村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

江戸にもあった”金券ショップ“―――『献残屋』

もう20年以上も前のことになるが、防衛庁が六本木にあった頃、僕の直接の仕事ではなかったが、補助金のお願いで陳情に行ったことがあった。
何故、日野市辺りが防衛庁に直接と、疑問を持つかもしれない。実は、すぐ近くに横田基地というアメリカの軍用空港があって、日野市はそこへの進入路にあたっているから、騒音対策で公共施設建設の際に補助が出るのだ。
手ぶらじゃなんだというんで、同僚と相談して日野名産の梨を買って手土産に持っていったのだが、廊下には既に5~6人面会者が並んで待っていて、まるで病院の待合室みたいだった。みやげ物をもっているのは、僕らだけだった。
2時間も待たされた後、ようやくお目当ての施設担当課長にお目見えできたのだが、ほんの10秒程度でけんもほろろに追い返されたことがあった。
帰りに、隣にいた某市役所の担当者がささやいてくれた。
「ここは、ビール券と決まっているんですよ」とアドヴァイスをしてくれた。

勿論、役人たちは、同僚らとビールで乾杯するのではない。
角のタバコ屋に、その券を持ち込むらしいのだ。勿論、タバコを買うのでもない。

数日前、防衛省の高級官僚だった人が、国会に呼ばれて2度目の証人喚問が行なわれた。メディアによれば、逮捕も近いとか。こういった不祥事は、ロッキード事件やリクルート事件を始めここ数十年幾度となく繰り返されてきていて、「またか」と、僕らは麻痺してしまっているから、大した驚きはなくなってしまった。

一体、政治家や官僚たちが起こした贈収賄の事件と言うものは、いつ頃から始まったのだろうか。思い起こせば、明治に入ってすぐ、『山城屋和助事件』と言うものが起こり、続いて『尾去沢銅山(おさりざわどうざん)事件』が続いた。
 この二つの事件、詳細は書いていられないが、とんでもない極悪非道な贈収賄で、共通しているのは長州藩出身の参謀、山県有朋と井上馨がその中心にいて私腹を肥やしたことである。二人とも逮捕されることもなく、うまくもみ消すことが出来、山県にいたってはその後内閣まで組織し、事実上我国を軍事大国家に導いた人物だ。

明治期以前にはなかったのかと言うと、あったどころではない。
江戸時代という260年間は一面平和な時代で、争い事は殆んど起こらなかった代わりに、政治家や官僚たちの出世競争が熾烈に行なわれた時代だったから、権力に絡む商人たちを交えて盛んに贈収賄が繰り返されたのである。今日の職務権限を利用して便宜を図るなんてことは、この時代から盛んに行なわれていた。

江戸の時代は、士農工商の差別された身分社会で、商人なぞは最下級の身分で、肩身狭く生活していたような印象を持ちがちだが、江戸も中期頃からは全く逆転してきていて、武士たちが商人に頭を下げて生活していた現実もある。
意外に思うかもしれないが、ちょっと考えてみればわかる。

武士は藩主から『禄』という給料で生活していたわけだが、これは一度決められたら、余程の出世でもない限りは増えることがなかった。5百俵ならそのままだし、30俵二人扶持はそのまま幕末まで行く。この間、異常に物価は高騰したから、武士はそのままでは生活出来なくなってしまっていた。最下級の武士は、今のお金に換算すると年収200万円にも満たない計算になるから、家族全員を養うことは到底無理だった。

だから、内職に精を出さざるを得ないのである。
内職は、何も、おとり潰しになった藩の食い詰めた浪人(牢人)だけのものではなかった。
傘張りを始め、朝顔やつつじの栽培から金魚の繁殖、楊枝作りなど数えたら切りのないほど武士たちは内職に精を出し、出来た製品は見事なものが多かったと言う。
ちなみに、試衛館のあった牛込柳町近辺は、若松町、筑土八幡町、弁天町や薬王寺町なぞを含めて、根来百人衆や鉄砲組に属する下級武士団が多く住んでいたから、内職も盛んで、この辺りは提灯作りが有名だったと言う。
武士たちは、それらの製品を少しでも高く売りたいから、問屋に営業に廻って、一文でも高く買い取ってくださいと、頭を深々と下げてお願いに廻る。
相手は、れっきとした“商人”である。
痩せても枯れても武士だとか、食わねど高楊枝なぞと気取ってはいられなかった。
背に腹は替えられないのである。
この部分の話は、別の機会に譲るとして、今日は、江戸の街にも“金券屋”が繁盛していた話だ。

江戸時代ほど、贈答が盛んだった時もないのではないか。
諸大名が参勤交代で江戸にやってくると、必ず将軍家にみやげ物を献上したし、家臣たちは藩主や上司に贈り物を差し出したし、御用商人たちは出入りの武家屋敷や役所に付け届けをすることは、年中行事だった。
こうした品物は、大抵自分の金では買わない。
だから、“わざと”余分に購入したから、余り物が当然出る。こうした品物は、『献残屋』という今で言う金券屋に引き取ってもらった。
献残屋は、無論、市価よりはるかに安い値で引き取ったのである。

これだけではない。
貰ったほうも、おびただしい数の贈答品がたまってしまうので、消費しきれるものではない。だから、これも、献残屋に売り払った。
献残屋は、それらの品物を他へ売り払って大儲けしていたのだが、中には、品物が新品同様でそのまま献上用として再びつかえるものもあった。それらは、御用達に転売して装いを新たにし、献上品として再び登場したのである。
こうした献上品というものは、日持ちするものが多かった(今で言う、”賞味期限”なぞ気にすることはなかった)。
その土地の特産物が多かったのだが、例を挙げると、干し魚、干し貝、塩漬けの鶏肉、昆布、干し鮑、からすみ、このわた、うになどである。

この献残屋という商売は、上方方面にはなかったと言われている。ふ~む。
そうか、江戸には、江戸城を中心に大名や旗本の屋敷が並び、武家地が全体の6割以上であったし、人口も100万人のうちの半分までが武士だったから、このような商売が成り立ったのかもしれない。

最近、『もったいない』という言葉がもてはやされてきている。何でもすぐ捨てる風潮を、もう一回考え直すいい機会である。
でも、現実は逆行している。
敢えて言うが、『賞味期限』と言う曖昧な表示が義務付けられてから、この期限を過ぎると、全て捨てなきゃいけないような錯覚に陥る。これは、『消費期限』と混同している人も多い。だから、まだ充分使えるものでも、食べても身体に害のないものでも、捨てなければいけない時代になってしまっている。

これらに違反しようものなら、マスメディアから徹底していじめらる。表示を改ざんすることは良くないに決まっているが、ここまで来れば、白い恋人から老舗のお菓子屋まで、日本国中どこでもやっていると思っていい。
ここで問題提起をしたい。
商人が、賞味期限のきている食品を調べたら、まだ充分に食することに問題ないと考えられる場合もあるだろう。このとき、新しい期限を作ることはそんなにいけないことなのか、と。
だって、『もったいない』を大切にする時代じゃないの。味は落ちるが、まだ充分食せます、と言う考え方はいけないのか。

僕の記憶では、そもそもの走りは、「雪印」だった。皆が非難轟々やったから、その会社名はなくなってしまった。雪印っていい響きだったのに、今は、メグミルクというんですよ。
不二家も続いた。そして最近では、江戸時代からの菓子メーカーから高級料亭まで枚挙に暇のないほど出てきてしまった。僕らに親しみのある老舗の企業、商店が次から次へと消えていってしまう。
法を破ったのは良くないに決まっているが、これだけ大量に出てくるのは、システムに問題があると言えないか。

今、労働厚生大臣は、罪を犯した個人を徹底的に追い詰めるような発言をしているが、犯罪を犯した職員たちに非があるのは当然なのだが、あれだけ全国の社会保険事務所で不正が発覚し、市町村の職員にまでも不正が蔓延してしまっていて、それでまだ個人の問題なのか。
これらが、簡単に出来てしまっている現状に問題があるといえないか。
罪を犯した個人を逮捕して牢屋に入れてみても、それだけでは事態は好転しない。
この国は、こうした不正事件が起こっても、起こした個人攻撃でお茶を濁す性癖がある。
そいつが悪い、と。
ただ不思議なのは、つかまるのが下級の役人ばかりで、高級と言われる官僚たちは不正を行なっていないのか。
捕まるのはせいぜい代官どまりで、中央の勘定奉行や若年寄、老中にまで追及が及んでいない。
だから、
今でも、恐らく、社会保険庁の中では、不正が継続されているに違いない。だって、先っちょばかりで、臭いの元を断ち切らないんだもの。
国民の財産を食い物にしていて、結果、福祉目的税と称して消費税の増税らしい。
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“武士の情け”と”第九“

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再び、ナガーく間隔をあけてしまった。
僕にとっては、久しぶりのブログである。
何年かの間、週に1回は必ず書こうと心に決めて、ズーと書いてきたつもりだが、ここへきてサボりぐせが付いてしまった。こういうものは、一度遠のくとつい億劫になりがちである。
すると、今まで読んでくれた人たちも遠のいてしまうから、ダブルでよくない。だからあせっていたのだが、ようやく筆をとるタイミングが出来た。

自分の仕事が暮れの「第九」を成功させることなので、最近、焦りが出てきて、年甲斐もなくパニクっていたのだ。
まあ、それもそのはずで、今回の「第九」はとにかくソリストたちが豪華版過ぎるほど贅沢で、それに引き換え、合唱団は市民公募である。
このアンバランスをどう解決するのか、ずっと悩んできていた。
過去、2~30回も歌った経験のある人もいるが、全くの初めてという人もいる。第九が初めてと言うのならまだわかるが、合唱も初めてと言う年配の男性もいるのだ。本人にしてみれば、自己の長い間の夢だったのだろう。とうとう歌うチャンスが訪れたのだ。
日野市が主催で、一般公募したのだから、どんな人たちが来てもいいのだが、でも、入場料を取って芸術作品として聞いてもらうには、それなりのレベルには仕上げなければならない。ここへ来てようやく、それのめどが付いてきたのだ。
今、ほっと安堵している。

ところで、日野市が主催してこういう大事業を行なうとなると、新聞雑誌や地元のTV局なぞからの取材も多くなる。チケットの販売も10月5日から売り出したのだが、その販売促進で様々メディアに働きかけもした。おかげざまで、今現在(11月15日)殆んどチケットは売り切れ状態である。まだ本番まで一月以上あるのに、入場券がないと言うのも逆に辛い。問合せが多くて、そのたびにお断りをしなければならないからだ。今日も、七生公会堂に買いに来たお客様が、チケットが売り切れていて怒っていた。市民会館に買いに来れば、まだ残りがあるのだが、行くのに不便だと言う。

そういえば、この間、或る雑誌に第九に寄せてある短い文を書いた。それを最後にのせることにする。

我国で最初にベートーベンの「第九」が演奏されたのは、大正6年(1917)6月10日だったらしい。演奏会場は、四国徳島は鳴門から西へ10キロほどの板東というところにある”霊山寺“であったが、ここは、四国八十八箇所第一番霊場で、弘法大師が、ここを第一番の札所とした。

第一次世界大戦で日本は、青島(チンタオ)でドイツ兵約5,000人を捕虜にし、そのうち939人が板東俘虜収容所に収監されていたのだが、ここの捕虜たちは、実に自由で解放的な生活を謳歌することが出来たといわれている。
捕虜の中には、大工がおり指物師もいた。肉屋がいてパン屋もいたし、印刷屋もいれば酪農家もいたから、収容所の中にそれらの商店が立ち並んだ。近所の農家と兵士との交流が図られ、酪農技術指導を受けて乳牛が増え、質のよいチーズやバターが作られるようになった。菓子屋はパンの焼き方を習ったし、印刷家はドイツ式の進んだ技術を習うことが出来た。

捕虜に寛大なこのような施策は、当時の陸軍省は「甘い」と叱咤し、当然のごとく、改善命令が寄せられた。だが、所長の松江豊寿はこれらの命令に対して、自己の信念を押し通した。
「彼らは犯罪者ではない。祖国のために戦った愛国者だ。帰国するまでは、人道的に守ってやらねばならぬ」と。

現在、板東には石造りのドイツ橋やめがね橋が残っている。洪水に悩む板東の人々のために、ドイツ兵の捕虜たちが架けてやったものである。
松江はまた、軍楽隊あがりの捕虜に霊山寺での練習を許した。ここで、地元の青年たちと、日本で最初の「歓喜の歌」が響き渡った。

陸軍省から、「命令に背くか」と言われても、松江豊寿は一蹴した。
「武士の情けである」と。
松江は、会津藩士の息子であった。
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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