村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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総司と年金関係の話

沖田総司について、考えなきゃいけないのだが、それにしても、最近の年金関係の不祥事を聞くと、つい腹が立って。

来月の(6月)10日に、沖田周司さんと伴に、トークを行なうことになった。
僕の、ここ2ヶ月ほどの出来事を、日野宿文書検討会のMUNN様にお話したら、6月の例会に来て話をしてくれというので、沖田氏の了解を貰って二人で伺うことにした。
あそこのグループは、佐藤彦五郎の日記を毎回読んで、当時のことを研究しているのだが、その勉強会の後に、トークをすることになった。

そこで僕は、最初に1時間ほど沖田家のことについてお話しをするのだが、それがまたややこしい。
以前、このコーナーで(確か、去年の12月)4回ほどにわたって、 沖田総司関係の記事を書いたことがあった。
あの時も、いろんなことで議論が二転三転した記憶がある。僕が、川西正隆さんという人の文章を掲載したことが事の発端だった。

この人は、総司が京都守護職公用係に身上書を提出したと書いていた。そういうものが残っているのかを、僕は知らなかった。
お粗末!
でも、本当にあるのだろうか。
あるんなら、何べんでも頭を下げるから、是非、見せてほしい。たとえ写しでもレプリカでもいいから。

この川西さんという人、総司の母の名をはっきり「ミキ」としていた。しかも日野宿四谷宮原家娘としている。この宮原家のことについては日野の郷土史家の谷春雄氏が、つぶさに調査してそのことを述べられているので根拠のあることであるが、ミキという名はどこにも出てきていない。
すると、T.Yという作家が「自分が創った名」だと言い、川西氏が自分の文章を引用したと批判した。
川西氏が鵜呑みにして書いてしまったのがいけないのだが、 沖田総司ほどの、実在した歴史上のスターの母親の名を作ってしまっていいものか。T.Y氏ほどの人が書けば、誰だって信じる。川西さんが本当の名だと思い込んでしまったとしても無理も無い。創造した本人に責任は無いのか。批判する資格はないと思うが。

総司のこと、沖田家のことは大変興味深い上に謎が多いので、いろんな作家が「仮説」を立てて書いてきている。
それらが今や大混乱してきている状況であるが、今現在の僕の考え方を整理してみたい。
それを、来月の10日に沖田周司さんの前で発表するのは、他人のご先祖のことだけに気が引けるのだが、彼は、広い心の持ち主なのでお許しいただけるものと思っている。
沖田周司さんと僕とのことは、前回書いたからそれを見て欲しい。

ここで、蛇足なのだが、年金の話題を述べたい。
最近のニュースで、というより、今度の参議院選挙の争点になっているから、毎日「社会保険庁のお粗末」さが報道されている。
大体、5000万件もの不明な入金記録があるなんぞ、お粗末過ぎていて”笑ってしまう”ほど、あきれる話である。
こんなことが、この、世界でも有数の文明国で起こっていることが、国際的に大恥辱であるばかりか、今以上に諸外国から相手にされなくなってしまうのではないか。
国民年金の検認率(納付率)が悪いから、国民から強制的に徴収しようと、NHKの受信料とあいまって国の段階では相談しているらしいが、こんなことが知れ渡ってしまって、強行できるのだろうか。
参院選を前にして、絶対に言い出さない。
全ては、終わってから。

我国の『国債』の格付けが百何位だとかで、評論家や経済界、政治家が怒っていたのを覚えているが、こういうニュースが全世界に流されれば、日本という『国の信用』や『円の価値』が下がっていくに違いない。

僕は、何度もここで言ってきているが、過去に『国民年金』の事務をしていたことがある。
昭和60年当時だから、今の年金制度に改正(?)される直前で、こんな改革をしたら、将来大変なことになると何かに書いたことがあった。その当時は、大変な反抗者であったわけで、評価してくれたのは評論家の樋口恵子氏ただ一人だけだった。

だって、その当時から、我々担当者の仲間で【10】(イチゼロ)という加入者たちがまだ大勢いて、とにかく「やばい」から、早くこの仕事から「ずらかろう」と口々に言っていた。
この【10】という文字、コンピュータの整理上の記号なのだが、今まで黙っていたが、5000万件のことが浮き彫りにされたのだから、もう僕も言うが、【保険料を払っていても、将来年金をもらえない人】の事を言う。
「なんだ、それ」
と、誰もその意味がわからない。

国民年金というのは、「法」で60歳までに25年以上払わないと年金をもらえないことになっている。国民年金制度が始まった昭和35、6年当時、産めよ増やせよで、日本全国の役場の職員が住民のところを廻って、加入させた経緯がある。制度が始まった当時は止むを得なかったと思うが、35歳を過ぎている人でも加入させてしまった。
この人は、いくら払っても年金をもらえない人である。60歳まで、25年以上ないからだ。
このケース以外にも、途中で払わなかった期間があると、その後いくら払っても、25年に満たない場合もでてくる。この場合には、役所側が直ちに加入者に知らせる必要があるが、何年もほうっておいてから気がつくこともある。このとき、払ってしまった保険料は返してもらえるのか。

一切、ない。
払い損である。
こんな「やばい」話は、世の中にそうはない。
社会保険事務所や役場の職員も、そのことを言い出せないできていた。言ったら、大変なトラブルに巻き込まれることになるからだ。そもそも自分が悪いわけではない。先輩の職員たちがしてきたことなのだ。
だから、そっと、黙って、払わさせてきていた。
でも、行政側でも様々、裏技を工夫してきて、「免除期間」や「カラ期間」なぞを作って、「法」には触れるが、何とか25年にして支払ってきていたのである。

でも、最近、この「免除」を不当に作ったとして、社会保険事務所や担当者をやりだまにあげ、責任追及して罰則を科しているニュースがあった。マスコミも一緒になって、非難した。
でも、年金加入者に不当に不利益処分を科すよりも、救済を考えて「免除」期間を適用することは、合理的なことなのである。そうしていれば、5000万件も不明な納付記録を作らないですんでいたはずである。
尤も、多分、この不明な納付記録は、その殆んどが厚生年金に違いない。この辺になると、かなり専門的になるから言わないが、唯一ついえることは、もう何十年も前から、ほうっておいたら将来大変なことになるから、早いうちに手を打っておかなければと、担当者同志で密かに言葉を交わしていたことが、今思うと、たくさんあった。
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沖田総司は、龍馬と同門だった?

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以前、このコーナーで、4月21日に立川でライブがあるとお知らせしたことがあった。
あの日は、日曜日だったのと天気も快晴だったので、高島屋の正面入り口は人であふれていた。午後4時過ぎからの演奏であったが、デパート目的で無い通りがかりの人も、また、昔懐かしい曲を流したこともあって、ものめずらしそうに聞き覚えがあると人々が寄ってきた。

ヴォーカル曲2曲も含めて、7曲を演奏したが、最後の曲swing swing swingが終わったときは、割れるような拍手でアンコールの声も多かった。でも、うち(S.O.S.Jazz.Orchestra)の持ち時間は30分と決められていたので、残念ながら、その声には答えられなかった。
In The Moodから始めて、Moonlight SerenadeやAll of Meなどを演奏したが、テレビのCMでも流れる曲なので、馴染み易かったのかお客さんは興味深そうだった。

やはり、ビッグバンドのサウンドは迫力があって美しい音色もあるので、純粋なモダンジャズよりも一般受けするのだ。
このバンドのメンバーたちは、殆んどがあのような場所での演奏が初めてだったので、プレイヤーたち自身も大感激していたようだった。
僕は、ギターの青木君に誘われてこのオケに入ったのだが、彼とはマンデーナイト・ジャズ・オーケストラというバンドに長くいたから、二人とも特別の感激は無かったのだが、それでも、この多摩地区で再度、こういう活躍の場が出来て、違った意味で満足感を味わった。
今後も、この人たちと一緒に、立川を拠点にライヴ活動をしてゆく。

ところで、
ところでなのだ。

なんだか、バカボンのお父さんのような発言になってしまったが、この日、意外なことが起こった。
僕らの演奏のとき、最前列で写真をとりまくっていた夫婦がいたのだが、その人はライブハウスの経営者だという。この日、打ち上げの後、2次会で行くことが決まっていた『mamma』という店のマスターだった。
その店は、JR立川駅から歩いて約5~6分程度の高松町にある小さな店なのだが、僕らが行ったのはもう夜9時を廻っていた。
実は、うちのバンマス(バンドマスター)のワーデル(ハンドルネーム)さんが、どうしても「歳蔵さん(僕のハンドルネーム)をその店に連れて行きたかった」といっていた。
何故?

その店のマスターの名が、沖田さんという人だからだという。

僕は、
「沖田さんねえ」御厚意はありがたいが、
「まさか、あの沖田さんじゃ」と、思っていた。

その店に到着早々、ワーデルさんが、いきなりマスターに僕を紹介した。
「この人ですよ、日野で、新選組のお仕事をしていて本を書いた歳蔵さんです」
僕は、このバンドでは、mixiのサイトで公表している『歳蔵』を名乗っている。
その店は狭く、カウンターの中に沖田夫婦がいて、旦那のほうがもっぱら奥にいて食べ物を作り、奥さんは手前のほうで飲み物と簡単なおつまみを作っている。

「ああそうですか、僕は沖田周司と言いまして沖田ミツの子孫です」

「えっ!」

僕は、咄嗟には二の句が出なかった。
えーと、まてよ。
頭の中を、jazzのモードから新選組モードに替える必要があった。その店20人も入れば一杯になってしまうほどこじんまりしているところなのだが、オーディオの装置はすごい立派だ。
僕は、オーディオのことはよくは知らないが、JBLのスピーカーがものすごく高いことは知っている。とても心地よい音のするズージャが流れている。この店は、うちのメンバーたちが入り浸っている店だった。僕も既に、その一員だから、気兼ねなくマスターと話に入っていったのだが、自分自ら、子孫だと名乗る人はどうも胡散臭いと思い込んでいた節もある。

今から約四年前、僕が新選組の仕事についたころだが、あのタモリの『笑っていいとも』という番組に土方歳三の子孫が出てきたことがあった。
名は近藤という人で、埼玉県に住んでいるというのだが、直ちに本家の資料館館長陽子さんに聞いたところ、そんな人は知らないという。でも、偽者ともいえない。
だって、歳三の本家だって、(当たり前だが)歳三に子供がいないのだから直系はいるわけが無い。長男喜六以下兄弟の子孫は、おびただしい数の人がいるはずなのだ。長男以外にも歳三の兄の粕谷良順(大作)にだって、すぐ上の姉ののぶ(『らん』とも『とく』ともいった)にだって、大勢子孫がいる。
皆さん、子孫だといって、(広い意味で)間違いではない。井上源三郎にしても、淀千両松で討死してしまったのだから、兄松五郎の系統である。

でも、この沖田周司さん、お話していると、おミツさんの直系の方として間違いないことがわかってき、だんだん僕は、心の底から逆に全てのことを興味深く、拝聴するようになってしまっていた。
この時点で、ジャズの店なんだが、もうそのことはどうでもいい。

大河ドラマの年、日野では、『新選組フェスタ』を開催したが、最終日(10月31日)にフィナーレとして、土方、井上、佐藤の日野ゆかりの子孫以外にも、近藤さんや沖田さんの子孫も含めてステージに上がっていただいたことがあった。そのときはゲストに栗塚旭さんをお迎えして、僕が司会をしたのだが、沖田家からは長男の整司さんをお迎えした。
周司さんは、偶然にも、この整司さんの弟さんであった。

「兄は、口下手で控えめだから、殆んど新選組や総司やミツの先祖のことは口にしないんですよ」
そういえば、あのフィナーレの日も、整司さんは楽屋で、殆んど口を開かなかった。先祖のことは何も語らなかった記憶がある。

「僕は歴史が大好きだし、本当のことが知りたい。実は、うちに(沖田家に)伝わる話があるんですが、どうも造った部分も感じますしーーー」
このあたりは、僕も同意見で、先に彼が発言してくれたので、続けやすくなった。
「そうですね。日野あたりでも、新選組関係の子孫は家に伝わる話やこれまで言われてきていることを鵜呑みにしてきていますが、歴史的事実とそぐわないこともあります。沖田家文書というのがありますね。あれ、どうも違う部分もありますね」
と、突っ込んでみた。
反応を見てみた。
「僕も、以前からそれを感じているんです」と正直に言う。
「そう、姉のキンさんの嫁ぎ先が、館林の国家老中野伝右衛門由秀となっています」
「あれは、違います」という。
この人、本気だ。
この後、彼とは長時間にわたって沖田家や新選組の話をした。周司さんは、ほかの客は奥さんに任せて、僕にかかりきりだった。話が尽きないので、改めて、遊びに来ることにしてその日は別れた。
そして、つい先日、再び、今度は僕の本とCDを持参してお客として訪れた。

あのJBLのスピーカーで、僕のCDをかけてくれた。良いスピーカーで聞くと、なんだか、2割程度自分の演奏がうまく聞こえる。そして「人間土方歳三」の本を差し上げた。2冊もっていったので、1冊は隣にいたs.o.s.jazz orchestraのピアニストの女性が読みたいというので、プレゼントした。
「6月に総司忌がありますが、麻布ばかりでなく、日野でも何かイベントがあるかもしれません。そのときは、何かお話してくれますか」と誘ってみた。
「いいですよ、いきます。
うちに総司の北辰一刀流の免許皆伝がありますよ

「えっ!」

僕は、返事に困った。
この人、天然理心流と間違えている。でも、言えば失礼かも。だから、黙っていた。
あれっ、総司の免許皆伝なぞ、それがどっちであろうと、なんにしても誰も知らないはずだし、何でもいいからあれば有り難い。
でも、ちょっと待てよ。本当にあったらーーー。
それは、新しい発見である。
周司さんは言った。
「ほかにも、まだ、出していないものがありますよ」

おいおい、本当か。
沖田総司が、北辰一刀流の免許皆伝?
ジャー、坂本竜馬と同門?


そ~ン、な~。


以下、立川でのライブの写真







近藤・土方の見た幕末―――4

この4月から始まった競馬のG1レースは、ちっとも馬券が当たらない。--桜花賞、皐月賞、天皇賞と。
そもそも、穴等の僕なんだけど、歯車がかみ合わない。先日の天皇賞も、2着に来た福永祐一騎手騎乗のエリモエクスパイヤという馬、超人気薄だったから大穴馬券になった。その馬を僕は買っていたのに、1着のメイショウサムソンにからませていなかった。―――アホか。馬単で2万5千円をつけた。
トホホ!

物事、うまくいかなくなると、歯車が悪いほう悪いほうへと回転してゆくらしい。
会津藩主松平容保は、藩内の大方の反対意見を振り切り、将軍家の意向を受けて、京都守護職の任についた。だが、このことは、会津藩の重鎮たちが危惧したように、西国の外様大藩に恨みを買うことに繋がってしまった。だから、京都では、ことさらそうした国の藩士たちとはトラブルを起こさないように注意を払っていたのだが、どうしても衝突の場面が出来てしまう。

元治元年6月10日、京都東山清水寺近くの料亭明保野亭で起こった事件は、そうした大藩同士の面子の張り合いから起きたものである。
この事件は、僕の本の中で、冒頭に書いた。
武士道について考えるには格好の材料なのだが、会津藩と土佐藩の両方の面子が立つ形で事は処理された。
土佐藩の麻田時太郎は、明保野亭で昼飯を食っていたところを会津が送った臨時の新選組隊士柴司に、後ろから槍で刺された。浅傷ではあったのだが、武士にもあるまじき恥辱として即切腹の沙汰が降りた。
一方、会津藩側は、止めを刺さなかったという理由で、柴司を追って直ちに切腹させた。
大した落ち度もなかった二人の若者だったが、両方の藩の面子が立つ形で事は収められたのである。武家社会が、成り立ってゆく上では、必要なことであり、封建社会の犠牲者である。
土方歳三は葬儀に出席して、大泣きに泣いた。武士道や武家社会というものにつまずく最初の事件であったと、僕は書いた。

だから、土方は決意した。「俺は俺流の武士道を貫く」と‐‐‐。
だからって彼が、新選組という組織の中でどれだけ立派な武士道が貫けたかといえば、そう威張れたものばかりではなかった。組織の維持、発展のためには、理不尽なことも敢えて執行しなければならなかった。その最たる裁断が、「近藤の非行五箇条」を松平容保宛に提出した6人の隊士の処断である。
6人連盟の書面であるが、代表者は永倉新八であり、原田や斎藤の名もあったのだが、実際に処刑(切腹?)されたのは、葛山武八郎という隊士だけである。元治元年9月6日であった。近藤はこの2日前に江戸へ旅立っているから、この裁定は土方によるものだが、どういう訳か、近藤の江戸行きに永倉が伴っている。
近藤の、この江戸行きは、その目的がいまひとつはっきりしていない。大方の意見は、将軍や老中に攘夷を促すために、自ら江戸に下って運動しにきたと言う人もいるが、隊士募集も手がけていて、伊東甲子太郎一派もこの時に獲得してきている。
また、近藤たちは、京都から江戸まで、この時たったの4日で到着している。何故、そんなに急ぐ必要があったのか。その上、江戸に到着早々、松本良順宅を訪ねている。

3ヶ月前に、京都三条小橋ヨコの池田屋で派手に立ち回りをして、全国にその名を知られた新選組の隊長が、当時、幕府第一の開明派と言われていた松本の家に直接やってきた。家族たちは、てっきり、斬りに来たと思い込み、震え上がった。
この時の様子は、僕の本に詳しく書いてある。

新選組の専門家の中には当時、老中職に松前藩の藩主崇広がいたことをあげている人もいるが、いくら永倉が松前出身だからって、お殿様に進言したり、お目通り出きるほどの地位や立場にあったのか。
不思議なことである。

新選組は、実力主義の組織である。
腕っぷしが強ければ、伍長にも上がれ、うまくすれば副長助勤にも出世できた。給金も上がったし、臨時のボーナスも貰えた。だが、最高権力者土方歳三のさじ加減も勿論あった。

文久3年3月、会津藩は、京都守護職という、損な役回りを引き受けてしまったという失策をなるだけ軽く収めるために、江戸から上がってきた浪人共を手先に使うことを考え出した。この連中に『逆天誅』『逆テロ』をやらせて、攘夷の志士たちの活動を抑えさせ、できれば息の根を止めてしまおうと考えた。
翌元治元年6月5日におきた池田屋での事変は、新選組の見事な活躍に、幕臣としてお抱えするまでの決意を幕府の閣僚たちに固めさせるのに十分であった。
この事件と翌月におきた『禁門の変』あたりを頂点にして、京都守護職や新選組は、わが世の春を謳歌したのであり、見廻組も含めて京都での存在、威厳、振舞いなど、恐怖の軍団としての地位を築いていった。

元来、京都人という種族は、排他的で気位が異常に高い。
と、言われている。
これは、京都ばかりでなく、函館でも感じた。もしかすると、この両市、我国を代表する観光地であり、殆んど何の苦労も営業努力も無しに観光客がやってくるという共通点がある。自然、サービスは低下し、無愛想である(そういえば、イタリアも)。
京都に行った観光客は、自分が京都にたたずんでいるだけで大満足であり、都の香りによっている。花見小路で舞妓さんに出会っただけで感激であって、それがお話しでもしようもんなら、一生の出来事のようだ。

今から、約4年前京都、函館、会津若松、日野で【新選組サミット】の準備会を京都市役所で開催したことがあったが、2回開催して分解してしまった苦い経験がある。

その原因だが、大きいものでは二つある。
一つは、先の両市に共通して、集客に余裕が感じられたということである。普段から、観光事業は忙しい。だから、余計な仕事を、わざわざ増やす様なことはよして欲しいというのが、本音であったように思い出す。
こちらは、せっかく「大河ドラマ」なのだからという理由であったが、あちらは、義経やっても、戦国ものやっても、幕末ものやっても毎年が大河なのである。
成る程、そうだ。
排他的という意味では、京都の中でも争いが始終行なわれている。以前もここで書いたが、栗塚さんが嘆いておられた京都府と京都市の仲の悪さである。東京都庁の役人なぞは、地方の市区町村に対して実に高圧的な場面が多いが、京都は逆で、市のほうが威張っているといっていた。尤も、京都府の財政収入の殆んどが京都市なのだから、仕方ないガーーー。

京都人を一概に論評は出来ないが、概して、地方の人間を見下す傾向にあるらしい。
もう千年以上も前から、京都へは『のぼり』であり『上洛』なのである。江戸へは『下る』のである。だから、京都・大阪あたりを総称して【上方】という。
こうした風潮の中で、新選組や会津の人たちは、京都人にどう迎えられたのか。あまり良い印象でもなく、歓迎されてはいなかったのではないだろうか。
もう1つは、会津若松市の観光課長が、高知市からやってきた担当者に毒づいたからだ(高知市は、竜馬つながりで、オブザーバーで来ていた)。
「あなたがと一緒に、お祭ごとは出来ません」ということだった。
う~ン。そこまで言うか。
当時、京都市役所の会議室で、京都府の伊藤さんという観光課長と顔を見合わせたのを、思い出した。二人でこの話(新選組サミット)を進めてきたのだけれど、まだ機が熟していなかったのかと、がっかりした。
つまり、会津から言わせれば、長州や薩摩、土佐なぞは恨み骨髄、憎き敵(カタキ)であって、その怨念をいまだ引きずっているという。おじいちゃんやおばあちゃんから昔の話を聞かされてきて、許せる相手ではないというのだ。
会津の担当課長は、国へ帰って、土佐と一緒にお祭をやることになったなどとは、到底言えないのだった。

つづく
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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