村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

近藤・土方の見た幕末―――3

《徳川に、掛けそこなった一橋》

安政5年6月24日 ――江戸彦根藩上屋敷――

早朝から、越前藩主松平慶永が井伊直弼の邸宅に押しかけ、談判。
慶永 「アメリカとの条約が既に結ばれ、調印も終わっているが、朝廷の許しを得ていない。何と心得る」
直弼 「いかにもさようである。であるから、一昨日、京都に急使をのぼらせて許可を得るよう願っている」
慶永 「それは順序が逆であろう。独断で条約を結びながら、事が終わってから許可を得ようとは何事だ」
直弼 「尤もな仰せですが、議論百出の中、事は急を要し、仕方なく自分が判断いたしました。若し、拒絶すれば遂には戦争とも相成り、戦争ともなれば我国も清国の二の舞を演ずる恐れが多分にあります。これを避けるためには、調印する以外に方策は無い」
(この意見には、慶永も異議ないのであるが、独断調印をあくまで攻撃する)
慶永 「条約は、たとえ結ぶにしろ結ばないにせよ、朝廷の伺いもなしに調印したことは独断専行のそしりを免れない。いかに外国人が催促したとはいえ、彼らの脅しにおびえ、家康公以来の掟に背き、将軍家の威信に差しさわりを及ぼしたことは、許されるものか許されないものか、どうお考えだ」
(江戸城内で太鼓が鳴った)
直弼 「お聞きの通り、登城の時刻となりました。またの日にお話を承りたい」
慶永 「さようか。では、自分も伴に登城しよう」
直弼 「しかし、今日は登城される例日ではなかったと存じますが」
慶永 「例日など、どうでもよい。国家の大事だ。なお、そのほか将軍の跡継ぎの件もお話しなければならない」
直弼 「跡継ぎの件は既に決定していますが、いまさら何を」
慶永 「ともかく、もう一度城中で話を続けよう」
直弼 「本日は特に御用が多く、また例日でもない登城面会は迷惑ですから、お断りいたします」
慶永 「待て、条約の件、跡継ぎの件、いずれも国家の重大事である。日を改めてなどという問題ではない。登城の時刻を延ばして、ここで議論したい」
直弼 「登城の時刻は規則があり、そのようなことは出来ません」
慶永 「それは小役人の言うことである。この大事のとき、大老の登城が少し遅れたとて、怠慢にはなるまい」
(慶永、直弼の袂をつかむ)
直弼 「大老なればこそ、遅れることは出来ません。一刻登城が遅れれば、天下の政務は一刻遅れます。袂をお放しください。これにて御免」
(直弼、慶永の手を扇子でビシャリと打つ)
慶永 「掃部守、待て」

この二人のやり取りは、実話である。
明治時代に入って、慶永が昔を振り返って語り残したものから、明治大学教授渡辺保氏や東大教授の小西四郎氏らが口語体にしたものである。多少、僕の脚色もあるが。

この後、慶永は直弼の後を追って強引に登城した。
この日、示し合わせていたのか、徳川斉昭、息子で水戸藩主の慶篤(よしあつ)、尾張藩主の慶恕(よしくみ)も押しかけ登城をして直弼を攻撃しようとしたが、なんらの成果も得られなかった。どころか、この押しかけ登城を行った御三家の藩主や親藩の大名までを、大老は処罰してしまった。隠居・慎み、登城禁止などである。(安政5年7月)

大老井伊直弼は、幕府独裁制の維持強化、政敵の一掃をはかって、批判するものたちをことごとく処分したが、これによって、吉田松陰や橋本佐内などが処刑された。また、あの西郷隆盛まで、幕吏に追われて逃げ切れず、薩摩藩からも見放されて、錦港湾に清水寺の勤皇僧月照と抱き合って身を投げた事実がある。たまたま、西郷さんは体力があったので蘇生できたのであるが、月照は亡くなってしまった。
大老井伊の圧政に対して反対派は、大老を取り除く戦略を立て、有名な万延元年3月3日の桜田門外の変へと発展するのである。

長々と歴史のことを書いているが、でも、新選組を語るに当たって、この辺りの経緯を知っておかないと、正確性を欠いてしまうからだ。
後に浪士組募集を主張した清河八郎の運動や芹沢鴨、更には近藤勇の主義主張、京都で横行した天誅の原因なぞの原点がこの辺りにあるからである。

文久2年7月から京都で始まったあの『天誅』は、九条家の公家島田左近を斬ったことに始まる。島田は、長野義言(主膳)に従って安政の大獄に加担した人物だった。犯人は、薩摩藩士の刺客で有名な田中新兵衛である。この当時の著名な刺客としては、他に土佐の岡田以蔵、肥後の河上彦斎(げんざい)がいるが、現代のアニメ、「るろうに剣心」のモデルになったのは彦斎だと言われる。彦斎は、元治元年7月、佐久間象山を斬ったことで有名である。
薩摩や土佐の勤王浪士たちに雇われたこうしたテロリストによって、主に京都で殺人劇が行なわれたのであるが、天誅の対象になった人物のリストは3つの観点から作られたといわれる。
一つは、開国を唱える人や外国との通商で財をなしているもの。
一つは、安政の大獄に手先になって動いた人物。
一つは、皇女和宮の降嫁に加担した公武合体派の公家や役人など。

この天誅に対し、当時、身に覚えのあるものたちは安心して京都で生活が出来ず、続々と都を出て疎開していったという。また、表向き、謹慎している様を見せるために官職を辞して落飾までする公家もいたわけで、当時、いかに天誅を恐れていたかが想像できる。
九条関白もやはり、落飾して京都郊外へ疎開していたのだが、公卿の中山忠能(ただやす)も脅迫されていて、次のように言った。
「彼らは長薩両藩士でなく、浮浪烏合のもので勤王問屋といわれている。まったく勤王を名として、今日を暮らし、その説が追々に伝染している」

 僕は、自分の著書の中で、土方歳三自身に次のような台詞を言わせたことがあった。
 「捕らえてみれば、勤王を語る夜盗強盗の類(たぐい)が殆んどで……」

実際、強盗たちは次のような台詞を言っては強請りたかりを繰り返した。
「俺たちはお国のために、一命をなげうって攘夷の運動を行なっているんだ。お前らは、夷狄と通商を行って不当に利益をむさぼっている。天に代わって成敗する」
といって商家を脅迫し、金を脅し取るというものだ。
土方歳三たちが出動して捕らえてみれば、コソドロだったなんてことが多かったはずである。

今、京都の三条小橋のたもと池田屋のあった付近に、高瀬川沿いに佐久間象山と大村益次郎の遭難現場として碑が立っているが、あの辺りが天誅のメッカ、中心地であった。
幕府の治安部隊としては当時、京都所司代があり、町奉行所があったのだが、手に負えなかったのか、文久2年12月に臨時に京都守護職を置いた。この任に当たったのが会津藩であった。24万石の大藩であった会津藩をもってしても、天誅を取り締まれなかった。
不思議。
大きな警察組織や軍隊のような組織は、返って、波状的・局地的なテロ行為には向かないのかもしれない。これは、現代も同じだ。
文久3年2月の中旬に、足利3代の木像が首から切り取られて四条河原に晒首にされると言う事件が起きた。このタイミングで、江戸から浪人共234名が上洛してきた。
本来なら、京都守護職の任にあった松平容保が出動しなければならないはずだが、妙案が浮かんだ。
上京したこの一団は、浪士組結成の首謀者清河八郎の造反で、直ちに江戸へ帰されることになったのだが、うまいことに、腕っぷしの強いのが24名ほど壬生に残ることになった。

つづく
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『格差社会』―――憲法で保障された文化的な生活とは

最近の新聞記事で、気になるものがいくつかある。
僕は以前から、「ごみ」や「年金」の仕事をしていたと、このコーナーでも繰り返し言ってきているが、そのテの記事で社会的に影響が大きいと思えるものに対して、強く反応してしまう。

それとは別に、僕は半年前から、民間の老人ホームを訪問して音楽をやってきている。
最初は、テナーサックスやソプラノサックスの演奏をしていたが、これではまずいと思ったので、皆さんと一緒に懐メロを歌い始めた。
自分で、模造紙に大きくひらがなで歌詞を書いて20枚ほど持参して、歌の時はギターを引いてきた。
でも、ギターはうまくない。
一緒に歌うのだが、歌もたいしたことない。
先月からは、最近流行っている『千の風にのって』をソプラノで吹いて、皆で歌っている。これが、結構受けていて、今月も一緒に歌う。

ところで、僕が訪問して音楽をするときのイメージは、その施設で働く職員の人たちも一緒に参加してくれることを想定していた。だが、実際は、僕が強く言わないとその場にいてくれないのだ。むしろ、これ幸いと、その1時間ほどのあいだに、やり残した仕事を片付けてしまおうとしているらしい。
だから、僕に、「おねがいします」なのだ。僕は、約1時間、30人前後の高齢者を預かることになる。
複雑な心境で、活動してきた。
僕が訪問している老人ホームは、中級レベルの施設で、まだ、入居開始して2年程度のところだが、中にいる人たちの平均年齢は90歳を超えている。

最近、こうした施設で、手足をベッドに縛られたり手錠をはめられたりして、虐待の報道がされていたようだが、そういうことが起こる最大の原因は、人手不足であろう。
恐らく、僕の通っている施設も、人手がかなり足りないような気がする。皆さん、忙しそうに廊下を走って仕事をしている。僕はボランティアだから、何も構ってくれなくともいいのだが、それでも、お茶ぐらいは用意してくれる。
終わってから、いただくのだが、誰がいるでもなく、そばに電気ポットが置いてあって、勝手にお湯を入れてやってくださいということになっている。
何の不満も無い。これでいい。
が、
最近の新聞のニュースで、改めて考えさせられた。

 介護事業所指定 Kが不正取得 3ヶ所職員水増し 都、業務改善勧告
 他の大手2社も過大請求

★GWGの訪問介護大手「k」の3事業所が、実際には勤務していないヘルパーを常勤として届け出るなどして、……
★常勤ヘルパーの人数が介護保険法の基準以下なのに、介護報酬を水増し請求するなどしていた実態がわかり、……
★K以外にも、訪問介護大手のNとJで不正請求などがあったことが判明、……、急成長する訪問介護ビジネスサービスの質が改めて問われそうだ。
★都の監査では、これ以外にも同社の複数の事業所で管理者が不在の期間があったり、サービス提供責任者や常勤ヘルパーの数が介護保険法の基準に達していなかったり、……介護報酬を過大請求していた事業所も見つかった。何らかの過大請求があった事業所は、監査対象となった186事業所の相当数に上ると見られており、……。

様々な企業が、これからは福祉ビジネスが相当膨らむと見て、商売の幅を広げるなり、商売換えをしてきている。
実際、僕らをはじめ団塊の世代が老人化し、これから続々と仲間入りしてくるのだから、この種のビジネスがもてはやされるのは当然のことだ。
行政の行なう特別養護老人ホームの数が全く足りず、3年も5年も先にならないと入居できないなんて実態を聞かされれば、高額の金を払っても、民間のホームに入居しようと考えても当然だ。
然し、そこに働く職員たちの労働条件の劣悪さは、目を覆うものがある。苛酷な労働の割りに、驚くほど賃金が安い。それに、最近の傾向として、正規の職員が少なくて働いている人たちの殆んどがパートやバイトである。

だから、僕の訪問している日野市内のBというところでも、まだ半年だが、前にいた人が既にいなくなっている実態が一人や二人じゃない。廊下に、写真入りで働く人たちの氏名と役職が張ってあるのだが、顔ぶれが結構変わっている。
わかるような気がする。

もう一つ、紹介しよう。
4月4日のS新聞に、こういうのがあった。
  
◆ 現業地方公務員給与 民間の1.6倍
    清掃職員など現業部門の地方公務員の給与が民間企業の類似職種の平均給与の1.3~1.6倍程度と、高いことが3日、総務省の調査でわかった。
調査では、都道府県と政令指定都市を対象に、地方公務員と民間の平成18年4月1日現在の給与を比較。
その結果、いずれの業種も地方公務員のほうが割高で、
清掃職員は都道府県が1.66倍、政令市が1.52倍、
給食調理員は都道府県が1.52倍、政令市が1.38倍、
バス運転手は都道府県が1.54倍、政令市が1.47倍だった。

こういう記事は、一般には、好感を持たれて、「そうだ、そうだ」どんどん公務員の給与なぞ削れ、ともてはやされる。
だが、ちょっと待って欲しい。

僕は、「ごみの大改革をするから思い切った対策を考えてくれ」といわれて、当時、リサイクル推進課長に任ぜられたことがあった。
自慢話になるが、日野市のごみを半分にした。
これは今から6年前のことで、そう昔のことではないから、今でも減量効果は続いていて、日野市の改革は全国的にも有名である。

このときの仕事の苦労は尋常なものではなく、様々な障害があったのだが、中でも、頭を抱えてしまったのが、委託業者への委託金のことであった。
日野市のごみの収集方法は、それまではダストボックスのステーション方式をとっていた。こんなシステムじゃ増える一方で減らせるわけが無いからと、思い切って、『完全戸別収集方式の有料化』にしたのであった。
この完全戸別収集は、可燃や不燃のごみばかりでなく、新聞、雑誌、ビン、カン、ペットボトル、プラスチックトレイ、古布なぞ、すべてを分別して日替わりで、玄関先においておけば、行政が訪問して一軒一軒収集するものだ。
「お前は、バカか」
と、随分言われた。
大変な手間、経費がかかる。
確かにその通りで、ごみなんてものは何でもかんでもひっくるめて一回で収集すれば、一番費用が安く済む。
それまで、東京でワースト1の日野市が、そんなあほなことが出来るわけがないだろうと、ごみ減量審議会も相手にしてくれず、3ヶ月が空転したことがあった。
今から、8年ほど前のことである。周りの市町村からも、奇異の目で見られた。「どうせ、失敗するさ」と。

結論から言えば、今、日野市の周りの自治体は、当市のごみ行政を”お手本”として視察に来ている。テレビ局や新聞社の取材もしじゅうである。
収集業者に対する『委託金』であるが、その殆んどが労働者の賃金である。

ごみの収集や選別、し尿、死体処理などの仕事は、我国では人種差別の最下層の人たちが長く担ってきている。そして、劣悪な労働条件の下で最低の賃金でよいとされてきた。
また、こういうところで働く人たちも、現代では、身障者だったり、老人だったり、前科者だったり、外国人だったりしている。
これが、我国の実態である。
僕は、若い頃からこういう事態に対して疑問を持ってきている。
こういう仕事を担ってくれる人たちこそ、優遇されてよいと思い続けてきたし、今でもそう考えている。でも、組織とは、そのような考え方は弾き飛ばされるように出来ている。
でも、自治体は、直接職員としたからには他の職員と差別は出来ないから、それでも精一杯、生活できる程度の賃金を与えてきた。
それは、勢い、民間の清掃業者で働く労働者とは開きが出来てしまう結果になり、それがここへきて極端になってきたのだ。
所謂、『格差』社会に突入しているから、低い人は今、更に低くされているからだ。

これらを、低いほうに合わせようとする“作用”が働いてきている。マスコミも、一緒になって大合唱だ。
恐らく、新聞記者も気づいていないようだ、自分も格差社会増長に加担しているって事を。
だから、先のS新聞のような書き方になるのである。
気づいていて書いているとすれば、相当悪質である。
本当に、これでよいのか疑問を持つ。
今、憲法改正論議が行なわれようとしているが、所謂3kで働く人たちにこそ正当で、文化的な生活が営める給与を渡すべきだと思う。
政治というものの「質」を考えるとき、その国の最下層の人々が如何なる生活レベルにあるかによるのだ。
我国は、どうしてか、ろくに働かない奴に限って高給をとる傾向にある。
お隣の国、拉致を行い、ミサイルを発射する行為を批判するのも良いが、自らも、国の品格を保ち国家の信用を回復するには、働いただけの正当な対価を渡すなど、人道的な配慮が行なわれることが必定なのではないか。

ライヴのお知らせ

最近、立川に昨年誕生したフルバンドに参加しています。
S.O.S JAZZ ORCHESTRAといいます。

そのバンドの最初のライヴが4月21日にあります。
僕は、テナーサックスとフルートを担当します。
再び、ジャzzに火がついてしまいました。

当日は、次の要領です。

● 「まちおんライブ@立川まちおん」

4/21(土) 16:00~16:30
立川高島屋前1F入口にて本番ライブ
演奏時間30分!
この日は、午前11時から様々なバンドが交代で出演します。
勿論、観覧無料。

●曲目:

1.InTheMood
2.MoonlightSerenade
3.SwitchInTime
4.AllOfMe(Vo)
5.JustFriends(Vo)
6.HayBurner
7.SingSingSing

興味のある方、お時間に余裕のある方、立ち寄ってくださったら幸いです。

久しぶりの新選組講演会―――2

―――近藤・土方の見た幕末―――


徳川幕府の政治は、将軍本家の独裁で、全国の諸侯に意見を求めるなぞという所謂『処士横議』なぞは考えられないことであった。
こんなことを許せば、それこそ独裁政権の破綻になって磐石の幕藩体制の崩壊に繋がりかねないからだ。
でも、幕府自らが、それを崩した。背に腹は代えられないからである。

1853年、ペリーが浦賀へやってきてから、幕府は各方面にとるべき施策を諮問したのだが、様々な意見が寄せられて、幕臣や諸大名からの答申を併せると700に近い書類だったと伝えられる。
これらは、殆んどが、攘夷をするだけの準備が出来ていないから『条件付での開国』で止むを得ないというものであったらしい。当時、小普請だった勝海舟は「人材を登用すること、交易の利益でもって武備を整えて大船を作って海外に出て貿易をすべし」と述べているが、この辺りが、精一杯の理知的苦渋の選択だったか。

この諮問は一般市民にまで意見を求めたということからして、いかに将軍家が追い詰められていたかが想像できるのだが、各方面から様々な面白い答申が寄せられていた。その中で傑作で有名なのは、江戸新吉原の遊女屋の主人藤吉の提案である。
「なにげなく漁をしている様子で異国船に近寄り、鶏や薪水や、そのほか外国人の望む漆器とか絵画などを贈って仲良しのようになり、だんだん打ちくつろぎ、そのうちに外国船に乗り込み、酒盛りなどを始める。そうこうしている間に、酒に酔った振りしてまず日本人同士で喧嘩を始める。そうすると外国人も口を出し、手を出すようになる。それを合図に軍艦の火薬庫に火をつけ、またまぐろ包丁で片っ端から外国人を斬り捨てる。成功は間違いなし。
 もし成功したなら、特別の褒美として、吉原繁盛のために以後、吉原町の郭の四方門の通用および山谷掘割の船宿経営を免許願いたい」という、ちゃっかりしたものだが、滑稽である。

このペリー騒動の結末は、翌嘉永7年3月3日に『日米和親条約』が結ばれたことで有名である。
その後、アメリカの真の狙いは通商条約の締結にあったから、執拗に日本側に条約締結を迫って、安政4年の秋に下田の領事館にいたハリスは強引に江戸城に押しかけ、半ば、通商条約を結ぶよう迫った。

ところでついでだが、このハリスのことを“唐人お吉”は「コンシローさん」と呼んだ。それは、総領事のことを「カウンシル」と発音していたからである。
ふ~ん。
ついでのついでだが、この時代来日したアメリカ人でJames Curtis Hepburnという宣教師がいた。この人はお医者さんでも有名で、後に明治学院を創設した人らしいが、ヘボン式ローマ字を考え出したことでも特にその名が知られている。
なんでヘボン式というかというと、「ヘプバーン」という発音からだという。
なるほど。
すると、あの『ローマの休日』で有名な大女優のAudrey Hepburnは、江戸時代の人たちには、”踊り平凡“ぐらいに聞こえていたかも。
こういう『空耳アワー』の話になると、タモリよりも、僕は森村誠一を思い出す。彼の出世作の『人間の証明』というミステリー小説は、今から約25年前に大ヒットした作品だが、「ストウハ」という言葉があの殺人劇のキーワードになっていたはずだ。これは 英語のStraw Hat (麦藁帽子)からきている。ホテルニューオータニのてっぺん付近のあの円形の階層から来ている。

もどす。
追い詰められた幕府は、翌安政5年6月19日、『日米通商修好条約』を結んでしまった。
この条約は止むを得なかったと思っているが、徳川政治崩壊の最大の原因であり、明治維新のきっかけになってしまったと、僕は考えている。
一般に、「幕末とは、いつから?」という質問に対して、大概「桜田門外の変から」と答える専門家が多い。僕もそう思うが、その暗殺劇の原因がここにあるからである。

この条約を結ぶにあたって、天皇の勅許(許し)を得なかった。
得る必要があったのかどうかは難しいが、勿論そんな決まりや慣行があったわけではないのだが、この頃の朝廷と幕府との権力的な均衡からして、とらないわけにはいないほど、徳川本家の信用が失墜していたのと、天皇の存在が改めて見直され始めた時期にあったということだろう。

この時代、日本の国を代表しているのは誰か。これは、内外ともに大問題であった。
天皇か、それとも将軍か。
このことは、日本国内のみならず、外国からやってきた役人たちが、交渉相手として誰を選べばよいのか困ってしまっていた。彼らは、天皇を『ミカド』、将軍を『タイクン』として区別したのだが、とりあえず将軍を相手に外交を行なった。幕府側も、それでよいと考えていた。だって、日本の国を代表しているのは、自分たちだと自負しているからである。
でも、このことが、徳川幕府にとっては不幸だった。その後、すべての物事が悪く展開する羽目に陥ってしまった。

当時は、『攘夷』が今の『民主主義』に当たるほど流行語だったぐらいだから、弱腰外交に対しては尊皇攘夷を標榜する浪士たちの格好の攻撃材料にされていた。これは、孝明天皇が大の夷狄嫌いだったことがそれらの志士たちに更なる勢いを与えてしまったともいえる。
長州は、関門海峡を通る外国船に大砲を撃ちはなって戦争を起こした。そして賠償金を請求された。薩摩も、生麦で英国人を斬ったり薩英戦争を起こした。これも賠償金は、日本政府たる徳川幕府が負担することになった。
泣きっ面に蜂、踏んだり蹴ったりである。
国を代表するとは、こういうことなのである。
こう考えると、お気の毒だが、徳川は滅ぶべくして消滅していったと思えなくも無い。明治維新の最大の原因はと聞かれれば、やはり、外国勢力の脅迫が大きかったと考えるべきだろう。

この頃の時代認識への解釈として大切なのは、外様で大藩の薩摩や長州でさえ、未だ徳川幕府を倒すという発想までは無く、せいぜい《幕政改革》を迫る程度のものであったということである。
まともな将軍を跡継ぎに据えないと、日本国が危ない。海外と対等に渡り合えるような人材でないと、清国の二のまえになるという発想から、14代将軍に当時聡明だと評価されていた一橋慶喜をと主張する人たちがいた。この派には、薩摩の島津斉彬や長州の毛利敬親、ほかに土佐の山内豊信、越前の松平慶永、伊予宇和島の伊達宗城なぞがいた。所謂良識派と呼ばれる藩主たちである。
一方、これに対して、これまでのしきたりを引きずって因習を大切にするべきだと主張する一派があった。これらは、譜代大名のうち特に格式の高い溜間詰の大名たちで、その中心は彦根藩藩主で大老の井伊直弼であった。この井伊のもとで暗躍していたのが国学者の長野主膳や宇津木六之丞、村山たかなどであったが、こちらは紀伊の慶福(よしとみ)という若い後継者を主張した。
この後継者争いは、井伊の支持する慶福が勝って14代将軍となり、後の家茂となる。天皇の許可を得ずに通商条約を結んでしまった大老井伊直弼は、世間から手痛い批判を浴びることになったが、これに対して直弼は恐怖政治で応酬した。
『安政の大獄』である。

つづく

久しぶりの新選組講演会―――1

先日、久しぶりに新選組講演会を行なった。
主催は『日進会』という生涯現役を名乗る高齢者の集団なのだが、学習意欲の旺盛なのには、頭が下がる思いである。
ここのグループからは、これまで3回ほど新選組のお話を依頼されてきているから、顔見知りの方も多いのだが、今回は特別に、新選組以外の話も聞きたくて、一般の人からも申込みが多かった。
何故なんだろう。それだけ、幕末に関心のある方が多いのかもしれない。
僕の話は、もともと、新選組の話よりも幕末全体の話のほうが多いから、新選組のファン以外の方々の参加者も結構いる。

今回のテーマは、『近藤と土方の友情』だったが、それを話す前に、前提として時代背景を言わないわけには行かない。それが、二人を運命付けたからだ。
二人を取り巻く環境を考察して初めて、浪士組参加にいたる道筋が分ってくるし、其の後の二人の別れも理解できる。
だが、僕のいつもの悪い癖で、時代背景の話が長すぎて、本題の時間は3分の1程度で終わってしまった。申し訳ないことをしてしまった。
それでも、参加してくれた方々は大方満足してくれていたように思う。あの時代の様々な出来事は、一つ一つ全てに渡って興味深いことばかりだからだ。

ペリーが嘉永6年に日本へやってきた。(NHKの大河ドラマ新選組は、ここから始まった)あわてた幕府ってことになっているが、実は、来ることは以前から分っていた。
「やっぱ」なのだ。
お隣の清国がアヘン戦争で(1840年)英国に敗れて植民地化された。南京条約で(1842年)香港を割譲された。150年後に戻す約束だったから、ツイ数年前に戻ってきた。僕の学生の頃は、香港は英国領だった。

何年か前に演奏旅行で香港に行ったことがあったが、山の手地区でのライヴだった。そこいら辺は石畳の急坂が多く今でもハイカラな雰囲気で、いかにも西洋人好みの町並みが続いている。
それに、香港そのものは大して大きな都市ではないが、競馬場が二つもある。英国紳士淑女たちの楽しみの一つだからだ。僕もサティンという競馬場に行ってみたが、スタンドの下のほうはギャンブル好きの中国人でいっぱいだったが、最上階のスペシャルルームは正装して大きいハットをかぶったご婦人たちが大勢いたのにはびっくりした。確か、ミュージカル映画「マイ・フェア・レディ」で競馬場のシーンがあったが、あの豪華な雰囲気だ。
今でこそ、日本はようやっと、世界でも認められる競馬の一流国の仲間入りが出来ているが、つい最近までは、馬鹿にされていたから、世界の一流馬は日本へは来なかった。(未だに、本当に強いウマは日本には来ていない)
だから、ジャパンカップという高額賞金のレースを設けて、湯水の如く金をばら撒いて外国の競馬関係者を招待して盛り上げたから、来ることは来たが、世界を代表するようなウマは未だに来ていない。
昨年、日本に50年か100年に一度ぐらいの強さのウマがいた。皆さんよくご存知のディープインパクトというウマだ。僕のここ40年の競馬遍歴でもやっぱ強い馬だと思うが、一番強かったのは同じ武騎手が乗ったサイレンススズカという馬だと思っている。
武自身も、多分そう思っているに違いない。
だって、ゲートが開いて、サイレンスがいち早く飛び出すと、ほかのウマがそのスピードについていけずゴールまで《そのまんま》なのだ。いつでも、そうだった。騎手は、作戦も何も無かった。ただ乗っていればよいだけだった。あんな強いウマは二度と出ないだろう。あの時点で、恐らく、世界最強だったに違いない。
でも、98年秋の天皇賞で、レース中四コーナー手前で故障してしまい、そのまま殺処分になってしまった。
そこには有名な大けやきが植えられている。というより、伐採されないで残っていると言ったほうが正しい。何故邪魔な木を切らないのか。
切れないのである。
今、残っているけやきを切る前に、2本の木を切った人夫が二人いた。その二人ともが、謎の死を遂げてしまっている。―――寺山修二がそう書いた。
そこには、井田摂津守是政という人の墓が今でもある。子孫が今でも、お参りしている。
サイレンススズカは、そこで、自らのスピードで骨が砕けてしまった。
でも、彼は倒れなかった。
騎手を守ったのである。あの時、武が落馬していれば、あのスピードからして、騎手の命さえ危なかった。
ウマは騎手の命を守った、かばったのであった。
悲しい競走馬の宿命だ。
菊池寛は言った。
『無事、是、名馬』と。

こんな横道にそれているから、講演が予定通りに行かないのである。
話を戻そう。
え~と、そうそう、香港は競馬ではずっと前から、日本より先進国だった。だから、最近では日本から香港のレースに日本馬が随分と参加するようになった。たかが(?)香港なのに、活躍すると、結構大騒ぎ。
何か、寂しい。
ここ2,3年である。
それまでは、競馬の世界でも『鎖国』が続いていた。
これは、競馬の世界のことばかりではない。ゴルフなんかでも同じで、ジャンボ尾崎を始め国内では『内弁慶』だが、外へでるとまるでダメという選手が多かった。最近、藍ちゃんが外国で活躍するようになって、多少は変わってきたが、まだ、韓国の女性達には、足元にも及ばない。
ついでに、数日前に行なわれた世界フィギュアのキム・ユナ。
あの娘、サイコーに美しい演技をする。彼女の演技を観ていると、自分の心がとろけていくようになってしまう。この年になって、恥ずかしいこというようだが、そのくらい完璧だ。まだ16歳だという。
まいった。
僕は、心底惚れている。
それにしても韓国には、誇れる選手は彼女一人だけだというから驚きだ。
話が、それすぎだ。

アヘン戦争や南京条約の情報が、長崎の出島経由でオランダ国から江戸城に逐一報告されていて、時の老中阿部正弘(福山10万石藩主)はじめ幕府重臣たちは、来たるべく心構えは出来ていた。
でも、対策は一切とっていなかった。
とれないのである。210年も鎖国を続けてきていて、徳川本家自らそれを破るわけには行かない。じゃあ、攘夷を決行するのかというと、それ程の実力もないし、決断も出来ない。結局、一年考えさせてくれと追い返したが、次の年の2月には、ペリーは再びやってきてしまった。この間、日本国内では、喧々諤々の議論が行なわれた。

見栄も外聞も無い。これまでの歴史に無かったことが次々と行なわれた。まず、幕府がとるべき方針について、外様大名にまで意見を聞くことになった。考えられないことである。公儀の行なう政治向きのことに外様が口を挟むなど、ありえないことだった。だが、背に腹は変えられない。意見を聞いた。
だが、これといって妙案は一つもない。
仕方なく、幕府は次の手を打った。
一般市民にまで公募したのであった。商人でも農民でも僧侶でも神官でも博徒でもかまわない、誰でもいいから、いい案があったら出しなさいと。
これで、700以上の提案が寄せられたということだが、中に、面白い提案があがってきた。

長くなったので、続きは次回。
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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