村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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「直江兼続」と「松姫もなか」、そして「八王子城」と「滝山城」と、いろいろ関連して---4

―――兼続の魅力―――

さて、いよいよ、直江兼続について語らねばならない。
でも、この人を考えていると、いろいろな有名人なしには説明がつかなくなって、またまた僕の悪い癖で横道の話が多くなってしまう。
勘弁を。

先ず最初に、西暦1600年前後、兼続が仕えたのは越後・会津・米沢あたりを本拠地にしていた上杉景勝で、勿論上杉家の当主である。
そのずっと後、西暦1700年の中頃、同じ上杉家に"上杉鷹山(ようざん)"というスーパースターが出て、この人がまた大変な人気者なのである。
また、景勝の父親はいわずと知れた"上杉謙信"で、超デラックス・エクストラ・スーパースターである。

2007年(平成18年)に、読売新聞が全国の自治体の首長に対して、あるアンケートを行った。
――理想のリーダー像は――
回答では、1位が上杉鷹山であった。

鷹山で思い出すのは2つ。
ひとつは、明治時代、内村鑑三というクリスチャン作家がいて、その人が『代表的日本人』というタイトルで海外向けに英語で、日本の文化を紹介する本を出版したが、5人を挙げている。
 
その「代表的日本人」とは、

 1、国を託するに値する人物とは・・西郷隆盛  
 2、上に立つ者としての心得・・上杉鷹山 
 3、人を動かすには・・二宮尊徳 
 4、教育とは何をもって・・中江藤樹 
 5、宗教の持つ意義とは・・日蓮上人 


の五人。

僕が、以前よりその復権を主張している西郷さんが入っていたのは、ほっとする。
ここに挙げられている5人は、いずれも、『自己の信念に基づいて、私心を捨て“誠の道”を歩んだ人』たちだ。

もうひとつは、ジョン・F・ケネディーである。
意外に思う人がいるかもしれない。
それは、こういうことだ。

ケネディーが大統領になってまもなく、「尊敬する日本の政治家は、Yozan」と、言ったという。
でも、その場にいた日本人が恥ずかしくも、「Yozanって、誰?」と逆に聞いたそうだ。
ケネディーは、先の、内村の「代表的日本人」を読んでいたに違いない。

鷹山の偉さ、すごさを細かく紹介するのが意図ではないが、ざっとは言う。

 まず、
財政危機に瀕していた米沢藩の藩財政を、徹底した行財政改革を行って立て直したことで有名である。
 
彼の産業改革の特徴は、家臣や領民を有能な人材に仕立てることに重点を置いたところにある。徳を重んじ、民を慈しんで善政を敷いたところに優れている。
 
行財政改革と言えば、昨年のリーマンショック以来、全世界的な大不況に陥ったのは周知のことだが、日本企業もトヨタや日本航空などをはじめ赤字企業が続出で、大変などたばた騒ぎである。
こうした大欠損を出したときは、日本企業のこれまでの習性として、まず最初に人件費のカットを行う。「派遣切り」から始まって、社員の一時帰休や「肩たたき」や「配置換え」など、さまざまな手法で”人減らし”“賃金カット”を行う。これらを見事に行った経営者が立派だと、評価される。
果たして、そうなのか?
 あまり報道されないが、こうした現象は、特に市町村や県などの自治体で顕著である。それは、当該の首長さんにとって、地域住民感情を鑑みて、公務員の賃金や職員数切りが一番受けのいい政策だからである。

直江兼続の善政の中で、特に学びたいのは、人減らしをしなかったところにある。
上杉家は、家康に逆らった罰で、会津120万石から、関が原の敗戦を通して米沢30万石まで減封された。
四分の一である。
企業で言えば、売上額が120億円から30億円に減ったことになる。これじゃあやっていけないから、倒産したくなければ、膨れ上がった従業員を減らすことをまず考えるのが、現代の企業経営者の一般型である。

直江兼続は、それをしなかった。当然苦しくなる。
兼続はその後、人民の生活が成り立つように、新たな土地の開墾を進めた。そして、治水事業に力を入れた。
米沢城下を流れる最上川上流には3キロメートルにわたって石が積まれ、川の氾濫を治めるために堤を設けた。これはいまでも、「直江石堤(なおえせきてい)」と呼ばれている。
新田開発の結果、表高30万石に対して内高51万石と言われるまでに成果を挙げた。また、町を整備し、殖産興業・鉱山の開発を推進するなど米沢藩の藩政の基礎を築いた。
ここまですると、大概は、現代の政治家のように私腹を肥やしたりするものだが、兼続は終始質素に暮らした。そして、子孫に家督を継がせることもしなかった。直江家は彼の代で絶えたのである。
尊敬する日本人とか、日本の偉人100人とかに吉田茂などが入っていることがあるが、彼は莫大な遺産を引き継ぎ、大変な財を残した。今、そのお孫さんがセレブな生活送っている。僕は納得がいかない。
「金も、地位も、名誉も要らない、という人間は最も始末に困る。しかし、そういう人でなければ、本物の仕事は出来ない。」「児孫の為に美田を買わず」ーー西郷隆盛
鷹山は、謙虚な人である。
自分の行った行財政改革は、直江兼続の行った善政をまねたものだから、正直に、世間に兼続の功績を評価したのである。
でも、皮肉にも、その評価は、現代に至っても、鷹山の功績になっている。
 次に、現代まで語り継がれている鷹山の言葉は、
 「生せは生る 成さねは生らぬ 何事も 生らぬは人の 生さぬ生けり」
 で、誰でも聞いたことがあるはずで、説明は要らないだろう。

 
 そして、「伝国の辞」というものが伝わっている。
  鷹山が、次期藩主に家督を譲る際に申し渡した、藩主としての心得三か条である。

   1 国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして 我私すべきものにはこれなく候
   2 人民は国家に属したる人民にして 我私すべきものにはこれなく候
   3 国家人民の為に立たる君にて 君の為に立たる国家人民にはこれなく候

 

ところで、その鷹山の時代に(寛延四年(1751)7月20日~文政五年(1822)3月11日)直江兼続はどのような評価であったのかと言うと、これがてんで、冴えないものであったのだ。

当時は、『会津120万石あった身代を、米沢30万石に減封させた原因を作った男』として、また、『石田三成と通じて、主君の歩むべき道を誤らせた張本人』として、罪人扱い、奸臣なのである。

鷹山は、米沢藩の中興の祖として、現在でも米沢市民たちに尊敬されているが、その当時直江兼続は、法要すら行われていなかった。
しかし、その兼続を再評価したどころか、兼続の行った善政をそっくりま
ねて改革を行った鷹山は、「上杉家で、直江兼続夫妻の法要を行わず、香典も添えないのは、人情ではない」として、200回忌を挙行したと言う。

上杉鷹山こそ、直江兼続を正しく評価した最初の人物だった。

―――続く
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「直江兼続」と「松姫もなか」、そして「八王子城」と「滝山城」と、いろいろ関連して---3

―――松姫の数奇な生涯―――

姉の菊姫は、上杉景勝に嫁いで殿の寵愛を一手に受け、一時は幸せそうであった。
が、秀吉の命令で京都に人質として差し出されてからは、二度と夫の元に戻ることができず、哀れにも伏見で生涯を終えた。
直江兼続の妻お船も、米沢を出でて菊姫と行動をともにしたが、京都の武将や公家を始め政局を担っている人物と多く交わっていることから、こちらは、京都の情勢をいち早く本国に知らせる諜報部員の香りがする。

さて、妹の松姫である。
改めて、彼女の生涯を追ってみよう。

☆ 永禄四年(1561)武田信玄の五女として生まれる。母は美人で名高い側室油川氏。同腹の兄に仁科五郎盛信、姉に上杉景勝に嫁いだ菊姫。  

☆ 7歳のときに、信長の嫡男信忠(11歳)と婚約。武田家内部では、”信忠正室を預かる"として扱われ、新館御料人と呼ばれる。

☆ 元亀三年(1572)信玄と家康との間で『三方ヶ原の戦』が起こり、信長が徳川に援軍を送ったことにより、婚約解消となる。
   (姉の菊姫は、元亀元年(1570)、13歳で長島願証寺の左堯と縁組があったが、信玄が天正元年(1573)死亡し、信長の本願寺派への虐殺にあって婚約は自然消滅した)

☆ 武田家の家督は勝頼が継いだが、この姉妹は躑躅(つつじ)ヶ崎館でひっそり暮らしていた。
 (天正三年(1575)長篠合戦で織田軍に敗北してから、勝頼に対する家臣たちの信頼は徐々に薄れていった。天正六年(1578)冬、菊姫21歳のときに上杉景勝との縁談)
  
☆ 信玄が没した後、兄の仁科盛信の庇護の下、高遠城の城下の館に移り住む。(天正六年(1578)上杉謙信が世継を決めずに死んだため、景勝と景虎との間で跡目争いが起こる「御館の乱」)

☆ (上杉家の家老直江兼続の策略で、対立関係にあった武田と上杉の間が修復され、同盟したことにより景勝は、跡目争いに勝利する。結果、景勝と菊姫がめでたくご成婚となる)

☆ 天正十年(1582)、かつての婚約者信忠を総大将とする織田軍が武田征伐に高遠にやってきた。
これを避けて、松姫は盛信の幼い娘達3人を連れ、険しい山坂を越えて、武田の旧臣が多く住む武州多摩郡へ落ち延び、古刹金照庵(八王子市上恩方町)に入る。

絵ーー①
多摩のジョギング道より
        
☆ (天正十年3月1日、かつての婚約者信忠の軍は3万の兵で高遠城を包囲し、降伏勧告する。
仁科盛信はこれを拒絶し、自刃。
追い詰められた勝頼・信勝父子らも天目山で自刃し、武田は滅亡)

☆ この年(天正十年)には、松姫は22歳になっていた。
本能寺の変後、信忠亡き後、武田一族とともに冥福を祈って出家し、信松尼と称した。また住まいを金照庵から心源院に移した。

☆ 天正十八年(1590)、八王子・御所水(台町)のあばら家に移住。尼としての傍ら近所の子らに読み書きを教え、蚕を育て、織物を織って3人の姫を養育したという。

☆ 江戸開府の頃、代官頭を務めた大久保長安は武田の旧臣であったが、信松尼のために多大な援助を行った。
また、長安が組織した八王子千人同心の中には、やはり武田の家臣らが多く含まれていたが、美しい松姫の存在が心の支えになっていたという。

☆ 元和2年(1616)享年56歳で没した。草庵は、現在の信松院である。

―――『松姫』の逸話とさまざまな伝説―――

母の油川夫人は甲州一の美人として名高かったらしい。
信玄は、美人好みで、周囲の豪族たちを討ち取っては、美しい女たちを側室にしたという。
同腹の姉妹である菊姫も美貌で有名であったというし、もう一人の真理姫もまた美貌秀麗であったという。

ここで、少し『多摩』のお勉強

 松姫が一時移り住んだ心源院は、多摩の三大悲劇の武将と言われる大石定久の開基になる寺だ。
その昔木曽義仲を祖とする大石氏がいつの頃か関東に移り住み、青梅の三田氏と多摩を二分する勢力を誇ったが、やがて戦国の勇、小田原北条氏が関東の覇権を掌握するところとなり、12代大石定重は自領防衛のため滝山城を築いた。

しかし13代大石定久は北条氏の圧力に抗しきれず北条氏照に城を譲り、自身は戸倉城に隠棲した。多摩の名族としての誇りを傷つけられた定久はその後、八王子柚木の永林寺に移り住み、最後は野猿峠の頂きで自刃して果てたという。

もりたなるお著の歴史小説「千人同心」によれば、
天正十年(1582年)甲斐の武田が天目山で織田信長に滅ぼされた折り、信玄の娘松姫は当時関東を支配していた小田原北条氏の庇護を求めて甲斐を脱出したという。

絵ーー②

山深い道なき道を辿って、和田峠を経て甲州裏街道に入り、上案下(かみあんげ)の里の金照庵にたどり着いて八王子城主北条氏照の助けを求めたと記されている。
その後、松姫は身の安全を守るため下恩方の心源院の卜山禅師(ボクザン)の元に身を寄せたとされる。
北条氏滅亡後は武田の遺臣を多く含む徳川幕府直参の千人同心に手厚く守られて天寿をまっとうした。

当時の武士に弓矢と松姫とどちらを取るかと言われれば、誰もが弓矢を捨てて松姫を取るといわれた程大変な美貌も持ち主だったと伝えられる。

―――続く。

「直江兼続」と「松姫もなか」、そして「八王子城」と「滝山城」と、いろいろ関連して---2

前回、八王子城と滝山城について、少しだけ触れた。
これらのお城の主は、北条家の最後の殿様氏照であったが、八王子城落城のあと切腹して果てた。
その氏照が、いつくしんで庇護した武田のお姫様がいた。
信玄の娘で、『松姫』という。

僕が住んでいる日野や八王子あたりで有名なお菓子といえば、高幡饅頭、歳三もなか、それとも―――?
大して種類はないが、八王子に「松姫もなか」というのがある。
このお菓子、その存在すら知らない人が多いが、その松姫伝説には悲しい物語が多く伝えられている。

松姫も中
松姫もなか

なぜ、ここで「松姫」なのかというと、これが意外にも、直江兼続や上杉景勝、さらには織田信長につながっていたからである。


上杉謙信が死んだのは天正六年(1578)であったが、その後継争いが二人の養子の間で起こった。
一人は景虎であり、もう一人が景勝であった。
この戦を『御館(おだて)の乱』という。
この戦は、景勝側に直江兼続という優秀な武将が活躍して後継争いに幕を閉じたのだが、それにはだいぶ権謀術数を駆使して勝利した 
のである。

越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄は『竜虎』と呼ばれて、終生に戦い続けて決着がついていない。信州川中島の戦では五度戦った宿敵である。
この二人が死に、それぞれ子の代になって同盟を結んだ。
誰もが耳を疑った。
ありえない話である。

『御館(おだて)の乱』の前哨戦は、圧倒的に景虎側が有利に展開していた。
それは、こうだ。
景虎は、小田原北条家からの養子だから背後に北条が着いている。それに、甲斐の武田家の総領勝頼の正室は景虎の妹であった。
だから、この北条、武田の両軍を敵に回して景勝側は到底戦に勝ち目はなかった。

勝頼は北条の依頼で越後に出陣し、景勝の籠っていた春日山城まで迫った。後は、北条軍の到着を待って景勝を討ち取るだけというところまで事は整っていたのだが、事態が急変した。
北条が来ないのである。
勝頼は、北条からの依頼で戦に出陣したのに、「たばかったな」、馬鹿にするにもほどがあるというわけだ。

そこへ、狡猾なる兼続が動いた。
「我が方と、手を組まれぬか」
なんと敵側から、同盟の提案である。「---------我が上杉は、謙信公以来『義』を重んずる家風でござる。決して同僚を裏切らないことを至上としているのである。そこへいくと、北条はどうか。景虎様を傀儡にして、越後へ勢力を伸ばし、さらに武田領の信州川中島まで手を伸ばすは必定」

戦国は、乱世である。
妻の実家だとはいえ、北条は信用できない。
この度だって、援軍には来ないではないか。
その上、兼続はもっとおいしい条件を突きつけた。
「もし、当方にお味方くだされば、越後の根知城を差し上げましょう。いやいや、そればかりでない。---上野国の上杉領をそなたへ差し上げよう。またさらに、一万両を差し上げたい」とまで、言った。

根知城は、日本海に程近い城であった。
当時の物資輸送は舟運が主流であり、それも日本海側がほとんどで太平洋側ではなかった。この権利を手にできれば、莫大な富をもたらすことができる。海に面していない甲斐の国にいる武田にしてみれば、目から鱗のおいしい話で、
「良い話だ」
勝頼の心が、動いた。
そこにすかさず、兼続は、
「いかがであろう、武田、上杉の両家の同盟の証にひとつの縁組をご提案したいが---」
「------」
何を、藪から棒に。
上杉景勝はすでに24歳になるが、いまだ独身であった。信玄の娘で勝頼の妹の"菊姫"も20歳を超えていた。
「似合いであるとは、思われぬか」と、兼続。

翌天正7年、越後の内乱に決着がついた。
何よりも、武田家との同盟が功を奏し、戦いの帰趨を決めたのだった。
菊姫は、春日山城に輿入れすることになった。


この菊姫に同腹の妹がいた。
松姫という。
「姉上、おめでとうございます。私の分まで、お幸せにおなりください」

この姉妹、数奇な運命を背負っていた。
姉の菊姫は、先に長島願証寺の左堯という人に嫁ぐことになっていたが、破談になっていた。
天正元年(1573)、信玄が信州駒場(こまんば)で病死した。
すると、夫に決まっていた願証寺の左堯が信長に攻め滅ぼされ、婚約が自然消滅になったのである。

妹の松姫は11歳のとき、なんと、織田信長の跡継ぎ信忠との婚約に破れていた。
この婚約は、信長が、武田軍の尾張進出を恐れて懇願したものであった。
信玄側も、信濃全土の平定があったし、何よりも、上杉謙信との戦に専念したいという思惑が一致したのである。
だが、元亀3年、家康との間で『三方が原の戦』が起こり、信長が家康に援軍を送ったことから、武田織田の両家は縁切れとなり、松姫の婚約は解消された。

菊姫、松姫の姉妹はどこへも嫁がぬまま、躑躅(つつじ)ヶ崎館でひっそり暮らしていた。

家督は異母兄の勝頼が継いだが、天正三年長篠の合戦で織田の鉄砲隊に敗れると、武田家の家運は衰退の一途をたどり始めた。そんな中信玄の死から5年後の天正六年の冬に、上杉景勝と菊姫との縁談が持ち上がったのである。

続く。
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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