村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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今年も、惣次郎の季節がやってきた




「総司も一時期とはいえ、日野に居住していた関係もあり、また親戚もあるので、日野への出稽古は結構楽しかったようである」

この言葉は、佐藤彦五郎の子孫の(あきら)氏が「聞き書き新選組」の中で紹介した父俊宣の一文である。
これを最初に読んだとき、僕は、今だから正直に言うが、総司のことを本に書きたくなった。そして、本当に、本にする当てもないのに日野の総司を想定して書きまくったことがあった。この頃は、彼が小さい頃だから”惣次郎“と呼ばれていたに違いない。

惣次郎が天保13年生まれで、歳三が天保6年だ。7つ違いだ。
歳三が15~6の頃、姉の佐藤家に居候していて、近所に8歳ぐらいのやたら剣術の筋のいいガキがいるっていう想定で二人の出会いを作った記憶がある。事実、この頃、姉のミツが井上の分家筋に居住していたのは間違いないところだが、そこに総司郎も一緒にいただろう。
なぜなら、惣次郎とミツの両親が日野の井上分家と宮原家の出だと僕は見ているので、幼少の惣次郎がそこにいても当たり前なのである。

佐藤家は今の「日野宿本陣」で、井上の分家まで歩いても2~3分のところである。
佐藤彦五郎の長男俊宣は、幼少の頃源之助といった。この源之助は、自分の館で総司にじかに剣術の稽古をつけてもらったことがあったらしい。
佐藤彦五郎日記というものが存在していて、この中に、江戸の試衛館道場からちょくちょく稽古をつけに日野にやってきたことが書かれている。
先の「聞き書き新選組」に、次の一文がある。

 俊宣10歳のとき、総司が「坊、相手しようか」とからかい半分竹刀を交えた。
俊宣は大張り切りで、ぶつかっていったが相手は近藤道場の名手総司であるからどうすることもできない。
そうこうするうちに俊宣は竹刀を落してしまった。
そのとき、子供ながらに何かしなければと考え、咄嗟に小さい拳を腰に当て、今にも飛び掛らん勢いで総司をにらんだ。総司は吹き出したが、そのとき、近藤勇から「よくできた」と声があり、それから正式に入門したという。
総司、18歳の頃と思われる。

この「聞き書き~」という本は、推測で書かれている部分も多いし、氏ご自身がストーリーを作っておられるところもあるので、おいそれと全てを信ずるわけにはいかないが、あっても不思議はないと思われるところは、僕は信ずるようにしている。
惣次郎と歳三が幼少時から顔を合わせていたというのは、ありうることなので、今度は、僕がストーリーを作った。

歳三は、写真を見てもわかるように、美男子である。
当時から、モテタと伝えられている。歳三15歳の頃、近所の八坂神社で女性とお楽しみのところ、悪がきどもに襲われるという設定を作った。そこに、総司が助けにはいるのだ。
ここから先は、僕の本「人間土方歳三」を読んで欲しい。
読者の方々に、最初に読んで欲しかったので、冒頭の部分にもっていった。

今、何でこのことを思い出しているのかというと、数日前、《彦五郎通信》第3号というものが送られてきたからである。
これは『佐藤彦五郎友の会』というところから出されているのだが、その1面トップに彦五郎子孫の佐藤福子さんが『聞き書き~』を引用して文章をお書きになられていたからである。

思い起こせば、昨年のこの時期、立川の高島屋の入り口で、僕の所属しているバンドのライヴがあって、最前列でお聞きになられていたのが、おミツさん子孫の沖田周司さんだった。
これがきっかけで、彼を日野に御呼びして僕とトークをしたことがあった。
あの時は、井上本家もいらしたし、何よりも宮原家から初めておばあさまが参加してくれた。
彼女は、宮原家に嫁にきてからというもの、ズ~ト、『総司はうちの先祖だ』と聞かされてきたという。
僕は、それを信じてきている。

今年も、27日(日)に、同じライヴを同じ場所で11時から行なう。
再び、沖田周司さんはご夫婦で来てくれるらしい。
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立川でLIVEに出演します

live


管理人より

村瀬がS..O.S .JAZZ ORCHESTRAの一員でライブに出演します。

2008年04月27日(日)

まちおんライブ@まちなか2008

【1ステージ目】11:00~11:30 高島屋前ステージ ※やや屋根あり
【2ステージ目】15:00~15:30 昭和記念公園みどりの文化ゾーン Bステージ

2ステージ出演します
どちらも無料です
お時間がある方、是非どうぞ

江戸では、“生ごみ”とそれ以外で分けられた

前回、江戸のごみ処理に関する問題を5問出したところで、終わってしまった。
第1問の正解は、ウの「暗闇坂」。

徳川幕府が開かれたのは1603年で、東海地方(駿河、遠江、三河)を根城にしていた徳川家康は秀吉の命令でいやいや江戸へやってきたのだろう。でも、決まった以上は、そこを居城にして、そこから天下を狙う、獲るという執念をもったに違いない。
江戸を立派な城下町にするために、家康は都市計画の専門家と相談しながら、街づくりを計画していった。

家康の最大の悩みであり、関心事はなんだったのか、それは一つ。
一刻も早く、北条の薫陶を受けた人民たちを、徳川へ引きつけることであったに違いない。北条は、早雲以来五代に渡って約100年の統治の間、三公七民や愛民政策など領民のための善政を行なってきていたから、農民たちからは絶大な支持を集めていた。
その北条の民を、徳川の民へと変えなければならない。また、江戸城の西側には武田の残党も多く存在していたので、彼らに対する手当ても考えなければならなかった。
だから、家康は基本的に、北条の行なった柔軟で平和な政策を引き継ぐことを選択したのである。
実際、江戸に本拠地を移してから行政の制度や人々の生活面まで様々、やらなきゃいけないことがたくさんあたが、最も緊急なのは『水』をどう調達するかってことだった。その他、町並みの形成などのこともあったが、ごみの処理も、都市計画と関連して重大なことになっていった。
さて、そのごみのことだ。

第1問の正解『暗闇坂』は、今のJR中央線の市ヶ谷と飯田橋の間の北側に位置していた。電車の車窓から眺めると今は釣堀になっているお堀が線路に平行してあって、その向こうが堀に向かって緩やかな丘陵になっているのがわかる。東京国際女子マラソンで高橋尚子が、最後の坂で失速したのを覚えている人も多いだろう。この辺りが鷹匠町と砂土原町で、ごみの捨て場所だったのだ。近藤たちのいた試衛館からは歩いても、30分とかからないところだ。(余談だが、僕は成城高校に通っていて、そこは試衛館のすぐ隣りだったから、通学は市ヶ谷駅から自衛隊横を通って大日本印刷を横切って、試衛館方向に歩いていた)


『紀尾井坂』は、紀伊家と尾張家と井伊家に面している坂で、今のホテルニューオオタニの横にある。
『南部坂』は忠臣蔵の名場面で、「南部坂の別れ」で有名である。大石内蔵助と浅野内匠頭の妻で落飾した瑤泉院の最後の別れの場面を描いたものであるが、ここのところでは、ドラマの作り方にもよるが、僕はつい落涙してしまうほど好きなシーンだ。ただ、この南部坂、二つあって一つは赤坂、もう一つは広尾の有栖川宮公園脇にある。よくわからない。
『神楽坂』は、正解の暗闇坂から飯田橋よりに行ったところにある。今でも少しはいるらしいが、芸者さんが多くいたところである。有名だから、知っている人も多いだろう。

第2問の正解は、エの『表長屋住人』だ。

ごみ処理の料金は、「芥取賃」とか「芥捨賃」と言った。町が負担することになっていたのだが、主に表通りの住人が負担した。だから、裏長屋の住人は払わなくて済んでいたのである。でも、家賃の中に含めて取り立てていたとも考えられるが、概して、持てるものが負担するという考え方だったのだろうか。
料金は、間口一間当たり銀一分(約167円)と決まっていた。間口5間ほどの(約9m)大店で835円ほどだ。

またまた余談だが、
僕がリサイクル推進課長をしていた頃、ごみの収集方法の改革で、日野市内を流れる(歳三が自慢した)淺川を境にして北側を月・木に可燃の収集日に、南側を火・金に収集日に決めたことがあった。(これは、今でも変わらない)
最近発見したのだが、江戸でも似たようなことをしていた。これは、問題2の質問文の中でも述べてあるが、徳川幕府は、ごみの収集日を日本橋を基準にして、月のうち2のつく日が北側、3のつく日が南側だったらしい。

問題3の正解は、『生ごみとそれ以外』だった。

ごみ処理業者は、ごみ取船に積んだごみをそのまま永代島へ運んだのではなく、船の中でなまごみとそれ以外に分けていた。
なぜ?
肥料にできるごみを「肥あくた」といって、農村地方(行徳方面か)からやってきた船に売り渡されていたからである。
当時、なまごみは畑の肥料になるので、金になった。今でも、そうなればいいんだけれどね。

問題4の正解は、『ものの80年』である。

何回か前のブログで、トトロの里の所沢が産廃街道になってしまっている、と書いたことがあった。
まことに残念至極だが、こういう不法投棄をする不届者は江戸時代にもいた。
先の芥取人が船に積んだあと、市中の川岸に積んでおいて、夜中にこっそり川へ投げ込んでしまうというものである。また、途中で捨ててしまう業者もいた。そこで幕府は、『永代築地芥改役』という役を作ってごみ全般の監視役を命じた。それでも、なかなか不心得物はなくならなかった。そこで、ごみの不法投棄で、環境が悪化し、水路がごみで埋まって船の航行にも支障をきたす問題も起きていたので、幕府は、享保3年2月(1718年)「塵芥捨棄令」を定め、ごみを堀や川へ不法投棄するものを厳罰に処することにした。

そうした一方、長年ごみを捨て続けてきたので、永代島は満杯になってしまった。そこで、永代島に変わるゴミ捨て場として、享保15年3月(1730年)新たな捨場として『深川越中島』を指定した。ここは、隅田川河口にできた寄洲だったが、残土の捨場であった。
ところで、長年捨ててきた永代島はごみと残土でできた土地造成で、多くの新田ができたし、一部は市街地になった。大名屋敷まで建設された。
永代島にごみを捨てるという政策は、江戸の城下町を増大させ、多くの労役を生んだ。

問題5は、『河村瑞賢』が正解である。

多くの人々は、お盆になると、墓参りをしたり魂祭をするなどして、先祖の霊を慰め、冥福を祈った。それぞれの家で魂棚を作って位牌を置き、供物をのせて先祖の霊が帰ってくるのを待ったのである。
僕の母親も、毎年お盆になると玄関前で、先祖の霊を迎えるために焚き火のようにしたあと、その周りをお経を上げながらぐるぐる廻っていたのを覚えている。あれを迎え火というのだろう、茄子や胡瓜に割箸を刺して、動物の形にしていたのが面白く、なんとも子供心に興味深かった記憶がある。
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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