらは、関係ないものまで薩摩の仕業とされていたのである。
西郷はこれらの所業について、心を痛めていたのではないだろうか。そして藩邸焼討ちをする羽目になった庄内藩の兵士たちに対して、『申し訳ないことをしました』と反省とともに今や、敵に対しての謝罪、憐れみさえ抱くようになっていたと思うのである。だから、黒田や品川らに重刑などの処分をさせてはならないのであった。
『武士は相身互い』であり、夫々の立場で戦わなければならない。だが、降伏した相手には、それに相応しい応対・温情が必要なのである。敬天愛人、これが天に導かれた人の歩むべき道なのである。
西郷は、パークスやアーネスト・サトウらと接触している中で、白旗をあげている降伏者に対する西洋流の作法を心得ていったのは事実だが、というより、『人の道』を説いているのであった。

つづく
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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