村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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星野仙一と最後の将軍、その幕の引き方

徳川の第15代将軍は慶喜で、慶応3年10月15日に大政奉還を宣言し、260年以上続いてきた幕府政治の終焉を迎えた。
とはいっても、本気で政権を投げ出したわけではなくて、慶喜は以前にもまして権力に意欲があったと思うべきだろう。二条城での、例のあの大集会での発表に各大名たちは唖然としたらしいが、あれは一つのポーズであって、その後は連立政権を組んで、相変わらず彼がその中枢に居座るつもりでいたと、考えたい。
その後行なわれた大阪城での外人相手の会見でも、慶喜の言動からして意欲満々で、自分以外、ほかの誰もできるわけがないとの論調なのだ。
最後の将軍だったから、他人にはわからない様々な悩み事や苦しみがあったに違いないのだが、それにしても、立ち回りや言動、終わらせ方が下手だったといえるだろう。だから、大政奉還という英断をしても、一向に評価されない。
側近や老中、家来たちから信頼されていたとも思えないし、今はやりの篤姫や和宮のいる大奥からも総すかん状態であった。

慶応3年12月9日の「王政復古の大号令」というクーデターで辞官納地を要求され、鳥羽伏見の戦争を皮切りに戊辰戦争に突入させられてしまった。
西郷や大久保の策略に乗せられてしまったなどと、後世の人々は評論するが、慶喜に欲ばかりが強くて時勢を見る眼がなかったために、徳川にとって、哀れな幕引きをさせられてしまったと、僕は思う。

かつて、坂本龍馬は言ったらしい。
「日本国の将軍は次の世継ぎのことを考えて政を行っているが、アメリカの大統領は下女の生活が成り立つように政を行なっている」と。
デモ、将軍家というのは、それでよかったのかもしれない。
そもそも、関が原で、軍事力でもぎ取った政権で、おかげで長州なぞは、家康によって120万石以上あった領地がなんと、36万石まで減らされた。今の中国地方全部毛利家だったものが、長州、周防のみになった。
260年経って、今度はリベンジされて、薩摩長州に軍事力でもぎ取られた。
ただ、それだけのこと。
時の勢いであって、慶喜ばかりの責任ではない。

中心になる大名が、代わっただけのことなのだ。
本来なら、滅びるべき徳川なぞ、一石も与えられなくても文句は言えない。それどころか、頭領たる慶喜の首が飛んでも不思議はない。
西郷は100万石を残してやろうと甘い裁定をしたが、結局、徳川は70万石で残ったし、慶喜の命も助かった。
それは、せめてもの新政府側の温情であった。
それを、今はやりの「篤姫」では、天璋院と和宮の功績があったから実現できたと、ドラマ作りをするに違いない。
まあ、それはそれでよい。
「大河」とは、NHKのプロデューサーも言うように「所詮、ドラマであって歴史の教科書ではない」のだから。

ところで、幕引きといえば、昨日(10月22日)、星野仙一氏が来年3月のWBC日本代表監督を辞退したらしい。
複雑だ。
あの、北京オリンピックの結果以来、日本に帰ってきて殆んど連日、袋叩きにあっていると思うが、僕も、全試合を見たが、ゲームの進め方から選手の調整、コーチの選任、前後関係全てに不信感が残っている。
あとで、ナベツネ辺りが彼を擁護しているのが、もっと嫌だがーーー。
だって、世渡りが美味すぎる。
今度は、ジャイアンツの監督があっても不思議はないような雰囲気だ。
節操がなさ過ぎる。

僕的には、阪神の監督経験者が巨人の監督は引き受けてはいけない。
そのような雰囲気をかもし出しているだけで、嫌だ。
だから、星野氏本人の昨日のブログにあるように、長女が入院してしまうことになる。でも、それは、マスメディアやファンが悪いのじゃなくて、星野さん本人がそうさせたと思うべきだろう。
野村監督が、巨人の監督を引き受けては、絶対にいけない(ありえないが)。
古田だって、引き受けてはいけない(これは、ひょっとして)。
アンチジャイアンツで、ヤクルトファンやっている人も大勢いるのだ。その人たちは、長年、古田を応援してきた。その人たちの気持ちを、踏みにじってはいけない。

物事、引き際が最も大切なのだと、何度も、このブログで言ってきた。
マラソンの高橋尚子選手はあれだけの実績を上げていながら、幕の引き方を間違えたばかりに(小出監督のせいか)、決して良い余生を送っているとは思えないし、この間のオリンピックで負けてしまった柔道の鈴木けいじさんも、良い幕は引いていない。
もっと言えば、『柔ちゃん』だって、あれだけの実績を積んでいながら、北京で銅だったからTVの出演も殆んどない。
むしろ、フェンシング銀の太田雄貴の方が圧倒的に多い。

我国のマスコミの、アスリートに対する扱い方が極端に不公平だから、このような事態になる。
よく言われるのが、『ゴルフ中継』である。
女子プロなら、宮里藍や横峰さくら、古閑みほ、上田桃子などを映しっぱなしにする。どんなに実力があっても、不動さんの映る回数は少ない。男子なら、断然石川遼だ。他の選手は、トップを走っていても殆んど映さないかおまけ程度である。
だから、スポーツ中継として成り立っていない。
でも、それでいいんだ、今の時代は。
すべてが、バラエティーなのだから。
政治も、バラエティーだ。だから、弁護士でお笑い番組に出れば、大概は代議士や知事になれる。
テレビに出れる回数を多くしておけば、後に政治家は約束される。

視聴率や金が全てだ。それが基準になっている今の時代。
野村監督よ、もっと、ボヤケ!!。
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“お伊勢参り”、“抜け参り”―――1

先日、急遽“お伊勢参り”に行ってきた。
安いツアーがあったので、突然抜けて、便乗して参加した。以前より、一度は行ってみたいと思っていたので、良い機会だと思ったので決断した。

僕は、このブログで前に、江戸のことを研究していると書いたことがあったが、今でも、毎日勉強を欠かさないようにしている。
すると、江戸時代の人々とお伊勢参りとは、切っても切り離せない仲だったということがわかってきた。それに、幕末の“ええじゃないか”についても不思議な踊りで、関心があるので、そのルーツはこの辺にありそうな気がしたものだからーーー。

いろんな人の著書を読ませていただいて勉強させてもらっているが、一番大好きなのは、杉浦日向子(ひなこ)さんのものだ。この人は、残念なことに、46歳の若さでこの世を去っていった。
東京の下町の長屋育ちであった。
身をもって経験されたことを作品に著してくれているので、僕らの世代では懐かしいことばかりで、それでいて江戸の誰も言ってくれなかった新しいことも教えてくれる人だった。
それでいて、所謂江戸っ子のイメージと違っていて、とても清楚で物腰も柔らかく、謙虚なお人だった。
ひなこさんは、一時毎週NHKの「お江戸でござる」にレギュラー出演されていたから、「ああ、あの人か」と知っている人も多いと思う。著書も「江戸風俗」を扱ったものが殆んどで、いずれも興味深いのだが、最近、『目から鱗が落ちた』というより『人生観がかわ』る彼女の一文に出会った。

それは、NHKの番組と同じタイトル「お江戸でござる」の文庫本で、“杉浦日向子の江戸こぼれ話六p276”に出ている文だが、そのまま引用させていただく。


  江戸の人々は「人間一生、物見遊山」と思っています。生まれてきたのは、この世をあちこち寄り道しながら見物するためだと考えているのです。「せいぜいあちこち見て、見聞を広めて友達を増やし、死んでいけばいい」と考えています。
  ものに価値を置くのではなく、江戸の人々は、生きている時間を買います。芝居を観に行く、相撲を応援しに行く、旅に行く―――と、後にものとして残らないことにお金を使うのが粋でした。



(波線は僕がつけたものだが、これは、特に、「そうか」と感心させられたからである。僕は『粋』という言葉の意味は、広辞苑にもあるように、意気という言葉が変化したものだとばかり思っていた。色気があったり、垢抜けしていたり、『いなせ』と合わせて、遊びごとに精通していて格好いいことばかりを想像していた。でも、これを拝見すると、もっともっと、人間の生き方そのものをあらわしているのであって、金や物で財産を残すことの愚かさを咎めているようである。何世代にもわたって、政治家を続ける愚かさもだ)
 (江戸っ子や杉浦さんは、人間は万物の霊長などではなく、他の生き物と同じように考えていて、特別な存在でもないのだから、世間に迷惑をかけない程度にこの世を見学し、その他の動物と同じように死ねばいいと考えていたのではないでしょうか)

それにしても、江戸時代の人々は、何故もああして”お伊勢参り“に執着したのだろうか。
文政13年(1830年)のおかげ参りの年には、なんと、600万人もの人が伊勢へお参りしたという。当時の人口がおおよそ3000万人だから5人に一人の計算だ。
なぜもこう、人々を伊勢へ伊勢へとひきつけたのだろうか。
わからない。
みなさん、そんなに信心深かったのか。そうでもなかったらしい。
物見遊山が殆んどだったらしいが。
それが証拠に、おかげ横丁のすぐ脇には大変立派な遊郭が連なっていて、当時は7~80軒は営業していたという。“おかげ座”のガイドさんは、『吉原、島原と並んで江戸三大遊郭の一つ』だといっていたが、本当か?

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あの時代の人々の楽しみとは、芝居だったり、相撲だったり、花見、園芸をはじめ様々な趣味、読書、旅行、外食などか。
特に、旅行などは日数もそうだが金もかかる。貧乏人には、お伊勢参りなどとても行けるものではない。でも、実際は、大勢の人たちが行っている。どうして行けたのか。
一つは、『講』であった。毎年仲間でお金を積み立てておいて、くじ引きで順番に伊勢へ行くのである。これは、伊勢ばかりでなく、富士山登山を行なう「富士講」、成田山を詣でる「成田講」、「江ノ島弁天詣」、「大山詣」などが人気だったらしい。

特に、お伊勢参りの場合は、そのツアーの一団にもぐりこめば、誰でも着の身着のままで伊勢まで連れていってくれたというから驚く。商家の丁稚ドンでも長屋の娘でも、突然その気になれば、旅行団の中へ飛び込んでしまえばよかったのである。
伊勢への道中、周りのみんなが身なりを整えてくれるし、一銭も持っていなくとも、道すがら、人々が恵んでくれるというのだ。それにはお決まりのスタイルというものがあって、笠をかぶって背中に筵を巻いて、それに柄杓を差していれば、それだけで金銭を恵んでくれるので、伊勢参りができたというのだ。
信じられないような話だが、このたび、伊勢へ行ってみて、それが事実だとわかった。
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そればかりでなく、飼い犬が「僕も行きたいよ」と言い出せば、飼い主はお伊勢参りの一団に自分の名代としてその犬を入れてやる。すると、その犬も伊勢まで連れて行ってもらえたというのだ。
これも、にわかには信じられない話だったが、今回、歴史館のジオラマで本当のことだと確信できた。
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伊勢の内宮の前に五十鈴川というきれいな川が流れていて、そこに宇治橋という橋が渡されているのだが、向こう岸が『おはらい町』で、江戸時代そのままに様々な店舗が残されている。
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この中に入ると、まるで、江戸時代にタイムスリップしたような感じになるほど、昔ながらの雰囲気をかもし出している。皆さん、ここへ行きたくてきっと、伊勢に来るのだろう。
お参りは「口実・言い訳」に違いない。
あの有名な『赤福』も、この街中の中心にあって人だかりがすごい。皮肉なもので、あの事件があってからは、それ以前より人気が上がっているらしい。
僕なぞも、ああゆう事件の前は特別食べたいと思わなかったが、最近食べてみた。すると、メチャうまい。
だから、宝永年間から現在まで超人気土産なんだろう。
その正面に『おかげ横丁』という一角がある。
(おかげ横丁入口の写真)(おかげ座の写真)

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この中に、おかげ座というジオラマのある歴史館があって、そこでお伊勢参りの歴史を勉強することができる。

長くなるので、次回につづく。

講演体験談 暮らしが織りなす地域の美―――5

実は、この京都大学で行なわれた学会の最後に、希望を募って嵐山の『宮廷鵜飼』なるものを見学した。
僕は、鵜飼というと、例の長良川しか知らなかったので、嵐山でそんなことができるのかと思っていた。でも、嵐山での鵜飼の伝統は古く、新古今和歌集やあの源氏物語にも登場するというのだから、自分の浅学に反省させられた。
場所は、嵐山のシンボルとも言える『渡月橋』のすぐ上流側のため池のようなところで、そこは、川なのに不思議と全く水が流れていないのだ。きっと、平安貴族たちがここで遊ぶために、そこだけ広く切り裂いたのかもしれない。そしてここは、もっと上流の丹波亀岡というところから有名な保津川下りがあるが、その下船場にもなっている。
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僕らは午後7時過ぎに乗船したのだが、この日は土曜日だけあっておびただしい観光客の数で、この鵜飼見物に20隻以上、一回のショーに船が出ていた。これを何回か繰り返すから、一人2,000円だとして、結構な観光収入だ、と、つまらない計算をしてしまった。
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それにしても、これまで、余り気にも留めずに”渡月橋”というものを見ていたが、この響からすると、月を眺めるに風情のある場所という意味なのかもしれない。僕らは、その橋のすぐ上流の川面で月を眺めたのだが、これが実に情緒のあるものだった。
嵐山に、夜行く用事がなかったから気がつかなかったが、川と橋と正面の山々と月のコントラストは、確かに僕のようなボンクラでも、一句読みたくなるような趣があった。
皆さんも一度は、夜の嵐山を経験してくださいね。
と、いっても、僕は本の中で雪の嵐山を書いた。実際に見たことはなかったが、想像した。そこで、総司と山南さんとの最後の別れの場面を作った。今年の2月、大雪が降った2月3日に急いで京都へ行き、嵐山へ行ったのだが、全然積もっていなかった。
でも、今回、貰ったパンフレットの中に雪の嵐山があったので載せる。
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ところで、近藤さんの書簡の話が、まだ途中だった。
壬生の浪士組は、文久3年3月から京都守護職の配下で市中見廻りなどをもっぱら行なっていたのだが、近藤さんは発足半年の間でも、何度か、早く「攘夷」をやらせてくれと頼み込んでいる。
有名なのは、文久3年10月10日に開催された祇園一力での「国家之議論集会」である。ここには、薩摩をはじめ土佐、芸州、細川、会津国政周旋掛りなどが列席していたが、どういうわけか、そこに近藤勇が出席していた。容保が誘ったということだが。
そこで勇自身が語った内容を、日野の佐藤彦五郎他8名に書簡で知らせている。
「~~~然る上は第一公武合体専一致し、その上幕府に於いて断然と攘夷仰せ出だされ候は、自然国内安全とも存知奉り候~~~」

そして、翌元治元年に入っても相変わらず過激な攘夷を主張するのだが、強烈なのは、5月3日付の老中宛の上書である。

「併し乍、見廻りの為にて御募りに相成り候儀には御座なく候哉と存知られ候、尤も燃し私共において見廻り等は、御奉公見込みにては決して御座なく候、万一有変の節一廉御奉公つかまりたく一同心得罷り有り候得共~~~」
(つまり、見廻りのために京都にやってきたのではない、と強調している。)

そして、この5月20日付の小島鹿之助・橋本道輔宛の書簡はもっとすごい。

「~~~幕府は因循姑息候、苟安の謀のみ、之により御国体殆言へからず瓦解、志明の勇顕し、併しながら只只臣たる道を守り、楠公宋の岳飛の志続致したく候」(幕府は古いしきたりに拘ってその場しのぎばかりだ。こんなことなら瓦解してしまう。)
「~~~此のまま御東下相成り候ば、幕府衰運挽回無賢策候間、我々共義速やかに離散、御暇願い上げ奉り候処、~~~」(このまま江戸へ将軍が帰るなら、新選組は離散だ。暇を出してくれ。)
と、強烈だ。

しかし、新選組はこの数日後にあの有名な”池田屋急襲“を行なっている。そして、攘夷の志士たちを滅多斬りにした。
勿論、相手は討幕派の志士たちが殆んどなのだからかまわないのだが、佐幕派と討幕派との争いごとだった。この後、慶応四年正月には、鳥羽伏見でこの両者が武力衝突した。そして、佐幕派が惨敗した。
この数日前、近藤さんは右肩を撃たれて大阪城に総司と二人で寝たきりになっていたが、独り呟いた。
「関が原で、武力で勝ち取った政権だしな。それが、武力でもぎ取られた。……時代か」
近藤の右目から、液体が一筋輝きと伴に流れた。

このシリーズ、終り。
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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