村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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大病して、初めて見えてくるものとは


今日は、退院後初めて、病院に来た。
まだ、立ちくらみがするので、内科担当医の鎌田医師がMRI撮影の手配をしてくれていたのだ。

いつものことながら、レントゲンと血液の検査をしてからMRIで、すべての検査が終わるのに3時間はかかった。
相変わらず、あそこの病院は何をするにも行列である。

でも、本日は、とても嬉しかった。
鎌田医師は言った。
「今日撮ったレントゲン写真を見ても、4年前の写真を見ても殆んど変わりがありませんね」
「変化がないということですか」
「そう、病状が変化していない、進行していないということです」
目の前が、明るくなってきた。
先生は続けて言う。
「今後、突然、病状が悪化しても、この間の手術の結果で対応が明らかになるでしょうから、大丈夫」と。

最近、こんな嬉しい出来事はなかった。
まだ30歳そこそこのお医者さんだが、この人が神様のように思えてきた。

あまりの嬉しさに、信濃町の駅ビルにあるすし屋で、独り祝杯を挙げた。
このまま、まっすぐ家に帰るのもつまらないので、このあたりを散歩したくなった。
今日は3月27日で、今年はさくらの開花が早いと言うことだが、東京のど真ん中は、まだ3部咲きにも届いていない。
ココのところ気温が低かったせいだろうが、今日は、散歩には丁度良いほどにお日様が照っている。

信濃町の駅を南の方向へ歩くと右が神宮外苑で、左が結婚式場で有名な明治記念館である。
この明治記念館に道を挟んで対面が東宮御所になっている。
江戸の頃は、御三家筆頭と言われた紀伊家の屋敷あとだ。ココに、東宮御所と迎賓館が入っている。

抜けるような青空の下、独りゆっくりと迎賓館方向へ歩いた。
このあたりは東京の中心地だろうに、物音が殆んど聞こえないほどに静かである。
坂を下って、再び登る。
すると、今話題の『学習院初等科』の正門が左手にあった。
ココを右に折れると、迎賓館の正門が見える。

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大病をして、初めてわかることがある。
月並みだが、『健康でいることの、ありがたさ』だ。
今、こうして、温かい日差しの下、自分の足で歩けることのありがたみである。

病院に2週間いたが、いろんな病人を見てきた。
中には、仰向けに寝たままで、口に酸素吸入器を当てている人も何人か見た。
僕も、いつかは、ああゆう風にと、思ったりもした。

健康の前には、どんな物欲も吹っ飛ぶものだと、最近開眼した。
アレだけ、物金に執着していた自分なのに、健康で外を歩けるなら、すべてを投げ出してもいいと考えたりもする。
病気になって、元通りに回復の見込みが亡くなった人にとっては、モノ金なぞ何の役にも立たないのである。
兎に角、欲しいものは、何も特別なものでなくてもいい。普通の身体、健康なのだ。

苦労して、築いてきた財産だって、例えそれが何十億、何百億あろうとも、自分が寝たきりになってしまったら、なんの価値もないのである。
「それらすべてを捧げますから、どうか神様、普段の自分に戻してください」と、頼む。
「家屋敷すべてをなくしてもいいです。そして、自分は昔のアパート4畳半暮らしでもかまいません」

そうしてまでも、人間とは、健康が欲しいのである。
これらは、自分が患って初めて気がつく。

そういえば、沖田総司はこのあたりで肺を患って、息を引き取ったはずだ。
慶応四年の5月末である。
だから、丁度いま時分の頃、この近辺で寝ていたはずだ。
千駄ヶ谷駅のすぐ横の、新宿御苑の端っこであった。
植木屋の離れに、独り寂しく寝ていただろう。

25,6歳の彼は、寝ながら何を思っていただろうか。
もっと、少しでも、生きたいと願ったのだろうか。
多分、そうじゃない。
心静かに、死を待っていたと思う。

「文久3年2月、試衛館の仲間内は、こぞって京都へ上洛していった」

沖田は、次第にかすんでいく天井を眺めながら追憶していた。
「残念にも、山南さんは慶応元年2月に死んだ。
自殺だ。
あの人は病に犯されていたし、それに、土方さんと兎に角、反りが合わなかった。
藤堂も、慶応3年11月に、内部抗争の末斬られた。
源さんは、淀の戦で命を落とした。
近藤さんも、この4月に板橋で斬首だったと聞く。
皆さん、待っててください。まもなく僕も、心静かに、皆さんのところに行きますからーーー。」
「それにしても、わからないのは、土方さん。―――あなたは、一体今、何処で何をしているんですか。周りの人たちに、嫌われていなきゃあ、いいですがーーー」
こんなところかな。

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自宅には帰ったが

昨日、自宅に帰った。
何か、たった2週間の入院だったが、懐かしい感じがした。
自分のベッドに、久しぶりでもぐったが、「そうか、これがオレの匂いだ」と、改めて確認した。

ところで、前回も書いたが、いまだめまいが治らない。
一体いつになったら、元に戻るのだろう。
四六時中なので、本当にいやになる。
でも、何かに夢中になっているときは、一瞬忘れることがある。
だから、僕の得意分野で、音楽つまり楽器を吹くことにした。

友人の中には、肺を悪くしているのだから、楽器なぞ吹くなんて無茶だ、と、言う人もいた。
でも、この病気を宣告されて以来、かなり真面目にサックスの練習を重ねてきた。
いや、むしろ、逆に夢中になってやった。
「やれるうちに、やっておこう」
と。思ったからである。

スルト、以外にも、今回の外科手術の担当医の江間医師は、「どしどし、やりなさい」

と、言ってくれた。
「それが、身体によいのです」と、言う。
確かに、肺機能を復活させるには、よいと僕も思った。

それは、こういうことであった。
入院している間、地下の売店で『スーフル』という、”呼吸機能回復訓練器”を買わされた。

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プラスチックで出来た、ごく簡単な軽い縦笛のような筒のものだが、上部の白い出っ張りを口にくわえて、思い切り息を吸い込んだりはいたりして、徐々に肺の機能を元に戻すものである。
これを毎日、朝昼晩にやってくださいと、看護士に言われた。

あの手術は、一時的に肺の機能を全くとめて行なったものなので、その間、約2時間弱は人工呼吸であったらしい。
僕は、全身麻酔をかけられていたので、何をされたのか、全くわかっていない。
と、いうことは、
一定時間、僕の肺は、機械で動いていたわけで、自分の呼吸で動いていたのではなかった。

人間、一度、こういう風にその機能を止めてしまうと、元通りに戻すには、かなりの努力が必要になるらしい。
そこで、このスーフルという代物にお世話になって、肺の機能を回復させると言うものである。

これが、意外と高く、4990円もした。
本当に簡単なものなので、下手をすれば、100キンでもいいくらいなものだ。
でも、僕には、今大切な宝物なのである。

入院中、夢中になってこれを吹いた。
なぜ?
これが、あのサックスの奏法と全く同じ呼吸法なのである。
そう、腹式呼吸で、思い切りすえるだけ吸って、吐けるだけはく。
僕は、病院が寝静まった夜の12時ごろ、自分の個室で立ちんぼうになって、耳にMDウォークマンのヘッドホーンを当てて、自分がこれから取り組む曲を流して、このスーフルを吸った。

退院するときに、江間医師は僕に言った。
「村瀬さんは、異常なほど、肺の回復が早いですね」と。
「2~3日で、普通の肺の大きさに戻っていましたよ」と、言ってくれた。
僕が、事情を話すと、
「そうですか、それはいい。どしどし、肺が回復するように、やってください」だと。


今日は、朝からめまいはしていたのだけれど、夢中になって楽器を吹いていたら、身体の痺れは、どこか吹っ飛んでいた。

全身麻酔、それは身体に大きな打撃を与えた

本日、退院しました。

今日(3月17日)信濃町の慶応病院を後にしました。

今月4日からですから、ジャスト2週間の入院でした。
『間質性肺炎』という厄介な難病にかかってしまって、
2度の精密検査のための手術でした。

悲しいのは、手術に成功したからと言って、これで安心と
言うわけではなく、この手術で切り取った検体を基にして
これから検査だと言うから否になる。

今、僕の肺から切り取った組織は、外科から内科へ回り、
調べられていると言うが、今月27日には、治療方針が決まると言う。

今、僕は、ひどい”めまい”に悩まされている。
脇腹を3箇所穴をあけられて、それぞれ3箇所、肺を切り取ってきて
検査に回っているのだが、その手術そのものは成功して万全らしい。
だから、その後の回復は順調である。
順調と言っても、これだけの大手術だから、
身体に与えた打撃は相当なもので、今、その後遺症に悩まされている。

手術が終えてからの痛みは、筆舌に尽くしがたいもので、あの切腹の
痛みに似ているのではないか。
手術のあとを左手を上げて鏡に移してみてみると、3箇所に傷があり、
1つは大きく穴が開いている。
本当に、刃物で穴を開けたように見える。
自分の身体なのだが、眼を背けたくなる。

慶応元年2月23日に、山南さんは前川邸で切腹した。
彼は、自分の腹を十文字に割いたと言われているが、本当なのだろうか。
いくら、精神が勝っているとはいえ、果たしてそんなことできるものなのか。
でも、あの時代の武士と言うのは、その程度に腹が据わっていたのかもしれない。

僕なぞ、今、時々、痛み止めの薬が切れて襲ってくる痛みに耐えがたいほどの苦痛を感じている。
本当に、かつて味わったことのない、身体全身に大打撃を与えるような痛みなのである。

それをとめるために、かなり強い痛み止めの薬を飲んでいる。

手術中は、点滴で全身麻酔の薬だし、
麻酔からさめた後の身体の調子といったら、
まるでもう、自分のこれまでの肉体ではなかった。
全く違う人間に変貌してしまったようである。
すべてがだるくて、ふらついているのである。
これは、いまだに直らない。
入院中、トイレに行くのにも、看護士の手を借りるほどであった。
その後、今は、大分よくなったが、それでもめまいはひどい。
その上、血圧が120程度であったものが、160前後に上昇した。
担当医に相談を何度もした。
彼も、困り果てていたが、とうとう、本日、
退院と言うことになった。

大変、不安であったが、その担当医は「自宅に帰って、
環境が変われば、また、違うこともある」というのである。
血圧も、下がるでしょうと言う。
それに、従った。

でも、あまりのひどさに、耳鼻科には2度行って検査してもらったし、
神経内科にも診てもらったが、そのどちらも異常はないという。
それでも粘ったら、今度、MRIの検査を受けることになった。
首の後ろに違和感を感じるので、そういうことになった。

これから、自宅で、最低2週間は療養生活に入る。
早く、元の身体に戻って欲しいのだが、戻ったとしても、
本来の病気の「間質性肺炎」が良くなったわけではない。
これは、これからなのである。

なんとも気の長い話だが、これからの人生、
こういう病気との闘いの明暮れなのかもしれない。
でも、世の中、病院の中で様々な光景を眼にしたが、
寝たきりの人のなんと多いことか。
自分もああなるのか、ああゆう人たちだって、
きっと、頭の中は健常者と同じように働いているに違いない。
身体がいうこと利かないのだ。

つらいだろうな。
自分もいつかあのようになるはずだが、今から、
どういう心構えをしておいたらいいのか、訓練しておこう。
今回、つくづく、様々なことを体験させてくれた。

入院雑感

僕の病気は 間質性肺炎というもので 国が難病指定している
つまり 何をしても 治す手立てがないというもので 極端に言えば 死を待つしかない病気ともいえる

でも 余程運の悪い人でもないかぎり 何年かは 生きられる

もっと運のいい人は20年でも30年でも生きられる

すると 健常者と大して変わらない
実に 厄介だ

僕の場合も何が原因で
何処がどうなっているのか解らないから 1月に内視鏡の手術で 3月に今回の摘出手術なのだ

これで 原因は突き止められないが 治療方針は建てられるらしい

でも 余程運が良くないと 適合する薬がないということだ

この度 僕が受けた治療も 慶應でも数少ない症例しかないということだ

精密検査の結果が出るのに 一月はかかると言われた

病院から呟きはじめました

横の腹 3箇所も穴 空けられた

今 チョー痛い

かつてない鈍痛だ

肺も斬られて痛いし 一応成功らしいけど息を吸うのも辛い

これじゃ 当分 楽器どこじゃないよ

今月一杯安静だとか

まっ、四月から徐々にね

仕様がないね

気長に




管理人より

時差は少し生じますが、村瀬からの呟きをアップすることにしました。
携帯でコメントが読めたり、返事が書けるとのことです。

入院&池波正太郎氏

明日から、突然、入院です。
それにしても、さすが、池波正太郎氏。


さっき、病院から電話が来て、「明日(4日)から、入院です」って。
急すぎる。
でも、仕様がない。


検査のためとはいえ、全身麻酔で、肺の組織を3ヶ所切り取ってくるというもの。

いやだ。

初めてのことだが、意識がちゃんと回復するのかなあ。
娘には、若し、回復しないといけないから、わずかな貯金のことなど、言っておいた。

このブログ、これだけじゃつまらないから、何か書こう。
前回、歳三の浅草での逸話を書いた。
ああゆうのを書いたのは、思い返せばあの当時(5~6年前)、あの傾向の書物をよく読んでいたからだと思う。
新選組関係の本を、とにかくよく読んだ。

その中に、火付盗賊改の長谷川平蔵を書いた池波正太郎のものがあった。
あの人、江戸文化に造詣が深い作家で、新選組なぞ書いていないかと思いきや、結構好きらしい。
彼の思い出話に『土方歳三』というタイトルがあって、その冒頭部分、池波氏の原文そのままを、載せさせていただく。

 今から6年ほど前の、夏のある日のことであったが……。
 母と家内と三人で、テレビを見ていると、母が何気もなく、私に、

 「土方歳三っているだろう、新選組のさ」
 「ああ、いるよ」
 「たしかねえ、その土方歳三のだと思ったけどねえ……」
 「なにが?」

 すると母が、
 「あの土方って人の彼女は、京都の、経師屋の未亡人だったんだってねえ」
 と、こういうのだ。

 私は顔色を変えた。

 「どうして、そんなこと知ってる?」
 「昔、お父っつぁんに聞いたことがある」

 母の父は、即ち私の祖父である。


こういった池波氏の随筆である。

その後、彼は、お母様のその一言で、あるアイデアを思いつき、土方の短編を書いたそうだ。

題名は、『色』。

もう少し、池波氏と母上との話の続きを書くと、こうだ。

 「もっと、詳しく話せよ」
 「それだけしか、覚えていない」
 「もっと、思い出せ」
 「無理だ、40年も前のこったもの」
 だが、それだけでも私にとっては十分であった。
 このときまでは、私は[新選組]を書こうという意欲が余りなかったといってよい。
 新選組については、故子母沢寛氏の不滅の史伝があり、われわれが、足を踏み入れるべき余地はない、と、私は考えてもいた。
 
 しかし、このとき、母が漏らしてくれた素材―――すなわち、新選組の副長を務め、鬼と呼ばれた土方歳三の馬ていをつとめていた男が、明治になって飾職人となり、その息子が友人(私の祖父)へ[土方歳三の色女は、京都の大きな経師屋の後家さんだったそうだよ]と、こう話したという、それだけのことが、私の執筆意欲をそそった。

 そこで、あらためて新選組関係の資料を集め直し、翌年になってから、土方歳三を主人公にした[色]という短編を『オール読物』へ発表したのである。


あの当時は、この池波氏の随筆を見ても大して感動もなかったのだが、今になってみると、貴重な池波さんの体験談だった。
こういう池波さんの体験談から、自然、僕も『駒形どぜうの女将さん』からのヒントで、「すってん業平~」のような小噺を思いついたのかもしれない。
勿論、池波さんと比較するなぞ、到底出来ないほど稚拙なのだが。

お母様からの一言も重要なのだが、池波さんが書いている「故子母沢寛氏の不滅の史伝があり、われわれが、足を踏み入れるべき余地はない」という、一文に僕は動揺した。

ああ、そうか。
昭和の初期に出された子母沢寛氏の3部作は不滅のものであり、作家仲間の間では、踏み込めない領域だったのか、ということである。
だから、昭和38年ごろに司馬遼太郎が書いた「燃えよ剣」とか「新選組血風録」も、子母沢寛氏の説を大概そのまま受け継いでいる。
(勿論、その後の、三谷幸喜さんも)

当時、子母沢寛氏は、調査のために何度も京都に赴いて調査を続けられ、かなり苦労されて、新選組異聞や始末記や、物語をお書きになった。
生き残りの人や、永倉新八関係の人たちとも接触してお書きになった。
頭が下がる。
だから、新選組の『バイブル』なのである。

でも、今になってみれば、試衛館の所在地が小石川になっているし、明里と山南の関係や存在など、記憶違いや創作なぞも出てきている。
司馬さんに至っては、「燃えよ剣」の中で、斉藤一に関する記述に大きな間違いもある。
函館まで一緒に行っているし、一諾斎と同一人物になっている。
大作家になると、間違いが発見されても、誰も言おうとしない。その存在がでかすぎて、いえないのかなあ。

でも、それらがみな、史実になっていってしまう。
これで、いいのだろうか。
もう一度、病室でじっくり考えてみる。

入院前に、とんだイチャモンをつけてしまった。
しばらくは、自宅で、パソコンを開けないので、皆様、すいません。
無事に、退院してきてから、またコメントします。




管理人より

村瀬は本日4日より2週間入院予定です。
コメントのお返事は2週間後となります。
ご了承くださいm(__)m


携帯から返事が返せるそうです。
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
    サイトに関してのお問い合わせ(動作不具合など)は管理人までお願いします。
    村瀬へのメールはこちら






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