村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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テナーサックス担いで社会奉仕活動開始2

団塊の世代の自分、テナーサックス担いで社会奉仕活動開始。
自分の親に再会した錯覚も~~有料老人ホーム訪問。         
―― その2 ――

そんな世代の僕らも、来年で還暦を迎える。
ひと時代前だったら、自分らが年寄り扱いされたものだが、今は違う。
この団塊の世代の連中を、社会の中でどう扱うかが焦点になってきている。様々なノウハウや技術を持ち合わせている”我等”をもっと有効に社会に役立てようって訳だ。

それが本音なのだろうか。
なんだか誤魔化されているようでならない。
今、大変な勢いで少子高齢化が進んでいる。まず手始めに、この団塊の世代の連中から、できるだけ老人の仲間入りさせないようにしないと、年金の原資をはじめ社会保障が持たないから、できるだけ先延ばしにさせようって魂胆じゃないのか、と、ひねくれた見方をツイしてしまう。

団塊の世代の技術力を生かしてなどと体裁のいいこといっているが、そうはいっても、大方が、技術なぞ持っていない。だから、リタイアーした後で自分が何をすべきか、見出せない人が殆んどに違いない。
また、それとは別に、生活面の問題もある。以前は、60歳で定年を迎えたあとは、厚生年金や共済年金で直ちに年金生活に入れたものが、今は65歳にならないと年金はもらえないシステムになってしまっている。経過措置はあるが、昭和23年以降に生まれた人たちは、すべて65までは年金がもらえない。60歳で会社などから放り出されたあとは、5年間どうしてゆくのだろう。
わが国の場合、最近、労働者側のパワーが落ちてきていて、経営者側と対等の関係にはないから、年金支給開始年齢までの保障を勝ち取れていないのだ。
だから、特別に何か持ち合わせているとか、優遇されている人以外はみな、心配しているはずだ。

僕は、これからどうしてゆくんだろう。
たまたま、若い頃から楽器をいじってきていたので、自分の生きがいとして、これで社会奉仕活動をしようと、ちと早いが、この秋から開始した。
あのCDは、施設の方々に聞いてもらうために作ったものだ。そしたら、うまい具合にいくつかからオファーがきて、既に、訪問を開始している。

有料の老人ホームなのだが、大概が平均年齢が90歳に近い。夫々、複雑な家庭、家族環境から、大きな決断をして施設にお入りになってきている。
こうした、人生の大先輩と一緒に音楽を楽しむわけだが、曲の選び方にしても、合間のトークにしても、結構難しいものがある。中には、認知症にかかってしまっている人もいるし、ライブをしていても、すぐ疲れてしまって、30分と持たない人も中にはいる。それに、日本中のあらゆるところから集まってきているし、これまでの環境も主義主張や好みの違う人たちの集まりなのだから、こういう集団をまとめるとなると、施設の関係者の苦労は並大抵ではない。

僕が、2~3曲演奏しては、合間にお話をするんだけれど、このあたり(日野)でやるときは、大概、日野の歴史や新選組のお話をすることにしている。大方が、まさかあの悪名?高い新選組の有名人が、ここの関係だとは知らないから、興味を示してくれる。

先日行った老人ホームでは、一番前の席に明治42年生まれのおばあちゃんがいた。この人が、熱心に僕の演奏を聴いてくれて、大きな拍手もしてくれた。合間のお話のとき、そのおばあちゃんとやり取りしたのだが、僕の母親が明治43年生まれだから、その人は、僕の母親より1年先輩で97歳である。そのご婦人は、もう100歳にも近いのに、周りにいる70代や80代の人たちと比べても、言語も、思考もはっきりしていらして、矍鑠(かくしゃく)としていた。
僕はそのおばあちゃんが、妙に、気に入ってしまい、一種自分の母親と話しているように錯覚さえしてしまった。
俺のおふくろが生きていればあのくらいなんだ、と思ったせいか、突然、郷愁に襲われ激しくいとおしくなってしまったのである。
今度そこへ行ったら、またそのおばあちゃんとゆっくり、昔話をしたいと思っている。

僕は、みなさんに楽しんでもらうために行ってるんだけど、なんだか逆に、不思議と、こちらがいい気分になれるんですよね。
貴重な体験が出来て、とても有意義な時間だった。今後が、実に楽しみだ。

それに、訪問といっても、コンサートをしに行っているのではない。
一緒に楽しいひと時を過ごしていただけるように、音楽をしに行っている。だから、一方的であってはならなくて、ともに楽しむように考えている。

一方的といえば、僕は、以前市民会館に勤務していたことがあるが、外国のことはよく知らないが、わが国でクラシックのコンサートを企画しても、とにかくチケットが売れない。中村紘子のコンサートのようにやれば完売なんてこともあるが、大概が大赤字だ。
その原因は、堅苦しくてつまらないからだと思っている。ステージの上から一方的な、時には押し付けがましい音の洪水で終わるからである。
客席とのコミュニケーションがない。このことにいまだに気づいていない関係者が多いから、クラシックの演奏会は、いまだにお客が入らない。
尤も、コミュニケーションをとれば、チケットが売れるってものでもないのだが。

僕は、今、この歳になってギターの練習を毎日している。施設の皆さんと一緒に、歌を歌うためにである。
生まれつき、歌はうまくない。
それでもいい。
みんなと一緒がいいのである。
この歳になって、今更、小学唱歌から同様、昔の歌謡曲を毎日練習している。上手になって、あのおばあちゃんたちと一緒に歌うのが楽しみなのである。

おわり
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テナーサックス担いで社会奉仕活動開始1

団塊の世代の自分、テナーサックス担いで社会奉仕活動開始。
自分の親に再会した錯覚も~~有料老人ホーム訪問。         
――その1――

この夏、長年自分がしてきたjazzを元手に、CDを制作したのだが、その目的は、老人ホーム訪問に目的があった。

最近、『2007年問題』とか『団塊の世代の大量退職』なぞの記事が目立つようになっているが、実は、僕が丁度その世代に当たっている。
僕らは、戦後の混乱期に生まれて、丁度ベビーブームだ。
飯も満足に食えず、着るものも兄貴たちのお下がりが普通で、穴が開いていたり、はいているズボンのひざ小僧には、お袋に縫ってもらった継ぎはぎが当たり前だったのを思い出す。でも、誰もが同じだから、別に恥ずかしいことではなかった。
まだ、戦争の影が色濃く残っていた時代だ。

街には、傷痍軍人といって戦争で腕や足を失った人たちが白い服をまとって、往来の人たちに浄財をお願いしている姿が眼に焼きついて残っているが、僕の住んでいた西荻窪あたりでも駅周辺でも毎日こうした光景を目にした。
僕らの小さい頃は、よく言われるように、腹いっぱいバナナを食いたいと本気で思った時代だった。パイナップルなぞは絵本の中に見るだけで、夢のまた夢で、さぞかし美味いんだろうな、と、想像をしていたのを覚えている。

だが、僕が確か4~5歳の頃だから昭和27、8年頃か、突然、うちにパイナップルがいっぱい来たことがあった。あのときだけは、夢中で食べさせてもらった記憶があるが、後年3番目の姉が言うには、一番上の姉が銀座で行なわれた『ミスパイナップルコンテストに優勝した』んで、賞品としてもらってきたものだと教えてくれた。パイナップルは、想像していたほど美味しいものではなかった。その長姉も数年前にすい臓がんで亡くなった。

僕の兄弟は8人いて、戦前生まれが5人で戦後が3人である。
僕は、戦後のまん中生まれで、昭和22年だ。
僕の家は、昔、古着屋をやっていて親父が儲けたのか、たまたま大きな敷地と建物だったから、家に広い風呂があった。風呂場だけで四畳半ぐらいはあった。いわゆる五右衛門風呂って言うのか、70センチメートル四方の“すのこ”がお湯に浮いていて、足でそれを押しながら沈めて身体を湯船に入れるのである。その湯船は分厚い鉄で出来ていて触ると暑いから、寄りかからないようにしていた。
あの風呂、確か、『となりのトトロ』っていう映画にも出てきた。お父さんとメイちゃんが二人でお風呂に入るシーンがあった。あのアニメに出てくる家、僕の小さい頃の家のイメージとぴったり一致する。あんな感じの家だった。
懐かしかった。
あれは、埼玉県の所沢って言うところのお話だが、僕の世代の話で、実に親しみの持てるアニメだった。子供達と何回も見た。
僕の親父は、若いときには賭け事と女、晩年は酒に身を持ち崩して寂しく死んでいったが、住まいも少しずつ切り売りして、最後には土地が50坪足らずにまで減ってしまった。

当時はまだ、家庭に風呂のない家が多く、西荻窪の僕の家の回りでは、銭湯に行くのが普通だった。
僕は、寒くてうちの風呂が好きでなく、殆んど毎日、目の前の警察アパートの智二と一緒に銭湯へ行っていた。どういうわけか、うちに立派な風呂があるのに、僕の家族は皆銭湯へ行っていた。なぜなんだか?多分、沸かすのが大変だったのだろう。母は薪ををたくさん燃やして風呂を沸かしていたが、見ていて大変そうだった。

あの当時、コロッケが1個5円の時代だから、銭湯の子供料金も確か20円程度だったか。
風呂から出て、脱衣場にあるコーヒー牛乳を飲むのが楽しみだった。小学校を卒業するまでは、殆んど毎日風呂桶に石鹸を入れて近所の“福の湯”へ通っていた。

銭湯には、番台というものがあって、大概どこの風呂屋もその番台の前に男と女の着替え場に行き来する扉があった。銭湯のお姉さんたちがそこを行き来するときに、うまくすると女湯のほうが見えることがあるのである。小学6年の頃は、もうそんなくだらないことが、楽しみであったこともあった。

あの頃は、服装ばかりでなく、街全体が不衛生だったのか、僕もよくオデキが出来た。おふくろが患部によく”タコの吸出し”なぞといって緑色の膏薬のようなものを塗ってくれたのを覚えている。
あれが、不思議と直った。
それから、昔は、何故か、よくとげが刺さることが多かった。すると、またおふくろが巣鴨のトゲヌキ地蔵の「お札だよ」といって、小さな和紙で、お地蔵さんが薄く印刷されているものを飲ませてくれた。
それも、飲むと、不思議と直った。
また、そのお札は、トゲ以外でも痛いところをさすってから貼ってから飲むと、直った記憶がある。
また、青っぱなをたらしている子も大勢いた。
なんでだろう。
あの当時、食べているものの栄養の関係だろうか、今では一人としてそういう子供を見ないがーーー。
こんなことを書いていたら切りがないが、小学校から中学校への想い出も。
生徒が多くて教室が足りず、校庭にプレハブを建てて授業を受けていた。何せ、僕の通っていた高井戸第四小学校は、一学年で250人はいたし、中学校は、神明中学校というところで、530人ほどはいた。だから、それまでの教室の数では全然足りないのであった。
今じゃ、一学年50人もおぼつかなく、学校が閉鎖される始末である。
まだ、40数年ほどの経過なのだけれど、隔世の感!!
それほど、あの第二次世界大戦はそんなに遠い話じゃないってコトだろうし、また逆に、急激に日本という国が変化しているってことか。

日本全国が子供が多くて、そんなマンモス状態だから、高校受験も大学受験も大変な競争で、就職にまで不利な状態が続いていた。僕らは末代まで祟っていて、子供も孫も数が多い。たまたま僕は婚期が遅れたから、下の娘は今年が受験で、運よくそんなに数は多くない。

――つづく――

P・S 僕のブログが長いので、「読むのに疲れる」と言われた。だから、これからは長くしないで、できるだけ毎日書くようにしたい。
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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