村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

『江戸に学ぼう』―――ごみとリサイクル

以前、僕は日野市民会館に勤務していたことがあり(約12年前まで)、近隣の公共施設の仲間と定期的に連絡会を開催していた。
八王子市では市民会館やいちょうホール、府中市では府中の森芸術ホール、調布にはグリーンホール、その他昭島市民会館、立川アミュー、秋川キララ、多摩パルテノンなどである。
こういう会館の事業というのは、市民や業者が、発表会や興行を行なうための貸しホールとしての役割のほか、それぞれのホールが財団などを作って自主的に興行を行なうなどして、地域住民に文化芸術に関する総合的な啓蒙事業を行なうこととして、その役割を果たしてきている。

在る時、先の連絡会(公立施設文化協議会といい、通称”公文協“という)の席上で確か、調布グリーンホールの担当者だったと思うが、こんなことを言った。
「うちでは、三味線や踊りの発表会の時の弁当のカラは、これから持って帰ってもらうことにしました」、と。
「えっ、大丈夫か」
各施設の担当者は、ささやきあった。
「でも、そういう際に出るごみというのは、(ホールの)貸し料金の中に含まれていると考えるべきじゃないのですか」
と言った出席者もいたのだが、グリーンホールは強行した。

民謡や三味線、踊りなどの日本古来の芸能に関する”名取”などの襲名披露発表会は厳粛なもので、お金も使うが気も使う。特に、家元なぞに出演依頼している場合には、尋常ではない。来場者には、プログラムのほか、手ぬぐいなどの粗品のほか勿論弁当付である。その数、1,000人前後になることは、普通である。だから、弁当のカラもその数だけでることになる。

それからしばらく経って、再び、同じ公文協の席上、グリーンホールの担当者は、
「あの、ゴミ袋の持ち帰り、やっぱり、止めました」
と、発言した。
随分早いなと皆、思ったに違いない。
聞けば、
「苦情が多くて」
皆は、ホールを借りた三味線の主催者からの文句だと思ったのだが、実際は違っていて、ホールの近所の住民からだった。とりわけ、農家からだったという。
よく考えると、だんだんわかってきた。
そう、ホール側から言われて、一旦は素直に聞いて持ち帰ったが、自分の家に帰った時には手元にはないということだ。
畑が、ゴミ捨て場にされていたというのだ。

こういう事例は良くあって、一番顕著なのは、行楽地でバーベキュウなどをやって、そのごみを河原なぞに捨てられなくなってきている昨今、一旦は車にごみを積むが、帰る途中のサービスエリアに子供の紙おむつなどと一緒にまとめて捨てるという、あれである。

僕は、市民会館に勤務した後、図書館に配属になり、1年もしないうちに突然リサイクル推進課長を言い渡されて、”ごみ改革”をやってくれと命令された。
自分では、改革をやり遂げたと思っているが、最近、ごみ問題でため息をつきたくなることがずいぶんとある。(そういえば、安倍首相も“改革”といっているが、あまり支持されているとは思えない)

本日、職場でこういう記事を眼にした。九州のある市の施策である。

 「マイはし運動」と「マイバッグ運動」に、市長や副市長、臨時職員らを含む全職員が率先して取り組み、環境問題への意識を高める狙い。

   マイはし運動では、昼食をとる際に弁当などについている割箸を使わず、自宅から持参した箸を使う。マイバッグ運動はーーー。
   同市は、2001年から地球環境問題への取り組みとして、「環境率先行動計画」を開始。庁内でごみの減量化・資源化を進める運動などを実践してきた。市環境政策課は、「外食時も箸を持参するなどして、積極的に取り組んで欲しい」と話している。

マイバッグ運動は、当日野市では、僕がリサイクルの課長の頃から(約7~8年前)始めていて、すでに当たり前のこととして定着して(?)いるが、マイ箸のほうは全く取り組んでいない。
この「マイはし運動」なるもの、どう考えるべきなのか、僕も本音のところ迷っている。

でも、その答えは、「江戸の庶民の生活」の中にあった。
江戸時代の江戸は、男の独身者が多く住んでおり、従って、自然と外食産業が栄えた。特に屋台での食事が大賑わいで、昼も夜も屋台で済ます人も少なくなかったようだ。
特に人気があったのは蕎麦屋、すし屋、天麩羅屋、うなぎ屋などで、その他おでん屋、団子屋などである。このうち、すし屋や天麩羅屋なぞはじかに手で食べたり天麩羅なぞは串にさして食べたから箸は使わないですんだが、蕎麦だけはどうしても箸が必要だ。
江戸の頃から割箸は使われており、屋台でも出した。否、正確に言えば、割箸は高級料亭で出していたらしい。では、その箸は、現代のように使い捨てだったのだろうか。あの時代のことである。そんなわけはない。使用済みの箸を専門に引き取る”箸処“という業者が、ちゃんと存在していた。引き取った後、四角い断面の割箸を丸く削り、所謂丸橋にして再び使用されたのである。その後はどうしたのだろうか。江戸の頃は、箸に限らず実は何度でも「リ、ユース」する。
その後は、再び業者が引き取って、丸橋のまま今度は漆を塗るのである。
今は、あまり見なくなったが、僕らの子供の頃は漆塗りの丸箸ってものが結構流通していた。家庭でも外食でも、箸立てというものがテーブルの真中にあって、そこに何本も差してあったのを思い出す。江戸の屋台では、ソレを使っていた。

終戦後、我国は「消費が美徳」といわれて、国民の多くが「大量生産・大量消費」に走った。使った後は、すべてごみとして捨てればよかった。その先、どう処分されたのかは、関知しないで済んでいた。
だが、昨今では、ソレが許されなくなった。ごみの最終処分場が満杯状態で、もって行き場がなくなってきているのと、廃棄物の中に危険な物質が含まれているからである。
僕は、ごみの仕事をしていた頃、よく市民の方々に申し上げた。「大量生産・大量消費の後は、大量廃棄ですよね。でも、それで終わりではなくて、その後、大量焼却なり大量埋め立てってものが待っていますよ」と。

燃やせば、清掃工場の煙突から大量のダイオキシンが排出される。じゃあ、そのまま埋め立てればいいのか。
この埋め立てが、今じゃどうにもならなくなってきている。
僕が住んでいる多摩地区では、日の出町の二ツ塚という場所に最終処分場を作ってお願いしている。日本中どこだって、単独で埋立地を持っているか、なければ近隣の自治体が共同で処分場を確保しているはずだ。
だが、近年、ごみの物質の中には大量の化学物質で出来たものが多く、不燃物や焼却灰の中にダイオキシンが含まれている。
だから、分別をきちんと行なって、危険物質を埋め立てにまわさないようにするのだが。それでも、不燃物として排出したごみはそのまま埋め立てられている。
大丈夫なのか。危険はないのか。
この辺りの解決方法は、実は、江戸時代のごみ処理に学ぶしかないような気がしてきた。

続きは、また、今度。
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再び、浅尾藩1万石のお殿様のお孫様と見廻組談義

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ひと月ほど前から、岡山県総社市のM議員から何回か電話やメールが入り、連絡を取りあっていた。
 そのM議員のご先祖は、幕末時に、浅尾藩主蒔田相模守広孝にお供して京都に上洛したというのだ。つまり、あの京都見廻組の一員に入っていたらしい。
そのM議員がなんで僕にアクセスしたかってことだが、拙著「人間土方歳三」を読んだからだという。
「第四幕 土方歳三」の中に、更に小見出しがついていて、“見廻組組頭蒔田相模守”というくだりがある。

ここで僕は、見廻組のトップと新選組副長との交流を、仲睦まじく描いた。これまで、この両組織は、殆んど同じタイミングで京都に置かれたので、相互にライバル意識が強く、決して仲はよくなかったとされてきた。
事実、そうだと思う。
だが、僕は、この二人が意気投合して市中取締りを行なっていたという前提に立って、物語を考えてみた。何故、そうなったかというと、蒔田相模守のお孫さんの存在からだった。

そのお孫さんは、蒔田子(あきこ)さまといって、なんと、日野市にお住まいだった。彼女の存在については、もう3年位前だったか、このブログでも書いたことがある。
見廻組の組頭のお孫さんが、いまだに顕在だった。そのうえ、土方歳三の生まれ故郷で新選組のふるさと、日野に住んでいるのである。今年で84歳になられる。

その子さまが、平成16年3月4日付で僕にお便りをくれたことがあった。そこに、こんなことが書いてあった。
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特に、この中で、子さまのお母様が日野へ来たときの逸話が気になるので、ピックアップすると、

  『その昔、母が当地に参りまして、日野市は土方さんの処でしょうと申しました。又又その昔に、母の父蒔田広孝が或る朝”土方の夢を見た“と申したそうです。』

京都見廻組の組織は、見廻役として蒔田相模守が就任し、その下に京都見廻役勤方がおかれた。与頭、与頭勤方、肝煎、伍長などの役職が置かれ、あの佐々木只三郎は与頭である。
ちなみに、慶応3年6月10日、新選組は直参に取り立てられたが、近藤は見廻組与頭格、土方は肝煎格であった。

見廻組の最高権力者の職にあった者が、新選組の副長の夢を、明治になってから見たというのである。
何か、強烈な印象が、蒔田広孝にあったと思うべきだろう。でなきゃ、何十年も経過してから、夢なぞ見るだろうか。
幕末動乱の修羅場を体験してきた人たちにとって、若かりし頃のあの強烈な体験は、肉体や精神に染み付いてしまって容易には取り除けないのだろう。
特に、京都で捕り物を行なっていた見廻組や新選組は、限界を越えた恐怖体験などがあったに違いない。

明治の大実業家で、幕末の時は一橋家の家来だった『渋沢栄一』というひとがいた。
土方歳三と渋沢とは、京都で2度、縁があった。
その2度目のことだが、元見廻組の幹部で大沢源次郎というものがいた。この大沢が見廻組を裏切って尊攘側と内通している事実が判明した。この捕り物を渋沢が行なうことになっていたが、何せ、大沢という男、剣術つかいであった。渋沢の腕前では危険なので、土方歳三は、捕り物は新選組が引き受けると止めたのだが、聞かず、渋沢は一人で大沢をお縄にしてきた。土方は渋沢の肝の座りに驚き、将来大物になる予感を感じた。
この捕り物は、新選組と見廻組と渋沢の手柄だった。
こうした縁で、土方と蒔田は昵懇の中になったと、僕は書いた。

蒔田広孝は、明治になって、晩年は郷里の総社に住んで町長を務めたが、その殆んどを東京ですごしたから、渋沢栄一と何回か面会していたのだろう。そのときは、必ず昔話に花を咲かせ、土方の話に発展したに違いない。
こうした体験が、広孝の夢物語になっていったと、僕は見ている。

僕は何度も、蒔田子様に聞いたことがある。
「なんで、日野に住むようになったのですか」と。
すると、「自分でも、わかりません」といい、「きっと、土方さんのお引き合わせです」
と、言うのが口癖である。
昨日(8月9日)、総社市から市議会議員のM氏が日野へ来られたので、子様と面会する段取りを取った。
三人で、浅尾藩や見廻組、蒔田相模守、更には新選組、京都などの話しをした。
M議員は、これから、総社市の中に、見廻組の資料館を作りたいと構想を漏らされた。
僕も、蒔田子様も、できる限りの協力を申し出た。

先日は、沖田家の子孫、今回は浅尾のお殿様の子孫との交流だった。まだまだ、この方面のお付き合いも多そうだ。

近況

S.O.S.JAZZ ORCHESTRA 2度目のライヴ

日野中央公園納涼まつりーーー8月4日(土)


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ここのところ、このコーナーへのブログ書き込みをおろそかにしてしまった。
別に大した理由はないのだが、個人的にいろんなことが立て込んでいたからだろうか。

一つには、先日白内障の手術をしたこと。
これは、正直、最初はレーシック(視力回復手術)を受けたいと長年思い続けていて、ツイ2ヶ月前に決断したことがきっかけだった。銀座にあるクリニックを訪れて、3時間近くも検査を受けた。その結果が『不適切』というものだった。
ガッカリ。

例によって、早速、話はそれるが、
僕がまだ30歳そこそこの頃、日本消費者連盟(日消連)に舟瀬俊介という僕と同年代の男がいて、こういう組織にいたくらいだから流石に様々問題意識が高く、当時まだ誰も問題視していなかった『酒』を取り上げて、いかに日本の清酒やウイスキーなどが偽物かを世間に訴えた人だった。
“戦時中、酒なぞなかった日本軍の兵士たちは、エチルアルコールを3倍に薄めて飲み、身体を温めていた”といった記述があったように思う(これを三増酒というらしい)。
“戦後も、清酒メーカーは、酒にアルコールを加えて量を3倍に増やす製法で清酒を造ってきた。これを酒税法は長年認めてきたのである。”
こうした彼の批評がきっかけで、僕は、酒を買うときは必ず裏のレッテルを見、《米、米麹》の所謂「純米酒」しか買わないようにしてきた。今でも大概は、《醸造用アルコール》と記述があるはずだ。
ちなみに、この醸造用アルコールを添加して3倍に増やす『三増酒』は、今年の10月の酒税法改正で、清酒とは認められなくなるらしい。ようやっと、舟瀬氏の主張が通ることになった。

この人は、日消連にいたくらいだから、『酒』のほかに『洗剤』や『食品添加物』などの記述や出版も多く出しているが、その頃まだ誰も知らなかった視力矯正手術を受け、「メガネよさようなら」というタイトルで出版もしていた。
今でこそ、この手術はオーソライズされてきているが、今から約30年も前の頃である。好奇心はあるが、誰もまだ相手にしていなかった。

今でこそ忘れ去られた人になってしまったが、この人は、当時、消費者運動や消費者センターでは人気の高い人だったので、全国を飛び歩いて講演活動をしていた。
彼とは親しくしていたので、この手術について、随分と詳細に教えてくれたことを覚えている。もともと、ソ連からやってきた技術らしい。
彼から、レーシックの話を聞いて、いずれは自分もその手術を受けたいと思い続けて早、30年も経過してしまった。この間、タイガーウッズをはじめ多くのスポーツ選手や芸能人がこの手術を受けている。

僕は当時、消費者行政を担当していたので(美濃部都政の末期だった)、都の担当者とも親しくしていて、あるパネルディスカッションに3人で出演したことがあった。一人は、東京都の偉い人で、政策室長だった。
名は太田久行という人で、今の『童門冬二』である。
あの太田さんがあんなすごい作家になったんだから、僕だってという気持ちは少しだけあったが、今は殆んどない。でも、ものを書くという習慣づけは、先の舟瀬氏などの影響もあって、若い頃から醸成されてきていたのかもしれない。

話がそれすぎた。
そのレーシックだが、僕は年齢的に行き過ぎているから、医者は、やりたくないといった。代わりに、白内障の手術を勧められた。
これは、老人が受ける手術だと、長い間思い続けていたが、医者の話を聞いてみると、そうでもないとわかってきた。誰でも水晶体は長いあいだには曇ってくるし、手術すればすっきりする。「早いか遅いかだけのこと」だという。大概は70過ぎの高齢者が行なうが、もっと若くても充分いいよといわれ、俄然その気になってきて、この間の23日に左目だけを手術した。周りは、本当に高齢者ばかりで、何か場違いの手術室にいるような気がしたのだが。
でも、10分ほどの手術を受けて、5時間もしたら視界がはっきりしてきて、世の中が明るくなった。その上、
0.1だった視力が、今では1.0で見えている。
勿論、その分、近いところは見ずらくなってはいるが、医者にお願いして、楽譜のおたまじゃくしぐらいは見えるようにしてもらった。
右目は、8月13日に受ける。

本題に入る。
8月4日(土)に、S.O.S.JAZZ ORCHESTRAの2回目のライヴがある。
この企画は、僕が長年所属していた日野市職員組合の夏祭りに参加するというものだが、(この納涼祭りは、実は僕がもう20年以上も前、組合の執行委員をしていたときにはじめたものだ)昨年までズーと、盆踊りをしてきたものが、とうとう出来なくなってしまったので、今年は、ステージでジャズコンサートということになった経過だ。
最近、盆踊りを踊る人が少なくなってしまって、やぐらを組んでも人の輪で囲めないほどなのである。
この祭りは、組合の行事なのだが、組合員の組合離れが激しく、参加は殆んどない。でも、模擬店が抜群に美味く料金も安いし、子供達へのサービスもいいので、近所の市民たちが大勢集まってくる。恐らく、約2,000人ほどはやってくる。市民たちは、市役所が主催していると思っているに違いない。実は、組合が主催である。これだけ大掛かりだと、経費が500万円以上かかる。これは全てが組合の持ち出しで、財政厳しい折、継続が危ぶまれている。
でも、市民会館の前の中央公園が会場なので、樹木に覆われた野外ステージは雰囲気がいい。きっと、良い音が出せるのではないかと期待している(あっ、そういえば、ここは、新選組祭りで“隊士コンテスト”をするところだった)。

過去、僕は、ジャズで3度、この祭りには参加している。そのときは、まだ都内のマンデーナイト・ジャズ・オーケストラというところにいたから、メンバーを日野に集めるのに苦労したが、今は多摩地区のバンドだ。地元で出来るので落ち着いている。
僕の参加しているS.O.S.というバンドは、昨年結成したばかりで、おそろいのユニホームどころか、Tシャツさえ無い。今回は日野で行なうライヴなので、皆で、おそろいの新選組の羽織をはおってステージにのることにした。メンバーたちは、今、大喜びである。僕らの最初のステージは午後6時である。
曲目は、以下のとおり。
 
MOONLIGHT SERENADE
PENNSYLVANIA6-5000
IN THE MOOD
LITTLE BROWN JUG
SING SING SING
EASY MONEY
SWITCH IN TIME
ALMOST LIKE BEING IN LOVE
HAY BURNER
APRIL IN PARIS
ON THE SUNNYSIDE OF THE STREET
JUST FRIENDS
LOVE
SHINY STOCKINGS
All OF ME
YA GOTTA TRY
幸せの黄色いリボン


近くの人は、魅力ある祭りだし、お出かけしてみてはどうだろう。

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この4日は、一面僕にとって悲しい(?)日でもある。
ひとり娘が今年大学に入って、南カリフォルニア大学に語学研修に出かける日でもあるからだ。生まれてからズーと、一緒に暮らしてきたのに、一月以上もいなくなることに不安と寂しさが、今から襲ってきている。
成田の見送りデッキで、飛行機に手を振りたいと考えていたのに、ライヴになってしまった。(ドラマじゃねえゾ。――アホ)
親バカ!

最近、このブログをおろそかにしている理由が他にもある。
ソレは『mixi』というサイトに参加して、バンドのメンバーと連日交流しているためである。
そもそも、このS.O.S.JAZZ ORCHESTRAは、mixiで知り合った仲間で結成したバンドなのであった。だから、通常の連絡は、特別なとき以外は電話なぞは一切使わない。だから、一日でも、見落とすわけには行かない。いつ、自分に問合せが来ているかわからないからだ。
特に、日野でのコンサートを控えているので、連日僕に問合せが入る。何せ、20人近いメンバーがいる。皆さん、ここへ来るのは初めてなので、道順から教えるようだ。
ちなみに、このmixiでは、僕のハンドルネーム、
『歳蔵』と名乗っている。
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
    サイトに関してのお問い合わせ(動作不具合など)は管理人までお願いします。
    村瀬へのメールはこちら






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