村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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ことしのスポーツを振り返る

皆さん、亀田は『完勝だ』『文句なし』と言うがーーー。


ア~ア、昨日、また、亀田興毅のボクシングを見てしまった。
皆さん(特に、テレビやラジオ、スポーツ紙など)、こぞって亀田の『完勝』だ、『文句なし』といっているが、僕にはどうしても、そうは見えなかった。

―――再び、ひねくれものの癖が出た―――
せいぜいドローかな。
でも、3人のジャッジが全て亀田の勝ちだから、そうなんだろうがーーー。
僕が、天の邪鬼なのかなあー。
長く、ボクシング中継ってものを見てきているが、きのうの試合はどう見ても引き分けか勝っていても僅少差。
あの試合、ランダエタの母国、べネゼイラでやっていたら、ランダの勝ちでしょうね、きっと。

何歩も譲って、勝っていたとしても、みなさん、亀田興毅に「強さ」ってものを感じました?
僕には、彼が世界チャンピオンと言う実感がわいてこないのです。
だって、あの試合見て、決して強くないもん。
相手を倒せるだけのパンチ力、ないんじゃない。
もっと言わせてくれ。
12R見ていて、「ボクシングセンス」ってものが、むしろ相手のランダエダの方に感じるんです。

スポーツ全般に、『センス』ってもの、必要ですよね。
野球でも、ゴルフでも、相撲でも、サッカーでも、バレーボール、フィギュアスケートでも、全部。
でも、亀田はまだ若いから仕様がないか。だからって、僕が亀田を評価しないわけではない。強いのは認めるし、すごい才能を感じる。又努力も並でないらしい。
それら良いもの全てを、世間が変な方向へ誘導しているようで。
あの、『馬鹿騒ぎ』で。
ボクシングをプロレス並みのショウにしてしまって、いいのかなあ。

最近のスポーツ中継の『馬鹿騒ぎ』、あれ、もうどうにかして欲しい。
ことしは特に、様々なスポーツ中継でそれを感じた。
最初は、バレーボールの中継だけだったのが、ドンドン波及している。元祖は、古館一郎か。ヤツが、一回、女子のマラソン中継をやったことがあった。うるさくて参った。解説の増田明美にピシャリと、釘を刺される場面があったが、気分爽快だった。古舘はプロレス出身だが、それに留めておけばいいものを、マラソンまでプロレスと一緒にしてしまったところに、テレビ局の良心を疑う。
僕は、古館が悪いと言っているんじゃない。あれは、彼のカラーだから、それでいい。人の使い方、番組の組み方など。
何か、変なんだ。
変な方向へ誘導されていっているような気がする。
《余談だが、中国で6か国協議ってものをやってるでしょ。何か、変。だって、核を持っている北朝鮮が発言力があるらしい。もっていない日本は、参加資格がないような雰囲気になっているんだって。だから、日本もーーーー。という路線? だから、『非核三原則』をやめて、『愛国心』『教育改革』そして『憲法改正』なの?》

“あわない”んだよね。
真剣勝負の場に、あの砂利タレが出てきて騒ぎまくる光景が。
選手たち、良く集中できるなって思うんだけど、
その割りに、バレーの監督はコトあるごとに選手を集めては、「集中、集中」って繰り返している。
試合中に、あの『ウェーヴ』をしてしまうことありますよね。プロ野球でもあるし、他の競技でも最近良く見かけます。
多分、選手たち、集中できないと思いますよ。

何かが違ってきている。
僕ら、日本国民が知らないうちに遅れを取ってしまっている。批判、非難されている。そして、産業の技術面でもいつの間にか抜かれているってコト、感じます。
今年を振り返って、やっぱ、あの相撲。
モンゴル勢の勢い、強さ、又、東欧の進出。
もう国技だなんていってないで、国際競技でいいじゃない。そう思って、割り切ってみればそれなりに面白い。そうすれば、オリンピック競技に格上げってことも。

でも、この間終わった『アジア大会』。日本がいくつメダルとったか知ってます?
でも、これはよく放送でも言っていたから、しっているかも。日本が50個も、金をとったらしい。
すごい、と、思ったがーーー。
でも、どこが一番『金』をとったか。日本は何位だったか、知ってます?
僕が、ボケなのか、知らなかった。
だから調べたんですが、これが時間がかかりましてね、どこを探しても見つからない。あまり知られたくないんでしょうか。

        金、  銀、  銅、
1位、中国   165   88   63
2位、韓国   58   53   82
3位、日本   50   71   77

わが国の報道機関は、近くにいるどこかの国と最近良く似てきて、知られたら困るのか、世界の情報を国民に正確に伝えない傾向がある。
今回のアジア大会では、日本は韓国には負けたくなかったらしい。でも、金の数で8個負けた。

近頃では、日本選手がやたら強いとか、頑張っているなどというニュースばかりで、世界のレベルとの比較を正確に伝えてくれていない。最近はやりのスポーツ評論家も調査不足だ。だから、競技が終わってから、相手の強さを知らされることが多い。
バレーボールでも、終わってから、こんな国がこんなに強くなっていたのかって知らされることが多いでしょう。特に、アフリカ勢。
日本と言う国、慢心している間にドンドン抜かれてるような気がするが。

数日前に終わった女子のフィギュアにしても、浅田はいいのは知っていたが、どう観ても、韓国のキム・ヨナさん、「うつくし~い」。
安心、安定していて、僕みたいな素人でも、『うっとり』しちゃうくらい綺麗だ。だから、『金』で仕様がない。
でも、又、韓国ゼヨ。フィギュアまで。

マスコミは相変わらずこぞって、日本選手が「強い」「強い」「頑張れ、日本」って、繰り返している。これが、選手たちに『無言』ではなく『ユウゴン』の圧力になっているよ、きっと。それが、真央ちゃんのフリーの失敗につながっているね。

フィギュアの女子の実力が高いのは、誰でも分かる。
でも、その他の全ての競技で、日本国民は強い、レベルが高いと思い込まされている節がある。確かに、国内では強いが、世界ではどうなんだろうという見方が必要でしょう。あの騒ぎは国際的にはぜーんぜん通用しないように思えるのだがーー。

何かが、違う。
メジャーを目指しているゴルフの藍ちゃんにしても、確かに国内では強い。でも、一歩世界に出れば、韓国の女性のほうがレベルが高いことがわかる。パク・セリは、メジャー2連勝して、メジャー5勝目だ。韓国勢は彼女を始め、メジャーをターゲットにしている。パク・セリはいった。「私がメジャーに勝って、韓国の国民を勇気付けたい」と。藍ちゃんは行った。「楽しんできます」と。
ゴルフは、オリンピックじゃない、個人のプロの競技だから、何も日本を代表しているわけでもないし、税金から経費が出ているわけでもない。だから、どんな気持ちで海外に出ようと自由だ。
そういう意味では、モンゴルの相撲取りだって、国の予算で日本へ来ているわけじゃない。でも、何かが違う。
意識が違う。パク・セリと朝青龍に、どこか、共通したものを感じるが。

わが日本と言う国は、自分で思考するってことしなくなってしまって、周りとか、先輩とか、先生とか、上司とか、権力者とかがどう「言って」いるか、「考えて」いるかを確かめてから発言する癖が付いてしまっていません?
それは、昨日のボクシングで感じたんだけど、最近のスポーツ中継全般に感じるんです。
自由にものが言えないんじゃないかな。
まさか、テレビの中継で、本音、言えないもんね。
昨日も、たいしたことないのに、「亀田、優勢」「いいパンチです」「入ってますね」と繰り返していたが、僕の見るところ、ちっとも入っていない。解説の元世界チャンピオンも、「優勢です」と繰り返す。
ランダエタの良いところは、一切言わない。
一時の日本テレビの巨人中継みたいなもので、ジャイアンツのことしか言わない。最近では、江川や掛布、山本浩二などを解説に使って平等に放送しているが。
敵の長所を言ったら、次から、ボクシングばかりでなく、スポーツ・アナからはずされちゃうかも。

僕だって、ここだから言えるけど、職場じゃ、やっぱねーーーーーーーー。
トホホーーーーー。
こういうことは、今年ばかりでなく永久不変に続くのです。
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沖田総司の謎―――特別版

沖田総司の謎について、2回にわたって述べさせていただいたが、その後『チロ之助』氏から貴重なご助言をいただいたので、早速釣洋一氏の『土方歳三波涛録』を拝読させていただいた。
そして、今、思っていることを書く。

最近僕は、自分のブログ“沖田総司の謎―――2/12月15日(UP)”の中で次のように書いた。


16 ここで、興味深い記述を報告しなければならない。
  今回、この調査をしていて改めてその資料にぶち当たってしまったので、紹介する。実は、この資料は、僕が本を書く前から持っていて、気にはなっていたのだが、あまりに出来すぎているので、無視していたものである。だが、本当のところ、無視できない内容なので、載せさせていただく。

その資料とは、『歴史と旅』昭和55年11月号に載ったもので、―――”特集、謎と異説の新選組“の中の《沖田総司の恋人の謎》川西正隆―――の中のものである。
ちと長いが、川西氏の文章をそのまま載せさせていただく。
《沖田総司の覚え書》  
  総司は天保13年(1842)の暑い夏の6月1日に、奥州白河藩10万石阿部家江戸藩邸下屋敷内の組長屋に於いて、友部時右衛門組米32俵3人扶持、沖田勝次郎の嫡男として誕生の声を上げた。

    文久3年3月、上京した総司は近藤勇と京都に残留を決意して、京都守護職に京都留まりを請願して即日聞き届けに及んで、壬生邑郷士八木源之丞宅を宿舎と定めた。浪士組を改名して、新しく選ばれた者の組織の意をこめて、新選組と称することに定め、裁下を願い出るとともに、一同は生国正日を新しく書き留めて、京都守護職公用係に提出したのである。

沖田総司の提出した覚え書きは左の通り。
  生国 奥州白河 天保一三壬寅6月一日生
  沖田総司藤原房良 二十二歳
  父 沖田勝次郎 死 旧奥州白河臣
  母 沖田ミキ  日野宿四谷宮原家娘
  兄 沖田林太郎 御府内
  姉 沖田ミツ  嘉永四年八月二十六日婚 兄林太郎妻
  姉 沖田キン  嘉永五年 長岡支藩峯山藩臣中野由秀妻
  剣芸 天然理心流 近藤周助門人
  学問 小島鹿之助門
          
 …………(中略)…………
  
17 総司の母親について、菊池明氏は月刊『歴史読本』の中で、以下のように述べている。
      (総司の)母親について『沖田家文書』は「父母は幼少の時、死に別れ……」としているが、専称寺の過去帳に該当する人物は文久二年八月九日に死亡した、「同人(林太郎)母」とされる「誠心院清室妙林大姉」のはかにいない。勝次郎の死去から18年後のことであり、とても幼少期のことではない。
       ―――
      やはり過去帳による限り、「誠心院」こそ総司の母親であったとするほかはないようである。
      母親の名前は、残念ながら伝わっていない。

  と、述べられている。
だが、先の川西氏ははっきりと総司の母の名を「ミキ」としている。何もないところから捏造するとも思えないので、何かでお調べになったのであろう。
  でも、不思議だ。これだけ、これまで皆さんが関心を持って調査してきていることなのだが、彼は、母の名を言い切っているし、宮原久五郎についても、詳しくご存知だ。
このことについては、これ以上詳しく詮索はしない。
でも、総司が書いたとされる、京都守護職に提出した身上書なるものが残っているのか。そうなら、是非拝見したいが。



この記事に対して、チロ之助氏から次のようなアドヴァイスがあった。

釣洋一氏の創作です
>その資料とは、『歴史と旅』昭和55年11月号に載ったもので、―――”特集、謎と異説の新選組“の中の《沖田総司の恋人の謎》川西正隆―――の中のものである。
引用された上記の一文にある、総司の生年月日の「六月一日生」と総司の母親の名前「ミキ」は、昭和55年9月25日に新人物往来社から発行された釣洋一氏の著作『沖田総司の手記』が元ネタです。
沖田家の伝承に、「総司が生まれた日は、大変に暗い日で、灯りをたくさん点けたというように聞いております」とあるのをヒントに、1842年7月8日(天保十三年六月一日)が「日食」だったので、総司の生年月日に設定したそうです。
母親の名前「ミキ」は、総司の二人の姉「ミツ」と「キン」の名前から「ミキ」と設定したそうです。
これらの件について、釣氏ご自身が、2003年9月15日新人物往来社発行の『土方歳三波涛録』の中で言及されておりますので、ご一読をお薦めいたします。
2006/12/15


このご助言により、早速、釣洋一氏の『土方歳三波涛録』を読んだのだが、ますます、訳がわからなくなってしまった。

まず、釣氏の著書の中にはこうあった。
『土方歳三波涛録』155ページから158ページの中の抜粋。


  新選組の七不思議
一、 沖田総司の謎
 不思議なことといえば、 沖田総司ほど不思議な男もいない。
 …………(中略)…………
     
沖田総司出生の秘密といったことは、一時、解決したかのように報じられたが、実のところ、何一つとしてわかっていない。
昭和55年、ある雑誌に、次のような一文が載った。 

~~~~~~~~~~~~
文久3年3月、上京した総司は近藤勇と京都に残留を決意して、京都守護職に京都留まりを請願して即日聞き届けに及んで、壬生邑郷士八木源之丞宅を宿舎と定めた。浪士組を改名して、新しく選ばれた者の組織の意をこめて、新選組と称することに定め、裁下を願い出るとともに、一同は生国正日を新しく書き留めて、京都守護職公用係に提出したのである。

沖田総司の提出した覚え書きは左の通り。
  生国 奥州白河 天保一三壬寅6月一日生
  沖田総司藤原房良 二十二歳
  父 沖田勝次郎 死 旧奥州白河臣
  母 沖田ミキ  日野宿四谷宮原家娘
  兄 沖田林太郎 御府内
  姉 沖田ミツ  嘉永四年八月二十六日婚 兄林太郎妻
  姉 沖田キン  嘉永五年 長岡支藩峯山藩臣中野由秀妻
  剣芸 天然理心流 近藤周助門人
  学問 小島鹿之助門
~~~~~~~~~~

    近藤、土方、 沖田らが、江戸へ帰還する清河八郎らと袂を分かち、京都残留を決定したとき、このような身上書を提出したであろうことは考えられる。しかし、この時点で、新選組を名乗ったとするのは誤りである。このことは後述するとして、 沖田総司生誕の日や母ミキの名前、そして、姉キンの嫁ぎ先である中野由秀の名前や、峯山藩の記述に思わず首をかしげてしまった。
まず、沖田総司の生年月日は、拙著『 沖田総司の手記』で、私自身が初めて記述したものである。
この作品は、すべてが創作である。勿論、いろいろと調査すれば、すべてが虚構であることが判然とするように書いてある。
…………(中略)…………
    次に母の名前がミキになっていることだ。これも、私が勝手に名づけたものである。総司の姉ミツとキンの一字を当てはめたにすぎない。もっとも、母の名前から子の名をとることは稀なことではないから、意外や、ひょうたんから駒になるかもわからない。
その母親が、日野の宮原家の娘としてあるが、根拠のない風聞に過ぎない。

…………(以下略)…………


ここまでが、釣氏の著作の中の引用である。
釣氏も、私(村瀬)が引用した川西氏のあの文章を著書の中で引用されていた。そして、「誤りだ」「首をかしげてしまった」「私自身が初めて記述したもの」などの表現をされている。

これらを整理してみると、
1 最初釣氏が『沖田総司の手記』という作品の中で、 沖田総司に関する様々な記述をされた。唯、この作品は、「すべてが創作である。」とおっしゃっている。
2 次に、釣氏が作った作り話に川西氏が乗ってしまって、さらに創作を加えて、あたかも 沖田総司の真実のように書いた。
3 それを読んだ釣氏が、「あれは、嘘っぱちだ」と批判している。
ととれるのだが………。

『 沖田総司の手記』がどのような表現で書かれているのか、読んでいないから、正確にはいえないが、著者の釣氏がはっきり、創作だといっておられる。
その創作を、受け売りしてしまった川西氏なのだが、ご自分の創作をさらに加えているから、話がややこしい。例えば、総司の母親の名がミキで、その人は宮原家の出であるということ。ミキと名づけたのは釣氏で、宮原家の出としたのは川西氏である。
釣氏は、「日野の宮原家の娘としてあるが、根拠のない風聞に過ぎない」と言っておられるが、全く根拠のないことではない。
昔から、この地域(日野辺り)では、そのように言われてきていることは事実である。前にもどこかで書いたが、あの土方歳三の祖母の出である平家の子孫、平拙三氏も小さいときから、そのように聞いている(宮原家の娘)と言っておられたし、宮原家子孫の久雄氏から直接、丁度昨年の今頃、僕はそのこと(総司の母が宮原から出ているらしいこと)を聞いた。だから、根拠のない風聞ではない。
それに、泰助のミツ宛の例の手紙の下書きにも、宮原久五郎の名が2回出てきているのだから、沖田家と宮原家の関係と言う意味においては、根拠がないとはいえない。

むしろ、どうしてそうしたのかは分からないが、例え小説だとしても、総司の母の名を勝手に『ミキ』と名づけてしまう方が、問題が大きいのではないのか。「嘘も百回言えば、本当になる」と釣氏自身も言っておられる。釣氏ほどの影響力のある人が書くと、それが真実であるかのように思ってしまう人もいる。

歴史上の人物で、沖田総司といえば皆さん関心の深いところでもあるし、注目もされている。その母の名を創作してしまうってこと、ありなの?生年月日も、作ったということだが、それだって一人歩きし始めている。
それでなくとも、この家系は複雑で混乱しているのだから、ややこしいことしないでくれといいたい。

沖田総司と沖田家にまつわる謎(順不同)―――2

さて、沖田総司の謎について、再度考え始めてから、ほかの記事を2回挟んでしまった。続きを書かなければならない。

14 ミツの出自について、考えてみる。
これまでの定説では、沖田勝次郎の長女で総司とは実の兄弟として認識されてきている。
だが、日野市役所に残されている戸籍やその他で、近藤藤蔵や周助の長女とする記述があるのだが、この真実はどうなっているのか、大変重要なことだがわかっていない。
もし沖田勝次郎の娘でないのなら、総司とミツは血が繋がっていないことになるし、林太郎房正と総司が実の兄弟で、そこにミツが嫁入りして沖田家に入ったことになる。あるいは、総司だけが勝次郎の実子で、林太郎は養子に入ったか。実子が生まれているのに、養子を取る必要があるのだろうか。だとすると、総司が生まれる前に林太郎を養子にとったことになる。

二番目の姉のキンが生まれたのが天保7年4月11日である。総司が天保13年だとすると沖田家は6年間子供が出来なかった。男の子が欲しいから、その間に井上分家から林太郎を養子にもらってしまって、その後に総司が生まれたと推測できないか。

  林太郎は明治に入って、自ら、身上書に総司と実の兄弟のように記述している。
  ミツと祝言するためには、兄弟では無理だからミツを一旦周助に養女に出した形にして、再び沖田家に嫁入りさせた、と僕は考えている。
  すれば、林太郎が総司と実の兄弟のように記述しても、あながち嘘とはいえない。
  血は、繋がっていないが。

だとすると、井上泰助の下書きは、微妙に違っていることになる。
泰助は、ミツが周助の子であったとか、養女に入ったとかということは一言も触れてはいない。それは、お互いに触れることがタブーだったのかもしれない。言わなくても承知していることだから。
明治に入って、4年の壬申戸籍の届出時に、ミツは夫の林太郎を立てて沖田家の実子とし、自分はそこへ嫁入りしたという操作をしたとも考えられる。

15 なお、この近藤藤蔵だが、ミツの戸籍には『嘉永四年八月二六日北多摩郡大沢村 亡
近藤藤蔵長女入籍』となっている。このことをつぶさに調べた人がいるのだが、当時の大沢村に近藤姓の人は見当たらなかったという。だとすると、捏造したものか。何故、そんなことをする必要があったのか。
ちなみに、この大沢村とは今の三鷹市大沢で、調布市と隣接しているところだ。近藤勇(旧姓宮川勝五郎)の生家のあるところで、勇の墓のある竜現寺もそこである。
宮川勝五郎は16歳のときに近藤周助の養子となっているから、ミツも養女で入っていれば、この二人を夫婦にする考えがあってもおかしくはないカーーー?
なんだか、頭が変になってきた。

でも、ついでだから、もう少し突っ込んで考えてみようか。
ミツは天保4年で勝五郎は5年生まれだから、ミツのほうが一つ上である。周助に子がなく、自分は既に高齢だし、剣に才気を感じた勝五郎を16歳のときに養子にとった。同時に嫁さん候補も考えた。
それを、高弟でもあり度々無心していた井上松五郎に相談したところ、「いいのがいるよ」と言ってミツの名をあげていたかもしれない。
その時点では、ミツは17歳である。戸籍では、19歳で沖田家に嫁入りしている。まだ、婚姻はしていなかったはずである。
なんだか、小説じみてきた。
でも、偶然ではない、何かを感じるが。
(余談になるが、NHKの大河ドラマでは、ミツが近藤勇に惚れているように描かれていた。ミツは、試衛館に入りびたりで、あんなことは実際にありえなかったろうに、と思って見ていた。三谷さんは、深く考えてそのように台本を書いたとも思えないが、その実、上記のこともあったので、変な感じで僕はテレビを見ていた記憶がある)

16 ここで、興味深い記述を報告しなければならない。
  今回、この調査をしていて改めてその資料にぶち当たってしまったので、紹介する。実は、この資料は、僕が本を書く前から持っていて、気にはなっていたのだが、あまりに出来すぎているので、無視していたものである。だが、本当のところ、無視できない内容なので、載せさせていただく。

その資料とは、『歴史と旅』昭和55年11月号に載ったもので、―――”特集、謎と異説の新選組“の中の《沖田総司の恋人の謎》川西正隆―――の中のものである。
ちと長いが、川西氏の文章をそのまま載せさせていただく。
《沖田総司の覚え書》  
  総司は天保13年(1842)の暑い夏の6月1日に、奥州白河藩10万石阿部家江戸藩邸下屋敷内の組長屋に於いて、友部時右衛門組米32俵3人扶持、沖田勝次郎の嫡男として誕生の声を上げた。

    文久3年3月、上京した総司は近藤勇と京都に残留を決意して、京都守護職に京都留まりを請願して即日聞き届けに及んで、壬生邑郷士八木源之丞宅を宿舎と定めた。浪士組を改名して、新しく選ばれた者の組織の意をこめて、新選組と称することに定め、裁下を願い出るとともに、一同は生国正日を新しく書き留めて、京都守護職公用係に提出したのである。

沖田総司の提出した覚え書きは左の通り。
  生国 奥州白河 天保一三壬寅6月一日生
  沖田総司藤原房良 二十二歳
  父 沖田勝次郎 死 旧奥州白河臣
  母 沖田ミキ  日野宿四谷宮原家娘
  兄 沖田林太郎 御府内
  姉 沖田ミツ  嘉永四年八月二十六日婚 兄林太郎妻
  姉 沖田キン  嘉永五年 長岡支藩峯山藩臣中野由秀妻
  剣芸 天然理心流 近藤周助門人
  学問 小島鹿之助門
  
《沖田・井上両家の縁》
    総司の父、沖田勝次郎は弘化二年(1845)10月20日に死亡した。総司4歳、姉ミツは11歳、キンは8歳であった。―――
    沖田家は、日野宿で13俵1人扶持の日光山警備の千人同心、井上松五郎の分家である井上惣蔵の弟が相続することになった。
    白河藩では末期養子(死の直前に相続人を定める)は食禄半知と定められていた。沖田家当主勝次郎の死亡について相続人が定められていなかったので、当然、禄は半知に減らされてしまった。禄の半知は沖田家にとっては実に大きな痛手であった。半知では親子4人の生活は苦しくなるばかりであった。
    そこで、身の回りを整理した沖田ミキ母子は、武州日野宿四谷の宮原家へ引き取られていった。宮原家に落ち着いた母子は、祖父久五郎に、一度に男子と女子の三児の孫が出来たといって大変可愛がられたのである。
    井上惣蔵も甥の林太郎を連れては宮原家に出掛けて、総司たちを多いに可愛がっていた。
  「私の家と沖田家の菅家については、沖田総司は私の家の先祖で、私の父や祖父はよく沖田総司の話をしていました」
   という現当主の宮原久男氏の話が日野に残っている。(筆者注――久雄が正しい。平成18年に死亡)
    嘉永四年(1851)8月二十六日、総司10歳のとき、姉の沖田ミツは宮原久五郎の媒酌によって、井上惣蔵の子で宗蔵の弟である林太郎房正と目出度く結婚式を挙げた。

 17総司の母親について、菊池明氏は月刊『歴史読本』の中で、以下のように述べている。
      (総司の)母親について『沖田家文書』は「父母は幼少の時、死に別れ……」としているが、専称寺の過去帳に該当する人物は文久二年八月九日に死亡した、「同人(林太郎)母」とされる「誠心院清室妙林大姉」のはかにいない。勝次郎の死去から18年後のことであり、とても幼少期のことではない。
       ―――
      やはり過去帳による限り、「誠心院」こそ総司の母親であったとするほかはないようである。
      母親の名前は、残念ながら伝わっていない。

  と、述べられている。
だが、先の川西氏ははっきりと総司の母の名を「ミキ」としている。何もないところから捏造するとも思えないので、何かでお調べになったのであろう。
  でも、不思議だ。これだけ、これまで皆さんが関心を持って調査してきていることなのだが、彼は、母の名を言い切っているし、宮原久五郎についても、詳しくご存知だ。
このことについては、これ以上詳しく詮索はしない。
でも、総司が書いたとされる、京都守護職に提出した身上書なるものが残っているのか。そうなら、是非拝見したいが。

懐メロ老人ホーム訪問記

沖田総司の謎について、途中だったので続きを書かなきゃいけないのだが、この前の土曜日に老人ホームを訪問したので、そのご報告を最初にしたい。


僕は、専門がテナーサックスだから、これまでそれを演奏してきていたが、これからはギターも片手に持って訪問することにした。
でないと、交流が一方的で、施設入居者が一緒に参加できないからである。
ギターを爪弾きながら懐メロを皆でうたうのであるが、何も懐メロじゃなくてもいいのだが、以前唱歌を一緒に歌ったがいまひとつしっくり来ないので、思い切って歌謡曲にしようと決めた。

僕は20代の頃から、マンデーナイト・ジャズ・オーケストラというバンドに約25年間所属して演奏してきたが、この間、毎年重度の障害者施設に訪問してきた。その際、僕が司会をしてクリスマスライヴを行なってきたのだが、毎年、苦労して司会進行したのを思い出す。
その施設の入居者は、平均年齢で65歳を越える精神障害者だったので身体は大人だが、精神は大体3歳なのである。赤い服を着たサンタが大きな白い袋を背負ってやってくれば、大歓声上げて喜び、プレゼントをもらった後は、よだれで口元を濡らし自慢げに僕らに見せびらかしている人もいた。
その彼らは、僕らのクリスマスソングに狂喜さえも感じて踊りまくった。僕らの演奏に、あれだけ喜んで踊ってくれる人たちもいなかった。
だが、話しかけ方が難しかった。僕らの大先輩に対して、どう話したらいいんだろうと悩んだ。精神年齢は3歳なのだから。

平均年齢が90歳になる人たちと一緒に懐メロを歌うことは、どのように展開してゆくのか不安であったのは本当のところだ。
だか、皆さん、大きな声を出して歌ってくれた。
唯、全員かといわれれば、3分の1程度である。

この年代の人たちも、若い人たちとよく似ていて、男性の殆どはとても感心があるのに、歌わない。中には、口を動かしている人もいるのだが、声になってはいない。特有のテレがあるのであろう。
女性も、中には、声になっていない人もいた。やはり、恥ずかしいのかもしれない。また、あの年齢になると、声を出したくても、出ないのかも知れない。
結果、合計30人程度参加してくれた中で、12~3人の人たちが(おばあちゃん)大声で歌ってくれた。
一番大きな声がでていたのは、『赤城の子守唄』であった。
次が、『湯の町エレジー』だったかな。昔を懐かしんでいる人も、確かに何人かはいたので、お役に立っていたみたいだ。
カラオケで歌ってしまうほうが手っ取り早いのであるが、あえてギターを爪弾いた。このほうが、心が伝わるような気がしたからだが、今後も続けていく。
ga03.jpg

終戦後の昔の映画「悲しき口笛」を見た。また、涙してしまった

沖田総司について、僕の考え、疑問など、まだ途中なのだが、違うことを書きたくなった。

昨日、久しぶりに古い映画を見た。
映画といっても、映画館ではなく、ビデオである。
題名は、「悲しき口笛」。
主演は、勿論、美空ひばり。昭和24年の作品だから、彼女がいくつのときなんだろう、10歳程度に見えたが、映画では12歳といっていた。
彼女、この頃から、メチャ、歌がうまい。白黒の映画で雑音もあればところどころ醜い場所もあるのだが、当時の彼女の歌声は、今聞いても群を抜いて見事で、あんなすごい歌手は見たことも聞いたこともない。
誰が言ったか、本当に100年に一人の逸材であったと思う。

映画が「悲しき口笛」だから、勿論この歌が随所で歌われるのだが、ほかにもふんだんに聞かせてくれる。ひばりさんの子供の頃の声をじっくり聞きたい人は、この映画をご覧ください、ビデオ屋にあるでしょうから。

僕は、このビデオを職場の友人から借りた。
彼は、僕が最近,老人ホームを訪問しているのを知っていて、あした(12月9日)、サックスばかりでなく、ギターの弾き語りをすることもご存知なのだ。そのプログラムだが、10曲用意してある。その中に「悲しき口笛」が入っている。
彼は早速、僕のために(?)ビデオを買ってきてくれた。
値札がついていて、190円である。
「随分と、安いな」と、聞いたら、
「最近、古いビデオをこういう値段で売っているんだ」
と、返ってきた。
190円だから、こっちも遠慮なく借りた。

やあー、どういうわけか、あの当時の映画を見ると、どうしても涙腺がゆるんでしまう。正直、どうお世辞を言っても、大した映画じゃない。金もかけられないし、あの頃のことだし、仕様がないですよね。
でも、僕には、感動でした。
さっきの、美空の歌声だけでも価値は十分とあるのだが、昭和24年作品だから、23年当時の横浜を舞台にして、ロケを行なっているし、それを拝見できるだけでも嬉しかった。あの、外人墓地付近で撮影し、そこからの港の風景も確認できる。今は、様々な建物が並んでしまっているから、だんだんと港が見えなくなってしまっている。長崎なども、僕が学生のころだから昭和47年当時だったか、グラバー邸から美しい港が見えていたのだが、今は建物やドッグで風景がぶち壊されてしまっている。
あの横浜の雰囲気は、敗戦で爆撃されたあとの焼け野原で撮影されているので、当時のことを知るには格好の映画である。
この当時の映画は、この「悲しき口笛」に限らず、皆そういうノスタルジックなシーンを持ち合わせているので、なんにしても価値がある。
僕は、特に、幕末の頃の風景に関心があるので、『昔は、こうだったんだ』と、穴が開くほどスクリーンを覗いてしまう癖がある。

この映画のあらすじだが、
ひばりが戦争孤児で、戦争に行った兄の帰りを待ちわびているのだが、周りはみな家、屋敷のない、焼きだされた人たちばかりで浮浪の労働者たちである。(ひばりの周りは子供いなくて、どういうわけか大人たちばかりだ)
その兄は、音楽家で、一つの曲を妹に残していった。
それが「悲しき口笛」という曲だ。
ひばりは「ミツコ」という名であったが、彼女は、あのドラえもんに良く出てくる原っぱにおいてあったド缶(コンクリート製)の中で寝泊りしている。そこを津島恵子ふんするビヤホールで女給をしている京子に拾われて、一緒に住むようになる。
戦地から帰ってきた兄(原保美)は、妹を探すのだが、様々ないきさつがあったあと、妹のミツコがクラブで歌っているところに偶然出くわして、二人で抱き合ってハッピーエンドという、見ていて誰でも結末が想像出来る成り行きなのだが、それでも、涙を伴ってしまうのはどうしたことだろう。
僕が、年をとってしまった証拠なのだろうか。
でも、違うような気がする。今の若い人たちでも、感動的なんじゃないかな。
いろんな懐かしい人がでてきていたが、一人悪役の人が印象に残った。
大変な色男だった。徳大寺伸という俳優で、古い人は知っているはずだ。よく、東映の時代劇に出てきた。新選組関連で言えば、あの栗塚サンのというより司馬遼太郎の傑作、「新選組血風録」で原田左之助を演じていた人といえば、お解かりの人もいるかな。

このあいだ、テレビで「三丁目の夕日」をやっていた。
感動的な作品だった。
でも、ちょっと、出来すぎている感じもし、手抜きもある。あの時代、ああじゃないだろうとか、俺だったら、ああは書かないのに、というシーンが随分とあった。東京タワーのことなんて、どうだっていい。
それより、売れない作家で駄菓子屋の親父が、嫌々預かった子供とひょんなことから引き裂かれる羽目になってしまう。
それがあって、毎日酒びたりになってしまって、このやるせない心境をどうしてくれるんだと、家中のものをブン投げる。荒れ狂う。そういうシーンを見たかった。この辺、もっとリアルに描いて欲しかった。
そして、その子と再会。
「お前なんか、いらない。カエレ」と、気持ちとは裏腹に蹴飛ばすシーンがあった。でも、とうとう抱き合ってしまう。見ている側は、涙なしには見られない場面だ。
そのようにして欲しかったのに。余計なことのようだが。でも、こだわる。
だって、僕の年代の話だから。
僕の娘(高三)が、ビデオをとっておいてというので(受験なので)、僕もとりながら見たのだが、あの映画、子供が主役だが、昭和30年代の頃の自分たちを、髣髴することが出来る。

昨日見た映画も、それよりもっと10年古い時代のものだが、終戦後の外地から引き上げてきた者も、内地で残っていたものも一緒になって、焼け野原の地べたにじかに寝るしかない苦しかった、生きていくための、ぎりぎりの生活を描いているものだ。
人間は、こういうものを見せられると、顔がしわくちゃになる。

名画といわれるものは、日本映画だけをとってみても枚挙にいとまないが、僕は、特に戦争に関連するものに感動する癖がある。
また、戦争ものに名画が多いのも事実だ。大正から昭和、特に支那事変から第二次世界大戦に入っていき、凄惨な生地獄を経て終戦を迎え、その後の食うや食わずの時代を潜り抜けてきた我等の先輩たちの姿に感動する。まだ、僕らの兄や姉、親の時代の実話である。

自分は老人ホームで、大先輩たちを前にして演奏してきているが、何かおこがましいというか、遠慮というものがある。
果たして、聞かせるほどのものなのか。
それに、ズート、座して聞いていることがきっと苦痛になってくるに違いないから、音楽に参加してもらおうと考えた。
このあいだは、一緒に小学唱歌を歌ったが、何か僕には抵抗があって、思い切って『懐メロ』にしたいと思った。
あした、なれないギターを抱えて、皆と10曲ほど歌う。
プログラムは、次のようである。
  1荒城の月(明治34年)
  2船頭小唄(大正10年)
  3月の沙漠(大正12年)
  4波浮の港(昭和3年)
  5赤城の子守唄(昭和9年)
  6人生の並木道(昭和13年)
  7帰り船(昭和21年)
  8湯の町エレジー(昭和23年)
  9悲しき口笛(昭和24年)
  10青い山脈(昭和24年)

ギターを練習し始めて2ヶ月になるが、最近ではようやく流しのギター引きの下っ端ぐらいにはなってきたと思っている。
時々、自分で酔っている。
ただし、歌は、全然下手。

沖田総司と沖田家にまつわる謎(順不同)―――1

BBSで、沖田総司に関する謎について、コメントを頂いた。
僕も、長らくこの話題にはご無沙汰していたので、恐縮したのだが、再考してみた。相変わらず、この家族は複雑怪奇で、研究家や歴史家泣かせである。考えれば考えるほど、頭が混乱してくる。
今から、約半年前に沖田の研究家としては第1人者の菊池明さんや清水隆氏、山村竜也氏、小島正孝氏らと、日野のジョナサンでこの話題についても歓談したが、皆さん同じようで、難解なのだ。

僕がこの話題を他人にすると、皆が嫌がる。
いや、沖田君には関心があるものの、家系の話になると、難しくて謎解きみたいで、誰もがわからなくなってしまうからだ。終いには面倒くさくなってしまって、どうでもよくなってしまう。だから、僕も自分の本の中で、沖田総司の素性について詳しく書いたのだが、聞いてみると大概の人がわからないまま通過している。
考えていたら、先に進めないからである。

それでも、辛抱強く、再び謎について考えてみる。思いつくまま、順不同である。
1 父母は誰か。母はともかく、父が勝次郎であるとの実証がないという人もいるが。

2 総司の生年月日は天保13、それとも15年のどちらか。

3 父は勝次郎のほか、林太郎元常がいたのか。それとも同一人物か。

4 専称寺の過去帳には、『林太郎次男』とあるが、どう考える。

5 阿部家の御家人株を何時買ったか。阿部家分限帳によると、祖父の代に(文政2年)足軽小頭を仰せつかっているが。

6 井上本家に、『中郎流押花図会花図』の小冊子がある。そこには沖田桃笠なる人物のサインがあるが、それは祖父にあたる三四郎のことなのか。

7 22表2人扶持白河藩最下級武士に、このような趣味に現を抜かす余裕があったのだろうか。

8 白河藩下屋敷があった江戸麻布では、宝暦年間から草花の栽培が内職として行なわれていたので、『押花』ではなく園芸なら可能性はありえたが(ただし、祖父の代の阿部家は白河藩ではなく忍藩であった)。---友人の山本氏の調査による。

9 泰助の手紙の下書きが、井上本家にあるが、この中で、ミツが泰助とハナの縁談に反対だったとする説があるが、どういう理由でか(血が濃すぎるとか、士族と平民の違いという説もあるが、どうも説得にかける。当時の井上本家は日野宿でもかなりの豪農で3本指に入っていたとも言われているし、一説には、沖田家は井上家に経済的な支援を受けていたともされる)。
 
10この下書きは、泰助とミツが両家のこれまでの経緯を確かめ合っている部分があり、嘘偽りは言うことができない性格上、当時の井上本家、分家、沖田家、宮原家の関係を確かめるうえで第1級の資料だと確信している。すると、ここに出てくる宮原久五郎なる人物はどういう人か。総司の母の兄弟であるとの、宮原家の言い伝えがあるが、本当か。

11久五郎氏は、天保5年(1834)10月9日生まれで、なんと近藤勇と全く同じ日である。かなり長生きした人で、大正7年(1918)3月3日に84歳で没している。この人の父の名は勇吉で久五郎は長男であった。唯、上に姉はいたかもしれない。いや、いないと困る。それも久五郎より15歳程度年上の人で。でないと、総司の母にはなりえないからだ。

総司は天保13年(1842)生まれだとして、上に姉が二人いるから(実の姉だとして)母が25歳で生んだとした場合、母は文化14年(1817)生まれの人になる。そして、沖田家の過去帳によれば、文久2年8月9日に沖田林太郎母という女性が一人没している。過去帳の中に総司の母に当たる女性はほかに見当たらないから、常識的にはこの人が母になる。

12この泰助のミツ宛の手紙の下書きの中に、次のようなくだりがある。「ご祖母様(ミツ)の父タル者も私宅分家井上惣蔵ナル者の弟、ご祖母様のつれ合い亡林太郎モ井上宗蔵ナル者の弟ニテ姓は沖田家を惣続すれ共骨水は井上の交合スル其旧縁ニ依りテ」
 
この中で、『亡林太郎』となっているが、ミツの連れ合いの林太郎房正が亡くなったのが明治16年2月13日であるから、この下書きを書いたのはそれ以降になる。そして、長男芳次郎にハナが入籍したのが明治19年10月28日である。

そして、この下書きには、宮原久五郎の名が2回出てくるが、この久五郎氏の奥様は後妻になるが、ヨ子という人で天保10年生まれであり、井上宗吉の次女である。すると、久五郎さんも井上分家から奥様をめとっていたのだろうか。それも“宗”のつく人の娘さんからである。偶然か。

また、この下書きの中に「久五郎殿の娘、梅殿が私妹花を貫情結縁ーーー」とあって、梅という娘さんがいたことになっているが、戸籍にはのっていない。久五郎の次女として「ヒサ」という元治元年7月18日生まれの人はいるが、もしかして、戸籍にはのっていないが、長女か。

13総司の母を中心に考えてみると、

専称寺の過去帳から、亡くなった人を推測すると、最初の夫が勝次郎(弘化2年3月20日死亡――1845)で、次が林太郎父となっているので、元常(嘉永5年7月3日死亡)ではないかということになる。
長女のミツの婚姻が戸籍上嘉永4年8月26日で、井上分家から林太郎房正を養子として迎えている。この時点では、夫の元常はまだ健在である。だが、夫の死後、次女のキンが中野由秀に嫁いだのだが、このキンの長女ナミが生まれたのが嘉永6年8月7日なので、父の亡くなった嘉永5年中かその前に嫁いだことは間違いない。
そして総司だが、ちょうどこの嘉永5年ごろに試衛館に内弟子としてか入門している。

娘二人は片付き、息子は試衛館に内弟子に入ってしまっているのだから、ここで母は、独りぼっちになっているはずである。どうして生活していたのだろう、ミツ夫妻のところに身を寄せていたか、実家に帰っていたのか、それとも、井上の分家に世話になっていたか、あるいは近所中が大野姓なので、そのどこかに世話になっていたとも考えられる。(総司の墓の両脇に俗名大野源次郎の名が戒名で彫られている)
12歳前後の総司郎には、母と一緒にまだいたかったろうに。母子の心境を考えると、せつないものがあるが、なぜそうなったのか。単純に剣に才能がありそうだから、母子を裂いたのだろうか。
できることなら、そうしたとされる井上松五郎に聞いてみたい。

ともかく、沖田家は生活するに十分な扶持をもらっていたとは思えないので、母は、日野に住んで井上や宮原の世話になって生活していたのではないかと思われる。だから、実家の宮原家ではなく井上本家や近所の石坂家から、沖田家の子供机や先の押花図会などが出てくるのではないか。そして、ミツの孫重治が夭折したとき、沖田家ではなく宮原家の墓に入れてもらっている。これは、ミツの母が宮原の出だからであろうし、菩提寺の薬王寺が宮原からも井上からも歩いて2~3分の距離にあるからだ。
なお、キンの戸籍では、亡沖田勝次郎娘ではなく沖田林太郎妹となっている。中野由秀との婚姻時には、勝次郎は死亡(弘化2年2月20日)していて、既にこの世にいなかったからか。。

つづく
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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