村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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講演体験談 暮らしが織りなす地域の美―――4

近藤さんの攘夷思想についてだが、京都大学では、彼の書簡を紹介しながらすすめた。
でも、ここでは、最初に僕の本からそれにかかわる部分を紹介したい。
これは、『人間土方歳三』の73ページから74にかけて書いてあるところで、小見出しは“近藤の尊皇攘夷”となっている。
土方歳三が、大和屋友次郎の質問に答えて、以下引用。




  ―――というのはね、近藤さんが拘っていたのは新選組の存在する理由なんですよ。京都にいるときから、
「何でこの組織が必要なんだ」「何をするんだ」ということを常に問い続けていたんですよ。
 俺たちは攘夷の魁(さきがけ)集団なんだってことを看板にしていた。しかし、現実は市中取締りですよ。勤皇の過激浪士どもをお縄にすることだった。
 だが、近藤さんは強く尊皇攘夷思想を持っていましたから清河や芹沢、新見とも話があわないこともなかったし、伊東のような奴も幹部として迎えた。
 だがね、慶応も二年から三年になると、長州の制裁どころか、攘夷そのものがへこんできちまった。―――

 近藤さんの会う人、会う人が悉く同じようなことをいう。松本さんは最初からだが、大目付の永井さんも土佐の後藤さんも皆が変わっていった。それどころか、あの長州や薩摩までが攘夷の旗を降ろし、逆に武器弾薬をエゲレスから仕入れ始めた。その仲介をしたのが土佐の坂本さんですよ。―――





引用終わり。
以上は、僕の創作話だが、実際の近藤さんの書簡をここで紹介しよう。
実は、近藤さんの手紙は20通以上確認されていて、土方歳三と同じくその殆んどが京都からのものである。土方歳三と違って、政治向きの厳格な内容のものが殆んどである。
中には、試衛館時代、金に困って長兄の音五郎に借金を申し込んだのだが断られ、今度は総司に反物を担がせて、再び郷里の上石原に10両の借金申し込みをお願いしたが再び断られ、「兄弟とはいえ、こんなに冷たいものか」と嘆いている書簡もある。
このときの、総司の心境を測って、僕は沖田総司という人間を作っていった。何かと、使い走りや雑用を言いつけられる。まあ、食い減らしで近藤周助のところに預けられたのだから仕方ないが(9歳or11歳)。つまり、彼が一番、試衛館から逃げ出したかった人だ、と。
行き先は、京都でもどこでも良かった。近藤さんや土方さんは嫌いじゃないし、山南さんや藤堂とも仲が良かった。けど、近藤家の下働きのような立場から早く逃げ出したかったのだ。

さて、書簡であるが、最初は文久3年5月25日付のものである。

松平肥後守御預り壬生詰浪士三四名 学習院宛願書
 (老中板倉周防守と松平肥後守宛願書もあり) 

  「私共義、元来忠を天朝(天皇)に奉し、身を大樹公(家茂)に致し、一日も早く叡慮(天皇の意志)に基づき、攘夷の魁つかまりたく志願に候」

実はこの頃、全国の志士たちのあいだで最大の議論の的は、帝(みかど=天皇)と大君(たいくん=将軍)とどっちを優先するんだ、ということだった。尊皇攘夷である以上、天皇の下で攘夷を実行するということなのだが、これは、近藤さんのように徳川方にいる人物にこの悩みが多かったようである。
天皇のために働くのか、それとも将軍なのか、ということだ。
一方、薩摩や長州をはじめとした全国の志士たちからすると、自分の所属する藩主と天皇と意見が違ったときはどっちをとるのか、という悩み深い話である。幕末の薩摩には、誠忠組という若手の政治結社のようなものがあり、そのトップが西郷さんであり次が大久保であったのだが、そこでもこの議論は酒盛りが始まれば、当たり前のように繰り返された。

そこでは、『国(くに)』という概念論も盛んに論じられた。「くに」は六十余州日の本なのかそれとも所属する藩や「クニもと」のことなのか、だ。徳川政権が絶大で、平和で落ち着いているときはこんなことどうでもよかったが、ペリーが来航して騒然とした中では、藩から禄を貰って生計を営んでいた武士にとっては大変重要なことであった。

またこのことは、外国勢が、最も困っていた事柄でもある。
開国して、通商条約を結んで、種々懸案事項を国際的に処理しなければならないときに、日本の国を代表しているのはどっちなんだ。誰に交渉すればいいのか、ということになっていた。
文久2年8月に島津久光一行の大名行列にイギリス人リチャ―ドソン2名が横切って斬殺された生麦事件の賠償問題も、イギリス側は薩摩でなくて徳川政府に事の処理を申し入れ10万ポンドの金を払わせている。
元治元年8月に長州が発砲して起こった馬関戦争の賠償も、泣く泣く徳川が負った。気の毒なような話だが、自ら日本政府は徳川であると自認している以上仕方がないのだった。

さて、本題に戻さなければならない。
近藤さんは、忠義は天皇で、身は将軍に置いて、天皇のお考えで攘夷の先鋒を務めるんだと述べている。
また、同じ頃近藤さんは郷里の友人先輩たち18人に手紙を書いているが、先の文章と殆んど同じもので、『忠天朝に奉し、身は幕府に致し候』としている。

続きは、次回。(全5回予定)
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講演体験談 暮らしが織りなす地域の美―――3

「近藤さんが攘夷の志士だった」と、書いたが、この志士にはいろいろなパターンがあって、皆同じではない。

その話の前に、『ラーメン』のお話をしたい。
僕は、最近、京都に行くと河原町三条北のラーメン屋に行くのが常だった。『赤鬼』という屋号だったように記憶している。今回も行ってみた。
すると、店の感じは赤備えで(まるで井伊の彦根藩のように)変わらないのだが、店名が変わっていた。今度のは、『ラーメン魁力屋』という。
ここは、関西方面に9店舗構えているらしいが、相変わらず、僕の好みなのだ。
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醤油系の普通のラーメンを頼むのだが、結構背脂がきつい。僕は、この背脂のくどいのが嫌で、だからとんこつは好みではないのだが、ここのは美味い。
しつこくないのだ。
それに、「背脂の量を少な目」とか、「九条ねぎ多め」とかを最初に誰もがリクエストを言わされる。注文のときに、必ず聞かれるのである。様々なラーメンのメニューが用意されているが、僕は、いつもフツーのラーメンに葱多めを頼む。この葱がうまい。あの九条葱というやつは、いくら食べてもしつこくないし、つんと来ない。それに、脂っこいスープを程よく中和してくれて絶妙な味になる。
ここは、トッピングにいろんなものがあるが、そんなもの入らない。何しろ『麺』が美味いのだ。ストレートな麺で腰がある。のど越しが良くて、するすると入っていく。
皆さん、京都に行ったら、是非寄ってみたらいかが。
河原町通り沿いの角にあるからすぐわかるよ。
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僕は、今回2日続けていった。
「また、来たんですか」
そこの従業員はみな、胸にネームの入ったホルダーをブル下げていて、『かわちゃん』という愛想の良い20歳ぐらいの娘さんにもう覚えられてしまった。帰りに、サービス券をいただいた。

      


さあ、本題。
『尊皇攘夷』とは、その字のごとく天皇を尊く敬って外国人を排斥するという考え方だ。当時、外国人は、鳥や猛獣にも劣る礼儀知らずの卑しい人類と捕らえられていた(夷狄)し、そう教えられてきた。そんな者たちを、この神聖なる神の国に踏み込ませるべきではないという思想だ。
孝明天皇自身が強く攘夷思想を持っていたのだが、何故かというと、この日ノ本で、長く保ってきた攘夷の形が自分の代で破れるのではと、強い危機感を持っていたからである。

でも、この思想には様々あって、
一つは、〈倒幕思想〉の尊皇攘夷だし、もう一つは〈佐幕思想〉の尊皇攘夷だ。同じ尊皇攘夷でも、徳川を倒そうという側と助けようとする側とでは大きな違いがある。
よく、「公武合体」という言葉が出てくるが、これも字の如く『公』と『武』が協力して政治を行なおうというもので、尊皇攘夷で佐幕派の近藤さんは当然公武合体論者であった。

もう一つは、尊王(尊皇)ではあるが決して攘夷ではないという考え方である。つまり、開国止むなしという思想である。この考え方もいろいろで、初期のころから(ペリーがやってきた嘉永6年以前から)諸外国の知識文明を取り入れるべきであるという人たちであるが、佐久間象山や勝海舟、おそらく篤姫の養父で西郷が心から尊敬する島津斉彬などもそうであったろう。
そして、最初は攘夷で外国人排斥の立場であったが、後に、思想変更した連中も大勢いる。
何せ、薩摩藩や長州藩、土佐などの勤王の志士たちの多くはこのパターンで、徹底して攘夷を貫いた人は少数派になってしまった。西郷だって大久保だって、小松帯刀だって、桂さん(木戸孝允)だって坂本龍馬だって伊藤俊輔だってみな変わった。薩摩と長州は、それぞれ外国と直接戦闘した経験があり(薩英戦争は文久3年で馬関戦争は元治元年であった)、相手の武器弾薬の威力をまざまざと見せ付けられて、積極的にその文明を取り入れるしかないという考え方にいち早く変わっていたのであった。

でも現実には、上から最下層の人々まで含めれば、維新前後は開国派はまだ少なかったと思われる。何故なら、それまで、日常生活の不便さや苦しさは、安政5年に始まったコレラなどの疫病も含めて開国や外国人のせいだと信じる人が多かったからだ。
だから攘夷がその当時の思想としては一般的であり、今のデモクラシーのようなものであったから、そう簡単には考え方は変えられなかったのである。

特に、江戸近辺に住んでいる人々は、古くから徳川様に対する報恩の念が強く、この体制がまさか変わるなぞとは思わないから、皆が保守的になっていた。
我国は、第2次大戦後60年続いた今の保守政権が、ここへ来てひょっとして変わりそうな気配でもあるが、このことも、今の日本の有権者がかなり勇気を出さないと、政権は変わりそうもない。ましてや当時は、260年も続いているのである。誰も、変わるなぞとは思いもよらない。

近藤や土方歳三が生まれて育った多摩地区は、徳川様の所有する領地であったから、そこに住む領民は他と比べて年貢も割引があったりして優遇されてきていた。その代わり、一丁事が起こったときには、中には将軍家のために命を投げ出す覚悟のあった人もいた。
そのために組織されたのが、八王子千人同心である。
普段は農民であったが、いつでも戦闘に入れるように剣術だけは日頃から欠かさなかった。その剣術剣法の中心が天然理心流であった。

近藤さんは強い攘夷思想を持っていたが、それでは何故彼がそのようになっていったのか。
現代に生きている僕らだって、いくらでも考え方は変わる。まして今は特に、様々な不手際があって政権が交代してしまうかもしれないほど、めまぐるしく支持政党が変わっている。でも、人々が何故そうのように変わったのかと、後年の人たちが詮索することはかなり難しい。
幕末当時に生きていた人たちが、どうしてそう変わったのかと推測するのはかなり難関だが、近藤さんの攘夷思想は終始変わらなかったが、生活苦から出ていると僕は思っている。

でも、普通には、文久2年、近藤さんは幕府指南役に決まっていたにもかかわらず、身分が農民だからという理由で見送られたと伝わる。だから、人一倍、武士の身分を欲したと主張する研究者も多い。
この、武士の身分が欲しくて、幕府募集の浪士組に応じたというのだが。
土方も沖田も永倉(松前)も藤堂(藤堂)も原田(伊予松山)も山南(仙台伊達)もみな、そうなのか。
違う。
だって、多摩出身の近藤、土方、沖田(敢えて)、井上はみな農民身分だが、他は地方出身の武家出身である。武士になりたいからなぞという理由はないと考えたほうが妥当だ。それに、脱藩して徳川に仕えるとは、かなり不謹慎である。永倉は終始、近藤とは肌が合わなかったらしいが、その理由の一つは、「俺は二君には仕えない」という思想からではないのか。
山南はもっとはっきりしていて、尊皇攘夷思想の激しかったと伝わる彼だから余計、徳川家のために働くという観念にはついてゆけなかったのではないだろうか。彼は、元治元年6月5日の池田屋にも出動していない。病気だったからだという理由だと僕も思うが、それだけでもないような気がしてならない。
藤堂平助は、試衛館時代からの同志である。
彼は、結局討幕派の伊東甲子太郎の一派に加わった。徳川の家来になる訳がない。
近藤だって、そんな甘っちょろい発想で応募したわけではないと思っている。近藤さんの尊厳のためにも、そう主張したい。

吉祥寺駅ビルでライヴ



本来なら、京都での講演の続きを書かなきゃいけないのだが、一息入れて、今日は先程終えたライヴのお話をしたい。

ライヴといっても、これだけは実際に聞かないとお話にならないので、そう多くは語る気はないのだが、吉祥寺という場所柄、僕の思いいれも深いので、書く。
僕は、そもそも、西荻窪というところで生まれて30年はそこに住んでいた。だから、ルーツといえばそのあたりにあって、僕の身体の基本的なつくりは、あの辺の環境にある。
僕がいまだに通っているラーメン屋の『丸福』は荻窪にあって、西荻窪からは東へ一駅だが、吉祥寺はその反対の西側でこちらもJR中央線で一駅である。小学生の頃は、吉祥寺へは、近所の友達よく自転車で吉祥寺へ行った。吉祥寺は西荻窪よりは一駅田舎なのだが、当時から商業的にも町並みの作りも魅力的なところだった。

昭和30年代というと、僕ら子供たちにとってまだ、エスカレーターという乗り物にのったことがない時代で、アレに乗ってみたくて、わざわざ吉祥寺の名店会館に行ったものだ。ココは今で言う、デパートのようなテナントがたくさん入っているビルなのだが、あの頃は子供心にとても新鮮だったのだ。

それともう1つ、吉祥寺の駅のすぐ南側に井の頭の池があって、そこでよくボートに乗った。ココの池は、いまだに当時のまま形を変えないで残っているが、当時、井の頭文化園といって動物園も出来、意外と知られていないがこれもいまだに続いている。
この井の頭の池は、歴史的に重要なところである。
あの徳川家康が秀吉の命令で関東へ移封になってから、実際に幕府を開いたのは1603年だったが、何せ、東海地方から10万人以上の人々が一気に

移り住むわけだから、生活に必要な水の確保が先ず大事なことであった。

家康のすごいのは、先ず、この井の頭の湧き水に眼をつけたことである。勿論、家康一人のアイデアではないであろうが、井の頭から江戸府内へ水道を引いて、江戸城とその周りの住民に上水として供給してしまうという発想に驚く。これが、後の神田上水である。
だから、江戸の人々は、1600年代の早いうちから水道の水を飲んでいたのであり、後に人口が増えて100万人を超えることになったときも、足らなくなった水の供給量を今度は、多摩地区にある羽村というところに堰を作って水を横へ流して玉川上水とし、これも四谷の大木戸あたりを通って江戸市内へ供給した。
こういう水道水というのは、当時世界で最も進んでいた都市のパリやロンドンでさえもまだ網羅されていなくて、セーヌ川やテームズ川の水を汲んできては飲んでいたというから、江戸というところはそれだけでも魅力的なところであった。
江戸の人々の自慢の一つに、この水があった。
”江戸の水で産湯をつかい~~~“という常套句も、このあたりから来ているのだろう。

僕は、今日、吉祥寺の駅ビル内にあるロンロンというところでライヴを行なったが、このことも、曲の合間にお話した。
お客様は、通りがかりの人々だが、皆さん足を止めて僕の演奏を聞いてくれた。すぐ目の前が「英国式足裏エステ」と「オープンカフェ」なので、「うるさい」と、叱られるかと思いきや、逆に喜ばれたのでほっとした。
本日は、飛び入りで、ライヴのことを入れた。

追伸 写真には、『癒部次長』となっているが、これは僕がCDを作ったときに使った”芸名”です。
ライヴを行なうときは、この名前を使っています。

講演体験談 暮らしが織りなす地域の美―――2

終戦後、昭和20年代後半から30年代は東映の時代劇の全盛期であった。
この頃は、毎週のように封切りの映画があったから、作るほうも異常な過密スケジュールだったに違いない。人気俳優は、きっと寝る間もなかったのではと思われるが。

僕は、小・中学生の頃(昭和30~38年頃)、お袋から30円貰って西荻シネマに頻繁に見に行った記憶がある。ここは、封切館ではなく、お下がりの映画を3本まとめて上映する、とにかく古くて汚い(小便の臭いが漂っている)お下がり館だったが、東映を中心に新東宝や大映、松竹など何でも見せてくれた。
僕は、鞍馬天狗が大好きで、アラカンの天狗と美空ひばりの杉作というキャストを覚えているが、堺正章のお父さんで堺俊二という名わき役も出ていた。
あの頃は、僕だけではなく、近所の子供達も一緒に映画館に行ったから、特別なことではなかった。

この当時、特に多い題材はなんといっても「忠臣蔵」ものだが、それについで「新選組」、「次郎長もの」も多かった。これは、僕の漠然とした記憶なのだが、封切られたのは特に、年末が多かったように思う。忠臣蔵はその物語のクライマックスが12月14日だからよくわかるのだが、他の二つも12月が多かった。
これらに共通しているのは、オールスターものである点だ。
その年に活躍した俳優さんたち総出で年末を飾ることができるのである。NHKの紅白歌合戦や競馬の有馬記念みたいなもので、見ごたえがあるように演出する。

新選組は、その題材にもってこいなのだ。
なにせ、試衛館の幹部連中のほかに、谷三十郎兄弟や伊東一派まで含めれば15人から20人程度はいるはずだ。他の隊士達も含めれば全盛期には200名を超えていた集団なのだから、赤穂浪士や次郎長一家などより人数は多い。
このほかに、長州系の桂さんをはじめとした有名人、土佐だって龍馬を始め後藤や中岡、薩摩は西郷、大久保、幕府側でも勝海舟から永井尚志、松平容保など出そうと思えばいくらでもいる。
オールスターには、もってこいだ。

この頃の映画のポスターを一手に特集して、一冊の本にまとめたのが『燃えよ新選組』である。これは、東映に長く勤務されていた岸田一則さんが、倉庫に眠っていた新選組関連のポスターやスチール写真を探し出してきて一冊にまとめたものだ。そういう意味で、大変貴重なものである。
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この人とは大河ドラマをきっかけに仲良くさせてもらっていたから、大河ドラマのイベントのとき、最終日の10月31日に、栗塚氏と岸田氏と3人でトークショウをしたことがあった。
このスチール写真を、倉庫が一杯なので東映側が処分するというので、貰ったことがあった。それは、しばらく日野市の『新選組のふるさと博物館』に、僕が館長をしていた頃は飾っていた。

例によって、話がそれっぱなしである。
新選組は、物語として長く伝えられてきているところから、映画やドラマの題材になっていったのだが、それだけに卒論には向かなかったのかもしれない。
でも、NHKが大河に取り上げたことで、大分印象は変わってきたと思うが。

この講演のメインテーマは、「近藤勇は攘夷の志士であった」ということだった。
このことについては、新選組を少しでも研究した人なら常識として知っていることなのだが、一般的には余り知られていないことである。
ましてや、京都の人々にしてみれば、京の街中を闊歩して歩き、攘夷の志士たちを血祭りに上げた恐ろしい浪人共という認識が今も昔も強いので、きっと僕の話が新鮮だったに違いない。
僕はこの話を、近藤さんが郷里に出した書簡と幕府の老中に出した上申書などを資料にお話を進めた。

長いので、続きは第3回に。

講演体験 くらしが織りなす地域の美



講演体験 文化政策セミナー08 “くらしが織りなす地域の美”

京都大学の中へはじめて入った。
さすが、赤レンガをはじめ伝統を感じさせる建物でキャンパスの中が広々としている。
僕が講演を行った場所は、普通の教室だった。
分科会なので、人数は5~60人程度だったが、土曜日だったので学生さんは少なく、殆んどが大学の先生や研究者たちだった。
それもその筈で、『学会』として参加しているのだから当たり前か。
それに、当然だが京都近辺の人たちが多く、京大をはじめ同支社、立命館、橘、大谷、仏教大学、龍谷大学なぞだ。

僕の持ち時間は少なく、質疑応答を入れても約40分程度で、大して多くは話せなかった。でも、用意していた内容は、早口で何とかこなした。

1 最初は、僕の経験談から入った。
  もう4~5年前になるが、新選組の講演をした後、アル女子大出が僕のところに近づいてきてこう言った。

  「新選組を、卒論のテーマにしようとゼミの先生に相談したんですが、止めとけと断られました」というもので、悲しそうな顔をしていた。

  何故、その先生は、そういったのだろうか。
  答えは簡単で、「新選組なぞ歴史の教科書にも載ってこないつまらない存在」だ、ということだ。それに、現代に至るまで、伝えられてきている多くは『物語』としてであり、歴史の真実としてではないからだ。
  確かに、新選組といえば、様々な作品がテレビや映画、小説や連載物などで楽しまれてきている。その殆んどが、昭和3年に発表された子母沢寛の新選組3部作を原点としている。氏は、新選組の生き残り隊士や屯所にしていた八木家の源之丞など、多くの関係者に直接取材をして書いたものだから、肉声であり、真実味はある。

文久3年の当時、源之丞はまだ確か6歳程度だったと思うが、9月16日に起きた芹沢暗殺事件のときの生々しい証言が残っている。
夜中の12時ごろ、庭先から廊下に上がって障子をそっと開けている人影を母親マサが見ていたというのである。そして、その人影は、どう見てもあの土方歳三さんに違いないと。
事が片付いたあと、着替えて、近藤さんと一緒に現場検証に何食わぬ顔できているのだから、おかしくて仕様がなかったというものだ。
あんな凄惨な殺人現場で、八木家の母親が、「おかしかった」というくらいだから、八木家の人たちも、内心芹澤を処分してほしいという願望があったのかもしれない。僕は、本を書いているとき、そのことを随分と意識し推察して、芹澤暗殺を書いた。
何しろ、八木家の母屋に居座って、女子供がいるにもかかわらず、平気で女たちを連れ込んで酒盛りしたり川の字になって寝ているのだから、子供には良くない。
八木家の人たちの恨みを買う。

子母沢寛は、新選組始末記を小説として書いている。
だから、随分と脚色や史実との不都合がある。それを承知で、後世の人たちは読まないと大きな誤解を生ずる。
昭和38年に発表された司馬遼太郎の『燃えよ剣』も、基本的に子母沢寛の資料をお手本にしているから、間違いや創作をそのまま使用している。
2004年のNHK新選組で、三谷幸喜が書いたのも、子母沢寛をバイブルにしているから同じだ。
一例を挙げると、山南が切腹する直前に前川邸の長屋門の出窓に明里がすがり付いて、最期の別れをする場面があるが、アレは、子母沢寛さんの全くの創作である。明里も架空の遊女だという。でも、後年の人たちは、そう思っていない。史実だと思っている。
でも、新選組血風録の脚本家の結束信二氏の質問に答えて、子母沢寛さん自身がそうおっしゃっておられる。

僕は、それ以前に、山南が何故脱走する必要があったのか、いまだに納得がいっていない。アレは、永倉が後年小樽の新聞記者に語った内容だというが、都合の良い作り話に思えるがーーー。
だって、直ちに沖田が追いかけて大津の宿を突き止めているが、そんな都合よくつかまるものか。二人で一晩寝てから、翌日屯所に帰って沖田自身が介錯したということだが、すべてが首を傾げたくなる。

司馬さんは、確か、「燃えよ剣」の中で河合耆三郎を函館まで行ったことにしているが、彼が慶応2年2月に土方歳三によって死罪にされたことは有名で、壬生寺に墓が今でもきちんとある。それに斎藤一も箱館に行っている。彼は、会津に残っているから、函館に入っていない。それに、司馬さんは斎藤一と斎藤一諾斎とを混同されている節がある。
なんにしても、あの当時、『燃えよ剣』と『竜馬が行く』を同時に書いていたはずだから、仕様がないか。
こんな具合だから、創作が多い。
だから、先程の『卒論』のやり取りになるのである。

これから先は、次回。
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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