村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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江戸の湯屋に学ぶ――そして「江戸文化歴史検定」に注文

娘が先日、アメリカから帰ってきた。
お土産にハンドソープなるものを買ってきて、洗面所に置いてあるのだが、これが最近ハヤリの若い人が身につける香水の臭いで、実に強烈なのだ。
耐えられない。
誰かがそれを一回使うと、2~3日洗面所がその臭いで充満する。

ところで、僕の本『人間土方歳三』が、有難いことに今でも結構人気があって売れている。函館方面からもいまだに注文があるし、講演なぞすると、欲しがる人もいらっしゃる。ライヴでサックスを演奏しても、間のおしゃべりで必ず新選組のことも言うので、本が売れるのだ。
そして、不思議なのが、あのアマゾンという本を購入するサイトだ。
3年前に出版してから、約4ヶ月ほど売上げ順でトップを走っていたが、流石に新選組ブームが去ってからは人気度が下がっていた。でも数日前に、何とはなしにそれを見てみたら、再びトップに返り咲いていた。デモ、本日は23位だった。――不思議。

こういういい雰囲気が味わえるのも、周りで協力してくれた人たちのおかげでもあるので、先日、その人たちを招いてお食事会をした。
僕の家から車で10分ほどで、八王子インターの近くに抜群に美味しい焼肉レストラン〈真一館〉があるので、そこで歓談した。ここは、料金も良心的だがとにかく肉そのものがやわらかくて美味いし、丘の上の洋館で、八王子市街方面の景色も良い。いつも6,000円のコースを頼むのだが、これで充分だ。お肉の追加なぞいらない。おなか一杯になる。
何せ肉が柔らかいから、高齢者にはうってつけで、3世代でお勧めだ。

この食事会で、出版社のY氏が、毎年11月3日に行なわれる「江戸文化歴史検定」の一級を受けたが、3点不足で落ちてしまったと嘆いていた。何しろ難しい検定で、昨年は、1000人に3人しか受からない狭き門だった。今年はまだ、結果が出ていないそうだが、似たようなものだろう。
僕は、Y氏に出題の実物を貰って昨年も今年もやってみたが、難しくて全く歯が立たない。
この難しさなのだが、『真の意味で』難しいのなら納得いくのだが、出題がひねくれているだけで、許せない問題なのだ。中には、引っ掛け問題もあるし。
何で、こんな知識が必要なのだろうと、疑ってしまうのである。
誰が一体、あんな問題を考えるんだろうか、と。他に、江戸に関する大事なことがたくさんあるだろうに、それをさておいて、“ドウデモいい”様な出題なのだ。

ここまで書いたからには、一例を出そう。

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これは、昨年の1級の第1問と2問をそのまま写したものだ。
問題1の正解は(い)の身長で、2の正解は(に)の家茂だそうだ。
こんな知識、本当に必要なのか。
知っていればそれに越したことはないが、検定に出す問題ではないと僕は思うので、受けない。―――どうせ、受からないからと、ひねくれて言っているように聞こえてしまうかもしれないが。

僕は最近、近くの温泉に行く習慣が身についてしまって、あの源泉掛け流しが大好きで週に一度は行っている。
こんな話題のついでに、江戸の風呂屋(湯屋)の話になった。

江戸時代、最初の頃は、蒸気のみの風呂屋だったらしい。それが、幕末になって今のような湯船が出現したという人がいる。デモ、調べてみると、開府間もない慶長年間には既に湯につかる習慣もあったらしいので、正解はよくわからない。
江戸の頃は、川舟の中に風呂があるのもあったり

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戸棚の中で風呂に入る戸棚風呂

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などもあって、なかなか面白い。

先日、テレビで、風呂の中の鏡が曇ったら、ペルーでは『糊』を表面に塗って曇りを取るといっていた。
僕も、それには以前から困っていたので、早速まねをしてみたが、2~3日でまた曇ってしまった。洗剤で拭いたりしてみたが、これもダメで何か良い方法はないかと探っていた。

そこで、ひとつのことを思い出した。

江戸時代の街中にはたくさんの湯屋があって、湯船の手前には必ず『柘榴(ざくろ)口』という板が下がっていたという話だ。鴨居がズ~と人間の膝ぐらいまで下がったものだ。

これは、湯船の温度を下げないようにするために考え出されたもので、湯気を洗い場のほうに逃がさないためのものである。だから、みんな、屈んで湯船に向かった。

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中は、真っ暗で殆んど何も見えなかったらしい。新しく入ってきた人は、ご挨拶に「冷え者でござい」「田舎ものでござい」と言って仲間に入れてもらった。これは、言葉を発しないと、暗いから、どこにどういう人がいるかわからないからだ、そうだ。

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この柘榴口だが、その名の由来は大変面白く、鏡の清掃から来ている。

風呂の中の鏡は、江戸の時代は銅製のものが殆んどで、すぐ曇った。その曇りを取り除くために柘榴の実の液体で拭き掃除をしたらしい。
この行為を『鏡鋳(い)る』と言った。

風呂に入るときも、『屈み入る』ので柘榴口と言ったのだ。

そういえば、娘がニューヨークから買ってきたあのハンドソープには確か、柘榴の絵が書いてあった。すると、あの液体で風呂の鏡を洗えば、曇りが取れるかもしれない。
早速、試してみた。
見事、一週間経過しても10日経過しても、曇らなくなった。

これを、食事会の場にいた『日野宿文書検討会の』MUNN様に言ったら、彼は次の日に本物の柘榴をもぎ取って届けてくれた。

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この柘榴の実を、今度は、直接鏡に塗りつけてみた。

これも、見事に、表面が美しくなった。

江戸に、学ぶことは多い。
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“お伊勢参り”、“抜け参り”―――2

前々回、お伊勢参りについて、体験談を書かせていただいたが、もう少しあの時代の”旅“というものについて触れてみたい。

大体、江戸時代に旅行が盛んになってきたのは、八代将軍の吉宗の頃かららしい。それまでは、江戸から発する街道筋が整備されていなかったので、危険で一般の市民は行ける状態ではなかったということだ。
家康が天正18年に江戸に入府して以来、直ちに街道を整備するように指示を出したらしいが、安心して旅ができるようになるには100年必要だったのだ。

江戸という街は、本当に良くできていたところで、まず道路下に水道管が通っていて上水道を飲んでいたというから驚く。このことは、最近の僕のブログでも、吉祥寺のライヴのところで、井の頭池の湧き水に家康がいち早く目をつけたと書いて触れたから、詳しくは書かない。
江戸が、世界中のどの都市と比べても先んじていたことは多いが、ごみの処理をはじめ街並み、市民の生活様式、識字率80%を超えるほどの教養など、どこに身分差別などあるんだろうと疑いたくなるほど市民生活を謳歌していたようだし、どこをとっても江戸が世界一の大都市であったといっても言い過ぎではないと思いたい。
こう書くと、戦後教育を受けた僕らは、江戸時代なんて士農工商の封建時代で食べ物も着るものもろくなものがなくて、電気もないし暗黒な時代だったと教育されてきたから「えっ?」と、疑問に思わざるを得ないが、実際、人々は生き生きと生活していたらしいのだ。

ひなこさんの記述で、僕はほかにも「はっ」と思ったことがあった。それは、身分制度のことである。
小学校の頃から、士農工商と教わってきたので、只そうだったんだと思い込んでず~ときてしまったのだが、ひなこさんは、当時の人たちは、そんな身分制度の言葉も知らなかったし、それは明治に入ってから作られた言葉ではないのか、といっておられた。
言葉はあったとしても、一般に流布されてきたのは、きっとそうに違いない。
確かに、「武士は食わねど、高楊枝」という諺があるが、二本差しで歩いていても中は竹光だったなんてことはよくあったことらしい。下級武士は、俸禄だけではとても家族を養うことができなかったので、内職が普通だったという。
もっとひどい場合は奥方が夜鷹に出るとか、京都の下級公家なぞは生活苦で、書や絵画の家庭教師のほか、娘を舞妓や芸妓に身売りさせてまでして生計を立てていたと伝わる。

傘張りや朝顔の栽培や虫の繁殖なぞ武士には多くの内職があったが、その成果物は問屋に一文でも高く買い取って欲しいから、何度も頭を下げる。
相手は商人である。
「この番傘10本を、お願いしたいが」
「そうですな、これじゃあ、一本40文というところですね」
「もう一声、何とかならんか。50文でどうだ」
「お武家様、冗談じゃありません。それは、こっちの売値ですわ。お嫌なら、他の店へ行ってくださっても結構ですよ」

江戸時代は、260年以上も続いた。
開府の1603年から100年も過ぎれば、商品が流通して、米が中心とはいえ貨幣経済である。裕福な商人が続々と誕生してゆく中で、物価が高騰しても武士の俸禄は、当初から増えるということがないのであった。どんどん生活が苦しくなる。
こんな中で、身分社会だったから武士ばかりが威張っていて、なんて聞かされても実感がわかない。この辺りは、あの時代劇の斬り捨て御免の場面は特殊なケースだったのかもしれないと、思うしかない。

前回、お伊勢参りが幕末にブレイクした“ええじゃないか”の原型だったのでは、と書いた。
というのも、お伊勢参りでも、いろいろあって、お金持ちの団体などはそろいの着物姿でおしゃれし、三味線などを鳴らして踊れや歌えやで伊勢講の手ぬぐいを高く掲げて行進していったというから、つなげて考えてしまうのだ。あの“ええじゃないか”も、狂ったような踊りと衣装、顔中白く塗りたくって異常な興奮を煽っている一種のデモなので、よく似ているのだ。

「富士山に一度も行かぬ馬鹿、二度行く馬鹿」
富士山というのは、江戸の人々にとって、日本一の山ということのほか霊験新たかなありがたいお山だったらしい。だから、江戸っ子は、富士山に、一生のうち一度は登るべきところだと思っていた。だが、余りに大変なので、二度行くのは馬鹿だ、ということか。

日本人が、どうしてこんなにも旅好きになっていったのかを考えると、一つには文化文政の頃に発刊された戯作本の影響もあげなければならない。『東海道五十三次』を書いた歌川広重は、定火消同心の家に生まれて役人になっていたが、役目で東海道を行き来するうち「街道絵」を描くようになった。この五十三次が、旅ブームに火をつけた。大ベストセラーになったのである。
これは、読んでも見ても楽しいが、旅のガイドブックとしての役割が大きかったのである。
またこの頃、出版された十返舎一九の戯作『東海道中膝栗毛』も面白いしおかしいし、ガイド本としても質が高く大ブームになったのである。
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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