村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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『大阪城の近藤と土方』2


「……」
「……」
土方も、容易に次の言葉を発しない。
「こんな身体になっちまった俺に、どうしろってんだ」
「……」
「おれは、藤堂を殺っちまった。その上、源さんもいなくなった。総司も長くはない……」
「……近藤さん、それは間違ってる」
土方は、珍しく寝ている近藤の顔に向かった。そして、想いの全てを吐露し始めた。
「俺たちは……、全てを捨てて上方へやって来た。少なくとも、俺や総司はそうだ。だから、いつ死んだって悔いはない。だが、あんたは違っている。……奥方のツネさんやタマちゃんがいるではないか。亡くなられた周斎先生の連れ合いフデさんもいる。この人たちの生計一切の面倒は、誰に頼んできたのかね。これだけじゃない。あんたは、天然理心流の宗家を継いだ身だ。この流派は、初代の内蔵助から二代目の三助、そして周助と続いた。あんたが四代目だ。そして、この流派は末永く続いていかなくてはならない。いや、その責任が、近藤勇にはあった」
膝に置いた手のひらが、袴の生地を握り締めた。
「……だが、あんたはそれを投げ出した。無責任にも、その道場をたたんでまでこの地へやってきた。あの試衛館の弟子たちは、誰が面倒見ていると思ってるんだ。……日野の佐藤夫婦や松五郎さん、そして、小野路の小島、橋本をはじめとした多摩の人たちのご厚意に甘えてあんたはこの地へやってきているはずだ。……多摩の人たちが、何で、……こんな我儘、身勝手を許してくれたんだ。それは、誰のためでもねえ、国のために働きたいというあんたの気概に惚れ込んだんじゃなかったのかね。『攘夷』を実現するまで、この日の本を守るために、一身を捧げる。あんたは、その日がやってくるまで互いに身を切り裂いても闘おうと、佐藤と小島と義兄弟の契りを交わした」
少し冷静に帰った土方、再び腕組みをして大きくため息をついた。
「だが、……この京地へやってきた5年前と今とでは、確かに情勢は変わっちまった。異国嫌いの孝明帝が亡くなり、大樹公もお亡くなりになったんだから変わるわけだ。……徳川幕府が攘夷を止めちまったんだから、どうにも立つ手がねえ。おまけに、大政の奉還までしちまった。それでも俺たちは、今、晴れて直参だ。しかもあんたは、お目見え以上の旗本待遇、徳川に抱えられている俺たちが、上に逆らうわけにはいかねえ。これで、あんたの義兄弟の契りも、盟約不履行になっちまうって寸法だ。……だがな、あんたには、多摩に帰って、やることが山とある」

陰っていた日差しが、部屋に差し込んできた。
「俺たちは、どっちにしろ、どの面下げても帰れねえ。だから、死ぬまで戦い抜くことになるだろう。俺や総司は死ぬことが出来ても、あんたはそういうわけには行かないはずだ。……辛いだろうが、これから俺たちと一緒に江戸へ帰ろう。そして、戦力を立て直して再び戦おうじゃねえか。戦って死ぬならともかく、決して、自ら死ぬなんて了見は許される場合じゃねえんだぞ。……俺はまだまだやる、戦い抜く」
大きくため息をつく土方歳三、寂しい言葉で締めくくった。
「それしか、俺には生きる算段がねえんだ」
仰向けに天井を眺めていた近藤、首だけ、土方がいる反対側に向いた。正月の冷たくも弱々しい陽光が、大阪城の一室の障子越しに差し込んでいる。

近藤の脳裏に、郷里の僚友の顔が浮かんだ。日野の佐藤彦五郎、小野路の小島鹿之助、橋本正直、連光寺の富沢忠衛門、小山村の西村一平、相原村の青木勘次郎なぞだ。
みんないい人たちだ。
江戸を出る時に、多大な餞別をもらってきている。いや、そればかりではない。これらの人々には、残してきた家族の面倒から天然理心流の弟子たちの面倒まで多くをお願いして旅立ってきた。
大変な世話になって自分は京地へやってきている。
簡単に、自害なぞで切る立場にはないのである。
寂しさ、虚しさ、焦燥感だけが、近藤の胸を駆け巡った。
近藤の右耳に、同時に二筋の流星が落ちた。

徳川の政治は、慶応3年10月15日をもって大政を奉還してしまっていたのだから、事実上終わっていた。終わったといっても、15代将軍慶喜はまだまだ政権に未練が強く、いずれ近いうちに、朝廷から徳川に政治の主導権をとるように依頼があると高をくくっていた。それ程に、薩長の政権担当能力を疑っていたのであり、それが、一つの余裕に繋がっていた。だが、実態は大きく違っており、朝廷は西郷、大久保、木戸、岩倉等に政治向きのことは任せきりだった。
当時の徳川方の重臣たちの見通しの甘さもあったのであろう、革命軍は傘にかかって徳川を潰そうと攻勢をかけてきた。
鳥羽伏見の戦というのは、大政奉還の後、12月9日付で発表された王政復古の大号令の内実が、その引き金になっている。徳川の領地と将軍の冠位を取り上げるというものだ。これには、納得できるはずがない。当然戦争になる。
徳川方はお家存続だし、一方は壊滅させたかった。翌慶応4年4月11日、江戸城無血開城となったあと、結果として徳川家は70万石程度の存続となった。官軍大参謀の西郷隆盛は100万石は必要だとして主張したのだが、徳川に恨みを持つ各藩の反対にあって減らされてしまった。
関が原の戦で、長州の毛利は戦闘には参加しなかったのだが、領地を3分の1に減らされて36万石になった。一方、敗戦して命からがら逃げ帰った西軍の薩摩島津家は、一切領地を減らされていないのである。家康は、この時何を考えていたのだろうーーー。
こうした積年の恨みが長州にはある。薩摩は、だから、さしてなかったのだが、その後、木曽川の治水工事で徳川には辛酸を舐めさせられた。

無血開城後の徳川家臣たちの労苦を見て、ひどい仕打ちだと非難する人たちも居るようだが、それまでに、徳川幕府はなんだかんだと言いがかりをつけて、全国の大名たちを御取り潰しにしてきた歴史がある。それが、戦争に負けた徳川に、今、同じつけが廻ってきただけのことだ。
何も、理不尽ではない。
強い軍事力を持ったものが勝ち残る。やりたい放題、言いたい放題である。
都合の悪いことは、塗り替える。時には、全くでっち上げも平気でする。家系図も専門家に頼んで作り変える。そうして有難みを増す。
権力者とは、いつの世もそうしてきている。
それが歴史だ。
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『大阪城の近藤と土方』1

「歴史」とは、勝組の足跡なのだ。
―――小噺『大阪城の近藤と土方』を作ってみた―――

「新選組は反革命的な殺人集団」「幕府の番犬」「理論のない不勉強な農民の出世欲集団」「徳川家に利用されたあだ花」「時代に逆らった権力欲の集団」などと、非難されてきた。

だが、もし、今もって、徳川の時代が続いていたなら、上記のような非難は出来ないであろう。新選組の全てが肯定されているに違いない。260年で終わった政権が400年続いていると考えれば、我々は簡単に徳川を非難する言葉は使えない。新選組は脈々と続いて、いまだに、京都で絶大なる権勢を誇っているかもしれない。

戊辰戦争で徳川家が敗北した結果、賊軍とされ、反革命的な反乱軍として成敗の対象となってしまったから、否定されるのである。
新選組には、西国の浪士たちは、文久3年以降京都や大阪で散々にいじめられてきた。捕縛され、拷問にかけられ、殺されたものも随分といた。
新選組と会津藩は、反革命集団の象徴であった。そして、革命浪士たちの復讐の対象でもあった。だから、近藤は武士であっても『斬首』だったし、戊辰戦争で、会津の人々は相当にいじめられ、破壊され、24万石といわれた会津藩であったが、3万石程度で不毛の地本州の最北端の斗南へ転封させられた。
これらは、すべて戦争に負けたからなのだ。そして、勝ち残ったものが、過去の不都合な部分は消滅させて、都合の良いところのみを大げさに吹聴する。
歴史って、「勝組」の言い放題、やりたい放題でつくられてきている

近藤は、慶応3年12月18日に京都の南方、墨染というところで、鉄砲で右肩を打ち抜かれていた。重傷なので、鳥羽伏見の戦が始まった慶応四年正月3日は寝たまま大阪城に運ばれていて、 沖田総司と二人で床に伏せていた。
その近藤に、戦況について、次々と情報が入ってくる。
伏見の奉行所を守っていた土方歳三率いる新選組・会津連合軍も、薩摩軍が放つ砲弾に敗れて南方へと戦線を移動させたが、一時は攻勢に転じる場面もあったものの、続く淀千両松、橋本など局地戦全てに破れて大阪城まで逃げ延びてきていた。
圧倒的な戦力を誇っていた徳川軍であったが、鳥羽伏見戦争の敗因は戦略の浅薄さにもあったが、何よりも敵に錦の御旗が上がったのと、味方側に裏切りが続出したことによる。

大阪城の一室に寝ている近藤の頬は、げっそりとやけ細っている。近藤の枕元に、戦況報告に来た土方歳三が座っている。仰向けになったままで、近藤は細い声を出した。
「歳さん、もう終いだ。こんなに裏切りがでたんじゃ、戦えるもんじゃねえ。おまけに、味方の大将がまず最初に逃げ出したとあっちゃ、この戦に勝ち目はねえ」
近藤は気力が萎えてしまったためか、目じりから、生ぬるいひと雫の塊が流れ落ちた。
大阪城を、夜陰にまぎれて逃げ出した徳川将軍の脱出に落胆したこともあったが、同時に、右肩の骨を砕かれて、剣術家としての道を立たれてしまった惨めさに生きる気力をなくしていたのである。

近藤勇は、天保5年の生まれで土方歳三より1つ上である。
この時35歳になってまだ間もない頃だが、床に付している近藤の形相は、一遍に30年も年をとってしまったような面持ちである。それでなくとも、近藤は老けて見られているのである。土方は、あまりに年老いて見える近藤を見て愕然とした。
『まるで爺だ』
『これが、新選組局長近藤勇か。いきおいが感ぜられない』
『一月前の、新設されたあの豪華な不動堂の生活が、夢のことになってしまった』
『既に、竜宮城の出来事になってしまったのか。あまりに急変過ぎる』

ここ大阪城の近藤が寝ている一室に、毎日往診に来てくれている幕府御殿医松本良順には、「命があるだけでも、ありがたいと思え。これだけの重傷だ、普通じゃ、お前さんはとっくに死んでいるよ」と、たしなめられている。

近藤は仰向けのまま、続けた。
「関が原で勝ち取った徳川の政権だ。鳥羽伏見で負けりゃあ次の政権に交代よ。唯、それだけのことさ」
殆んど、焼けっぱちのことを言った。
この正月の5日にはふるさとの僚友、井上源三郎を淀千両松で失った。優秀な部下で情報通としてよく働いてくれた山崎丞(すすむ)も失った。
それだけではない。40日ほど前に、試衛館からの同士藤堂平助を斬ってしまった。また、山南もいない。永倉や原田、斉藤だっていつまで自分についてくるかわかったものではない。こうなってみると、新選組てやつは、最後は、歳さんと源さんと総司と自分の合計四人だった。   
みんな多摩の産だ。
新選組は、これからどうなるんだ。
自分の責任は思い。隣りの部屋に隔離されている総司だって、胸の病だ。長いことはない。自分だけがのうのうと生き残っているわけにはいかない。後のことは土方歳三に任せて、いっそ、自害して果てるかとまで思いつめている。
大阪城に運ばれてきてからというもの、近藤は、こんなことを毎日考えていたから、顔色にそれが表れて、死相さえ見え始めている。

枕元に座っていた土方歳三、例によって両方の腕を組んで正座し、近藤の話を聞いている。この人の癖で、相手の顔なぞ見ていない。常に静止して、正面を見ている。眼は半開きで、つぶってはいない。
土方歳三は、黒の羽織が好きだった。
いや、むしろ好んで、威圧的に身につけていたのかもしれない。局内の若手には、この後姿が恐ろしく、長く首筋近くまで垂らした髷を見ただけで身震いするほどだったのだが、正面に座ったら最後、手の震えが止まらない隊士は一人や二人ではなかった。
土方歳三は、近藤に対しては一定の礼儀はつくしているものの、こうした威圧感は、新選組内で、たった一人、自分より位が上の近藤局長に対しても変わらなかった。
敢えて、そうした。
局長の暴走、曲走を抑えなければならなかったからだ。そうして、新選組をここまで維持してきた。事実上、全て、土方が仕切っていた。
やり方は、間違っていなかった。
だから、新選組はここまで成長、発展してきている。
土方の芸術作品は、完成に近かった。殆んど思い通りに、ことは運んでいたはずだった。
だが、時代の波は、近藤らの舟をひっくり返してしまった。否、彼らの舟だけではない。徳川という260年の大船団を沈没させてしまった。

土方は、腕組みを解いた。両方のこぶしを両膝に置いた。おもむろに、いつもの低い声をゆっくりと発した。
「近藤さん、あんた、死ぬ気じゃないのか」


つづく

健康情報番組に入れ込みすぎていないか

乗馬型したフィットネス機器がバカ売れしているらしい。
なんでも、注文が殺到して、生産が間に合わない情況なんだと。
また、何か、いやな感じ、しません?
そう、あの、納豆事件の後だけに、わが民族の悪い癖が再び出ているようでーーー。

昭和48年だったか、第2次石油ショックのとき、日本国中でトイレットペーパーやティッシュ、洗剤が一斉に消えてしまったことがあった。我先にと買いあさり、僕の姉の家では、押入れ中トイレットペーパーだらけだった記憶がある。皆がそうするから、品薄になるのは当たり前である。
あの騒ぎは、一種、暴動的でもあったが、後で考えてみると、なんだったんだろうと、訳がわからない。
納豆事件の「あるあるーーー」が放映されてから、すぐスーパーから納豆が消えてしまったが、今は熱が醒めたから、平常通りにある。このような現象は、納豆以前にも何回かあって、覚えているところでは、ココアと寒天。シナモンなんてのもあったかな。

乗馬型のダイエット機器を既に買ってしまった人もいるだろうが、僕的には胡散臭い商品に感じられる。それを、日本で一番伝統も人気もある弱電気の会社が作っているのだから、驚きだ。
あんなもの(と、あえていわせてもらう)、唯座っているだけで、しりの下が揺れるからって,痩せられるんですかね。
あと、何週間かすれば、ブームも廃(すた)って、誰も見向きもしなくなるんじゃないのかなあ。自身が、何の努力も、苦労もしないで、痩せられるわけがないと、思うのだが。

昔(といっても、約25年ほど前)、消費者行政を担当していたことがあって、様々な被害を受けた人々を救済する仕事をしていたことがあった。あの当時は、「消防署のホウカラきた」といって、消費者をだまして、強引に消化器を売りつけたり、幸運をもたらすという触れ込みで、実に高価な壷や印鑑、高麗にんじんなどを買わされたりするケースが多発した。
そういえば、避妊具を3ダース、まとめて買わされた新婚さんがいたっけ。確か、10万円程度。クーリングオフの期間だったから、うまくお金を取り返すことが出来た。
こういった人たちが、被害を都の消費者センターや市の担当者に訴え出てきていた。
僕らが救済の手続きを取ってあげたのだが、実に難しい仕事だったし、危険だったこともあった。
「駅のホームを歩くときは、真ん中を」と、いわれたこともあった。悪質な業者が、あれこれと巧妙な手口を考えてくるので、都の消費者センターや経済事務所の呼びかけで、南多摩五市(日野、多摩、稲城、町田、八王子)で定期的に勉強会を開いて、情報交換をしていた時期もあった。
記憶に残っている一番大きな事件は、『豊田商事事件』だろう。全国で多くの人々が詐欺にあって金を騙し取られた。その救済措置を講じている中、そのだました張本人が、マスコミ関係者が大勢押しかけている中で殺されてしまったあの事件だ。
あの当時、『美顔器』も大流行で、多くの女性が買ったのだが、結局、大した効果もなく、今は大方廃れてしまっているはずだ。
唯、液体を張った器に顔を浸しているだけで、電流が流れるからって、美しくなれるわけがない。
この度の、乗馬型のものも、そのタグイでなければよいがーーー。
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
    サイトに関してのお問い合わせ(動作不具合など)は管理人までお願いします。
    村瀬へのメールはこちら






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