村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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プラハ~ウィーン~ブダペスト―――その3

《プラハから、いよいよウィーンへ》

僕が、今回、このツアーを選んだ最大の理由は、そのコースにある。

幼少の頃から、学校で歴史を学ぶたびに、

「“ヨーロッパ”って、きらびやかで、どんな素敵な国なんだろう」とか、
「ローマ帝国って、すっごく強大で怖い国だった」

なんていうイメージを持っていた。

その後、高校生になって、確か70ミリの巨大な画面であのベン・ハーを見たときは、この世にこんなことがあったのかと大きなショックを受けた。
あの頃は、70ミリという巨大な画面の映画が流行っていて、サウンド・オヴ・ミュージックもマイ・フェア・レディーもそうだったと記憶している。
シネラマなんていうドでかいのもあった。
銀座のテアトルというところでやっていたはずだが、今はああゆうでかいのはないのかなあ。
今は、あの映画館、どうしたんだろう。

「ナポリを見て死ね」といわれたこの地なぞは、世界で最も美しく、太陽が眩しくて明るく、夢心地のところだろうと想像していたし、小学唱歌にもあった『カプリ島』なぞはまさか自分が行けるとは思ってもみなかった。

あのルネサンス時代に同じ町に、ダ・ヴィンチを始め、歴史上二人と出ないといわれた天才が何人も出現したフィレンツェ。
どんなところなんだろう、と長年思ってきた。

まさか、こんな簡単に観光で行ける時代が来るとは、
実にありがたい。

ヨーロッパの歴史を見ていると、強大な権力と富、その反対に、迫害され、悲惨な体験をくりかえしてきた民族の歴史など、特に中世のころは、教会の権力も顕著で、それらが際立っていたように思える。

ヨーロッパの人たちは、日本のように、過去の歴史を簡単に消し去るようなことはしない。
我国は、新しい権力者が誕生すると、まず、前時代がとても悪い時代だったという印象を持たせるために、徹底して否定してかかるから、それが破壊に繋がるのである。

明治に入ってからはそれが顕著で、徳川幕府ばかりでなく宗教にまでそれが及び、『廃仏毀釈』なんていう政策もその際たるもので、たくさんの寺院や仏像が破壊された。

あの東大寺の仏像までが破壊寸前までいったが、勇気ある指導者が出て、権力に反抗し、危なくセーフだったと聞く。
若し大仏がなかったら、修学旅行で東大寺には行かないだろうね。そして、あの日光も東照宮があるから行くんだよね。

そういえば、
幕末に、幕府脱走軍が最後の砦として、徳川の聖地東照宮に立てこもり、官軍と一戦を交えるなんて息巻いている連中もいた。
土方歳三もその一人だったろう。
でも、そうしたら、焼けてしまうのは必定である。
上野の戦争では(慶応4年5月15日)、寛永寺と近辺の貴重な建築物は焼けてしまった。

日光では、必死になって東照宮を救ったひとりの幕臣がいた。
八王子千人同心の頭で、最後の日光火の番で任務に当たっていた石坂弥次右衛門である。
彼は、身体を張って日光を守った。
戦ったのではなく、涙を呑んで官軍に降参したのである。
デモ、この処置に対して、日野八王子辺りの徳川を支持する急先鋒の連中には不評であり、命さえ狙われた。
八王子に帰還した閏4月9日の翌日、切腹して責任を取った。

(後に、日光を戦禍から守ってくれたと日光市から感謝され、彼の墓石には日光市から寄贈された香台があるーーー八王子市千人町・興岳寺)
この頃は、東照宮を守るより、一戦交えることが尊いと考えられていたから、戦わないで降参するなぞ、とんでもないことなのである。
デモ、このとき、八王子は板垣退助率いる官軍に降参していて、官軍に組することになっていたはずなんだがーーー。
このことは、拙著『人間土方歳三』に僕は詳しく書いた。
それが、日本の歴史である。

最近、日本の小さな町でも、昔の面影をできるだけ残そうとする風潮が生まれてきて、大変結構なことになってきた。
川越なぞ、江戸情緒そのものを残してお客さんを呼んでいる。
だが、肝心の京都だけは、いただけない。
寺院やお城、御所なぞ、その場へ行けば素晴らしいのだが、街並みを残そうという意識にかけているから、古都らしくない。

どなたか、京都の街中を歩いていて、古都を感じる人がいるのだろうか。
祇園から白河の辺りは、意図的に残しているのだろう、まだいい。
河原町通りはあんなもんだとして、その裏の高瀬川沿いの道はもっと京都らしくできるはずなのに、風俗街に変わっている。
その裏の先斗町通りは、雰囲気は残っているのだが、商売優先で作ったような路である。
京都の街中を歩いていても、全然、昔を感じないのである。
確か、空襲は受けていない筈なんだが。
(あっ、これ、実際は3ヶ所ほど受けていて、約100人ぐらいは人が死んでいるという説もありますね。意図的に、空襲は受けていないと歴史を変えてしまったとも言われている。ここでは、話がそれすぎるので、ここまで)
いつぞやも、ここで書いたが、三条と四条大橋の間に洋風『フランス橋』というものを建造するという案もあった。住民の反対で、ポッシャッタが。

例によって、話がそれまくった。
人前で話をしていて、時々それることがある。
年をとると、そもそも何を話していたのかわからなくなることがある。必死に思い出そうとするのだが、無駄。
最近では、前にいる人に、自分が何を話していたか、聞いてしまうこともある。
結構皆さん、親切に教えてくれる。

以前、寄席に行ったときに、落語家が話がそれて、ヤッパ、元の話を思い出せないことがあった。
本人は、そうとうあせっていたみたいだが、最後には、正直にお客に聞いていた。お客さんも鷹揚で、丁寧に教えていたっけ。

立地的、気候的な条件もあるのだろうが、4~500年前の昔の建築物をそのまま残し、いまだに使用しているなんてのはヨーロッパでは、普通である。
尤も、石とかレンガで出来ているものが多いからそういうことが可能なのか。

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古い建物

出だしで、この旅行、そのコースが気に入ったからだと書いた。
そう、チェコのプラハからバスでチェスキー・クロムロフという中世の街そのものを経由してオーストリアの国境を越える。
以前は、ここも越えるのにヴィザなどの提示で相当うるさかったらしいが、今は、誰もいないから、素通りである。
丁度、高速道路の出口のようなつくりである。

オーストリアに入っても、景色は大して変わらない。
そう、丁度、北海道の十勝平野の大草原のど真ん中を走っている、あの感じである。
一面だだっ広い草原で、果てしなく続いている感じだ。それが意外と、整備されているのか、手入れされた芝生みたいに美しいのである。
あれは、不思議であった。

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大平原(バスの中から)

時々、田舎の街中を通過する。
日本でも、車で走っていると、よく、小さな街中を通過することがあるが、あれである。
あの辺りは、丁度、日本の北海道の北当たりに位置するから、気候もよく似ている。
プラハでは、街中にたくさんの白樺が生えていた。

《ウィーンに到着》

夕方6時過ぎに、ウィーンの街はずれに到着した。
いきなり、居酒屋である。
ここでは、それを『ホイリゲ』という。

バスから降りてすぐ感じたのだが、なんだか、それまでいたチェコと雰囲気が違うのである。
空気が違うのか、自分の気分か、それとも街並みのムードなのかわからない。
なんつ~か、軽くて、暖かくて、陽気なのである。
プラハにも、そういうものはあったのだが、ちと、違う。
もしかして、東京の雰囲気と大阪・京都辺りの違いみたいなものかなあ。

ホイリゲの中に入ると、そこは、全くの陽気な酒場である。
ビールやワインを飲みながら、大きなソーセージを頬張っていて、身体を横揺れに歌っている人もいる。
そこでは、ライヴをしている叔父さんが二人いて、一人はバイオリン、もう一人はアコーディオンであった。
その演奏が、なかなかウマい。
このウィーンでは、この程度の腕の人は、星の数ほどいるに違いない。

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ウィーンのホイリゲのライヴ

僕らも、総勢8人ではあったが、テーブル一つを囲んで飲みながら食べた。
普通のソーセージや豚肉だったが、雰囲気もあって美味しく感じた。

こういう店に来ると、僕は、自分が若い頃毎年スキーに何度も行って、夜、皆で騒いでいた頃を思い出す。
今は大分変わってしまったが、日本でも、昔のスキー場の雰囲気は、オーストリーやスイスなどのつくりを真似ていることも多かった。
だから、夜の食事やくつろぎ方、ホテルのリビングなどの場所作りや音楽の種類などもヨーロッパ風であった。
いわゆるヨーデルという音楽も、よくかかっていた。

日本のスキー場では、『白銀は招くよ』というスキー映画の主題歌も良く流していた。
その後、例の、『白い恋人たち』という曲も大ヒットしたので、(その名が日本一のおみやげ品になるほどだから皆さん知っていると思うが)、この曲もどこのスキー場も定番であった。

今から4~50年前になるのか、冬季オリンピックでオーストリーのトニー・ザイラーという人がスキーで金メダル3冠を取った。
日本でも大人気になり、この人は、その後俳優になり、『白銀は招くよ』を歌って大ヒットを飛ばした。
日本にも、何度かやってきた。

この人は、ウィーンでも大スターだから、誰でも知っている。
この『白銀~』をリクエストしたら、大変な人気だった。
僕と同年代の人なら、この曲は大概知っていると思うが、向こうでもいまだに人気だ。

デモ、ここに限らず、次のブダペストでもそうだったが、日本人がお客にいるとなると必ず、「赤とんぼ」とか「さくらさくら」「荒城の月」などをこちらのテーブルにやってきて、演奏する。
その場の雰囲気に合わないから、こっちはちっとも嬉しくないのだが、先方はサービスのつもりでやってくれる。
まあ、仕方ないか。

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入り口

でも、この『ホイリゲ』、ウィーン子達はよく通うらしいが、あの人たち、大食いで、大酒のみで、大きな声で無邪気に手拍子で歌うが、素朴な伝統が息づいているし、昔のままの酒場という感じが好感が持てる。

翌日は、朝からウィーン見物である。

(続く)
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プラハ~ウィーン~ブダペスト―――その2

チェコとスロバキア

前回、最後にチェコスロバキアがいつの間にか、二つに分かれていたと書いた。
世界史の常識で、僕が無知だといわれればその通りだが、調べてみたところによると、こうである。

もともと、この二つの民族は別々だった。
大昔の話は、省略して、
第一次大戦後、この地域にはチェコ人が46%、
スロバキア人が13%で合わせても59%しかいなかった。
後はドイツ人が28%もいて、その他はユダヤ人やジプシーなど民族が混在していた。    
この二つは兄弟のような民族でありながら、チェコはドイツの一部として歴史を刻み、スロバキアはハンガリーの一部として歴史を重ねてきた。

1993年に、この二つは平和裏に分離した。
この当時は、80年代から90年代初頭にかけてソ連や東欧諸国が民主化と国家分裂で混乱しているさ中で、チェコスロバキアでも89年に民主化を求める大規模なデモが起きていた。
このとき共産党政権はあっさり政権の座から降り、スムースな民主化(ビロード革命)が実現した。

その後の分裂が余りにあっさり行なわれたので、『協議離婚』と例えられたということだ。
別れたがっているなら、すんなり別れて流血の惨事を避けたほうが賢明だと、チェコ側が判断したからだが、もう一つの理由は、チェコが市場経済に移行するに当たって、後進地域のスロバキアはお荷物だと理解されていたことによる。

中欧都市の中では工業化が最も進んでいたといわれるチェコのプラハは、「スロバキアは農業地域であり、経済発展の妨げになる」と思っていたから、分裂は、面倒を見なくていいから返ってありがたいと思っていたのである。
デモ、結果は皮肉で、スロバキアの成長はずーっとプラス成長が続いた。だから、この二国は分離後も仲がよいらしい。


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(プラハの繁華街、カルチェをはじめ世界のブランド店が軒を連ねている。)

チェコ、特にプラハの人々はロシアという国を嫌っている人がおおいようだ。
何百年もハプスブルグ家の統治にあって、ようやく1918年に抜け出せたのだ、と思いきや今度はソ連の圧政だ。
プラハの人々は結構プライドを持っているのだが、自分たちは西側の一員であるという意識が強いらしい。

「よ~く地図を見てくれ、プラハはウィーンよりも西にある」よ、と。

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(大道芸でサックスやトロンボーンでジャズをやっていた老人)

僕は、外国へ行ってやっぱり女性の皆様と同じように食事に関心があるのだが、ツアーで食事つきの場合は、結論として余り期待しないほうがいいと言える。
イタリアのときもそうだったが、決して美味しいお店に連れて行ってはくれない。
たまに当たりの店もあるが、総じて美味くない。

今回も、朝昼晩、殆んど食事は付いていたが、割安のツアー料金だったせいもあってか、レストランの格が低いところばかりだったように思う。
添乗員の人が正直に言っていた。

「食事は期待しないでくださいね。これとホテルのグレードを落してツアー代金を下げているんですから」と。

正直な人だ。

プラハで、ディナーをいただいたが、貰った栞には

「“クネドリーキ”(チェコ風蒸しパン)とチェコ料理」

と書いてあったので、どんなものかと期待していたが、とても食えなかった。

湿った白いパンで、味も素っ気もない。
それが4切れも皿に乗っていて、残さないで食べるのに一苦労であった。
メインディッシュも大味なものだった。
美味しいお店もあるのだろうに、横目で眺めながら、J○Bの決めたところに従った。

デモ、一回だけ、プラハの昼飯だけは美味かった。
プラハ城の中の修道院を改装してレストランにしたのだろう、薄暗くて細長いところだったが、ここで食べた魚のフライは日本のものに負けないほどだった。
ついでに、ここのビールも美味かった。

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(薄暗いレストランの筆者)

チェスキー・クロムロフという町

今回、行くまでは、そのような都市の名は聞いたことがなかった。
プラハに2泊してウィーンに向かう途中、オーストリーとの国境の手前にある都市なのだが、これが素晴らしくいい。

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まるでおとぎの国の中に飛び込んだような気分を味わえる、中世そのままの街並みなのだ。
みなさん、あのあたりに行ったら、是非寄りましょう。

10何年か前に世界遺産に登録されたそうだが、それ以降、毎年世界各国から観光客が押し寄せ、大変な混雑だということだ。
僕らが行ったときは、寒かったせいか運がよく、人が殆んどいない時で、閑散としていて寂しいくらいであった。
街の中を流れる川に架かっている橋も木製のもので危険なので、頑丈なものに作り変えると工事していたが、商業的に俗化されないことを望む。

ここで、持って行ったフルートを持ち出して、お城のベランダで吹いてみた。
内容がジャズっぽいので、あの辺りの雰囲気にいまひとつ合わないが、勢いでやった。
観光客がたまに足を止めて聞いていたが、よく見ると、中国人が多かった。
やっているのが日本人で、聞いているのが中国人。
何か、変。
寒いので30分でやめた。

(続く)

プラハ~ウィーン~ブダベスト―――その1

“ダーツの旅”ヨーロッパ紀行第2弾
―――プラハ~ウィーン~ブダベスト―――(その1)

イントロ

年度末に来て今年度の仕事もひと段落したので、再びどこかへ行きたくなった。
何とはなしに、旅行会社のツアーをめくっていたら、上記の都市を巡る企画が目に入った。
一見しただけで、何かロマンティックである。
僕が音楽をしているからというのではなくて、幼い頃、小学校の教科書で出てきた夢の国に行けるみたいな衝動である。

旅行代金も手ごろだったし、何よりもこの3つの都市をバスで移動するのが魅力だった。

一昨年、イタリアをミラノから南へ下がってナポリまで10日間、途中ユーロスターという日本の新幹線のようなものに乗ったが、基本的にバス移動で気分が良かったので、今度も申し込んだ。

前田慶次と直江兼続のお話は途中だけど、すいません、この紀行が終わってから必ず書きます。

バスだと何故いいのかというと、その国のその地方の生活そのものを拝見できるからだ。
ツアーというと、観光地や大都市ばかりを訪れるものだが、バス移動だと、その間、なんでもない小さな村の人々の生活を垣間見ることができる。

所さんのテレビ番組で、『ダーツの旅』というコーナーがあるが、あれである。
人っ子一人いない田舎の路地裏で、普段の生活を営んでいる老人に突然、マイクを向けたりする。
あれ、僕は、好きなのだ。

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プラハ郊外の田舎の風景

一昨年のイタリアも、ミラノの北にあるコモ湖という殆んどアルプスに近いところからピサ、ベローナ、ベネチアやフィレンツェ、ローマなど、温暖なナポリ・カプリまで、見学することができ、実に印象的だった。

バスで長時間移動すると、途中、トイレ休憩を入れなければならないから、ドライヴインや休憩所に寄ったりする。
そこがまたいい。
日本でも、バス移動休憩で立ち寄る茶店などでは、その地方独特の物産を安く売ってたりする。
買うつもりがなくても、つい買ってしまうこともある。
例えば、青森辺りの田舎のドライヴインで、つい「りんご」を試食したら美味いので、東京に送ってしまったとか。

ヨーロッパで、果物を買って日本に送るわけにはいかないが、簡単なお菓子類などは買える。
レジにいるおばさんの笑顔が良かったりする。

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蚤の市で皮製のリックを買ったときのおばさん。ブタペストで。

今回、チェコのコルナやハンガリーのフォリントなどコインがよくわからないから、先方の言いなりでおつりを貰った。
だって、日替わりで、お金が変わるから頭が大混乱なのだ。
小さい買い物が多かったから、くれるおつりを貰っていた。
ロンドンのヒースロー空港でさえ、ユーロのお札を出しておつりはポンドだった。
直ちに換算なんてできないよ。
チェコとハンガリーの2国は、まだユーロさえ使えないところも多くある。

この度、(例えば建築物や、風景など)いろいろ良いことはたくさんあったが、印象に残っているのは、不思議と子供達の笑顔だった。
あの地方の人々って、その多くがスラブ系の民族なのだろうか、子供達が特に可愛く感じた。
そして、若者たちの素直さかな。
僕が、年をとったせいかなあ。

カメラを向けると、無邪気に反応してポーズをとったり笑顔を振りまいてくれたりする。
(日本だと、「何、このおじさん」のように見られることも)

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子供たちと若者

さて、最初に訪問したのはチェコのプラハでした。
プラハは街全体が世界遺産に指定されているから、日本からの観光客も近年多くて人気の場所になっているが、今回もあの気品あふれる町が世界中からの人々で賑わっていた。
プラハといえば、スメタナという作曲家が出現したことで日本人はよく知っている。
組曲『わが祖国』の中の、特に(モルダウ川)が有名で、我国の音楽の教科によく入っていたし、合唱団が良く歌う。

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モルダウ川

僕に限らず多くの日本人は、東ヨーロッパの国々について、いまひとつよく知らない。
今回、最後に訪れたハンガリーのブダペストで、現地の人に「ハンガリーという国について、どう思いますか」と聞かれた。
これには参った。
だって、思う以前に殆んど知らないからだ。先方に失礼のような気がしてーーー。
尤も、向こうさんも日本のことを知らないから、お互い様だが。


プラハという街

女子の体操選手といえば、モントリオールで10点満点で金を取ったルーマニアのコマネチを思い出す人が多いだろうが、僕らの世代はチェコスロバキアのベラ・チャスラフスカだ。
彼女は、1964年の東京オリンピックと次のメキシコで、連続で金を取った。

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プラハの町並み

東京オリンピックの時は、僕は高校生で、強烈な印象を持って様々なシーンをいまだに良く覚えているが(女子バレーの回転レシーヴやマラソンのアベベなど)、そのなかにチャスラフスカがいた。
あの時は、日本の多くの男性たちが、彼女の美しさに惚れ込んでいたように記憶している。
女性としての優美な美しさがあった。
モントリオールのコマネチは、キビキビした非の打ち所のない演技で10点満点だったが、チャスラさんはとにかく綺麗、美しかった。

その彼女、その後の人生は、さぞかしバラ色かと思いきや、大変な苦労をしたらしい。
現在63歳になるらしいが、例の『プラハの春』で二千語宣言に賛成署名をしたからという理由で、共産党政権から強烈なる嫌がらせ、迫害を受けたそうだ。

よく聞く話に、オリンピックで金メダルを取れば、韓国では兵役を免除されるとか、共産圏では年金が保証されるとか、住宅が与えられるとか、職業も安定するとかだが、彼女の場合は全く逆で、チャスラさんと立ち話をしていただけでも逮捕されたというほどひどかったらしい。
だから、それまで友人だった人も次第に離れ散ってしまったほどで、最後に残った人は片手の指に入るまでになっていたそうだ。

それでも彼女は、二千語宣言署名を撤回しなかったそうだ。

『自分の中にある気持ちを大切にしたかった。節義のために。政治権力というものは、人の心をた易く折り曲げることができると知りました。』と。

このチェコという国、僕らが小中学校で習ったときは、確かチェコスロバキアだったが、今はチェコとスロバキアに分かれている。

(続く)
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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