村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

管理人よりお知らせ

先日、

「最近スパムコメント(迷惑コメントの一斉送信)が多いので、村瀬が確認(承認)したスパムコメントではない普通のコメントだけを表示させるように設定しなおしました。」

との内容の記事を更新しましたが、コメントをしてから表示するまで時間差ができてしまうことなどを考慮しなおし、当ブログは【画像認証】にてスパムコメントの対策をすることにしました。

画像認証方式にするので、コメントをする際、画像にある数字を入力して送信していただけたら、今まで通り、すぐにブログにコメントが反映されます。

画像認証の方法ですが、とても簡単です。
(下の画像はクリックすると大きく表示されます)

名称未設定-1

この画面は今までと同じです。
コメントを書き込んでくださったら、最後に送信ボタンを押してください。

すると以下のような画面になります。

名称未設定-2

コメントの下の方に「いち」「に」「さん」など、ひらがな、もしくは、カタカナなどで数字が書いてますので、その数字を「1」「2」「3」と、アラビア数字に直してその下の小さな入力欄に記入し、送信ボタンを押してください。

これで画像認証は終了です。

ご面倒をおかけしますが、今後も感想やご意見の書き込みをお待ちしております。
これからも、shougo.netをよろしくお願いいたします。
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質のよい武士道に接すると気分がよくなる―――2

前回、
>直江兼続も前田慶次郎も自らの『武士道』を貫き通した。
>「利」より「義」を大事にした。
と、書いた。

直江兼続は、今、NHK大河ドラマでやっているから知っている人も多いだろうが、前田慶次郎はパチンコや相当のアニメ好きでもない限り、知らないだろう。
この二人、実に魅力的な武将なので僕も大好きなのだが、この二人が上杉軍の下、家康に逆らって最上勢と戦った。その戦いぶりが見事で、敵側からも賞賛されたというからすごい。
(韓国も素直に、岩隈のピッチングを褒めたら。どうして、MVPは松坂なのだろう、岩隈だろうにーー不思議)

大河も、今年の秋口あたりになれば、直江兼続の後半生から晩年に入っているから、彼の武士道について多くの人が知るだろうが、今の段階では、殆んどの人がそのすごさについては知らないはずだ。

だから、直江兼続と前田慶次郎の生涯について簡単に触れてみるが、まずは前田慶次から。

この人、前田慶次郎が正しいが、慶次ともいう。慶次という名は、どうやら少年ジャンプで連載されていたアニメで使った名らしい。
それは、隆慶一郎原作の小説「一夢庵風流記」を原哲夫という人が「花の慶次」というタイトルで漫画化したものだ。

戦国武将といえば、織田信長をはじめ、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗など有名どころが知れ渡っているが、直江兼続や前田慶次郎はいまひとつ一般的ではない。
「歴史は、勝者が作るもの」だから仕様がないのだが、幕末新選組でもよく言われるとおり「敗者の美学」というものがある。

この二人、本当に「美学」を感じる。
まずは、慶次郎の出生だが、定かではないのだが、天文十年(1541年)が有力らしい。没したのは慶長十年(1605年)だから、関が原の戦から5年後だ。満64歳か。

生まれた場所は、荒子という寒村らしい。(今は、名古屋市中川区荒子)
母が前田犬千代利家の兄の利久と再婚したので利家の甥に当たるが、義父利久と共に織田信長に仕えた。

本来、前田家の家督は利久が継ぐはずであったが、信長が慶次郎に荒子城を渡したくなかったばかりに(利家を可愛がっていた)、利久・慶次郎親子を追放したのである(永禄十年ーー1567年)。

「米澤人國記」という書物には、以下の記述がある。

「永禄十年(1567)から天正十年(1582)まで、慶次郎は京都の一隅にあって堂上貴顕(とうしょうきけん)の公家や文人とも交わっていたという説がある。
そこで慶次郎は和漢古今の書と親しみ、分けても源氏物語、伊勢物語の秘伝を授けられたという。
連歌は当時第一人者紹巴(しょうは)に学び、茶道は千利休の七哲の一人である伊勢松坂城主古田織部正重然に皆伝を受けたともいわれている。
武術については、弓馬はもちろんのこと、十八般に通じていた」
と。

天正九年六月、荒子の住人前田慶二(次)郎が「末□」と銘のある太刀を奉納したとされたという記録もあり、その刀は今でも熱田神宮の宝物館に奉納されている。
もしかしたら利久・慶次郎親子は荒子城から追放されはしたものの荒子には住んでて、利家らとよく顔を合わせていたのかもしれない。

 天正十年(1582年)、織田信長は明智光秀の謀叛によって倒されてしまう(本能寺の変)が、この後、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は明智光秀を倒し、さらに賤ヶ岳の合戦で織田家の宿将、柴田勝家をも倒した。
このとき前田利家は初めこそ柴田勝家の与力であったが、後に秀吉の説得に応じて加賀討伐の先陣をつとめた。
その報酬もあって利家は能登の旧領に加えて新たに加賀二郡を加増された。
この時、利久・慶次郎親子は利家より七千石の地を与えられた。
利久はこの内五千石を慶次郎に与えている。
慶次郎は利家より阿尾城城主に任命され、天正十二年(1584年)に末森の合戦、その翌年(1585年)の阿尾合戦に参戦している。
また天正十八年(1590年)三月、豊臣秀吉の小田原征伐が始まったとき、叔父の利家が北陸道軍の総督を命ぜられて出征することになったので慶次郎もこれに従った。
次いで叔父の利家は命によって陸奥地方の検田使を仰付かり慶次郎もまたこれに随行した。
この頃までの慶次郎は従順であり、妻との間に一男五女(二男四女説あり)も生まれている。

(ここから先は、次回に譲りたい。明日25日から8日間、プラハとウィーン、ブダペストに行ってきます。)
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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