村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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イタリア紀行――7(最終回)

ローマ、近代都市ではなく、遺跡の町だった。

ローマというところ、イタリアの首都なのだから、もっともっと近代化されているのかと思いきや、意外、遺跡だらけのところだった。
バスの中からの写真

ナポリなどと比べて、車の数は相変わらず多いのだが、街がナポリのように騒然としていない。街全体が世界遺産に指定されているだけあって、世界一の遺跡の町としての誇りのようなものをもっているのか、そこいらじゅうが昔のままである。
なんだか、前回からナポリの悪口ばかり言っているようだが、ナポリは、中南米の香りがするのである。とてつもなく明るく楽しい、すべてについてあまりこだわりがなく、ミラノのようなファッション感覚はない。清潔感などには無頓着な感じか(つい、悪口)。

この日(9月26日)朝早くから、添乗員にせかされた。
添乗員ばかりでなく、ガイドにも急げ急げとローマの道路を走らされたのである。急坂を登って着いたところは、バチカン市国のなにやら長い塀の外。
そこへ行った途端に、急がされた理由がわかった。
まだ、朝の8時前なのだが、そこは既に長蛇の列なのである。一体、何が起こったのかと思うほど、熱気に満ちている。
みんな走ってきて、列に並んでいる。1分おくれれば、50メートルから100メートル後ろになるといっていた。
バチカンの美術館、サン・ピエトロ寺院、システィーナ礼拝堂などを見学するためなのだ。

セント・ピエトロ寺院前

セント・ピエトロ寺院

セントピエトロ寺院内の天井画

セントピエトロ寺院内の天井画

バチカン美術館内の廊下の天井

バチカン美術館内の廊下の天井

バチカン美術館内の彫刻

バチカン美術館内の彫刻

なにせ、この地球上には8億人のカトリック信者がいて、ここがその総本山と来ては、巡礼に来る人々で氾濫するのも仕方ない。メッカの巡礼に対するものと考えれば、納得。
カトリックでない僕らが、むしろ、余計な人間なのかもしれない。

それにしても、この美術館といい、サン・ピエトロ寺院といい、礼拝堂といい、あきれるほどの美しさ、規模、品数の多さ、豪華さ、筆舌に尽くしがたい。
とくに、あのミケランジェロの『最後の審判』は、先に書いた『最後の晩餐』同様、人類の貴重な宝物に違いない。圧倒される天井画に続く最後の審判の壁画は、なんとも神秘的、幻想的、圧倒的であった。僕は、ツイ、中にいる見学者のまなざしを見てしまった。皆さん、普通の目じゃなかった。何か、この世の不思議なものを眺めているような雰囲気なんだ。
普通の感じの人は、中にいたガードマンだけだった。中は、撮影禁止だし、テロなぞを警戒して、こういう人がたくさんいた。
でも、キリストというと、大概がやせ細っていて髭のはやした、下腹部だけ布で隠した裸のオジサンなのだが、この壁画のキリストは筋肉りゅうりゅうで若々しい人なのだ。
どうしてでしょう、わからない。
ガイドさんが説明したのかもしれないが、聞き漏らしたか。

ここの礼拝堂から寺院なぞ、その規模や内装、装飾品なぞは半端じゃない。当時だって、とてつもない金銭が必要だったに違いない、と、ツイ貧乏人根性が出てしまう。
ここを建設するに当たって、当然、計り知れないほどの金が必要だった。16世紀に教皇レオ10世は、サン・ピエトロ寺院建設のために『全贖宥(しょくゆう)』というものを公示し、贖宥状を購入すると犯した罪が許されるとしたらしい。
《これまで、免罪符といわれてきたが、どうやら贖宥状という表現が正しいらしい》
これに反発したのがマルチン・ルターで、そこから宗教改革へと発展していった。過去の罪に対する悔い改めなしに、贖宥状の購入のみでその罪が許されることに、ルターは怒った。もっとものような気がするが---。
宗教の世界も、金か。
この時代から既に、ローマの教皇庁への献金というものが盛んに行なわれていたらしい。それで教皇から特別の権威やら、称号やらを与えてもらい、夫々の地域で絶大なる権力を振るう。
なんだか、政治家と中央官僚、そして地方の悪代官と越前屋の関係みたい。
そこに水戸黄門や大岡越前が出てくる。ルターは民間人だったろうが。

でも、当時のそうした悪業(?)のおかげで、変な話、今僕らは未曾有の素敵な芸術作品にお目にかかれる。
う~ん、困った。
まっ、この話は置いといて。

ローマというところ、変な印象もある。
映画『ローマの休日』である。
あの映画、実に歴史的な名画だと僕も思うのだが、そのおかげでローマの人気スポットに変な変化が起きている。
実は、僕は今から約20年ほど前に、あの新藤兼人さんの主催するシナリオ作家協会で修行したことがあった。その時のシナリオのお手本が『ローマの休日』だった。先生に言わせれば、脚本の起承転結から台詞、ト書きなぞ、すべてにわたってお見事らしい。
僕らは、主演のヘップバーンやグレゴリー・ペックに没入していたのだが、違う角度から勉強させられた。

あの映画で、グレゴリー・ペックが『真実の口』に手を突っ込んで抜けなくなるしぐさをするシーンがあった。それ以来、あそこが観光名所になったのだが、最初は日本人のバスだけが止まっていたらしい。ところが、今じゃ、世界中の観光客があの寺院へ行くようになってしまった。だから、僕らが行ったときも、西洋人のほうが多かったくらいだ。髭の叔父さんが丸い壁の彫刻に彫られているのだが、嘘つきがその口の中に手を入れると抜けなくなるというもので、これも手を入れるだけで、30分ほど待たされた。
真実の口

それから、あの『トレビノ泉』だが、とにかく人の多いところだった。コインを投げるのもいやになるほど、人ごみだった。写真を撮りたかったのだが、人の頭越しになるので、悔しいから撮らなかった。
もう一つ、あの『スペイン広場』だ。その名は、近くにスペイン大使館があるからという、これまた変な理由でつけられた。それはいいとして、何で、あそこの階段にああして座るのだろう。何かご利益でもあるの?
スペイン広場

きっと、ヘップバーンがあの階段を下りながら、ジェラード(アイスクリーム)を食べていたからなのだろう。
唯、意味もなく座っている。
その人たちの多いこと、押し合いへしあいであった。これも、あの映画のセイカ。ここもきっと、人の少ない静かなときに座ると、落ち着いていいのかもしれない。

ローマは、もっとゆっくり見学したかった。僕の年代は、どうしてもあの映画『ベン・ハー』のイメージが強く、特にあの巨大な馬場で、戦車で戦うシーンが印象的だったのだが、そうした遺跡も見たかった。
コロッセオなどは行ったのだが、ローマ発祥のパラティーノの丘に馬場跡があるらしい。フォロ・トライアーノ、フォロ・ロマーノなぞも行きたかった。もう1回、行くぞ。
コロッセオ付近


夜、ツアー参加者全員で、最後の晩餐を行なった。最後の日だけは、食事がセットされていなかったからだ。(N旅行者も粋な計らいをする?)
日本人が経営している『tomokoのレストラン』に行った。
晩餐

持参していた僕のCDをかけてもらった。たまたま、イタリア映画の主題歌が前半に集中していたせいか、オーナーに気に入られて、そのCDをプレゼントする羽目になった。今頃、あのレストランでかかっているのかな。
ところで、このHPでも、数日前に『MUSIC』のコーナーを設けたので、僕の演奏をお聞きになりたい方は、そちらにアクセスしてくださいね。
tomokoのリストランテは、一人食事料金だけで35ユーロしたので、日本円にすれば5000円以上になる。そのせいか、献立内容も、満足いくものだった。

帰りに、ここにきて初めて雨に遭遇した。いいお湿りに感じた。
僕らは、なんてついていたんだろう。
この日、ヴェネチァは大洪水で、サン・マルコ広場は水浸しだったという。快晴という何よりのプレゼントを神から授かった。イタリアという南国の(といっても、日本と緯度はたいし変わらないが)国の眩しい陽の光を存分に味わうことが出来た。
この次行くときは、イタリアの本格料理を味わうぞ。
それに、一箇所でゆっくり、作品や遺跡に親しみたい。

今回は、一緒に廻った新婚さんなどと仲良くさせていただいた。あの人たちも、きっとこのブログを読んでいてくれるに違いない。
今、このブログを読んでくれている人たちも、僕の脱線の多い、たわいのないお喋りに最後までお付き合いありがとう。
イタリアのお話は、この辺でお開きにいたしましょう。
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学習指導要領と受験対策、受験問題の争い

正直もんは、馬鹿になるしかないか!
『学習指導要領と受験対策、受験問題の争い』

この間、“いじめ関係の自殺者がゼロ”という国からの報告で、「まさか」と、このブログに書かせていただいたが、ここのところ世間を騒がせているニュースで、また困った問題が起こっている。

高校で、学習指導要領どおりに授業を行なっていないから、必須科目が履修されていない。それで、生徒たちが卒業できないという問題が起こっている。高校3年で、世界史が必須になっているらしいが、教えていないらしい。各都道府県や市区町村の教育委員会は、『とんでもないことだ』と怒りをあらわにし、れいによって、幹部が何人か並んで謝罪会見だ。文部科学省も、都道府県の教育委員会に厳しく指導するらしい。
初めは、富山県のある高校だけのことだと思ったら、いやはや、全国から、出てくるは出てくるは、あきれるほどである。

とは、僕の本音ではなく、全く“あきれ”ていない。
多分、全国の皆さん、そんなことは百も承知で、殆んどがあきれていなくて、そんなの『当たり前』だと思っているに違いない。
何で、今頃、こんなニュースが出てくるんだろう、と、逆に不可思議でならない。
だって、こんなこと、既に、文部科学省だって先刻承知のことだし、それでなくては、どこの進学系の高校も今の受験競争に勝ち残れないのである。だから、受験有名校は、当たり前のこととして、必須の科目を無視してきている。みんな承知でやっていることを、何でいまさら。
あきれる。
新聞も新聞だ。朝日だって毎日だってその他だって、早速全国に調査を開始したとか書いてあったが、調査すれば、星の数ほど出てくることは誰だってわかることだ。そして、犯罪、犯人扱い。
今朝(26日)の読売新聞では、11県65校で発覚したと書いてあった。このうち、岩手県では10校判明。1600人の3年生が単位不足らしい。
ニューヨーク・ヤンキースの松井秀喜の出身校、石川県の星稜高校では、3年生全員683人が単位不足と出ていた。名を上げられたところは、かわいそう。だってこれから、どんどん出てくるはずだから。新聞はそれを面白がって、記事にしている。今日は10月26日で、まだこのニュースの出たてだから数は少ないが、これからとんでもない数が世間をにぎわすはずだ。
僕は、こうした違反を奨励しているわけではない。でも、そのようになるように仕向けておいて、違反だと責めてみても、日本全国が違反だらけなんですよ。
どうするんだろう。

おそらく、冬休みや土日に補習して、滑り込むのだろう。まじめにやれば、受験に影響を及ぼす。
正直者が、馬鹿を見ることにならなきゃいいが。
きっと、学校だって生徒だって、いまさら真剣に授業するわけがない。
唯、形だけのことで、生徒は授業なぞ聞いていないだろうし、ほかの教科書や参考書を広げるだろう。また、耳栓をしてほかの受験勉強をするのだろうか。
何か、変。
これがわが国の教育の実態である。だから、今度の安倍さんは教育改革を旗印にしている。でも、このこと、どうするの。

そもそも、これは、学習指導要領と大学側の受験科目、内容が一致していないこと。ここに、問題の本質があるってコト。
これからは、学習指導要領に沿って受験問題は作られます、と宣言すれば、こんな問題は起こらないはずだ。
このことは、誰だって知っている。なのに、何故、今更なのである。

ついでだが、僕の娘は今、高三である。
だから、この間、京都のR大学二次試験の付き添いで行ってきた。あの娘も、単位が足りないのかなあ。
子供に責任はない。でも、既に卒業していった生徒たちはどうなるんだろう。卒業資格がないのに、卒業したことになる。本人たちが、可哀想ではないか。

PS 今日は翌日の27日(金)である。
 今朝の新聞の見出しにこうある。
“『都立高でも必修漏れ』八王子東、3年生の2/3”
同校の三年生約320人のうち、必要な授業を受けているのは1/3程度
ということだ。
東京や、この付近にお住まいの方々は、八王子東といえば多摩地区ではダントツの東大進学校であることを知っている。

都内では、日比谷、西、戸山高校だろう。僕は、年代が古いから、最近のことはよく知らないが、これらの高校は都の教育委員会から『進学指導重点校』に指定されている。

イタリア紀行――6

イタリアの新幹線はいいね。それと、カプリ島、感激です。

イタリアに来て6日目、9月24日だ。
この日は、朝一でイタリアの新幹線ユーロスターに乗って、フィレンツェからナポリへ向かった。
特急列車

この列車、日本の“ひかり”や“のぞみ”より乗り心地がよかった。4人がけで2人ずつ向かい合っているのは、日本でもよくある形だが、余裕があるのです。間にテーブルがあるんだけど、それが大きくて食事は勿論充分だし、本やノートも充分に広げられる。
なんか、日本のはせこくて、狭いんだよね。尤も、日本の新幹線は、間にテーブルはないか?
ユーロスターは、だから、ゆったりしているし、音も静かだ。時速200キロで流れるように進んだ。
この旅、天気がズーとよくて、この日も快晴だったが、窓の外に見えるイタリアの穀倉地帯や草原など、実に美しかったですよ。これまで、ズーと、バスの旅だったけど、間に列車が入って、とっても仕合せな気分でした。
ユーロスターの車内

ナポリまでは、途中ローマの駅を通り過ぎて、約3時間だった。

ナポリの駅前は、正直言って、『汚い』の一言だ。
ごみごみしていて、車が多いのか、空気が汚く感ぜられる。その上、建物も中途半端に古い。変な表現なのだが、ナポリも一応伝統があり、中世ではパリに続く大都市だったと聞くのだが、その偉大なる美しい都市を『きちんと』保存してきていないようだ。
このことは、何も駅前のだけのことではなくて、ナポリ中がそうなのだ。
あの美しい、ソレント半島が眺望できる海岸線に来ても、いまいちきれいじゃない。
ナポリの海岸線

街中のあちこちに、よく南国の都市にあるやしの木とかシュロとかが沿道沿いに植えてあるのだが、日本の宮崎や鹿児島、高知辺りの駅周辺のほうがよほど美しい。この植物、聞くところによるとナポリが発祥ではなくて、イスラムのどこかから持ってきたものらしい。
何か、空気が澱んでいる感じなのだ。
このナポリ、やはり1861年にイタリアに編入されたらしい。それまでは、いろんな国の統治が入れ替わり立ち代りあったらしい。でも、こういうことはイタリアの北のほうの都市も一緒だ。

これまで廻ってきたイタリアの北から中部の都市の雰囲気とナポリとは、全く違う国に来てしまったかのような違いさえ感じる。
誰かが言っていた。「このイタリアという国は北のほうから南下してきて、ナポリまでは一応豊かなのだが、ここから南へ下がると貧困な人々が多く生活しているんですよ」と。
ナポリが、丁度、境目にあるんだって。
よくわからないが、そんなものか。

この日の午後、憧れのポンペイに行った。ナポリ市内からポンペイへ向かうバスの中から、左手にまるで浅間山のようなヴェスビオ火山、右手には今晩宿泊することになっているカプリ島が見える。好天にも恵まれたせいもあるのだろう、実に美しい光景だった。
ポンペイは、とにかく死ぬまでに、一度はみてみたいと思っていた遺跡だ。ナポリは死ぬまでにみたいとは思わないが、ポンペイは皆さん、是非見ておいてほしい。
西暦79年に火山が爆発して、あの街がそのまま残ったということだから、今から約2000年も前の人類の生活の実態ということになるのだが、あの地方の人々がどんな生活していたのか、手にとるようにわかる。

イタリアというところ、ここポンペイばかりでなく、ガイドの説明が是非必要である。何度も行っている人はいなくてもいいだろうが、初めての人は、ガイド付きで周遊して欲しい。
何故、こんなすごいものが建造されたのかとか、作品として残されたのかとか、様々な「動機」がわかるからである。
大きな円形劇場はあちこちにあるが、小さい劇場がそのまま残っている。
ポンペイの写真

ポンペイの写真2

人々の住まいも、お医者さんもパン屋さんのお店もどんな店構えだったのかもわかるし、あの当時のことだけど、文明度が測れて興味深い。
ポンペイの写真3

ガラスの器の中に、ミイラのような人間が入っていたが、本物か?
ミイラ

ここは、もう一回来て、ゆっくり見物したいところだ。

この日、夕刻に船でカプリ島へ渡った。約1時間ほどで着く。
背後にヴェスビオ火山を見、左手にソレント半島を眺めながら、船は正面に見えているカプリ島に向かう。陽が傾いてきて、午後の陽射しに映えるソレント半島がなんとも美しい。
カプリの港に着いた。
ここは、辺りを見渡すと、どこをとっても、もし僕が絵かきなら、全部魅力的なアングルに使えそうな景色が広がっている。
カプリ

カプリ2

カプリ3

夕方のカプリの港

今晩泊まるホテルに向かう途中、ケーブルカーに乗ったのだが、そこからの眺めがまたすばらしい。

イタリアというところ、いろんなことがあるが、こういうすばらしい光景を見せられると、いやなことはすべて忘れてしまう。
このカプリのホテル群はいわゆるリゾートの気取った小奇麗な建物が並んでいるのだが、こんなところにも、高級ブランド店が進出していた。そうか、こういう高級別荘地のようなところだから、そういう人種の人たちが遊びに来るから、売れるんだ。
日本で言えば、軽井沢の旧軽通りのようなもので、普段金がなくてピーピーしている奴でも、あの雰囲気でツイ気取って財布の紐が緩むのかもしれない。
僕らの泊まったホテルも、よく南ヨーロッパの観光パンフで見るような白亜の素敵なところで、これまでにない高級感が感ぜられた。こういうところだからか、食事も美味かった。
でも、建築された年月は結構古いのだろう。あちこちにがたがきている。ハワイでも、あのワイキキビーチ沿いのホテルに泊まったことがあるが、殆んど皆古い。ブームになって、世界中の観光客が押し寄せ始めた1950年代ゴロに一気に建築されたのだろうが、海外のホテルは、特に水周りに問題が多い。

さて、翌日は早いものでもう7日目になる、9月25日(月)。
この日は朝から、例の有名な「青の洞窟」を見るために港に一直線。あそこは、いくら天気がよくても、波が荒いと船が洞窟に入れない。だから、一番問題なのは、風だ。この日は少し吹いていたが、何とか入れそうだと、船頭が言っていた。だから、海が荒れないうちにと、急いで、洞窟に向かった。
モーターボートで、丁度小半時ぐらいで洞窟の前に到着。なるほど、入り口が狭い。間口2メートルはないだろう。高さも50センチほどしかない。これじゃあ、波が高ければ、確かに入れない。
僕らが到着したときは、荒れてはいたが、何とかは入れるという。急いで、小船に乗り換えて、入り口に向かった。小船は6人が限度で、僕らのような団体は何回かに分けて入ることになる。
モーターボートから小船に乗り移るときの怖さは、半端じゃない。もし、足を滑らせたら、海に落ちる。相当ゆれているのである。僕でも、怖かった。
洞窟に入るときは、全員真平に寝そべらなければならない。頭がぶつかってしまうからである。

入ったとたん、突然暗闇の別世界に入った。
不思議だ。
海面がしづかである。波なぞ、全くないのである。
よく、映画なぞで見る、洞窟の中だ。
突然、船頭が、サンタルチアを歌い始める。その声が洞窟内にこだまして、異様に響くのである。
と、また、振り返ると、何と、海面がとんでもない「青」なのである。
青の洞窟の中

美しいのを通り過ぎて、不気味なほどである。
あまりの意外さに、あっけに取られた。でも、神秘的であり幻想的な色彩、空間であった。僕は、大して期待はしていなかったのだが、一緒に乗り合わせた女性たちが、悲鳴とも取れる感激の歓声を上げていた。聞けば、この洞窟を見たくて、このツアーに参加したという。
なるほど。
船頭に対するチップは一人1ユーロであったが、僕らは倍の2ユーロ払うから、もう1周してくれと頼んだ。快くOKしてくれた。
なんとも、神秘的な、この世の不思議である。

カプリ島というところは、どこを取ってみても美しい。この島には、カプリ市街とアナカプリという街が存在しているのだが、そのどこをとっても、地中海の夢の島にいる気分を味わうことが出来る。
夕方のカプリの港2

青の洞窟で、日本では特に知られているようだが、地中海の贅沢なリゾート地としてのカプリを味わうことが出来る。
僕は、小学校の音楽の時間で「カプリ島」という曲を歌わされたのを覚えていて、そんなにいいところなのかなあ、と長年思い続けてきたところなので、結構感激してこの島を去った。

イタリア紀行――5

歴史と伝統、驚愕の街フィレンツェ。本物とレプリカ。

とにかくこの旅、朝早く起こされる。
仕方がない。
イタリアの主要都市、世界中から観光客が見学に訪れるわけだから、朝早くから美術館、博物館、教会などに押し寄せるのだ。
イタリアに来て5日目の朝は、待望のフィレンツェだ。
朝一番で、町の中心を流れるアルノ川にかかるサン・ニッコロ橋を渡ってミケランジェロ広場に連れて行ってくれた。
ここは、フィレンツェの街が一望できる丘になっていて、朝もやが明けて快晴になった好天気の中、この街の美しさが眼に飛び込んできた。
街の中心にサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のドゥオモが聳え立っている。フィレンツェの象徴だ。この建物より高いものの建設は中止されているという。
うん、わかる。
ミケランジェロ広場からの眺望

フィレンツエの大聖堂

次に行ったのは、シニョーリア広場である。
イタリアというところ、最初の日のミラノから始まって、どこの都市に行っても辻辻に広場というものがよく設置されている。その中でも、このシニョーリアという広場は特に美しいし、広い。
フィレンツエノ広場

日本でよく目にする彫刻なぞが隅に並んでいる。でも、ダビデの像はレプリカだ。
広場にあるダビデ像

ここでウェディング姿の娘さんが目に入った。よくみると東洋人の顔つきだ。隣りに日本の着物を着ているご婦人がいた。だから、日本人だとわかったのだが、近づいて、まさか花嫁さんには話しかけられないので、彼女の母親と思われる和服姿の人に聞いてみた。言うには、大阪から親戚知人一同で結婚式に来ているのだという。
ヘエー、驚いた。
でも、ハワイへ行ったときも見たし、別に、今や驚くことでもないのであろうが、それでもこのフィレンツェに大人数で来るのは大変だ。ちなみに相手はイタリア人だという。
よくみたら、当たり前だが、花嫁の隣にいた。気がつかなかったのは、歳の差が離れているからなのだ。他人の結婚年齢なぞ余計なお世話だといわれそうだが、男はどう見ても、半分白髪で50歳ぐらいだ。娘さんは多分、30にはなっていない。
広場での結婚式

日本の女性、最近は韓流ばかりでなく、イタ流もか。

この広場に人が多いのは、頷ける。
広場を囲むようにヴェッキオ宮殿、ウフィッツィ美術館、国立美術館などが並んでいる。特に、僕たちが直ちに並んだウフィッツィ美術館は圧巻だ。ここに入るのに普通は早くても1時間は並ばされるといっていた。僕らは予約でもしてあったのか、並ぶ列が違っていて、運よく15分程度で入れたのだが、ガイドが「ペットボトルを持っている人は直ちに捨ててください」という。
えっ、まだ全然飲んでいなのに、かばんの中の飲み物は一切捨てさせられた。これも、テロの予防らしい。中へ入ると、まるで飛行場と同じで、あのボディーチェックの機械を通され、持っている荷物はすべて機械にかけられて中味を調べられた。
結果として、ここの美術品はメチャすごい。だから、あの、厳しいチェックは当たり前だと得心した。
ルネサンス3代画家の名画をはじめ、次から次へと、美術の専門書に出てくる名だたる絵画が連続して、「これでもか」と、怒涛のごとく見せ付けられた。ああゆう作品、一つでも上野の西洋美術館にやってきたら、大変な行列が出来ることだろう。一度、モナリザが来たときに、大行列が連日続いて、パンダと同じくみられるのが一人5秒だか10秒だかだったと聞いたことがあったが、ボッティテェリの「ヴィーナスの誕生」ダ・ヴィンチの「受胎告知」ミケランジェロの「聖家族」など、巨匠の稀有な超大作に次から次へと接して、感覚が麻痺してしまった。だから、最上級の作品を見せられても、感動しなくなってしまう。

僕は正直なところ、絵画や彫刻の超大作を見ても、どこがそんなに優れているのか、判断できる能力を持ち合わせていない。写実的な絵はそれでも少しはわかるが、抽象画なぞにいたってはそれがたとえピカソの作品であっても、その価値がわからない。
それ程に“でくのぼう”だ。
例えば、カラヤンやフルトベングラーの第九の演奏がいいといったって、どれだけその価値のわかる人がいるんだろう。ウィーンフィルやベルリンフィルの演奏が優れているといっても、NHK交響楽団との差がどれほどあってどの程度の人々に理解できるのか。はっきりいって、殆んどの人はわからないのじゃないかな。
ジャズの巨人で、ジョン・コルトレーンという人がいた。僕が学生のころ亡くなったのだが、僕は、涙を流して悔やんだのを覚えている。
彼の優れた演奏は伝説的になっているが、評価されるのは「至上の愛」までで、「コスミック」などという作品は狂騒な音の連続で、晩年の彼の前衛的な音楽は、おそらく殆んどの人には理解できないものであろう。相当なコルトレーンファンでも、あれは嫌いだという人が多い。同世代のジャズの巨匠マイルス・デビスにしても、晩年の作品は評価する人は少ない。
でも、巨匠の作品については、すべからく最高の評価をする癖が、しなければいけないという義務感がわが民族にはあるみたいだ。

今から約20年も前の話になるが、東京の葛飾区のある小学校5年生の一クラスの子供達に好きなこと、やりたいことをやらせることにした。先生も誘導したのか、子供達はジャズをやりたいと言い出した。
そして出来たのが、ジャズのフルバンド『にいにいぜみ』というバンドであった。このバンドが、まさか小学生とは思えないほどの名演奏をするようになった。
僕ら、当時は'80年を少し過ぎた頃だったと記憶するが、自分たちより上手なのに愕然とした。2年ほど前だったか、映画で“スウィング ガールズ“がヒットしていたが、彼女たちは確か高校生だった。片や小学校5年の一学級なのだ。僕の聴くところ、にいにいぜみのレベルのほうがはるかに高かった。
にいにいぜみ楽団は人気になり、カウントベイシー楽団が日本にやってきたとき、新宿の厚生年金会館で公演があったが、その前座で招かれるまでになった。
当時、日野でもジャズ好きが集まるスナックがあって、そこでブラインドテストをしたことがあった。相当のジャズマニアだと自認する人も、本物のカウントベイシーの『APRIL IN PARIS』とにいにいぜみの演奏する同曲を見分けがつかなかったのである。
指導した先生の能力の高さや、ご努力の程は想像を絶するのだが、片や、子供達の未知の物に対する可能性のようなものに驚愕する。指導の方法、もっていき方一つで、こういうレベルにまでいけるのかってことだ。

その時の逸話の一つとして、―――。
トロンボーンという楽器がある。
普通ジャズのフルバンドでは、この楽器を4本使う。あと、トランペットが4本、サックスが5本が基準だ。そのほかにリズムセクション。
トロンボーンは右手でスライドを伸ばしたり縮めたりして音を出すのだが、にいにいぜみ楽団は、子供だからいくら伸ばしても手が短くて、目的の位置に届かない。そこで、紐を右手の指に取り付けて、目標の位置に届かせ、お目当ての音を出す工夫をしたということだ。

カウントベイシー楽団といえば、デューク・エリントン楽団と並んで、世界でも屈指のジャズバンドである。それと類似した演奏をした“にいにいぜみ楽団”。
本物とレプリカとの違い、わからないことが多々ある。絵画でも、彫刻でも、芝居でも映画でも、音楽でも、芸術作品とそうでないもの、どこで線を引くのか、どう評価したらいいのか、正直、僕にはわからない。
きっと、各自の心の中、感性にあるのに違いない。

ルネサンス時代の絵画は、写実的、幻想的、また創造的で、わかりやすいように感じる。でも、原作者の意図となると、解説を聞かないとわからない。ましてや、作品の優劣となると、素人にはなかなかわからないものである。彫刻なぞでも、どれが優れているのか、さっぱりわからない。解説を聞いて、成るほどと思う程度だ。じゃあ、何故、人は最上級のものを求めるのだろう。
おそらく、理解できなくても、よいものに接していると気分がよい、気持ちが洗われる、居心地がよい、何か触発される、人間や生き方について改めて考え直させてくれるとか。
いや、きっといいに違いない、また、いい気分になって帰ってこれるなぞで、足を向けるのではないか。
僕の場合は、どんなジャンルでも、出きるだけよいものに接していたいという欲求からである。『良品』といわれるものから、常に何か触発されたいのである。これは、食べ物からあらゆる道具類、素敵な女性、いい男も、すべてのものに対してである。

このフィレンツェというところ、どこへ行っても世界遺産みたいなところばかりで、驚きの連続であった。
街が美術館、博物館なのである。
町全体が、遺跡

(ウフィッツィ美術館から見たヴェッキオ橋)

今回、僕が廻った都市に共通して言えることは、街中に新しい建築物のいわゆる”工事中”がなかったことである。いや、工事中はたくさんあるのだが、すべてが昔の建物の修理や改築程度なのだ。
だから、フィレンツェの街中で一流ブランドの店が立ち並んでいても、その建物を見ると14~15世紀のものだったりするのである。日本じゃとても考えられないことである。
石やレンガの建築物だから、内装を変えるだけで、現在でも平気に使うことが出来のであろうか。木造では無理なのか。日本で言えば、金閣寺や銀閣寺が建設された時代のものである。フィレンツェの建築物と現代のブランドのお店の雰囲気は実によくマッチングしていて、融合している。まるで、当たり前のようにそこに存在している。

『文化』というものを、改めて考えさせられた。
昔のものをどんどん壊して、新しい技術を投入して、あの都庁のような無機質な建物を建設して行くのが文化的なのか、それともフィレンツェ式が文化なのか。
僕は、後者に好感を持つ。

ところで、フィレンツェでは昼は中華料理だった。
すげえ美味く感じた。日本で食べる美味しい中国料理と同じ味がした。イタリアの美味しいものを食いにきたのに、これはどうしたことだろう。

さんざん夕刻まで散歩した後、朝一番で行ったアルノ川向こうのミケランジェロ広場とは逆の北側の丘の上へ足を伸ばした。ここは、隣町でフィエゾーレという町である。フィレンツェの街からはバスで20分ほどのところだが、終点である。そこから急坂を登ると、頂上付近からの眺めは絶品である。
フィエゾーレの丘の上から眺めるトスカーナ地方

(フィエゾーレの丘の上から眺めるトスカーナ地方)

ここからはフィレンツェの町が一望できるし、トスカーナ地方という地形が手に取るように拝見することが出来る。ここに、あの巨匠たちが生まれ育ったのかと改めて心に焼き付けたが、見ているうち、なんとなくどこかに似ているような気がしてきた。
京都の遠景である。
東山の丘の上の方に、維新の道という急坂ができていて(昔からあるが、その名は最近つけた)、その坂の突き当たりに坂本竜馬の墓がある。もっと歩くと維新の英霊がたくさんそこに眠っているのだが、その辺りから京都の町を眺めると一望できる。ここに霊山護国神社というのがあるが、維新の誕生に貢献した英霊が1,043柱祭られているという。
維新の功労者だから、賊軍の徳川勢は原則いないのだが、面白いことに、幕府側では、ここに新選組の新見錦の霊だけが弔われている。
どうしてだかよくわからない。
だから、僕の本では、新見を攘夷の運動家にしてある。そのために土方に抹殺されたのだと。
その話はいいとして、京都の町並みである。
あそこは、南以外は山で囲まれている。トスカーナとはその規模が違いすぎて比較にはならないが、東山から眺める風景と、このフィエゾーレという街の丘の上からの眺めは共通点があるように思えた。それは、両者とも歴史的建造物や貴重な遺産が保存されているからか。
この二つの町、なんと姉妹都市になっていた。

CD視聴とMUSIC!のコンテンツ新設のお知らせ

Shougo.Netに新たに「MUSIC!」のコンテンツを新設しました。
その中にて先日お知らせしたCDの視聴や曲紹介などがあります。
よろしかったらお立ち寄りください。

いじめによる「自殺」件数は、99年以降ゼロだって、信じます?

イタリア紀行のさ中なのだが、子供のことについて書きたくなった。
ここのところ、再び、子供達の自殺が頻発している。というより、再び顕在化してきたというべきか。
国をはじめとした行政機関は、いじめなど殆んどないような報告をしてきているが、そんなことはない。隠しているだけだ。
いや、都道府県や国には確かに報告はあがってきていない。それ以前に隠している連中がいるということだ。

1980年代をピークに、いじめや不登校などが減少してきているような報告があるが、本当に減っていたのであろうか。
巧妙に、隠し通していたのではないだろうか。
学校側から、市町村の教育委員会に報告しなければ、それだけのことなのだ。だから、市町村の教育委員会に問い合わせてみれば、そういう報告は「あがってきていません」という答えが返ってくる。

私たちは、自殺などの報道があると、テレビでよく「当校にいじめなどありません。そういう事実はつかんでおりません」という、校長のコメントを耳にする。実際につかんでいても、白を切る。それで通せれば、儲けものである。そして、殆んどの場合、この対処法でうまくいく。いつの間にか、忘れ去られ、風化されてしまうからだ。だから、それまで、じっと待つ。
遺族たちは、学校側の責任なりコトの真実を追及したいのだが、決定的な証拠があるわけでもなく、また、探すエネルギーも持ち合わせていないから、諦めざるを得ないのだ。
こんなことの繰り返しで、ここ数十年、子供達は、学校で悩み、家でも本音を訴えることも出来ず、友達にもいえないで、自らの命を絶つ決断に迫られてきた。

今、自殺を考えている子供達は、一体この日本にどのくらいいるのだろうか。決行してしまう子はほんの一握りに過ぎないはずだから、その数十倍は常に存在しているに違いない。
その子らの気持ちを量ると、胸が締め付けられる。

こんな話がある。
今から約5年前、教育委員会の甲課長。
その当時、その課長はさまざま、生徒の問題で悩んでいた。
「どうしたら、子供達が楽しく学校生活をおくれるんだろう」「不登校の子供達をどうしたら救えるだろうか」「学校だけが、あの子達の生活の場か」なぞ。
その甲課長は、1月にその任務についたばかりだが翌2月にこんな電話が入った。

「うちの子を、お宅の市のX中学校に入れてもらえませんか」
その親は、当時隣りの市に住み、その市の中学校に通っていた一年生の親だったが、いじめにあって、自分の子が今の中学に通えなくなって3カ月になるという。じゃあその市内でほかの中学校を探して、そこへ通えばという発想を持ったのだが、それさえそんな簡単ではない。それに、子供本人が嫌がった。そして、小さい頃からハンドボールを教わっている、H市のX中学校にいるG先生のところに行きたいと言い出したのだ。
そして、そこなら、自分をいじめる連中にも会わずにすむし、何とか通えそうだという。甲課長は本当にその言葉を信じてよいのか迷ったし、その当時の常識で、ほかの市の生徒を受け入れるなぞ、そんな非常識が通るわけがなかった。

その両親は甲課長を訪ねてきて、涙ながらに訴えてきた。
何とか、X中学校に入れないか、と。
甲課長は赴任してきて、まだ一月である。そんな常識外の判断をしてしまっていいものやら、悩んだ。
就学担当の職員に聞いてみた。
「そんなことは、できるわけがない」という。
でも決断した。しかし、その決断は当時の教育委員会の職員たちと大きな溝を作ることになってしまった。
「異動で、きたばかりの課長が、なにもわからないくせに、生意気」なのである。「そういう生徒は常習犯で、どこへ行っても同じなのだ」という。

でも、甲課長は、その親子の言葉を信じたかった。自分が「ノー」の決断をして、その子が悩み続けるより、自分が騙される結果のほうを選択した。
そして、X中学の校長に受け入れてくれと、頼み込んだ。その校長は、気持ちよく受け入れてくれた。教育委員会の担当課長からの頼みごとだから、そうしてくれたのだが、その後、その生徒は順調に通学していた。
そんな折、噂が噂を読んだのか、連続して他市の生徒が頼みに来たり、逆に他市への編入を頼みに来たりした。甲課長は、それら要望の実現に向けて、奔走した。だが、甲課長は、教育委員会の組織の人間としては、失格なのであった。こんな人間が管理職にいることは、組織を乱す元凶になるからである。
だから、甲課長がそこへいたのは、大変短かった。何と10ヶ月であった。

組織というものは、一度決めたルールにのっとって業務や任務を遂行するところであって、イレギュラーなことは認めたがらないものである。
新選組が最もよい例である。
法度がすべてであって、例外は一切認めないのである。河合キ三郎の斬首を、もう2~3日待ってやれなかったのか。
その組織論の象徴が、新選組副長土方歳三であった。
だから、新選組は発展した。
もし新選組に、甲課長のような隊士を幹部に抱えていたら、発展することはなかっただろう。
新選組の皆さん全員、慶応3年には、晴れて幕臣になれた。
組織というものは、そういうものである。
これは、どんな社会でも同じである。何も教育委員会に限ったことではない。

もう一つ。
ある小学生が、スーパーマーケットで万引きをした。
捕まえたガードマンは、親に連絡を取ろうとしたが、母子家庭の母親は、働きに出ていてつかまらない。仕方なく、スーパー側は学校に連絡して、担任の先生を呼び出し、初犯であったので警察には連絡を入れないでその子を引き取ってもらった。その担任は、散々絞られ、親に代わって、平謝りに謝らせられた。

ここで、子供が万引きをすると、何で先生や学校が責められなければならないのか、疑問だ。それは、学校の教育のせいだというのだろうか。
もし、2~3件続いて、その小学校から万引きの生徒が出たら、学校の体質を問われるだろう。子供達が、学校でそのような謀議を図っているかもしれないし。そしたら、その学校の責任なのか。
学校だけの責任ではない、といいたい。
いじめも、不登校も同様である。だから、学校も教育委員会も隠さないで欲しい。あの陰湿な、隠蔽体質を変えて欲しいのだ。
でも、マスコミをはじめとした社会にそのような風潮があるから、学校側は隠したがる。

もうひとつ、
学校の先生も、教育委員会の職員もみな、地方公務員である。
当たり前のことかもしれないけれど、大抵の人は出世を夢見ていたりする。
学年主任は副校長を目指し、副校長は校長を狙う。校長は、次の天下り先に、できるだけ美味しいところにいきたいから、皆さん教育委員会によい顔をする。
何故?
教育委員会には、そうした人事権があるからなのです。
日本全国、市区町村の教育長や都道府県から派遣された指導室長が、人事異動や昇格の権限を持っている。
すなわち、「当学校にはいじめもない」し「不登校もない」し、「ましてや自殺などありえない」という模範的な学校運営をしていることが、順調に昇格してゆく条件なのだ。正直に申告なぞしたら、それこそ、自分たちの首を絞める結果になってしまうからなのである。

その結果が、文部科学省が公表している調査結果で、昨年度の自殺件数は105件で、1979年が380件だから激減である。いじめによる自殺の件数は、何と、99年以降ゼロだという。
こんな報告、全国の皆さん、信じているのだろうか。
マスメディアをはじめとした社会が、学校に責任をかぶせすぎるから、こういう隠蔽体質になるのだ。そんなに学校を「いじめ」たって、一向にコトの解決には向かっていかない。だって、ミーんな、知っている。こういうことは、学校より「家庭」だ、「社会」だって。

イタリア紀行――4

ピサの斜塔と大聖堂は、とにかく美しい。

日本を旅立って4日目、9月22日はヴェネチアから朝一番でピサへ向かった。イタリア半島のイーストコーストからウェストコースとへ一直線である。混んでなければ4時間もかからないはずだが、この時期混雑していた。
途中フィレンツェの北を通り過ぎていったのだが、このあたりをトスカーナ地方という。
斜塔1

イタリアという国はトスカーナ州を中央に持っていて、その中にフィレンツェ県があり、またその中にコムーネという『市』『町』のようなものが存在する。ヴィンチというのもコムーネの一つで『村』か。
ここで、あの万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチは誕生している。
ルネサンスの三大巨匠といえば、このダ・ヴィンチとミケランジェロ、ラファエロだ。この三人ともフィレンツェ育ちだから、この地方に特別な関心を持たざるを得ない。

前にも書いたが、日本とイタリアの違いはあるが、何故同じ時期に同じ場所で、それも眼と鼻の先のような近さで大英雄や大政治家、大芸術家、大作家、大科学者が誕生するのだろう。
時代が要求して、自然そのような資質に育っていくのか、それとも、神が創造するのか。僕は、神の存在についてははっきりわからないが、後者のような気がしてならない。神が人類にルネサンスを行なわせ、産業革命に導き、幾多の戦闘を戦わせ、仕上げに民主主義的な革命を各地に起こす。だが、その後に再び世界戦争を2度行なわせている。2度目の時は、20世紀の丁度半分言ったところで核爆弾を使わせて広島と長崎をあのような悲惨な情況に落とした。
今、北朝鮮が、この7月に6発のミサイルを撃ち、核実験まで行なった。これも神の啓示であろうか。
神は、一体、今後この人類をどのような方向に持っていこうとしているのだろう。

僕のみるところ、少なくとも19世紀までは、人類が誕生して地球規模で環境問題というものはなかったはずである。20世に入って突然、兵器産業が近代兵器を改良してゆく中で、石油製品、化学薬品などを使い始め、人体や様々な生物、環境に与える悪影響なぞそっちのけで開発競争を行なった。
同時に人類は、便利さを求めて、食品や洗剤をはじめとした生活物品一般も含めて化学合成物品を発明していった。これらが、地球規模での環境汚染の元凶である。
この地球上で、人類は古今東西大小の差はあるが、幾多の戦闘を繰り返してきた。戦争のおかげで、様々な物品の開発競争が起こって、皮肉にも一面、飛行機や船舶などの性能をはじめとして、文明が進化したこともある。でも、大概が、この地球環境によい影響を与えているものはないといえる。

僕は、今回イタリアに旅して、人類の偉大さに驚愕したが、同時にミラノの大聖堂が排気ガスで汚く汚れているのを目の当たりにして、過去の偉大なる遺産を汚く食い潰していっているような気がしてならなかった。イタリア政府も、そうしたことは既に気がついているとは思うが、対策が後手に廻っている。ようやく、少しずつ駐車料金を取り始めている。
わが国でも、似たようなことはいくつもある。

この度、こうしてイタリアに旅することが出来たが、どんな感想、どんなご利益があったかと問われるのだが、一番のことは、人間とか人類の『生き方』『考え方』である。バチカンをはじめとした、あの威容を誇る大建築物。
様々な芸術作品や天文学上の大発見などが創造される源のパワーみたいなものは、やっぱ、宗教的なものじゃないのかなあと。
でも、それらの感動は、過去のイタリア人に対してなんだよね。
今現在のイタリア人からは、残念ながら、何も得るものはなかった。むしろ、よくない印象のほうが強い。それは、泥棒とかすりとかのことではなくて、一般的に僕ら観光客に対して横柄である。それは、日本という国で育って、この国の商慣習に浸りすぎているから、そこから見るからそうなってしまうこともあるが、お客に対して丁寧じゃないんだよね。場合によっては、東洋人ということで馬鹿にしているところもあると感じるところもあった。
添乗員に言わせると、いまや世界中から観光客が湯水のごとく、大洪水のごとく訪れるので、営業努力の必要がないんだ、毎日毎日、お客お客で飽き飽きしているんだ、と。だから、怠け者になってしまっている。この見方も一面的ですべてではないだろうが、なんとなく判るような気もする。

フィレンツェのホテルの朝飯のとき、僕のツアーの若夫婦が、並んでいる食べ物を取ろうとした。そのとき、従業員がすっ飛んできて、怒鳴られて強引にスプーンを取り上げられていた。そこの島は、お前らのためのものじゃない、あっちだ、と。その二人は、実に気まずい気分を味わったに違いない。
どういうわけか、僕らと中国人だけが違う島から食べ物をとる形になっていて、西洋人とは場所が違っていた。
勿論、西洋人の島のほうが、食べ物が豊富に並んでいたのである。
僕ならずとも、うちのツアーの連中、皆腹が立っていたに違いない。
おまけがある。
そこへ、うちのツアーの運転手が食べに来た。イタリア人である。
そのホテルの従業員は、運転手は自国人だから、豊富に用意されているほうへ導いたのである。日本では、かんがえられない。お客より、運転手のほうを大事に扱っているのである。いや、こういうことは、日本でも実際あるかもしれない。だから、わが国では、そういう時はバスの運転手やガイドさんは、全く違うところで食事することになっている。
こういうことを、添乗員に訴えたが、ベテランの彼は取り合おうともしない。これは、イタリアではよくあることで、旅行者にはどうにもならないことなのである、と。言って、直ることじゃないみたいだ。
売り手市場なのである。
つまらない話をしてしまった。
人類の高尚な話を始めたはずなのに、サイテーの話になってしまった。

ピサに向かう途中、バスの中からトスカーナ地方の田園風景を眺めた。そうしている自分に、不思議に満足感がある。陶酔感さえある。生きているうちに、こんな経験が出来るとは、来てよかったと思った。
外の風景だが、日本とそんなに違わないような気もするが、何かが違う。このあたりは山岳地方になるんだが、日本と雰囲気が多少違う。わが国の場合は、太平洋側から日本海側に出るときに、中央の高い山脈を横切らなければならない。東京を基点に考えれば、上越線の場合は三国峠で湯沢方面へ、信越線の場合は碓氷峠でその先は軽井沢、中央高速を使って松本方面に行くときは、途中、野辺山辺りで標高千メートルにはなるし、その先は青木湖辺りの峠を上って白馬へ。
イタリアも似ているのだが、高くはなかった。聞いてみたらせいぜい4~500メートル級の山々だって。

違う理由は、あのブドウ畑とオリーブ畑だろう。そして時折見える杉の木も日本のものと違って全体に細長く針のように尖っているのである。それに、あたり一面が天気も快晴だったこともあるのか、明るく感じるのである。この国って、こんなに明るいの?っていいたくなるほど。
これらが、いやがうえにも異国情緒をかもし出してくれている。

それにしても、バスの中が静かである。朝早くヴェネチアを出てバスに乗り込んだのはその通りだが、7組の新婚さん全員が寝ていた。せっかくの景色なのに、とも思ったが、新婚じゃ眠いか。

ピサというところも、実はそんなに期待していたわけでもなかったのだが、よかった。美しかったのである。
あの時代の、ドでかい建築物は大理石で出来ているものが多いが、そばに行って見ると、迫力ばかりでなく、それが実に美しいのである。手前に大変広く芝が植えられてあるのだが、あれほど白亜の殿堂とバランスが取れる光景も珍しいほど、よく調和している。
ロマネスクとゴシック様式を掛け合わせた建築様式のピサの大聖堂と斜塔は予想をはるかに超えて、魅力的だった。何時までも、そこから離れたくないほど、さわやかな気分にさせてくれる空間だった。なぜ、このピサの斜塔やデュオーモー、洗礼堂などが美しく見えるかってことだけど、周りの環境だと思う。
広範囲にわたって、周りは城壁で囲まれていた。イタリアの都市というものは、まだ少ししか見ていないが大概、城壁で城なぞが囲まれている。このピサの大聖堂の近くには一切車などは入れないから、人々はかなり歩かされて城壁の中に入るのである。
アフリカ人と思われるおびただしい数のおみやげやサンの中を通り抜けて、ようやく入り口にたどり着く。その中は、排気ガスなどとは一切無縁の別世界になっていた。
ところで、このピサの大聖堂の前には広い芝が植えてあるのだが、そのこっち側は一列に強烈な数のおみやげ屋だ。おみやげ屋はあってもいいが、あの中には入れて欲しくなかった。もっと静かにあそこを鑑賞したかった。あのあたり、今のイタリア人の商魂を感じるが。しかし、今度は、アフリカ人は全くいない。白人ばかりである。
それに、この辺りのおみやげや、やけにピノキオが多い。あの童話、このピサの北のほうのお話らしい。原作者はカルロ・コルローディという人でフィレンツェ出身らしい。
僕は子供の頃、殆んど童話なぞ縁のない、西荻窪の夜の街を遅くまで徘徊するような悪ガキだったが、不思議と、ピノキオが鯨に飲み込まれて、でかいおなかの中に立っている光景がいまだに脳裏に焼きついている。『僕も、鯨のおなかの中に入ってみたい』と真剣に思っていたのを思い出す。世界中の子供達に、圧倒的な人気を誇っている童話だ。イタリアという国、すべてにわたってすごい。

ここで、またよくわからないことがある。イタリアのホテル事情である。
先ほど、イタリア人の気質のことを少し述べたが、それがホテルの施設によく現れているような気がする。
まず、この度、イタリア国内でいくつかのホテルに泊まったが、それがどの程度のグレードに当たっているのかはわからない。おそらく中程度なのだろう。だが、僕だけでなく、毎日問題がなかったことは1日としてなかったのである。それが、大概が水廻りのことであった。
お湯が出ない、みずのままであるとか、湯船がないから、シャワーの湯が外へ飛び出てしまって、水浸し。足元にお皿のような受け皿はあるのだが、油断するとあのビニールのカーテンの隙間から湯が飛び出しているのである。僕もやってしまって、その拭き掃除に30分もかかった。毎日、誰かが、それらの欠陥を訴えていた。

それに僕が個人的に、いまだにわからないのは、あのビデというものである。どこのホテルでもいわゆる便器の横に並んでいた。あれは、お尻とか足を洗うものだという。えっ、足も?と思った。
それはいいのだが、何で便器と別にする必要があるんだろう。一つにまとめれば、あの空間が広く使えるのに。日本で言う、ウォッシュレットがないから、横にずれてお知りを洗うしかない。用が終わって、そこに行くにはカニまた歩きである。
でも、危険。
行った先には、便座というものがない。中腰になって、ある程度踏ん張って足に力を入れて座るのだ。老人にはきついだろう。子供は絶対に使えない。だって、お知りが小さいから中に落ちてしまう。
それに、あの中の蛇口、油断すると上に向きすぎているのがある。
確認しないで湯を出してしまったら、便座と体の隙間から勢いよく飛び出てしまって、僕のズボンからパンツまで、びしょぬれだった。
あのビデと言うものは、一体どうやって使うのであるか。いまだにわからない。ヨーロッパのホテル全体が、ああゆう風に横にセットしてあるのか。

さあ、ピサの次はフィレンツェだ。バスに乗ってフィレンツェに着いたのは夕刻になっていた。

イタリア紀行――3

なんとも不思議な都市、ヴェネチア。

ヴェローナからヴェネチアまでは、約1時間ほどで到着する。
この靴の形をしたイタリア半島、今では大分高速が整備されてきているから、東海岸のアドリア海から西のティエレニア海まで四時間とかからない。尤も、渋滞や事故は多いみたいだ。
僕らも、この旅行中に何回か事故に出くわした。
イタリア人の気質なのか、陽気なのはいいが、自分勝手な個人主義が横行しているらしく、譲り合いの精神というものがない。だから、車の事故が自然多くなる。
日本みたいに、信号が充分に整備されていないため(逆に、日野はありすぎで、ひどいところでは30メートル間隔で3つも続いている)、交差点に早くはいったほうが有利になるから、先を争う。

それにしても、この旅行、すっかり天候には恵まれて、最初から8日間ズート晴れていた。それも、快晴の日々だった。最後の夜に、ローマで降られたくらいだ。
すっかり晴れ上がった午後、僕らは水の都ヴェネチアに着いた。バスの中で添乗員の佐藤さんが、「イタリアの感想を聞くと、大概、女性はヴェネチアが一番よかったといいますね。男性はフィレンツェですね」と、言っていた。
実際行ってみて、なんとなくわかるような気がした。アノ運河を小橋の上から眺めているだけでも、絵葉書で描かれたそのものが目の前にあるようで、ロマンチック。その上、ゴンドラに乗って、運河をうねり運ばれる体験をすれば、大概は虜になるだろう(運河の写真)。
僕らもゴンドラに乗ることができ、水面すれすれに流れるように進んで、低いところからベネチアの街を眺めた。
運河


ここは不思議なところで、物音一つしないのである。
ゴンドラに乗っている間、聞こえるのは船頭さんが漕ぐ艪の音と跳ねる水音だけで、後は静寂であった。
僕は、箱館の土方歳三を書いたとき、箱館湾に小船を出してつりをする彼を描いたことがあったが、あの時も、物音一つしない静けさを強調した記憶がある。春の緑に映えた箱館半島を土方が遠めにみて、自己の最期を悟るシーンだった。
あれとは大分違うが、それにしてもこの静寂はどうしたことだろう。だって、そぐそこにあるヴェネチア観光の拠点サン・マルコ広場は、おびただしい人の群れでむせ返っていたのに、今は何も聞こえないのだ。ただ只管、ゴンドラが進んでいく。
ヴェネチアには、何と、1日10万人の観光客が来るといっていた。確かに、どこへ行っても人、人、人だった。

ヴェネチアというところ、路が運河だから、車というものが通らない。そのせいだろうか、普段と聞こえてくる音の種類が違うのだ。どこか、僕らの体験したことのない空間に迷い込んでいるような気がした。
突然、教会の鐘が鳴った。運河の殆んど真上から聞こえてくるようだった。静けさの運河の上にあって、両側の建物に鐘の音の振動が揺れて、その音だけがやけに耳についた。今回の旅行で、フィレンツェでもベローナでもローマでも随分と教会の鐘の音を聞いたが、日本にはない街の音で、ヨーロッパの香りがする。

ところで、また、話はそれるが、この『鐘』の音だが、どこかで聞いたような気がしてならない。
『鐘』というと、あのフジ子へミングの名演奏を思い出す。
あの曲は、『ラ・カンパネラ』というリストの曲だが、もともと名バイオリニストのパガニーニのヴァイオリンコンチェルトの中の「小さな鐘のロンド」が原曲らしい。
僕は最近、あまりクラシックの音楽を聴かないのだが、それでもフジ子さんのピアノが大好きでたまに聞く。それも、この『ラ・カンパネラ』が特筆もので、最初、どこで聞いたのか忘れたが、道路を歩いていてこの演奏が聞こえてきて、立ちすくんで最後までその場でズート立って聞いていた記憶がある。
その理由は、ピアノのキーをたたいて鐘の音を表現しているのだが、その音色がなんとも美しい。特にフジ子さんの右手は魔法の手なのか、魔女(?)なのか、人間業とは思えないほどだ。聞くところによると、片手でトリルと旋律を同時に弾くという超絶技を使わないと出来ないものらしい。僕みたいな、単音しか出せないテナー屋には、想像を絶する超美技に思える。
あの鐘の音は、きっとイタリアの教会の鐘に違いないと、強引に決め付けた。
リストはハンガリー生まれでドイツの作曲家だが、もともとのパガニーニは、何とイタリア人なのです。それに、『ラ・カンパネラ』という言葉はイタリア語で、『小さな鐘』という意味らしい。
ここまで条件がそろえば、あのピアノ演奏は、イタリアの教会の鐘の音ですね。
『ラ・カンパネラ』を聴いたことのない人は、一度聞いてみてね。それも、フジ子さんの演奏でね。絶品ですよ。
新選組二番隊長永倉新八は晩年を小樽で過ごしたが、スキーで小樽に行ったとき、ラ・カンパネラという店があったのを思い出した。しかし、これは確か、かまぼこ屋だった記憶がある。おっと、これは余計だった。

運河の両側は、昔建築された建物の裏側に当たっている。だから、ゴンドラから真上に首を上げると、洗濯物が干してあったりする。観光地の生活空間を見たような気がして、得をした。
例えば、御茶ノ水界隈の神田川沿いは、秋葉原方面に向かって万世橋のあたりでそんな雰囲気もある。万世橋は昔、萬世橋(よろずよばし)と言った。言い方が難しいから明治に入って、優しく(まんせい)にした。
江戸の堀を、船で見て歩く(?)コースも最近あるらしい。周りの喧騒を断ち切ってきっと、静かなんじゃないかな。昔は臭かったけど、今は下水も完備されたから大丈夫。
―――誰か、企画して―――
さっきも言ったが、ここの中心はサン・マルコ広場で、ここを囲むようにしてサン・マルコ寺院、デュカーレ宮殿、コッレール博物館などがあるが、とにかく人が多い。ここの宮殿や寺院は建築物としても立派だが、中の絵画や調度品、牢獄も見学できて興味深い。パリのヴェルサイユ宮殿の豪華なアノ部屋は、デュカーレ宮殿を真似たに違いない、と思った。だって、ルイ14世の祖母にあたる人は、ここからフランスのブルボン王朝に入ったということだから。
ヴェネチアの宮殿


そういえば、ヴェネチアでヤクルトを飲んでいる人がいた。
こんなところで売っているのかと、不思議に思ったが、聞いてみたら、日本製で最も人気のあるのは日本のアニメとヤクルトだそうだ。
あと、車では、トヨタではなくホンダと日産マーチが人気だそうだ。何でホンダなんだと聞いたら、それはオートバイが優秀で、そこからホンダが乗用車も売れるのだそうだ。例のフィアットやフェラーリ、ランボルギニーなどは殆んど見かけなかった。聞いて納得、ああゆう高級車に乗るような人は、何台も車を持っていて、ビジネスの時はベンツやBMですごし、リゾートなどで海岸線を走るときに、スポーツカーに乗り換えるのだそうだ。
成るほど。
また、こちらではオートマチック車は殆んど売れないという。ああゆう車に乗るやつは、運転が下手だからと、今でも思われるらしい。
そうか。

ヴェネチアは奇妙な町には違いないが、アドリア海に面したこの地方が中世には一大商業都市として栄えた。ヴェニスの商人という戯曲もあるくらいで、商才に長けた人々が今でも活躍しているらしい。日本で言う、『堺』のようなところなのだろう。
ヴェネチアの街中

日本では慶長年間に伊達藩の正宗の命令で、支倉常長(はせくらつねなが)という人がスペインのセビリアに行っている。ここで、日本の米を繁殖させ、成功している。イタリアでは、米というものが殆んどない。わずかに北部で作っているらしいが。

ヴェネチアで食べたイカ墨のパスタは、けっこうイケた。
だから、自分でもお土産に買って帰った。日本で”鉄漿(おはぐろ)”になって食べよう。

今回のツアー、どこへ行ってもその都市のツアーガイドが待っていてくれて、説明してくれた。それは、僕みたいな初心者には大変ありがたかった。
日本語がとっても上手な現地のガイドも居れば、英語でしゃべり添乗員の佐藤さんが通訳とか、日本人が現地に住み込んで日本の観光客をガイドするのもあった。
ガイドの説明風景

ここヴェネチアでは、現地のイタリア人が日本語で説明してくれたが、流暢なものでギャグ連発であった。その彼が言うには、マルコ・ポーロはヴェニスの出身で、ジェノヴァと戦闘したとき捕虜になって牢獄に繋がれた。その牢獄内で書いたのが東方見聞録だったらしい。
マルコ・ポーロは、フビライ・ハンに大歓迎されてハンの下に17年もいたといわれる。そこで黄金の国ジパングについての知識を得て、日本を紹介しているのだが、どの程度の資料集めをしたのかは疑わしい。
このジパングという国の王宮は、すべて黄金で飾られている。ヨーロッパの教会の屋根は鉛だがジパングのは黄金であり廊下も窓も4センチの厚さで金で作られている、という意味のことが書かれている。
これを読んで、俄然闘志を燃やして出発したのがコロンブスだったらしい。

こういう記述を見せられると、本当に蒙古までも来たのかも疑わしい。だって、17年もいたのに、蒙古側の資料には一切出てこないらしいから。

ヴェネチアの翌日は、一気に半島を横断して西に向かい、ピサに向かった。そして、その日のうちにフィレンツェに入った。
次回、乞うご期待。

CDとライヴのお知らせ

ライブのお知らせ

イタリア紀行のご報告のさ中ですが、来週の金曜日に近所のイタリア料理店でライヴをやることになりました。
これは、最近僕が作ったCD『NEW CINEMA PARADISE』の中の曲を生の音で聞いていただこうと、企画したものです。
また、このアルバムの最初に、偶然ですが、イタリアの映画音楽の主題歌が何曲か集中していました。
機材を駆使して、CDと同じ音を出しますので、興味のある方はいらしてね。

日時 2006年10月13日(金)午後6時30分から
場所 イタリア料理店“ラ・パラティーノ”
   日野市神明 4-22-6  2F
   地図
   ℡ 042-587-0700
新選組歴史館のすぐそばですから、わかりやすいです。
出演  T.Sax 村瀬彰吾
費用  コース料理の高い方でも4000円以内(単品もあるよ)
味   絶品 (特に、ピザとパスタが美味い)

CD製作完成のお知らせ

プロモーションCD『NEW CINEMA PARADISE』 をリリースしました。(名曲のカバーCDです)
これは、僕が、老人ホームやデイサービスを訪問する際に聞いていただくためのものですので、一般に販売はしていません。
お聞きになりたい方は、相談に乗りますので、メールにてご連絡ください。

CDの曲目



視聴は追ってUPするつもりです。

イタリア紀行――2

期待していなかったヴェローナ、中世のいい町並みだった。

前回はミラノについてふれたが、一箇所、遊びに出たのを忘れていた。
ミラノから北へ約1時間ほどで「コモ湖」という湖がある。そこへ行った。ここはヨーロッパで最も深い湖で、水の色もあたりの景観も一際美しい。
実際、相当昔から避暑地として人気があったらしく、ヨーロッパの名だたる貴族の別荘が湖畔に佇んでいる。イタリアの独裁者ムッソリーニの別荘をはじめ、元アメリカ大統領クリントン、イタリアの女優といえば誰デモが思い出すソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニ、歌手のミルバなど、確かにすごい人たちだ。
コモ湖の湖畔

後は、財を成した実業家のものなどで、目を見張る。

この湖に行ったことはいいのだが、唯、添乗員の対応やこのN旅行社のツアーのあり方に疑問を持った。ツアーの予定には、この湖にいくことが明記してあるから、行ってから行動の予定があるのかと思ったら、何にも予定がないからボートに乗ろうというのだ。そして、その代金が一人12ユーロで全員が乗ることが条件だという。一人でも欠けてはダメだという。12ユーロは約1800円で21人だから合計37800円になる。これをボートの運転手に払って、約1時間ほど湖を散策してもらった。いい収入だ。
行くバスの中で、誰が行くとか行かないとかのやり取りがあって、結局全員が参加することになったから目出度いのだが、行かないという人が出たらどうするんだろう。こんなの、何故、最初の参加費に入れておかなかったのだろう。

すこしでも参加費用を安くするために、このようなことをしたのかもしれない。おそらくライバルの旅行社との比較で、少しでも割安感を出すためなのだろうが、実際にそうされると印象が悪くなる。これは、泊まったホテルとレストランのグレードでも、はっきりと違いが現れた。
今晩は、ヴェローナとヴェネチアを紹介するつもりだが、もう少し僕の愚痴に付き合って欲しい。

この旅行に行く前に、keikoさんからコメントをいただいたが、イタリア料理についてだ。飯つきのツアーに参加して楽だったのだが、失敗した。
おいしい料理にありつくには、もう少し値の張った企画に参加する必要があったのかもしれない。
ほんとのところ、こちらで(東京)食べたイタリア料理よりもうまかった料理は一つもなかった。
ピザにしてもパスタにしても、その他豚肉や牛肉、魚類なども。わすかに、8日目の最終日にローマで、皆で食べに行った店が美味しかった。これは当たり前だ。ツアーの企画に入っていない店で、自主的に訪れた店だったからだ。値段も35ユーロだったから日本円にすれば5000円以上。

最近、ここ日野でもイタリア料理が人気がある。店が徐々に増えているのだ。今、電話帳を見てみたら、日野市内に9店あった。ちなみにフランス料理店は3件しかない。お隣の八王子も見てみた。あそこは町が大きいから流石に多く、イタが27店でフラが9店だった。いずれもイタがフラを圧倒している。
なんだか、この間のサッカーみたい。
そして、フランス料理よりも大概料金が安く、5000円もしないでコースが味わえる。そして日本人の口によくあう。多分、調べたわけではないが、日本中でイタリア料理店は増加傾向にあるんじゃないかな。

イタリアに行って、どこの都市に行っても観光客の多いのに辟易するが、(こういっちゃ自分の居場所もないが)日本人がとても多い。
でも、ハワイみたいではない。
なぜなら、意外とアメリカ人やドイツ人など西洋人が多いからである。まあ、カトリックの信者が多いのだから、当たり前か。
それ以外に、やはりアノ世界遺産の宝庫だから、どこの国の人だってまずはイタリアへ行こうってことになる。今回、中国人が多かったのにはびっくりした。そこまで中国経済が発展を遂げているのか。皆が裕福になったというより、貧富の差が広がっているような気がするがーーー。
ホテルで、何回か「ユー、チャイニーズ?」などと、声をかけられた。

あそこ(イタリア)へは、もう1回、行かなきゃだめなような気がしている。
今度は、うまいもの絶対食うぞ、と。
でも、食うためだけではない。
あの素敵な遺産群を、この次はもっとゆっくり見たいからだ。冬なら、観光客が少ないらしい。

ミラノでは、小牛のカツレツが有名で日本でもよく紹介されている。だから、期待していたのだが、食後に胸焼けして仕方なかった。日本では、かつといえば「カラッ」と揚げるのが当たり前で、あんなべとべとしたカツなんて絶対ない。それに、揚げるのではなくてきっと、少ない油で炒める感じじゃないかな。だから、やたら脂っこい。それにリゾットというものが出たが、これも脂くさくて芯があってダメだ。きっと3流4流の店だったのだろう。だって、ミラノでは昼飯も夜飯も、レストラン内に我々以外お客が全くいなかった。
そういう店に連れて行かれるんだから、殆んど拷問状態、選べない。でも、同行の一行は結構我慢強い人たちが多く、「おいしい、おいしい」と連発していた。本音じゃないのだろう、礼儀としていっているのだ。
大金払って、この際、礼儀って必要なの?と、聞きたくなった。あるカップルはお互いに確かめ合っていた。「これで仕様がないわよね。安いんだから」って。
(おいおい、一人30万円以上払っているんだぞ、安いのか)って、口を挟みたかったが、我慢した。

その上、どこのホテルでも、朝飯はバイキングなのだが、野菜というものが一切ないのだ。ズートなかったから、イタリアのホテルは出さない習慣なのだろう。それとも、僕らのツアーだけがないところばっかしだったのか。
誰か、オセーテくれ。
愚痴は、このあたりまでにしよう。

さて、9月21日はミラノを出て、バスはヴェローナに向かった。
ミラノはイタリア北部にあって、殆んどスイスに近い。先ほどのコモは、更に北でスイスと接している。ヴェローナは東へ高速を約2時間ほど走る。さらに1時間走れば、東海岸に出てそこがアドリア海に面したヴェネチアだ。

まずはヴェローナだが、ここは、ホント、儲けた。
ゼーンゼン期待していなかったのだが、世の中にこんないい街が存在しているのかと思ったほど、しっとり落ち着いていて、中世の街そのままなのだ。おとぎの国にいるようで、夢見心地の中にいるようなロマンチックな趣である。
ヴェローナの町並み

あのロミオとジュリエットの舞台になった街だから、成るほどと判るような気はするが、それにしてもジュリエッタの家は、見学客でごった返していた。
出窓と私

西洋の若い女性が多かった。中には、仮面をつけているのも居て、完全に情況にはいっている。
アノ話、シェイクスピアがオリジナルなのかと思っていたら、昔から、ヴェローナにはそういうお話が伝わっているそうだ。

ここには、ローマにあるような円形劇場が存在する。
ヴェローナの円形劇場

「アレーナ」というそうな。アリーナの語源かもね。
ここではいまだに、毎年豪華なオペラが上演されている。紀元1世紀に建設された建物で、いまだに若干の手入れをして上演されていることが驚き以外なにもない。
ここは、とにかく街が美しい。街全体が世界遺産らしいが、なるほどと思う。日本で言えばどこだろう。僕が行ったことのある、う~ん、萩とか津和野、高山とか、角館とかか。
京都じゃなくて、つまり小京都。
ところで、京都には、都市計画ってものがない。あっても街全体が遺産になるような計画性は全く感じられない。あってほしかった。
思い出した。
3年前に、栗塚さんと“幾松”に行ったとき、大女将と栗塚さんが二人で嘆いていた。「京都には街づくりに計画性がない」と。なにやら、三条と四条の間にもう一つ橋を作る計画が以前からあって、フランスのイメージにするとかしないとかで議論がまとまらないようなことを行っていた記憶がある。
また、新選組同好会の横田氏もおっしゃっていた。市も府も、新選組関係の遺跡には冷たく、ちっとも標識らしいものを立ててくれないから、壬生に自分たちで作ったといっていた。

話がそれた。
イタリアには、とにかく世界遺産が多くて、世界中でおそらく数は、公平に言って一番多いのでは。
だから、このヴェローナのような夢のような世界遺産の町がほかにも存在している。フィレンツェに程近いシエナとかサン・ジミニャーノ、ラヴェンナなど、数えたらきりがないほどだ。
そういう意味でも、もう1回は最低行きたいね。

何故、行きたがるんだろう。
そもそも、もともと、僕はそんなに考古学的な関心があるわけでもないのだが、イタリアに限らず日本の古い町並みの中に居るときは、浸っているとなんとなく心地よい。
人間にはそもそも、昔の人、先祖たちの生活、風俗的なものを確かめたい、触れたい、みたい、体験したいというような欲求があるのかもしれない。そして、中世や古代の人たちが意外にも科学的な根拠に基づいた慣習をもっていたり、現代よりももっと合理的な生活を送っていたり、自然と融和して環境を大事にしていたことに驚いたりする。

だが、褒めてばかりはいられない。
あらを探したわけではないが、いけないことも多い。
その代表が、「車」だ。
あそこの国は、フィアットやフェラーリなど、世界中のマニアから羨望されている高級スポーツカーが存在している。それはそれでいいのだが、とにかく数が多すぎる。ミラノから高速を走ってヴェローナの街へ入るときも、渋滞していてなかなか進まなかった。
ヴェローナ郊外の渋滞模様

このことは何も、ヴェローナばかりでなくどこへ行っても渋滞が当たり前だった。この国は鉄道網が発展していないのだ。どうしてだか知らない。
そこいらじゅうが遺跡だから、うかつには掘れないという理由で地下鉄が出来にくいのはわかるが、路面電車はもう少しあってもいいだろう。その上、駐車違反というものがないから、街中、道路という道路、ビッシリと車が止まっている。日本じゃ考えられないことだ。
渋滞が当たり前だから、当然、排気ガスによる様々な弊害が起こっている。街が汚くなる。その代表がナポリ。ミラノの大聖堂も修復していたが、あれは数年に一度、外側の排気ガスによる汚れを落とすためのものだと、ガイドが言っていた。
後で書こうと思ったが、今になってしまった。とにかくナポリという街は「汚い」。『ナポリを見て死ね』と誰言ったか知らないが、全く見る必要もないといいたいほど、街が汚れている。
これは、後でゆっくり書こう。

今日は、ヴェネチアまで書くつもりでいたが、脱線が多くていけなかった。次回。

イタリア紀行――1

『最後の晩餐』 至高の感動。

イタリア10日間の(正確には8日か)ご報告を、順を追って書くつもりでいたが、最初にタイトルどおり、『最後の晩餐』から言いたい。
あの絵は、ミラノのサンタ・マリア・テレ・グラッツェ教会の食堂にあるんですね。
それさえ知らなかった僕だが、それはそれとして、僕はキリスト教の信者じゃないけど、みんな人間に生まれて、誰もが一度はあの壁画を見てから「人生を終えて欲しい」といいたくなるほど、感動した。なんだか、自分があの壁画に包み込まれているような、吸い込まれていくような錯覚を感じたのである。
小泉首相が相撲を見て「感動した」のと訳が違う。
一緒に同行したツアーの参加者たち全員21人と若干の関係者が、あの食堂に入った瞬間に「ドォー」と喚声ともため息ともつかないどよめきが上がったほど、その部屋に入った瞬間から、全員があの壁に飲み込まれていた。
あの絵は壁画で、白い壁に横長に描かれている。僕がここで解説する必要などないほど、有名な絵だから講釈なぞしないが、今、ほんの3~4メートルの距離から眺めることが出来る。ライトアップされていて、なんとも幻想的に演出もされていて、人々の感性に訴えるのだが、まず、初日の朝一から絶品を味わった。

あの教会は、完全予約制で、1団体が15分の観覧と決まっている。僕らは運よく予約が出来て、あの広い食堂にたった20人程度で静かに鑑賞することが出来た。他のところは、観光客で人、人、人だったのだ。
あそこの写真を皆さんにお見せしたかったが、撮影が禁止されていた。だから、外の建物だけで勘弁して欲しい。
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会


この旅行、なぜイタリアなのって問われても、「それは愚問」といいたくなるほど、誰だってあの国がこの地球上で一番魅力的な国であることは認めているに違いないから、『行く必要があるから』なんです。
世界遺産というものがありますね、イタリアに半分が集まっているらしい。添乗員の佐藤さんが言うには、でも、数はスペインの方が多いんだって。
何か、変。
彼が付け加えましたよ、今、世界遺産を指定する委員会があって、その委員長がスペイン人なんだって。何処でも同じような力学が働いているんだ。

あのルネサンスの偉大なる芸術家、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ラファエロや数限りない最高の偉大なる人物を生み出したトスカーナ-地方。
ベローナやポンペイ、そしてローマにある紀元前後の圧倒される驚愕の様々な建築物。天文学や数学をはじめとした数奇な学者たち。何故、同じ時期にあの靴の形をした地方に出現したのだろう。
よく、明治維新を起こしたのは、薩摩にしても長州にしても、鹿児島や萩のごく限られたところから偉大な人物が集中して出現したと興味深く語られる。
一方は、極東の小さな国の一時期の変革に過ぎないが、あちらは人類上の二度と出来ないような大発見だったり、大発明だったり、大芸術作品なのだ。そして、それがその後のこの地球上の芸術ばかりでなく科学の常識にもなってきている。
また、人類が生きるうえでの道標だったり、人生を営む理由であったり、安心感であったり、豊かさ、癒しなどにもなってきている。
人類史上に与えている貢献度といったら、群を抜いている。

それは、最後の日に、キリスト教の巡礼地、バチカンに行って感じた。ここの芸術作品は半端じゃない。一度は見て欲しい。だって、あのミケランジェロの最後の審判と天井画があるんですよ。
世界のカトリックキリスト教信者は8億人いるらしい。
彼らがイスラム教のメッカと同様、バチカンに巡礼なのだ。僕のようなキリスト教に関係ない人間も朝早くから並んで見に行ったから、バチカンは大変な人ごみだった。
日本の革命とルネサンスとを比較するのは、あまりのスケールの違いさに言うのもいやなのだが、同じようなことがいえるのかも。
それぞれ、時代が人を必要とし、創り、活躍させる。

それから、僕は、すごい芸術作品を目の当たりに見てきて、今、大感激しているのだが、それは肯定して褒めちぎっているのとは違う。ああゆうものは、古代ローマ帝政を始め大概が、大きな権力を持った人間が自分の存在、威厳をより強大に誇示するため理不尽に作り上げることが多いので、必ずそれに対する批判なり、抵抗なり、犠牲者なりがいて、「もろ手を挙げて歓迎」ってことにはならない。
あのバチカンのすごーい建物も、いろんな犠牲を払って出来上がったものらしい。大金がかかるので、金集めをした。金を出した奴は、それまでの罪が減じられたり免罪になったりしたのだろう。これを『免罪符』といったらしいが、これに対してマルチン・ルターなどが反抗してプロテスタントを立ち上げた。その結果出来上がっているバチカン美術館が立派だからって、どう考えればいいんだ。
それも歴史、これも歴史として割り切るしかない。僕の解釈が違っていたら、指摘して欲しい。
セント・ピエトロ寺院

(バチカンのセント・ピエトロ寺院)

今回、イタリアに10日近くいて、毎日注意されたことは、『すり』『泥棒』『置き引き』にあわないようにであった。これは、僕に限らず、あそこの国へいったことのある人なら、誰だって注意されることであるし、現に被害にあった人も僕の周りにもいる。でも、カソリックの教義では、そうした行為も生きていくための1つの仕事として捕らえているらしいのだ。だから、罰するという発想はないらしい。
現地へ行ってみると、なんだかわかるような気がした。共存なのである。我々の倫理観では、到底理解できないが。

さて、行きの飛行機だが、直接はミラノへは行けないらしい。
だから、ドイツのフランクフルトへ行って、そこから飛行機を乗り換えて南へ下がり、イタリア北部のミラノに降り立った。フランクフルトまでは11時間以上かかり、そこから更に約2時間。
さすがにいやになる。

エコノミック症候群ていうのがありますよね、あれ、わかるような気がしました。足がだるくなってくるんです。血が下がるんですかね。我慢できなくて、途中から《おばあさんすわり》をやってました。それでも調子悪いんで、機内をを散歩してました。トイレに入って、恥ずかしい話ですが、あの狭い空間でストレッチやってました。海外へ行くのに、10時間以上飛行機乗るのは仕方ないとして、あの狭い座席、何とかなりませんかね。
ファーストクラスやビジネス?
とんでもない、そんな金出せるわけがない。でも、みんな行きたいから、我慢してるんですね。
オリンピックの選手も、トリノなぞに行くのに、エコノミーらしいですね。トリノはミラノの丁度隣りですね。選手たち、可哀想。
聞くところによると、JOCの幹部の人たちは、ファーストクラスだとか。
逆じゃない。
あと、時差ボケ。
いまだに僕はおかしい。帰ってきて3日目になるけど、僕は特に直りが遅くて、夜中に目が覚めてるんです。体がヨーロッパ時間なんです、いまだに。

飛行時間が長いのと乗り換えで、まいりましたが、1つ良かったのはあの本物のアルプスを上空から拝めたことですね。雲の上に、雪をかぶった山々が飛び出ているんです。突き出しているとでもいった方がいいのか。正直、どれがマッターホルンでモンブランなんだかわからなかったが、それらを上から見ることが出来て、幸せな気分を味わいましたよ。
そして、ミラノの上空に入ってまたまた嬉しくなった。これまで絵葉書やテレビの番組で見ていた家々の屋根が見えたんです。
(アタリメーダロウ)
それが、色が違うんです。
ミ―ンナレンガ色してるんだ。
i-01.jpg


これは、最初に感動したことだから、帰りに成田に着く前に、日本の家々の屋根を確認したが、黒が多く色々あってちっとも綺麗じゃないし、面白くもない。

これは、後でわかったことだが、イタリアって国、そういう規制があるらしい。他の色は使ってはいけないという。何処の都市でもあるのかは知らないが、ミラノばかりでなくあのフィレンツェやベローナなどではそうらしい。
日野の街も、新選組で一緒にするなら、また幕末のイメージを強く主張するなら、その線で住民に協力を求めるのも必要かも(と、余計なことも)。

僕の入ったツアーは『チャオ・イタリア・10日間』というもので、合計21人の参加者がいた。20人までがカップルで、あとの一人が、一人の参加なのだ。それが『私』でした。
とんでもないところに紛れ込んでしまった、と後悔したが後の祭り。もう成田を出た後だった。
最初の街ミラノから、みなさんオテテをつないで、とうとう最後の日までそのまま。(当たり前だよ、ミーんな新婚さんなのだから)
新婚さん

新婚でないのは、5~6人だった。でも、日本人って、新婚さんはみなああして同じ姿して歩く。もう少し個性ってものがあっても、と思いますが。
ひがみか。
でも、そんなことはどうでもいい、浮世のくだらないことなどすべて忘れさせてくれるほど素晴しい体験だった。

ミラノというところは、ファッションの町であり、イタリア第一の経済の都市である。僕は、女性のファッションのことは全くわからないが、グッチとか、フェラガモとか、プラダとか、まだ他にもたくさんあそこには集まっているらしい。一説には、パリのファッションの元は、そもそもミラノらしい。

ミラノでは、あの有名なオペラ劇場のスカラ座、その前の広場の殆んどトイ面に馬鹿でかいアーケードがあった。これをヴィットリオ・エマヌエーレ二世アーケードというらしいが、そのスケールのでかさといったら驚きである。見事です。そのアーケードを抜けたところにゴシック建築の最高傑作といわれるミラノ大聖堂(デュオモ)があります↓。
ミラノ大聖堂

これらみんな、圧倒されます。そして、この辺りがミラノの中心街で、有名なお店がたくさんあって、僕はわからないが、ブランド物のお好きなお嬢さんにはたまらないところです。

ミラノのことは、このあたりまでにして、この次は、あのロミオとジュリエットの舞台で有名なベローナ、そしてヴェネチアについて書きます。

村瀬彰吾
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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