村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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清河八郎の企みと幕府の真意は―――

この20日に、初めて「第九」を歌った。
そのコンサートを開催することが僕の仕事でもあったのだが、7月から毎週日曜日に合唱練習に参加して、その日に向かって懸命に歌詞を覚えた。
正直、歌い終えて感動ものであった。
コンサートそのものの出来もよく、皆さん、大きく絶賛してくれた。
今回は、特に、ソリストが一流どころで自信はあったのだが、無事に終えて、今、ホッとしている。

せっかく覚えたテノールのパートなので、これでおしまいではもったいないから、来年は2月に国技館ですみだの「第九」を経験して、6月にはベルリンで歌ってみようかと思っている。
来年はベルリンの壁が崩壊して20周年に当たるので、崩壊した年に演奏した第九を再び演奏するということだ。
それに、出たくなった。
ベルリンのベルリンフィルハーモニー・ホールで13日に開かれる。

僕の病気は検査漬けで、来年早々、正月7日に3日間入院して内視鏡で肺の一部を切り取るということだ。
軽く済んで欲しいのだが。
あと何年健常者として行動できるかわからないので、あせっていろいろな活動をしている。「第九」を海外にまで出て歌うのも、そんなところからきている。

ところで、前回、新選組の黎明期について多少触れた。
清河八郎の急務三策を幕府は受け入れたのだが、その理由もいまひとつ納得いかない。
その後、直ちに江戸に急旋回した経緯もまたわからない。

他人に新選組の話をする僕が、このようなあやふやなことでは失礼極まりないのだが、どう調べてもわからないのである。
わからないというより、二つの説があって、そのどちらなのか判断がつかないのだ。

ひとつは、何故、お尋ね者の清河の建策を当時の幕府が受け入れたのか、ということだ。
「一に攘夷、二に大赦、三に教育」と清河は言ったらしいが、幕府は、この3つとも納得していないと思うが。
浪士組を組織した真の狙いは、何にあったのか。

当時、江戸には質の悪い浪人どもが闊歩していて、散々悪さを繰り返すのでこれらをまとめて京都へやってしまい、将軍の警護をさせるという考え方。
わからないでもないが、中には倒幕の志士らもたくさんいたわけだから危険極まりない筈だ。
よく決断したものだ。

不逞浪士による外国人暗殺も繰り返され、前年に起こった生麦事件の賠償問題も解決していない。
イギリス側は、武力の威嚇を繰り返しているので、そうした浪士たちがイギリス人にどんな仕打ちをするかわからない。それでなくても、生麦事件の賠償で幕府は10万ポンド(約10億円か)も要求されている。

これ以上の不祥事は避けなければならない。
危ない連中を、一人あたま50両という支度金を用意してまでも、京都へ一時的にやってしまおうということなのだろう。
(勝海舟が、慶応四年3月初旬、新選組を甲州へ支度金を添えて一時的に追い出したという話とよく似ているーーー甲陽鎮無隊)
それを50人とみていたのが、400人以上応募に来たというのは誤算だったが。

清河は、この状況をうまく利用したのだろうか。
ここぞとばかり、能弁を使って、また山岡鉄太郎という友人を媒介して幕府に建言したのだろう。
権力側にとっても渡りに船の妙案で、すぐさま2500両の支度金を用意させて、浪人たちを江戸から追い出しにかかったのではないだろうか。

でも、いくらこのような建策があったからといって、それを鵜呑みにして、そのまま採用するだろうか。
清河なぞという人物の存在は伏せておいて、また、自らの発案でそのような対策とった形にするのが政事というものであろう。

浪士組を先に出発させて(2月8日)、京都の街中を露払いさせておくことをひとつの目的にしていた、といわれる。また、この際、東海道では目立ちすぎるので、中仙道を選んだとも言われる。
露払いといっても、実際どのようなことが出来るというのだろうか。
甲斐の国の博徒集団まで含んでいた浪士組に、余計なトラブルを起こさせないで、京都の治安維持部隊としての任務など果たせると思っていたのだろうか。

それとも、とりあえず危険人物連中を江戸から追い出す。将軍の警備という、名目で。
だって、実際に14代将軍が出発したのは13日で、道程は東海道であった。
その供揃いには3000人とも言われ、直参が付き添った。
八王子の千人同心もそこには参加して、井上源三郎の兄、松五郎も加わっている。
こうしたお供が付き添っていたのだから、京都で、浪士組が是非とも必要だったとは思われない。
何故、浪士は集められたのか。
時の幕閣の真意を知りたい。

一方、清河の策略である。
いろんな考え方が出てきているが、いまひとつわからない。

史実として語られているものに、
文久三年2月23日浪士組が京都に到着した後、直ちにその晩、清河は浪士たち全員を壬生の新徳寺に召集した。
そして、京都朝廷宛の建白書を示して浪士たちに同意を求めた。
「我らは、尽忠報国の志により集められ、将軍が尊皇攘夷の任務を遂行するのを補佐するために上京した。
幕府の世話で上京したけれども、禄位は受けておらず、天皇の命令を妨げるものがあれば幕府の役人といえども容赦しない。
この真心が貫徹できるよう取り計らっていただきたい」
というもので、中には、何の意味だか良くわからないで、署名してしまった浪士もいた。
近藤や土方、芹澤もみな署名した。

清河は、翌月3月5日までにあと2通書いたらしい。
その上書に、清河の構想が読み取れるというのである。

「浪士組は将軍と共に江戸へ戻り、関東で攘夷を行う」
「上京した将軍は、天皇に挨拶したら直ちに帰府して攘夷を実行するというのが基本」
「浪士組は将軍と共に東帰し、将軍の攘夷を助ける」
「京都の守護は、守護職の会津藩主松平肥後守容保に任せればよい」「兵力が足りなければ、諸藩から御親兵を出させて補う」

このような内容が書かれているというのだが、僕は、この上書を見たことがないので、この解釈が正しいのかわからない。
僕は、今まで、清河はあくまで京都で攘夷の運動をしようとたくらんでいたと思ってきた。
前年の文久2年4月のときも、そのつもりだったが、薩摩の内部分裂で寺田屋騒動が起こってしまい、目論見が崩れた。

ところが歴史家の中には、清河は、

“江戸に戻ることが、最初からの方針だった”
“将軍とともに速やかに、東帰する予定だった”

そして、

“将軍の攘夷を助ける”

という企みだった。
本当なのか。

結果は、清河が余りに目に余る行動に出たので、臨時に組閣された在京老中たちが、皮肉にも3月8日、あわてて東帰を命じたという。将軍は、京都に残ったままである。
このときの浪士取締に任ぜられたのが山岡鉄舟の義兄弟、講武所槍術師範役高橋泥舟だった。

このあたりの真実を知りたい。
どなたか、確信を持ってコメントできる方にお会いしたいが。
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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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