村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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講演会のお知らせ

新選組関連の話「新選組と江戸文化」
 日野生涯現役を進める会第95回例会


講師   村瀬彰吾(日野市・芸術文化担当主幹)
日時   2008年3月8日(土)午後1時30分~3時40分
場所   多摩平の森ふれあい館集会室5
参加費  500円 会員無料
問合せ 日進会 大山(042-581-7544)
           橋本(042-584-1408)

http://www005.upp.so-net.ne.jp/n-rose/


今回は、今、環境保護が叫ばれているので、『今こそ、江戸人に学ぶべきである』というテーマでお話します。
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幕末のシルクロード

のっけから、僕の本のことで恐縮だが、あの『人間土方歳三』の中の65ページに”輸出と不平等条約“という小見出しがある。
この中で、この辺り(日野・八王子辺り)には桑畑がたくさんあって、安政年間以降、生糸やお茶などの輸出で大儲けした人たちがいたことを書いた。それに関連する記事が2月14日の『アサヒタウンズ』に載っていたので、写真掲載させていただく。
08-02-15_08-37.jpg


久しぶりに、自分の本を開いて、その部分を読んでみた。少し長くなるが、こんなことが書いてあった。

   ところで試衛館の面々が、何故こうも夷(外国人)を嫌ったのであろうか。
   開国以来様々な現象が起きた。日本の富、特に金銀が海外に持ち出され、外国人、日本人を問わず悪徳商人がはびこっている現象に腹が立っているのは当然だが、最大の不満は物価騰貴による庶民の生活苦であった。
   試衛館は食客も多く、毛並みの良い弟子がいるわけでもないので実入りが少ない。台所は火の車で、明日の米がなかったことも一度や二度ではなかった。

   安政6年から慶応元年までの諸外国との取引商品を見てみると、輸出のトップが生糸で、その他には、茶・銅器・海産物・薬品・油・漆器などである。
   輸入品は綿糸・綿織物・毛織物・鉄器類・砂糖・薬草類であり、別枠として軍艦・汽船・大砲・小銃などの軍事物資も扱われた。
    ………
日米通商修好条約が結ばれたのは、安政5年6月19日であったが、実際の取引開始は翌6年の6月2日と定められた。
    ………
例えば生糸であるが、外国商人たちは争って品質の良い日本産の物を買いあさり、これまでの日本の市価よりもずっと高値で買い入れた。百斤200ドル程度のものが、開港と同時に500ドル、さらに800ドルと跳ね上がり、輸出のうまみに味を占め、国内には眼も向けず、輸出に流れて買占めが行なわれたのは当然の成り行きであった。
蚕卵台紙などは、文久二年に壱分銀二枚であったものが、後になって三、四十枚にも跳ね上がった。

    ………
洋銀1000枚もってくれば運上所で三千枚の壱分銀に換えることが出来る。これを小判に交換すれば、(壱分銀は四分の一両であるから)、750枚の小判が手に入る。
これを外国に持っていけば3000枚の洋銀に換えられるのだ。ただ交換するだけで三倍の利益に跳ね上がる。まさに「濡れ手で粟」のボロい儲けである。商人ばかりでなく、外国の官吏や来航してきた軍艦の乗組員たちまでが、盛んに壱分銀の交換を要求したのも当たり前のことである。

ともあれ、尊攘の志士たちや近藤を始め山南、藤堂など試衛館の尊攘派は、日本の貴重な財産が外国に奪われていっていると憤激したのであり、金貨を外国人に売るものを国賊であるとして、斬殺の対象としたし、外国人すべてがまた対象となっていたのである。

輸出品を外国に売りさばけば、国内で問屋に卸すよりはるかに利益が出るわけなのだから、生産者たちは、こぞって横浜へ直接品物を送ってしまう事態が発生するようになった。すると、これまで江戸へ入ってきていた品物が少なくなり、品物不足になってしまった。
(いま、国道16号線が東京を囲むように横浜から八王子を通って埼玉県に入り、千葉の木更津辺りまで通っているが、八王子から横浜へ向かう街道を地元では「絹の道」とつい最近まで読んでいた。この「シルクロード」の一部は、昔のままに残されているところもある。………八王子はこのため、別名「桑都」とも呼ばれ、現在でも桑の木が街路樹として植えられているところもある)


『アサヒタウンズ』の本文には、こう書いてある。

   (引用)生糸は当時の輸出の花形商品。信州や甲州から運ばれた生糸は、いったん八王子に集められた。鑓水はその中継地。ここから鑓水商人と呼ばれた糸商人の手で、横浜へと運ばれた。
   鑓水商人は富を蓄積、威勢を振るった。だが、その繁栄はあっけなく終わりを告げる。(
引用終わり)
08-02-15_08-37~00


これを読むと、八王子や日野で生産された生糸ばかりでなく、関東甲信越あたりで生産されたものが江戸に入らないで、直接鑓水へやってきて横浜へ配送されていたと推測できる。
このように、日本の貴重な富が海外へ流出していたのだった。生糸にしろお茶にしろ、もともと、国内で消費する分しか生産していなかったのだから、海外へ大方流れれば、国内が品薄になって価格が暴騰するに決まっている。それが、米、味噌、醤油などの生活必需品全般にまで及んだからたまらない。
試衛館の食客たちが、異人斬りを考えても不思議はないし、近藤さんのルーツはこの辺にあったかもしれない。
京都の治安維持、見回り、攘夷の志士狩りに奔走させられていた新選組に、不満を抱いていた由縁である。

お江戸は理想郷だったかも

僕が新選組のことを、真剣に考えるようになって、約5年ぐらいたつ。
NHKの大河ドラマ”新選組“が具体的になる3ヶ月位前、日野市で『新選組担当主幹』になってからだ。

大河ドラマの年は、もっぱら、日本全国からやってくるお客様をガイドして、日野市内を案内していた。
そのうちに、お客様から「本に書いて」といわれて、その気になって書いてしまった。その頃は、毎日新選組や土方歳三を研究していたので、泉の如くアイデアやエピソードがわいてきて、筆が進んだのを覚えている。
だから、一応、自分が書き終えたときは600ページを超える物語になってしまっていた。本にしてくれる出版社も、決まっていなかった。描き終わってから探したのだが、どこの出版社に当たっても相手にしてくれなかった。だから、自費出版にせざるを得なかった。
それに、そんな長いものは本にできない、駄目だといわれた。だから、3分の1は削った。
また、最初に、200万円以上の金が必要だった。
でも、今じゃとてもそんな気になれないが、その当時は回収できるような気がして、『清水の舞台から飛』び降りた。
結果、周りにいる方々のお陰もあって、目出度く何とか元は取れた。

最初に、余計なことを書いてしまった。
でも、あの当時、どんな動機で新選組物を書く気になったのかというと、仕事だったからということもあるが、自らが、幕末が好きだったからである。
それに、特別に『江戸』が好きだったからであった。

小さい頃から時代劇が好きで、毎週近所の映画館に通っていた。
杉並の西荻窪だったのだが、駅の北に東映系の封切館で『西荻館』と南に『西荻シネマ』があって、南のほうは東映や新東宝のお下がり物を3本立てで上映していた。子供だったから、封切りは高くていけないから、お袋から30円貰ってシネマのほうに通っていた。昭和30年代である。
一番好きだったのは、アラカンの『鞍馬天狗』だった。
映画の最終場面に近づくと、悪者に捕らえられた杉作を助けに、鞍馬天狗が白い馬に乗ってやってくる。街道を駆け抜ける。
ションベン臭い映画劇場西荻シネマで(本当に臭かった)、夢中になって画面を追っている子供達は、鞍馬天狗に一斉に拍手した。
この映画の悪者は、勿論、新選組である。

最近、江戸時代の風俗習慣を懸命になって研究している。
なぜかというと、僕が新選組の研究をし始めた頃から、各方面から講演を頼まれることが多くなって、それがいまだに続いているからだ。
これまでは、新選組や土方歳三のお話が殆んどであったが、来月は『新選組と江戸風俗』というタイトルでやることにしてあるのも理由の一つだ。

僕が新選組に関心を持った約5年ほど前、毎日のように、TVドラマの『燃えよ剣』や『新選組血風録』のヴィデオを見ていた。『燃えよ剣』の確か第1話で、江戸の街中でばたばた庶民がコレラで死んでいくシーンがあったように記憶している。日本でコレラが流行り始めたのは、安政5年の秋からであった。何しろ、死人が連日たくさん出るから、葬儀屋の棺おけが間に合わず、大工がにわか棺桶屋になって作って売っていたという。
ドラマの中では、試衛館という道場はひどく汚くて狭い道場に設定してあり、とんでもない貧乏所帯に感じた。井上源三郎が、針を持って繕いものをしているシーンがあった。

実際も、その通りであったと、僕は思っている。
前回のブログで書いたとおり、この頃の近藤勇は、兄弟に借金を申し込んで断られていたりしているから、食うに事欠いていたに違いない。
そんな折、物価が高騰し始めた。
江戸時代というのは、比較的物価は安定していたはずである。でも、幕末になって、外国との取引商品ばかりでなく、日常の米、味噌、醤油をはじめ生活必需品が軒並み上がり始めた。

その原因は、開国にあった。
いや、みんながそう思っていた。
200年に及ぶなが~い鎖国状態を破り、アメリカを皮切りに列強と和親条約を結んだまでは良かったが、井伊大老が無勅許で、安政5年に通商条約を結んでからは、江戸の人たちの生活基盤がゆらいでしまった。井伊大老自身への各方面からの圧政批判に対して彼は、獄舎につないだり、断罪で権力を誇示した。安政6年10月、吉田松陰も橋本佐内も首を斬られた。
「安政の大獄」である。
その人を、水戸の浪士たちが襲撃して、首を取った。
多くの庶民は快挙だ、と喜んだに違いない。これは、井伊直弼の圧力とか物価高とか言うより、単純に、最高権力者をいとも簡単に葬った浪人たちに対して“あっぱれ”なのだろう。忠臣蔵のあだ討ちが、不平等な決裁をした徳川政権に対する憂さ晴らしと似ているかも。
この一件を、近藤や土方歳三たちはどう捕らえていたのだろうか。徳川が募集した浪士組に応募して京都に上洛した人たちだが、この時点では、開国策の政権には反対であっただろう。

江戸市民たちは、開国反対とか夷狄打つべしとか、尊皇攘夷なぞはどうでもいい。元通りの生活ができればいいのであった。
だから、打ちこわしなどの暴動で豪商たちを襲っても、彼らは、持っていった米などの品物に見合う金銭は置いていったという。

幕末は、嘉永から安政、万延、文久、元治、慶応と続いた。250年続いていた徳川政権も、たった15年の騒動で潰れてしまった。
でも、この徳川時代、江戸時代を歴史的な事件、表舞台に出てきた人物などで計ると、本当の庶民の生活ぶりや実態がわからない。
近藤勇は、牛込柳町の試衛館にあって、庶民の生活苦を心底怒っていたと思う。
だから、尊皇攘夷の思想を抱いた。山南をはじめ、食客たちもみな攘夷だ(原田あたりはわからないが)。僕は、この視点であの本を書いた。
この時代、江戸市民の目線でもう一度見直すことが必要なのではないかと、最近、つくづく思う。

封建社会のもとで、人々は虐げられて暗くも悲しい生活を送っていたのだろうか。自由なんかなくて、ろくに発言も許されなかった時代なのか。日常生活に必要な必需品も粗末で、すしやてんぷら、うなぎなど美味しいものなぞ庶民には縁のないものだったのか。観劇やレジャーなぞ、楽しむなんてことはできなかったのか。
答えは、「ノー」なのだ。
調べてみると、意外や意外、その日暮しで貧乏ではあったが、現代よりもっと緩やかでのびのびして、食いたいものを食い、遊びたきゃ遊び、楽しく人生を送っていたようにも見える。
そして、全く無理なく、ごく自然に物質循環型の生活を営んでいた。暗くなれば早く寝た。明るくなれば、起きた。
今、この地球上で、理想的と思えるほどのリサイクルな生活を、江戸時代の人々は送っていた。
次回から、もっと詳細にみていこう。

近藤勇、浪士組への参加を決断

2月の3日(日)から4日(月)にかけて、京都に行ってきた。
久しぶりだった。
出かけるときは、東京は大雪で、その降りっぷりは見事なほどであったのだが、京都はゼーンゼン降っていなかった。
がっかり。
だって、雪の嵐山を一回は見ておきたかったからだ。自分の本の中で、総司と山南さんとの別れを『雪の嵐山』に設定した。でも、想像だけで、一回もみたことがなかったので、ぜひとも見たかったのに、残念。
でも、今回も、祇園でお化けを見ることができた。一力茶屋から入る花見小路の夜の光景は一種独特の趣があるのだが、一年のうちで、この節分の日だけは、芸妓さんや舞妓さんが思い思いに変装して出現するのだ。

今回は僕の親戚を連れて行ったので、希望があったから帰りに壬生へ寄った。
月曜日だったが、あの八木邸が人で賑わっていた。喜ばしいことなのだが、観光オフシーズンのいまどきの季節に不思議だ。

僕があの「人間土方歳三」を書いた動機のひとつに、試衛館の人々が当時、どんな生活していたのか、何に不満があったのか、について感心を持ったからであった。
だって、新選組の頭目の近藤勇が、どんな思いであの組織を束ねていたのか、それが大事だと思っていたからだ。
その不満とは、何もあの道場に転がり込んでいた連中ばかりの心持ではなくて、幕末の庶民たちが共通して持っていた政治や社会全般にわたる不信感や焦燥感みたいなことと共通していると思っている。

ペリーが日本にやってきた嘉永6年から、大きく日本丸の方向が転換し始めたのだが、具体的には翌年の日米和親条約や安政5年の日米修好通商条約をきっかけに国民生活が激変することになった。日本国内の諸物価が高騰し始め、庶民の日常生活に大きく直撃することになったのである。
生糸やお茶をはじめ金貨に至るまで、日本の優秀な製品が海外に持ち出された結果、国内で消費するものが品薄になり、当然の結果としてその値が暴騰し始める。もともと、国内で国民が細々と消費するだけのものしか生産されていなかったのだから、大量に海外に持ち出されれば、当たり前の結果であった。
それに、このことに目をつけた悪徳商人たちは、江戸へ卸していた品物を直接横浜へ直送し、外国人たちに売りさばいて暴利をむさぼっていたから、全く江戸へ品物が入らなくなった。(これにより、八王子鑓水から横浜への絹の道が整備され、養蚕農家が大儲けして絹御殿まで建つようになったーーー当時の様子を紹介する『絹の道資料館』が鑓水に建てられている)

物価が高騰すれば、一般庶民が最も直撃を受けて、途端に生活が困窮するのは現代も同じである。その上、物が入ってこなくなってしまい、絹やお茶ばかりでなく、味噌、醤油、米までも暴騰してしまったのだから、打ちこわしと言う形で慶応年間には暴動が起こった。

ご存知のように、牛込柳町に存在した天然理心流道場”試衛館”は、超貧乏道場だったから、その日の米の調達にも不便していたくらいなので、こうした失政に対する不満も並みのものではなかった。
道場主の近藤勇は、長兄の音五郎に再三借金の申し入れをしたが、断られている。総司に反物を背負わせて、再び借金申し入れを行なったのだがこれもダメで、「兄弟とはいえ、こんなに冷たいものか」と、勇自身が嘆いている手紙が現存している。

こうした現実を見かねて、土方歳三が姉のおのぶに無心して様々なものを都合してもらったと言う逸話があるが、真実はどうかわからないが、あっても不思議はない。
この使いも、ひょっとして、総司に行かせた可能性も高い。
僕は、総司の成育は日野だったと思っているから、名主の佐藤家でも剣術修行を行なったと思っている。佐藤彦五郎の妻が土方歳三の姉おのぶなのだから、そこへ総司が出入りしていても一向に不思議はないし、地元では、総司の剣は荒っぽくて手合わせするのがいやだ、と言う記述が残っているくらいだから、余計真実味はある。

こうした、物のない生活、貧乏暮らし、はたまた日本の大事な財産が外国へ持ち出されるなどの原因は、外国人のせいだと思い込んでいる風潮が当時あったから、それが“攘夷思想”へと発展していき、外国人への暗殺につながった。孝明天皇にも攘夷思想を抱く理由はあったが、一方、庶民の側にだって立派にあった。
だから、攘夷の志士たちは大いにモてた。

近藤勇が、何故、京へ上がろうと決心したのか。
世間では、武士になりたかったから、剣術家としての地位を確立したかったみたいな決め付けが行なわれているようだが、僕は、もっと純粋なものが彼を動かしたと推測している。
でなければ、周りが京都行きと道場経営の廃業を許さなかったであろうし、本人だって、説明がつかなかったはずだ。道場を一旦たたんでしまうということが、当時の常識としてどんなことを意味するのか、今の常識から類推しても、大きな決断だったはずなのだ。
よくテレビドラマにもあるように、剣術に限らず、お茶でも、踊りでも、三味線でも、生花でも宗家を継承すると言うことの意味は、常人では考えられないほどの重みと利権が伴っているらしい。だから、その後継者争いというものは金銭ばかりか、その怨念にまで発展して遺恨を残すこともあるという。
近藤さんのところだって、義父の周助が3代目を継承するときのエピソードには様々あって、もっと他に多摩地区に後継者として相応しい人物がいたにもかかわらず、いろいろな経緯があって、江戸に道場を構えた周助が襲名したと言うことだ。

でも、その道場を止めてしまうのである。
世間が許さないだろう。だって、初代の内蔵助、二代目の三助、三代目の周助と続いてきた流派なのだから、四代目の勇の代で辞めるなんぞ許されることではない。しかも、女房もいれば2歳になるたまちゃんもいる。おまけに老夫婦を養わなきゃならない。決して多いとはいえないが、かわいい弟子たちだっている。それらを全て放り出して、上京するのである。それも、命がけの仕事であった。
でも、近藤は京都で、自分の後継者のことをずいぶんと心配していて、谷周平を養子にとったとか、はたまた総司にしようと考えている旨、土方歳三に手紙を書いたりしている。彼は、江戸に帰って道場を再開しようと言う気持ちもあったのだろう。
それでいて、長州征伐に出かけて、命がけだと言っている。だから、後継者なのかもしれないが。

あとのことは、義兄弟の杯をかわした佐藤彦五郎と小島鹿之助に頼んだ。
この二人は、あとに残された周斎夫婦や家族、また弟子たちの面倒を良くみた。
だから、近藤は恩義に感じて、ことあるごとに、この二人には京都の状況を手紙で逐一報告したのであった。

幕末維新というものが、どういう力学で行なわれたかってことについて、様々な論争がある。
司馬さんは、下級武士たちによる革命と言うふうにおっしゃっておられたように記憶しているが、逆に、あれは庶民のパワーで行われたと言う説もある。確かに、直接、革命や戦闘に参加したのは、下級武士階級かもしれないが、背後に大きく支える市民たちがいたればこそのことだったようにも思える。
市民たちが参加してゆくという過程は、世情や政権に対する不満から発していることが多い。あの時代も、そういう背景から幕末へと走っていったように思える。

よく、幕末と現代と比較してものをたとえる人がいるが、僕もそうしてみたい。幕末は、桜田門外の変を契機に、徳川政権も内なる事情からも崩壊の危機にあったが、直接的には外国からの干渉で変わらざるを得なかった。そして、自ら鎖国を止めた。
今の日本も、内部的には既に崩壊していると見ていい。何せ、1000兆円にも及ぶ借金財政なのだし、年金問題を顕著にして不祥事だらけである。官僚が国民の金をネコババしているばかりか、民間企業もずーっと国民をだましてきていた。それらが昨年あたりから顕著になってきた。
だから、清水寺の住職が『偽』という字を書いた。
そして、それらを改善する糸口が全く見えない。

今年に入って、株価の下がり方がきつい。聞けば、外国からの資金が日本市場から逃げ始めているという。
日本売りが始まったのだ。
外人もあきれ果てて、日本という国の格付けを発展途上国並にまで下げているらしい。
こうした外的な要因で、日本は大きく変わらざるを得ない、と見る。

太陽のお恵み

初めてラーメンを食べた日本人は、だーれ?
というクイズがある。勿論、答えは、黄門様なのだが、さて、餃子もそうなのかな。

ところで、1月の末から、その”餃子”が世間をにぎわしている。
詳しいことは、新聞やTVなどのニュースで「そこまでやるか」と言うほど、報道しているから言わないが、僕は、以前から起こりうることだなあ、と思っていた。

僕は、結婚する前から現在に至るまでズーッと、食事は自分の役目として作ってきた。子供も二人いるが、離乳食も作って食べさせていた。料理が好きだと言うこともあるが、共働きできたし、それが仕事の一部だと思っていたから苦にもならない。
仕事が終わると、殆んど毎日のように買い物に行く。勿論、うちの冷蔵庫の中に何が残っているかも常に頭に入っている。今、肉や野菜、その他の惣菜品など、殆んどどのくらいの値段になっているかも知っている。
話題の餃子も知っている。

僕はラーメン好きだが、餃子だって好きだ。
日野近辺でよく行く店は、豊田駅ヨコのDラーメンの餃子だ。
美味い。
そこは、値段は高いと思う。普通のサイズの大きさのものが5個しか並んでいないが、550円する。
ファミレスのBなら、確か300円はしなかったと思うし、最近流行りの大手のチエーン店の飲み屋でもそのくらいの値段で食える。そうだから、スーパーなどに並んでいる餃子は、調理済みのものとただ焼くだけになっているものあるが、どちらにしても、めちゃ安である。
どのくらい安いかと言うと、記憶では、8個とか10個とか入っていて、200円もしないのだ。ディスカウントの時は、100円前後である。
こんな安いものは、逆に気持ち悪いから、もっと高いものをわざと探すのだが、どんなに高くても、300円はしない。

一体、こんな安い餃子ってものは、どこで作られているんだろうと思っていた。
考えられない。
信じられない。
こんなもの、気持ち悪くて食う気にならないから、決して買わなかった。

餃子を食って、入院騒ぎになって日本と中国の両国で大騒ぎになっているこの事件。一体何が原因なのか、わかっていない。きっとわからないままだろうが、こういうことは起こりうるなあ、と以前から思いながら買い物をしていた。

僕は、若い頃、消費者行政と言う仕事をしていて、様々な悪徳業者と対決してきたことを、以前、このブログでも書いたことがあったが、再び当時のことを思い出した。
なぜなら、昨日、TVを見ていたら、懐かしい人が立て続けにNHKとテレビ朝日に掛け持ちで出演していたからである。今は、“食”の雑誌の編集長をされているらしいが、当時は(約30年前)日本消費者連盟の一員で小若順一という人だ。
中国でああゆう事件が起きたから、放送局は専門家を急遽探したのだろう。この人は、あの時代から、日本の食の危険性について新しい角度から警告を発していたのだった。
あの時代とは、1980年(昭和55年)前後である。
僕は、特に、合成洗剤の危険性について感心を持ち、学校給食から追放しようと自分でも信じられないくらい仲間と一緒にまじめに運動して、日野市の給食現場から追放した。
今、近隣の市でも、給食から合成洗剤を追放したがっているところはたくさんあるが、今となってはもう出来ないでいる。
ああゆうものは、一つの盛り上がりの中で一気にやらないと出来ないものだ。今の時代は、その手の消費者運動も労働運動も萎えてしまっているからだ。

運動では、今回のような”食”に関する不祥事を指摘するものも衰退しているように思う。2~30年前のような景気のよさがない。すると、チェックする機能も弱まってしまうから、企業や権力のやりたい放題になってくる。
それでも、問題が起こるとメディアからひどく指摘されるし、有権者からの反旗も怖いから程ほどには関係省庁も改めるが、本質的には利益優先の政策できている。

この国の食糧政策ってものは、どうなっているんだろう。
最近では、その自給率は39%だという。このままだと、もっと下がっていくのだろう。そして、輸入元は中国が圧倒的に多いらしい。その中国は、農薬ばかりか、黄砂でなくて空気が汚染されていて先が見えないこともあるとか。大地が汚染されていて、水も汚染されていて飲めないところもあるとか。
そこで、今年オリンピックが開かれるが、各国とも、否だから、日本でキャンプを張る国が多いらしい。中国もあせってきて、今回だけは餃子対策を急いでいる。

いまや、中国産の食品に頼らないと、国民生活が成り立たなくなってしまっている我国だが、根本的に見直さないと大変なことになる。
CO2削減で、ざまざまな企業が省エネと称して新しい製品を開発しているが、近頃、トイレの便座の新商品が発表された。
ズーっと温かいままだと、無駄に電力を消費してしまう。だから、トイレのドアを開けた瞬間にスイッチが入るようにしたんだと。
ふ~む、わかるけど、わかんない。
感覚的に、否なのだ。
そこまで科学技術に頼るのか。もう、いい加減に、もとに戻ることを考えたほうがいいんじゃない。何も、江戸時代まで遡れとはいわない。冬は、便座が冷たければ、以前のように毛糸を巻けばいいじゃない。ジャなきゃ、我慢して冷たいのに座るとか。
それも、いいんじゃないかな。冬は寒くて冷たいものなんだから。
自然のままが一番、太陽の恵みで、人間や他の動物たちは生存している。
それが基本である。
人類の知恵で、電力を言うものを生み出したが、もうこれ以上それに頼ることをしないほうがいいじゃないかな。電力が止まったときには、恐ろしいほどのパニックが訪れることになるからだ。

これからは、お天道様のお恵みで、ありがたく食料を自ら生産し、自分たちの消費するくらいは、自力で作るように改めた方がいい。
でないと、これからも、もっと、この度のような事件が起こると思うが。
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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