村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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京都でも、とうとう見つけた---『牛額草』

娘の受験、オープンキャンパスで再び京都へ。



先週の金曜日からこの月曜日まで、京都にいた。
丁度祇園祭の最中で、街中にぎわっていたのだが、何も祭りを見に行ったわけではなく、娘の学校めぐりのお付き合いである。
そう、「立命館大学に行ってみたい」と言い出したのだ。
どうして立命館なのかわからなかった。
はっきりした動機はいまだに判明しないが、ひとつ思い当たることがある。
彼女はヤクルトのファンで、それも古田がすきなのだ(古田は『立命館出』なのだ)。それも、親が、小さい頃から神宮球場に連れて行ったのが原因かもしれないがーーー。
行くまでは、本気なのかどうかわからなかった。でも、本人が来年の大学入試を控えてどうしても行きたいというので、付き添いで行った。
18歳にもなるのだから、一人でも行けるのだろうが、場所が京都だけに珍しく、僕に一緒に行ってくれと来た。

思った。
これが、娘と行く最初で最後の二人の旅行だろうと。
だから、宿は『幾松』をとった。娘が、「一度、行ってみたい」と普段からもらしていたからだ。
彼女の名は“さつき”という。
さつきは幼い頃から武田鉄也の『お~い、竜馬』で育ったので、桂さんのことはよく知っている。といっても、アニメの中のことでだが、それでも史実には従っている。そういえば、京都国立博物館の宮川さんはおりょうさんの研究家で知られているが、彼と一緒に新選組展をやったときに彼が言っていた。「僕は、お~い、竜馬の大ファンです」と。京都国立博物館では、毎年8月に『坂本龍馬展』をやっている。

さつきは、修学旅行でも家族旅行でも京都には行っているのだが、ゆっくり寺を廻ったことがないので、それをやってみたいというのだ。
「そうだ、京都へいこう」のコピーが頭に焼き付いているのかもしれない。

結果、一晩の宿泊予定が二晩に延びてしまった。帰りの深夜バスは、一日伸ばしてもらった。
何故。
幾松の女将が祇園祭の招待券あげるから、行ってみませんかと誘ってくれたからだ。うまく連休がもう一日あって(月曜日まで)、可能だったのだ。そして、女将がもう一日部屋を確保してくれた。
祇園祭の、多分、一年で最も忙しいだろう時に。
そこまで配慮されると、そうなる。
こっちは懐が心配になってきたが、女将が気を利かせてくれて、信じられないほどディスカウントしてくれた。ちなみに、幾松は、僕が最初に栗塚さんと京都で食事をしたときに彼が連れて行ってくれたところで、女将は3時間もつききりでお相手してくれた。

山鉾の巡行は雨の中で、大変な思いをしてみることになったのだが、親子とも、多分二度とない経験をしたに違いない。

今回、父娘でめぐった先は、こんな事情から殆ど修学旅行コースで(尤も最近の生徒たちはグループで自由行動するから、僕らの頃の寺めぐりなぞはしないのだろうが)金閣寺、竜安寺、大覚寺、上賀茂神社、京都文化博物館、そして立命館大学である。
竜安寺は今年に入って行ったところだが、娘はあの石庭に感激していたが、僕が今年行ったときは石庭の正面の塀を工事していて、例の青いシートがサブされていた。今回、それがはずされてきれいに改修されていたのだが、見事に、趣のある塀に戻っていた。
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それと、金閣寺にしろ竜安寺にしろ、境内がものすごく広く、見るべき有名な箇所以外にも結構楽しめる。僕は、むしろそういったところに趣があって楽しかった。金閣寺の例の金色の本堂の後ろにはきれいに整備された庭が広がっていて、しかもコケが美しく、去年コケ寺の西芳寺へ行ったが、ここでも充分楽しめたほどだ。
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竜安寺も同じで、今の時季は広い池にあちこち、はすの花が咲き誇っていて、なんとも見事である。ピンク系の色が特にきれいだが黄色のも魅力がある。
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一度行ったことのある人も、もう一度行く価値はありますよ。

あと、大覚寺と上賀茂神社はなんで行ったか、クイズにしたいくらいだ。
僕は、ここのところ放送している北大路欣也の大岡越前にはまっていて、毎週火曜日の7時が楽しみなのであるが、時代劇を見ていると、あそこ何処だろうと、つい、行ってみたくなるロケ地がある。去年は京都の南、八幡というところにある「流れ橋」をわざわざ見に行った。ここも、本当によく時代劇に使われるところで、全部丸太で出来ていて大きな橋だ。向こう岸まで、う~ん、100メートル以上、もしかして200メートルはあるかもしれない。だから、大水が出ると今でも流されるので、この名がついたそうな。

そうなんです。
今回は、時代劇でよく使われるロケ地を選んだのである。
大覚寺は、あそこの大沢池が、とにかくよく使われる(昨日の大岡越前でも、何回となく出てきた)。あと、上賀茂神社の境内の中にある小川である。あれが最近の映写の技術できれいに写るんですよね。NHKじゃないと、ハイビジョンとは言わないのかなあ。フジテレビでも、テレ朝でも美しく映えてましたよ。
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そして、そういえばなんです。
これは、大発見。
昨年、京都へ行って、嵐山から歩いて松尾大社、そして西芳寺、またその付近を徹底して探索して、「牛額草」を探したのだが、なかった。
そのことは、このブログでも書いた。
今年も、娘と一緒に探しながら各所を歩いたのだが、とうとうあったんです。
それは、上賀茂神社の中の先ほど言いました小川の中になんです。
ここは、水深が約10~15センチぐらいしかない浅い小川なんだが、両岸がきちんと整備されていてテレビで見ていても気持ちがいいのだが、実際に行って足を素足でつけてみると、すご~く爽やか。
今のこの暑い時季は、なおさら芯から冷やしてくれるんですよ。
夏は、お勧めでんな。
そこに、あった。


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僕の本の中で、確認もしないで、きっとあるに違いないということで、土方が見つけたことにしたのだが、後付だが、あってよかった。
関心のある方は、行ってみてくださいね。

娘が、本当に京都へ行ってしまったらどうしよう。
寂しい。
それに、余計な金もかかる。
東京にしておけば、下宿代いらないのに--、と、くだらない考えが過ぎった。
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――海音寺潮五郎談――9

「土方歳三はなかなかの戦上手、驚嘆した」
「天才だ」
「西郷なくして、今の平和な日本はなかった」(筆者)
――海音寺潮五郎談――9

今回、大げさなタイトルを、僕自身がつけた。
西郷さんは、2年間だけ、内閣を作ったことがあった。
明治4年から6年にかけて、大久保や木戸、岩倉らが遣欧米使節として出かけて日本を離れた。留守の間、西郷が番を頼まれたのだが、この間におびただしい画期的な改革をしていたのだ。
西郷と一緒に改革を断行したのは、佐賀の江藤新平、同じく副島種臣、大隈重信、土佐の板垣退助、後藤象二郎らであった。
鬼のいぬ間に洗濯をしてしまうようなものだが、すごい勢いだ。

主に人権や身分、戸籍、教育、司法、裁判、土地に関することで、それを列挙すると、封建的身分差別の撤廃、土地制度の改革、教育制度の整備、近代的司法改革などだが、主だったものだけだがまずは見てみよう。

① 文部省を新設(明治4年7月)
② 氏族の帯刀義務排除(同8月)
③ 断髪の許可(同)
④ 士族による斬り捨て禁止(同)
⑤ 華族、士族、平民相互間の通婚許可(同)
⑥ 被差別身分・職業の開放令(同)
⑦ 神社仏閣への女人禁制の廃止(明治5年3月)
⑧ 僧侶の肉食、妻帯、長髪の許可(同4月)
⑨ 学区制による統一的学制の整備(同8月)
⑩ 水のみ百姓の解放・農民の職業自由選択の許可(同)
⑪ 人身売買の禁止(同10月)
⑫ 地方官による権利侵害を人民が裁判所に救済を訴える制度の新設(同11月)
⑬ キリシタン禁制の高札の撤去(明治6年2月)
ざっとこれだけある。

僕は、逆に思ったりする。
こうした改革、何故もっと早く手がつけられていなかったのだろう。まあ、戊辰戦争だって明治2年の5月までかかってしまったのだから、それから様々な改革をしてゆくとなれば、時間がかかるのかもしれない。
でも、ざっと並べた上記の制度は、人道上の精神なり、心がなければ出来ないものまで含んでいる。よいタイミングで欧米に視察団が行ってくれた訳だが、大久保らは実は、廃藩置県の反動で暴動が怖かったとか、島津久光の怒りから逃げ出したくて海外へ逃避し、後は西郷に任せたと言う解釈も成り立つ。
真相は?

今でこそ、これらの改革はごく当たり前なことなのだが、西郷たちは、当時としては常識外の改革をやってのけたと言える。
尤も、これらは西郷一人では実現できるわけがない。佐賀の江藤の存在が大きい。彼は法治主義を提唱し、次々と矢継ぎ早に改革案を提唱していった。それを背後から支えていたのが、西郷だ。

江藤について言えば、彼の存在、活躍で、薩摩、長州、土佐に遅れはしたが、肥前もかろうじて維新四功藩の仲間入りになれた。佐賀藩の火器類が新政府軍の勝利に大きく貢献したからである。
それまで、日本では右に出る藩がないほど肥前は軍事力では優れていた。だが、藩主鍋島閑叟(かんそう)のかたくななノンポリティカルな政治問題に関する態度から、維新回天には無縁にされていたのである。それだけ、新政府の高官に薩長閥が幅を利かせ、土佐も出遅れ、さらに肥前は発言力がなかったのである。

江藤は新制度を作ることにかけては、特に優れた才能を発揮し、新国家を建設するに当たってその骨格を作る構想力では抜群の能力を発揮した。明治4年には制度局御用掛、文部大輔、左院副議長、そして明治5年4月には、司法卿にまで上り詰めた。
江藤は、厳格な人柄で、その点西郷とは馬が合ったのだろう。新国家の法体系の整備に力を尽くしたと同時に、維新の功臣といえども不正腐敗は一切見逃さなかった。
だから、
その点でだらしがなかった長州出身の井上馨などとは、しばしば対立した。
また、江藤によって進められた司法改革によって、長州出身の山県有朋、井上馨、槇村正直など次々と汚職事件が摘発され、長州派は追い詰められた。長州派の筆頭である木戸は、日本に帰ってきてから、これらのもみ消しに懸命だった。それに、維新功労の長州からは、この時一人も参議に名を連ねていなかった。薩摩と土佐と肥前なのであった。

現代では常識になっている結婚、就業、土地売買、信教の自由、平等思想など、この時代に難産ではなく、西郷や江藤によって何の抵抗もなくすらすら改革されていったことは、驚愕に値する。
あの吉原で働いていた遊女たちだが、明治5年に西郷が行なった『娼妓開放令』の布告によって自由になり、自分の意思で商売できるようになった。これにより、吉原をはじめとした遊女屋は貸座敷と名称が改められたのである。

『西郷内閣の2年間ぐらい、自由平等の気風に満ち、能率的に社会改革が進められ、国民の不平がましいこともさして起こらなかった時代は少ない』と、あの福沢諭吉が指摘した。
つづく

中田が引退した。

衝撃的。
日本がブラジルに負けたとき、ここでコメントした。
中田と中村が泣いていた。あの涙は、どういうことか。
知りたいと書いた。

僕はサッカーについては、専門的なことはわからない。だから、一般論として言う。
つい数日前に終えた『全米オープン女子ゴルフ』については、自分が好きでもあり、自らもプレイもするから、その顛末がよくわかる。
でも、今回の引退劇だが、サッカーという競技の持つ特殊性もあるのだろうが、そういうことよりも、人間中田の「生き方」に起因しているように思えるが。

彼のHP上のコメントにもあるように、半年前から考えていたということだ。
中田自身の人生設計というものがあって、30歳手前で第一線から身を引こうとしていたのかもしれない。
この競技、45分を、休憩を挟んで2回、全力で走りとおすものだ。恐ろしいほどの体力を消耗するスポーツなのではないか。それも中田のように、世界の檜舞台で活躍するほどのアスリートには、『手抜き』というものが許されない。Jリーグだって、その下のリーグだって許されないのだろうが、次元が違いすぎる。

ゴルフにしてもテニスにしてもスキーにしても日本のトッププロで(アマチュアもいるが)、常にメディアからチヤホラされている選手が世界へ出て行って、殆ど相手にされない実態は、既にみんな知っている。トリノオリンピックでのスノーボードがいい例だ。マスコミの責任は大きいのだが、自己批判、反省はしないらしい。
藍ちゃんと不動さんは現在の日本プロゴルフ界では、野球で言えばイチローや松井クラスなのだ。野球は通用して、ゴルフは何故ダメなのか。
野球解説者の張本勲氏に言わせると、大リーグのレベルが下がっているからというが、なんとなくわかる。僕らが小さい頃から、ちょくちょく来日してきたが、遊び気分で来ても日本のプロ野球そのものが、まったく歯が立たなかった。
それが、この間のWBCで日本が優勝なのだから、氏の言うこともわかる。
でも、それだけじゃないだろう。
イチローや松井はわが国でも数十年に一人の名プレイヤーだから、当然大リーグで通用するのである。
僕のみるところ、残念だが、藍ちゃんにしても不動さんにしてもイチローや松井レベルには到達していない。

アメリカ、ニューポートで行なわれた全米オープンをご覧になっていた方にはお分かりだと思うが、あのハワイの韓国系天才ゴルファー、ミッシェル・ウィーはまだ16歳である。
『女タイガー』と今から言われていて、とにかくすごいド迫力だ。丁度、テニスのシャラポアのような印象である。身長184センチで、ドライバーは300ヤード近くまで飛ばす。日本の男子プロと飛距離は変わらないのである。それでいて、小技もうまい。パットだって、お父さん達みんな顔負け。
彼女、まだメジャーで優勝はしていないが、常に優勝争いして上位に入ってきている。これからいくつメジャーを勝つのだろうか。計り知れない。

今回のサッカーを見ていて思うのだが、体力勝負の差が出てきていません。
僕の言うのは、何も走り続けるという意味だけではなくて、ボールを奪い合うときのあの『体当たり』である。イエローカードぎりぎりの、うまく審判をごまかしていかに反則を犯すか、である。今じゃ、サッカーで相手の衣服を見えないように引っ張るなんてコトは当たり前のようだ。
なんだか、格闘技。
これから、アジアの選手はからだが小さいから、弾き飛ばされてしまうのではありませんか。

中田だが、彼はあのブラジル戦で、試合終了後ピットに寝転んでしまった。このことにかなり批判的な論評もあったみたいだが、こうなってみると「そうか」と、判るような気もする。
自分の限界、日本の限界を悟ったのかもしれない。
彼は、3回連続ワールドカップに出場してきている。からだはボロボロだろう。まだ29歳だから、体力的には出来るかもしれないが、モチベイションが保てるのか。もう、自由にしてあげたら。
それから、彼を見ていると、今の日本のサッカーのあり方に疑問を持っているのではないかと思う。でも、一プレイヤーだから運営や方針については、とても言及することはできない。
あたりまえだ。
三浦カズヨシというプレイヤーもいたが、彼も世界を知っていた。でも、彼はWC本戦に出場はできなかった。

中田は、サッカー以外の分野で生きていくような表現をしていた。お偉方との考え方に、ズレが大きく生じているんじゃないのか・・・?世界のサッカーとは、「そんなんじゃないんだ」みたいな、自己主張があるように思える。
サッカーについては、まあ、素人の僕の意見はこのあたりにしておこう。

このコーナーで、スポーツの話題となると、大概僕は“身の振り方”について触れてきている。
一度、頂点に上り詰めたものたちの、その後のみの振り方の難しさである。あの高橋尚子は、どうするんだろう。
そりゃ、僕だってもう一回は、世界の最高タイムを出して走る高橋の姿を見たい。2時間15分ぐらいで。
でも、そのために、再びどんな過酷な練習の日々をすごすのだろう。もう、いいよね、とすら思ってしまう。
彼女は、長い間僕ら日本人全体を長期間楽しませてくれた。感動も与えてくれた。
『ご苦労様』でいいじゃないか。
前の監督は、引退の時期、タイミングまで考えてやるべきだった。シドニーで金を取って、その後ボストンで世界最高タイムを出したのだから、その時点で引退でもよかったのだ。
スポーツ選手と政治家は、特に引き際が難しい。
ベイスターズの佐々木投手もマリナーズであれだけの実績を残しはしたが、日本に帰ってきて再び色気を出したのがいけなかった。だから、引退劇はいまひとつ感動しない。
これからは、清原である。
彼は、どう引退するのか。
それより、もう引退宣言をしてしまった男が日本ハムにいる。
そう、新庄だ。
あの人は、逆に立ち居振る舞いがうますぎる。でも、ファンに惜しまれながらやめていくのが良い。上手い。

人間の欲望ってもの、どう働くのだろう。
僕の身近に、24年間も市長業をこなした人がいた。
立派に仕事されていたように思えるが、残念だったのは、最後の最後まで権力に固執した。90歳近かったのに。
ここまで多薦してくると、それまで支持してくれていた政党も逃げた。結果、立候補さえできなくなった。そして、いつの日か、寂しく死んでいった。
誰も、彼の死を惜しまなかった。いつ死んだのかさえ、多くの人は知らなかった。過去の実績も称賛されない。
僕は、その市長の功績はたくさんあると思っている。一番は、南アフリカからあのネルソン・マンデラが日本に来たとき、なんとしても彼に寄付をするために、確か50万円だったか、いきなり補正予算を強引に、議会を通してしまった。その発想がすごいと思った。でも、そういう行動は、僕にとっては魅力的だった。

中田を見ていると、僕らの『もっとやってくれ、見ていたい』と言う欲望と裏腹に、29歳にしてつかれきってしまったのか。あるいは、「自分の限界」「日本の限界」を悟っているのかも知れない。
ジャイアンツの江川投手を思い出す。彼の作新学院高校時代の寵児ぶりは、中田の比ではなかった。一体、プロに入ってどの程度活躍するんだろうと、国中が期待した。結果、オールスター戦で、8連続三振をやっていた。9連続が、最高なのだ。過去に、江夏がやっていた。江川は最後のバッター、確か近鉄の大石にごろを打たれて夢が敗れた。その江川、誰もがまだやれるだろうと思った。
30代半ばで、引退した。

中田は、自分の『行き方』『人間中田』を考えていたのだった。

――海音寺潮五郎談――8――1

「土方歳三はなかなかの戦上手、驚嘆した」
「天才だ」
「西郷なしには成就できなかった廃藩置県」    
――海音寺潮五郎談――8――1

『南洲翁遺訓』の中に、次のような文章がある。
「万民の上に立つものは、おのれを慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節倹につとめ、職務に精励して、民の手本とナリ、民がその勤労振りを見て気の毒に思うほどでなくては、政令は行なわれないものである。しかるに今日は創業の時期であるのに、贅沢な屋敷を営み、美衣を着し、美妾をたくわえ、私財を増やすことを考えている役人が多い。こんな風では、維新の完成はできないであろう。今の有様では、明治元年の革命の義戦もまるで私利私欲のためにしたような有様になっている。自分は天下に対し、戦死者に対して面目なく思っている、と言ってしきりに涙をこぼされた」

『南洲翁遺訓』は、西郷が、自分のところへ訪ねてきた庄内藩士らに折にふれて語ったことを集積編集したものだ。
最近、日銀総裁が私的な蓄財をしていて、各方面からその無節操振りを指摘されているが、改めて西郷さんのこの言葉をかみ締めて欲しい。尤も、こういうせりふは何も西郷が最初ではなく、古今東西、民の上に立って働くものは当たり前の心構えなのだが、その気構えさえない人が政府や重要な役所の高官にいることが問題である。そういう人を選ぶ側にも責任はある。

西郷が、政府の腐敗を憂え、憤っていたことは在国中も在政府のときも、また征韓論が決裂して国に帰ってからも変ってはいない。彼は理想主義者であり、本質的な永久革命家であった。

維新がなった後、明治政府にとって、最大の命題は『廃藩置県』であり、これが為されなければ革命の本旨が成り立たないし、これなしには日本という国が近代的な中央集権国家になり得ないことも熟知していた。
しかし、これは維新の最大にして最高ランクの難事業であった。何しろ、まだ日本全国に胡坐をかいている諸大名をとり潰し、財産を取り上げてしまうことだし、四民平等にして武士としての特権もなくしてしまおうと言うものだ。

明治3年の頃は、東京政府の中で中心になって動かしていた三条や岩倉、大久保、木戸などは、このまま政府高官の腐敗を放っておいてはいけないとわかってはいても、手の施しようがなかったのが実情のようだ。しかし、何とか改善する必要があった。信用のない政府の行なう廃藩置県なぞ、国民から支持されるはずはないのである。大暴動に発展してしまう。
何とかして大改革を断行して、政治を建て直し、先に進めなければならない。もうこうなると、ここから先は、神や仏に頼るしかない。
政府の誰でもが思い浮かべた。
『西郷』を。
西郷を呼んで政府の中心に据えようと考えた。
西郷が智謀に優れているからではない。智謀は岩倉や大久保にはかなわない。そのとき必要だったのは、政治に対する国民、世間からの信頼だったのだ。それには西郷の『徳望』が役に立つのである。
それに、思い切った大改革を進めるには、西郷のような神がかった存在をトップに据え、たくましい決断力と大徳望が備わった人を中心に据えて、天下の人々の魂を奪ってしまわなければ成就できないことを知っていた。
でなければ、予想される起こりうる大混乱を鎮めることなぞできないと考えたのである。

西郷出馬の相談がまとまった。
誰が説得に行くか、これがまた難しいのである。
丁度、弟の西郷従道が欧州から帰ってきて、まず鹿児島に帰着しようとしていたので、従道に西郷を口説かせようと言うことになった。従道は明治3年10月14日に東京を発っているので鹿児島着は22か23日頃の到着であった。勿論、汽船で。

従道の話に、西郷は涙を流して聞いていたと言われている。
東京の政府は、政府高官たちが腐敗しきっていて打つ手がない、これでは、これから控えている大改革なぞとても出来そうもないということだった。
西郷にしてみれば、自分が行なった維新であるから、当然責任がある。自分のしてきたことでもあるので何とかしなければならない。すぐにでも、東京へ飛んで行きたかった。でも、以前にも何度も書いてきたが、薩摩には西郷にとって天敵とも言える島津久光という最大の難関が存在していた。

西郷を憎む、この藩主の父が、おいそれと見送ってくれるわけがないのだ。しかも話の内容が中央政府に仕えると言うことだし、行けば最高位の役職が与えられることはまず間違いない。
久光はずっと何年も前から西郷を憎いと思ってきた。殺さなかったのは、西郷の声望が高く、殺せば藩士らがいきり立ち、藩内が騒然となること必定だと思われたし、大久保が久光に近づいてそのように入れ知恵してきたのだ。
だから、面白いことに、自分よりずっと位の低い藩の中堅どころの藩士に嫉妬してきてきたのだった。

この時の中央政府の要人は公家からは三条と岩倉、薩摩は大久保、長州は木戸そして山縣あたりであった。
この連中が、この時点でどれほど西郷を欲したか、後の征韓論や西南戦争にいたるあの経過のことを見ると、考えられないほどに西郷を崇拝している。と、言うより、必要とした。
『廃藩置県』と言う大命題を敢行するには、後先言ってられない、どんな面目も捨てて西郷に頼らざるを得なかったと言うのが実情だろう。
だから、
上記の重鎮たちが、全員、考えられないことだが、西郷を欲して、説き伏せに鹿児島に行ってしまったのである。
正確には、木戸は長州に行ったのだったが。それも、西郷を引っ張り出すためだった。

この連中、みな久光がよい返事を出さないことは、百も承知している。だから、策略を練った。久光公もご一緒に、政府にお入りいただくと言うものだった。しかも、朝廷からのお声がかりで。すると、長州からもと言うことになり、毛利敬親に会う必要があった。木戸が行った。
当時の、政治の独特なバランスである。
西郷は、岩倉や大久保にこう言った。
「拙者のためにこのようなお手数をおかけ申して、なんとも申し訳ごわはん。拙者もあながち出るのを拒むわけではござらん。しかし、出るとなれば考えと言うものがごわす」
大久保は、
「おまんさあの考えでよいのでごわす。大改革をやってくだされ」
岩倉も、同じ事を言った。

久光へは、わざわざ大げさに勅使を差し向けて『政治参与』の職を用意したと言うので、気をよくしたのか、作戦にうまく引っかかってしまって、
「拙者は今病気養生中で動けない。重症ではないので、年が明けて春になるころには回復しようから、それを待って上京しよう」と言った。

西郷は、このとき、
「大改革を決行するには、薩長だけではいけない。土佐も、佐賀もです」と、言ったと思われる。
これは僕の想像だ。これから廃藩置県と言う大改革をしなければいけない。薩摩や長州だけの意見では偏りすぎである。それでなくても維新時のこの両藩の功績から、やっかみが大きい。だから、このとき既に佐賀からは副島種臣、大隈重信、江藤新平、大木喬任などが参加はしていた。それにもうひとつ、この時既に、長州系の功労者に贅沢奢侈に走り、腐敗した高官が目立ち始めていて、これらを何とか阻止したかった。西郷の最も嫌うところである。
それらを排除するために、純粋な佐賀系、土佐系の志士上がりを欲したのではないかと思う。

久光は、この時、特に西郷と大久保を呼んで、
「このごろ、中央や他国では封建制度と郡県制度の長短を論じ、封建を廃して郡県の制度とすべきであると議論が盛んであると聞くが、わしは日本は封建でなければならんと信じている。その方ども、決して迷わされてはならんぞ」
と言った。
ふたりとも、
「かしこまりました」と言うしかなかった、ということだ。
これから、東京に行って、久光の厳命に背いて封建大名を廃止する法令を通さなければならない心境を思うと、どんな気持ちで聞いていたのか。
これを可能にするには、久光の個人的な威厳を超えて、朝廷と有力各藩の結束が必須だったと考えるべきだろう。それで、佐賀や土佐、長州の藩主までも動員なのである。
封建制を維持したい大名はたくさんいただろうが、最も権力を持っていた久光を、自らの藩主の父ではあったが、孤立させなければならなかったのである。
後に、有名な話として、明治4年7月14日『廃藩置県』が敢行されたとき、西郷と大久保に騙されたと、久光は怒り狂い、夜通し、錦港湾に花火をあげさせて鬱憤晴らしをしたと言うことだ。

つづく

――海音寺潮五郎談――7

「土方歳三はなかなかの戦上手、驚嘆した」
「天才だ」
「悠々自適している様を装って、機会の到来を待っていた西郷」
――海音寺潮五郎談――7

「西郷は無責任だ」と、言った人がいる。
長州の木戸孝允、大村益次郎などだが、箱館が収まったあとは戊辰戦争終了で、確かに西郷は故郷へ帰ってしまった。
これから日本は創業の苦難が山積しているのだから、それに関わることなく故郷に帰ってのんびり暮らそうとは、無責任きわまるってことだ。
僕は思うのだが、じゃあ、西郷が戻ってきたら歓迎するのかと聞きたい。きっと極度に奢侈贅沢を嫌う彼の高潔さから、彼ら自身が困ることになるので、邪魔臭く扱うはずだが。
西郷の誠心一徹な身構えは、あの当時の汚染された政府高官たちには胡散臭い存在であっても、好むものではないはずだからだ。

堺屋太一に至っては、「陸軍大将が兵を率いて何が悪い」と西南戦争を引き起こしたとか、「子孫のために財産を残した」と書いているらしい。また、「鹿児島県だけ税金を安くしろ」と西郷が運動していたと言うことらしいが、本当なのか。堺屋さんほどの影響力のある人が言えば、皆が信じる。
何かの間違いに違いないと思うのだが、もし本当なら、僕の西郷感の根本が崩れてしまう。

「陸軍大将が兵を率いる」件については、明治4年には、本当に言ったと思われる。
だって、明治4年7月の廃藩置県の時には、薩摩、土佐、長州の兵を8000人集めて御親兵とし、自らがその頂点に立った。どんな内乱が起きても最高責任は西郷が負うし、自分が兵を率いて鎮撫してみせるから、思い切り改革を進めなされと言ったということだ。
そのくらいのことは言うだろう。
だって、廃藩置県は明治維新の総仕上げであって、と言うより、維新そのものであったのだから、西郷自身何が何でも成し遂げる必要があった。勿論、暴動が起きれは武力に訴えてまでも。

西南戦争のときは、ちと、事情が違う。
彼は、とことんいきずまってしまった。自らが起こした維新がこんなていたらくで国民を苦しめ、一部の政府高官が贅沢三昧の生活を送り、汚職がまかり通っているのか。この現実に対して、大きな責任を感じていたのである。
責任感の強い西郷は、自分の責任であると思い続けていた。
これはまた、坂本龍馬の言った「日本を洗濯する」意味で、もう一回本当の洗濯をしなければならないと考えていたと思うのだ。
つまり、『維新のやり直し』をするために、兵を率いて政府に対して『申し上げたき議』があると、明治10年2月鹿児島を出発したのだ。
これが西南戦争に発展してしまった。
この時の明治政府は、西郷軍が九州を超えて本州に足を踏み込む事態だけは避けなければならなかった。そんなことをさせたら、日本国中の不平不満の分子が氏族百姓を問わず、立ち上がってしまう。それまで、全国の不平士族は、西郷が立つのを心待ちにしていたのだから。

堺屋太一の言葉に反論したいのだが、適当な資料が見つからない。
誰か、助けて。
でも、西郷の行動、発言、その軌跡などをたどれば、蓄財や財産形成、鹿児島だけを贔屓などするタイプの人間ではないことがわかるはずだと思うのだ。
征韓論論争のことも、世間を誤解させる記事を書く人が多くて、本当の西郷の実態を伝えていないのだが(西郷自身、海音寺さんも指摘しているが、『征韓』と言う言葉は一度も使っていない。遺韓と言っている)、この西南戦争へ突入するいきさつも正確さを欠いている記述が多い。
いかにも、西郷が戦争好きで、兵を率いて威圧的な雰囲気を感じさせる記述が多いのに閉口する。海音寺さんの文章で、ちと長くなるが紹介する。

   西郷は無欲無私、功名富貴にはまるで恬淡なひとではありますが、自らが主唱し、自らが中心になって始めた維新革命が最も肝心な初一念を忘れ、ふやけきって堕落し、民の災いになることが多いと思われるとき、悠々自適などしていられる人ではありません。彼は最も良心的な人です。愛情深い人です。革命途上に死んだ先輩や同輩や後輩に対しても、国民に対してもすまないと、いつも胸に焼金を当てられるような気持ちであったに違いありません。
敬天愛人の彼の信仰哲学が許しません。
   
   それでは、彼は何時起とうと思っていたのでしょう。
   政府の堕落がきわまって、国民の不満と憤りがきわまれば、きっと自分を待望する機運が盛り上がるであろう。そのときこそ兵を率いて東上し、政府を根底から作り直そうと考えていたのだと私は見ています。

   ですから、明治7年に佐賀の乱が起こったときも起たず、明治9年に神風連の乱が起こり、これに呼応して筑前秋月の乱がおこり、その翌日に萩の乱が起こっても、起たなかったのです。これらの乱はすべて西郷を当てにして、自分らが起こったらきっと西郷が立ってくれるだろうと思って起こしたのですが、西郷ははやり立つ子弟らを叱りつけ押さえつけていました。時期尚早であると、彼は見たのです。

   これまでの西郷観は勝海舟作の『城山』の琵琶歌の「わが身一つを打ち捨てて、若殿原に報いなん」と言う文句や、副島種臣の西郷に対する弔歌、「ぬれぎぬを乾さうともせず子どもらの、心のままにまかせたる君」などが元になって、いつか民衆の心理に形成されて定着したのもだと思いますが、私に言わせれば、海舟の琵琶歌のこの部分と副島の弔歌に対するに当たっては、明治と言う時代の空気を考えなければならないと思うのです。
   
   明治と言う時代は、皇室に対する忠誠心が至上道徳とされていた時代です。殊に明治初期は維新革命が尊王を旗印として革命勢力を結集して旧政権を倒して新政権を樹立し、新しい政治方式を強行している時期でしたから、最も尊王が強調され、政府に対する武力を持ってする抗議はすべて天皇に対する反逆とされました。真実は鳥羽伏見戦争でも、奥羽戦争でも、奥羽や北越の諸藩の反抗も、佐賀の乱も、神風連の乱も、秋月の乱も、萩の乱も、単に政府に対する反抗で、天皇には関係はなかったのですが、天皇に対する反逆とされました。
すべて革命の時代の善・悪・正・不正は、道徳を持って基準にするのではなく、必要、不必要が基準になるものなんです。だから、そうなるのです。

   海舟にしても、副島にしても、西郷の清潔にして純粋な志をよく知り、最も親しい友であっただけに、西郷が逆賊とされることに忍びなかったので、本人の意思ではない、子弟らが事を起こしたのであり、子弟らを愛するあまりに、一身を任せたのであると庇うためにあのように詠ったのだと、思うのです。

   西南戦争の起こる直前、西郷が私学校の壮士らのとりこのようになって、壮士らの監視なくしては人と面会も出来なかったことは、アーネスト・サトウが鹿児島で実見して、手記に書き残しています。
   サトウは上海から東京に帰るに当たって、パークス公使から鹿児島に回って西郷の様子を調べてくるようにと命令されて、鹿児島に来て、西郷へ面会を求めますと、壮士ら数人が西郷に従った上で、サトウと面会させたと書いています。サトウは鹿児島から陸路をとって肥後路に入るのですが、すでに西郷軍は陸続きとして大雪の中を進発中であり、サトウは寒さと飢えに苦しみながら旅を続けたのです。

   ですから、西郷が一身を壮士らにまかせきっていたことは事実です。しかし、彼自身、立つ気がなかったのではないと、私は信じています。前に書きましたが、遺韓大使事件の会議が、暴力的に岩倉・大久保派に否決された時に、維新のやり直しの決心が固まり、その心を抱いて辞表を提出したに違いありません。そして、悠々自適している様を装って、機会の到来を待っていたのです。

つづく
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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