村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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ベルリン『第九』体験記-5(終)

ベートーベンは、偉大である。
世界の人々に、共通の「歓び」を与えてくれている。
そう、ポンペイでも、珍事が起こった。あの遺跡の中の小劇場で「第九」を歌ってしまったのだが、それだけではない


――― ベルリン『第九』体験記-5 ―――


素晴らしい「第九」だった。
僕は、これを歌うのは3度目だが、今回が一番満足できた。
それは、病気をして、医者から「大丈夫」と、お墨付きをいただいた後だったので、体調が万全だったことが大きい。

そういった、個人的な事情もあるが、やはり、ベルリンフィルの本拠地のステージに乗れただけで満足なのである。

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ステージ

簡単には、経験できないことなので、良い思い出作りになった。
そして、よいお友達も出来たし、前回、旅行費用のことを話題にしたが、金には変えられない。

さて、本番が終わって、翌日には、直ちに日本へ帰る組とローマ、ナポリへ寄る組とに別れた。
僕は、もう一度ナポリとポンペイへ行きたかったので、イタリアへ飛んだ。

でも、あの飛行機の乗り継ぎには辟易する。
所謂、ハヴ空港ってやつだろうが、必ずどこかの空港へ寄る。
直接は、飛んでいないのである。

行きは、成田からフランクフルト経由でベルリンへ。
帰りは、ベルリン空港からミュンヘンへ寄ってから、乗り継いでローマ空港である。
その後も、ローマからフランクフルトで乗り換えて成田である。

飛行機そのものに興味があった時代には、それでも良かったのだろうが、現在のように移動の手段となっている今、それらが苦痛である。
何せ、日本からヨーロッパは、1回のフライトで10時間以上も缶詰にされるわけだから、こうした高齢化の時代になるほど、300人~500人ものる乗客の中には、具合の悪くなる人も出てきて当然である。

僕は、今回、そうはならなかったが、仲間で1人、気分が悪くなって歩けなくなり、飛行機から降りられなくなってしまった人がいた。
まだ50代の人である。
車椅子で、何とか降りたが、僕らは、その人が成田空港で、救急車で運ばれるまで見送った。

経営破綻したJALをはじめ、各航空関係の企業も生き残りに大変なのだろうが、マイレージとかいって様々なサービスをあの手この手と考えるのもいいが、これからは、長時間乗るフライトへの配慮なども、もっと必要になるだろう。
それは、子供や幼児向けの配慮も含めて、考え直すときがきている。

缶詰にして乗客を運べば儲かるかもしれないが、これからの時代、それでは客は離れる。
エコノミー症候群対策として、座ったままの体操なぞを最近、飛行機の中で放送しているが、あんなもの、大した効果があるとは思われない。

むしろ、軽い体操やストレッチなどが出来る空間、幼児が遊べるところをわざわざ作って、
「いつでも、お使いください」
と言った方が、客はつくのではないか。

あまり良いことではないが、僕は、あの狭いトイレの中で4~5時間に1回はストレッチをしている。
いろいろ、工夫して。

さて、《ナポリのごみ》だが、今回はバスの中から車窓でしか街中は見られなかったので、実態がどうなのかはよくわからなかった。
だから、現地のガイドに《ごみ事情》を聞いてみた。

すると、意外なことを言った。

「今は知りませんが、一時は、ごみの捨て場所がなくて、わざわざドイツまで捨てに行っていたそうです」

勿論、ドイツ政府の許可を貰ってのことだろうが、イタリアからドイツでは、間にアルプス山脈があるだろうに、大変だ。
僕が、今から約10年前、ごみの仕事をしていたころは、ドイツがごみ処理の先進国で、よく視察に(本当か?)出かけていく役人がいた。
今回、ベルリンの街中でゴミ箱を見たのだが、確かにここは、可燃と不燃の別がない。
今の日本では、考えられないことだ。

我国では、現在、できるだけ分別してごみを少なくし、多くのものをリサイクルすることが美徳とされている。
燃えるごみも燃えないごみもいっしょくたになぞという発想は、許されない。
だが、燃えないごみの埋立地にも限界がある。
実際、不燃の量が多すぎて、多く人が困っているはずだ。
いや、これは、量が多いのではなく、殆んどがプラ・ゴミだから、空気である。
それも、多くが脂っこく汚れている。
実際は、埋めているより燃やしている。
じゃなきゃ、最終処分地が直ちに満杯になる。

ナポリは、車窓から見たのだが、街中が相変わらず汚い。

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公演や道路のゴミ

景色は、抜群である。

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ナポリの風景

でも、下を向くとだらしがない。
ある人は言う。
それら全部を含めて、ナポリなんだ、と。

ところで、旅の最後に、ポンペイを見学した。

ここは、僕が、特にお気に入りのところで、2度目だが、なんとなくいいのだ。
遺跡に入ってすぐのところに、小劇場がある。
石造りの、アテネやローマにもあるあの半円形のものである。

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ポンペイアラカルト

ここで、椿事が起こった。
我等は60名の合唱団で、その半数が既に日本に帰っているが、残りの約30名は、このポンペイに来ている。
この人たちが、突然、その石舞台に勢ぞろいし始めた。

沖縄から参加してきた一人の男性が前に出て、仕切り始めた。
そして、指揮を始めた。
「男性はこちらへ、女性はそっちに並んでください」
「それでは、4楽章のフロイデ・シェーネのところを歌います」
と、誰の許可を取るでもなく、勝手に歌い始めたのである。

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小劇場で歌う合唱団

打合せをしたこともない。
沖縄の髭のおじさんが、自分勝手に言い出したのであるが、不思議なことに、誰も、
「やめようよ」とか「まずいんじゃない」とかも言わず、当然のことのように、全員が素直に歌いだしたのであった。

僕も、結構、図々しいところのある男だが、このときばかりは躊躇した。
だって、ポンペイというところは、勿論世界遺産だが、その中でも突出して人気のスポットで、世界中からワンサと観光に来ている。
だから、その小劇場の中には、世界の観光客でひしめきあっているのだ。
でも、我国の第九合唱団は、全く意に介せず、動ぜず、当たり前の如く「歓喜の歌」を歌ったのである。
それだけではない。
その指揮者は、
「次に、花を歌います」
『は~るの、うら~ら~のーーー』

それが終わると、《もりのくまさん》である。
ポンペイともりのくまさん。
なんとも、意外な取り合わせ。

日本から来た『第九合唱団』の歌声が、ポンペイの小劇場に鳴り響いた。
不思議なもので、世界中から来ている観光客たちももの珍しい顔で、拍手喝采なのであった。
『第九』は、世界共通言語なのだ。

こんな椿事も、第九好きが集まったツアーだから出来たことなのだろうが、旅の終わりに、あのポンペイで、良い想い出ができた。

ベートーベンは、偉大である。
世界の人々に、共通の歓びを与えてくれている。

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(おわり)

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ベルリン『第九』体験記-4

「海外旅行ツアー==安い」のはいいが、その分、ホテルや食事が落とされて、満足できない。
それでも、ベルリンで飲んだビールは、日本にあるどのビールよりも美味かった。


――― ベルリン『第九』体験記-4 ―――

海外に行って、いつも思うが、大概、食事に満足できない。
強調文それは、安いツアーなのに、期待しすぎるから裏切られるのかもしれないが、それを差し引いても、どうしても良くない。

ヨーロッパやアメリカ、オーストラリアなどの観光地を1週間以上旅して、いまや10万円台で行けるのだから、ホテルのグレードが低いとか食事が付いていないのは止むを得ない。
ましてや、食事付の場合は、最低ランクのレストランだったとしても、文句は言えない。

今回は、ベルリンに4泊して328,000円である。
決して、安くはない。
僕は、その後、イタリアにオプションで行ったからもっとかかったが、純粋に「第九」だけでの参加者は、上記の値段だ。
食事は、現地で3回付いていた。

この料金には、よくある旅行経費のほか、参加費が含まれている。
2回の練習経費と、当日の会場借上費、ソリストやオケ、指揮者などの謝礼まで入っている。
当日の入場料収入でもまかなうだろうから、単純には計算できないが、ツアーの参加費が、普通の旅行より高いのは仕方がない。


さて、ポーランドとの国境に接している街のコンサートホールで、2回目の練習があった。
この付近は、フランクフルト(オーダー)と呼ばれている地区で、あの大きな飛行場のある有名なフランクフルトとは違う。
この付近に、チャーチルやルーズベルトなどがポツダム宣言をした有名な宮殿がある。それは、ポツダム市の郊外にあって、ポツダム宣言を練ったのはツエツイ―リエンホープ宮殿という名であったが、素晴らしい建物であった。

印象としては、宮殿と言うよりは高級な山荘風で、上高地の帝国ホテルをもっともっとはるかに豪華にした絢爛たる建築物であった。
街の雰囲気は、日本の軽井沢というより由布院に近いか。

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ポツダム市役所1Fがレストラン。入り口

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宮殿の様子

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宮殿の一部がホテルになっている。(廊下)

練習場は、もと教会の大聖堂であったところで、改良して、市のコンサートホールにしてあるという。
天井がバカ高く、とにかく広い。
恐らく、ミサなどをするとき、1,000人規模で座れるようにしたのだろう。音響が、また素晴らしかった。

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練習会場となった古い教会の大聖堂

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その付近の様子
    
この国境にかかっている橋を挟んで、この辺りでもユダヤ人が大勢虐殺されたらしい。
川の向こうはポーランドで、あのアウシュビッツは近い。

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国境を流れる川

この時期、ベルリンは涼しいかと思いきや、とんでもなかった。
暑くて熱くて参った。
連日30度を超えていた。
この日の晩、バスでベルリン市内のあるレストランで僕らは食事をした。
が、珍事が起こった。

例によって、最初はビールでみんなと乾杯。
ドイツで飲むビールは、大概が美味かった。

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乾杯

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手前が宝田さん

でも、次に出てきたメインディッシュ、なんだか七面鳥のような鳥の丸焼きである。
色は、少しどす黒い。とにかく大きい。
1人前とはいえ、高齢者にはでかすぎる。ナイフとフォークを使って食べてみた。
なんとも、ドイツらしく、大味である。
美味いのかどうか、よくわからない。
全部、食べられるか心配である。

そのうち、同じテーブルの人たちと、「これは、何の鳥だろう」と首をかしげながら話が始まった。
「ニワトリですか」「いや、七面鳥だよ」
「いや、違う、これは四つ足だ」とか。

で、そこに働く従業員に聞いてみた。
「What is this?」
「あひるだよ」

みんな、一瞬顔を見つめあった。
そのときから、箸が(フォークが)止まった。
他のテーブルの人たちも、我等の会話を聞いてから、みな箸が止まった。

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あひるの蒸し焼き

僕も、半分近く食べてもう嫌気が差していたので、そのタイミングでフォークとナイフを置いた。
殆んどの人が、その辺りで食べるのをやめた。
60人で行った旅行だったが、この料理を完食したのは、添乗員だけで、全く食べられなかった人も随分といた。

でも、誰も、文句を言わない。
我慢をする。
食事にけちをつけない。
出されたものは、黙って食う。
普段、節約をして、ようやく実現した海外旅行なんだけれど、我慢することが意外と多い。
それが、日本的な美徳だからかーーー。

(続く)

試衛館ツアー―2

試衛館ツアーに参加した。―――2
龍馬~北辰一刀流は、清河八郎~山岡鉄舟つながりに関連していることがわかり、大収穫であった。


歩いた行程を、再度示すと、

 JR中央線市ヶ谷駅~~市谷八幡社~~千葉束道場跡~~植木屋平五郎墓所~~土方歳三親戚、伊勢屋跡~~ 沖田総司逝去の地~~(サンバカーニヴァル見学)~~試衛館跡~~廿騎組屋敷近藤邸跡~~あさくらゆう講演


このうち、前回、の 沖田総司逝去の地まで紹介した。
ここからはバスで移動して、市谷柳町に向かった。
この日は丁度、「薬王寺・柳町七夕まつり」の日で、行ってみるとサンバのパレードの真最中であった。

僕は、初めてサンバのパレードを見たが、あの裸同然の姿で強烈なリズムに乗って踊りまくる光景は、見ごたえ充分である。
サンバのお祭りは、浅草が有名だが、ここでもやっていたのか。でも、よさこいだって、いまや、日本中どこでもやっているし、まあいいか。

このパレードに、数年前までは確か、新選組のコスチュームで試衛館の人たちが参加していたはずである。
何で、今は参加していないのだろう。
理由をなんとなく考えてみると。
コスチュームの「どくろ」が問題だったりするのだろうか。

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もともと、京に限らず江戸でだって、新選組の評判はいまひとつだから、柳町の住民たちには、どう写るんだろう。

そう言えばちょっと見には、あの真っ黒な法被にどくろは、どこかの宗教団体か右翼集団に見えないこともない。
だから、僕らがツアーをしていて、新宿通りから国道20号をわたっているとき、おまわりさんが数人走ってきて僕らを取り囲んだ。
今、参議院選挙期間中で、辺りは候補者カーが何度も行きかっている最中だから、警察も神経質になっているところだ。
そこへ来て、この出で立ちでパレードしていれば、つかまるのもわかる。
実際、やっている人たちは、皆さん紳士淑女で僕も仲がいいのだが、―――難しいね。

サンバのパレードの喧騒から少し離れた裏通りに、『試衛館跡』があった。

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柳町というところは、交差点がくぼ地で、もともとオキシダント濃度が高くて公害で有名になったところだから、この辺りは坂が多い。
試衛館のあったところも坂の途中で、ここにいると、からだが傾いているような気がするほどだ。

天然理心流3代目宗家の近藤周助は、何故、この地を選んで道場としたのだろうか。
わからない。
そもそも、天然理心流は多摩地区で発展していった流派であるのに、周助は江戸のはずれに天保元年、道場を開いた。
いろいろ、言われている。
2代目の近藤三助が46歳で文政二年突然死したために、3代目が決まっていなかった。
増田蔵六や小幡万兵衛、松崎正作ら有力後継者候補はいたのだが、十年経過してから、周助が江戸で名乗りを上げた。

これに対して、他の門人たちは多摩地区で、余り快くは思っていなかったと伝えられる。
その経緯は、わかっていない。
天然理心流は、江戸後期に創始された武術であって、多摩地区近辺との密着性が強い。
だから、門人たちは、東京都、神奈川県、山梨県、埼玉県に集中している。
江戸の門人たちは、旗本、御家人といった徳川直属の武士たちが殆んどで、地方出身者が少なかった。そのため、この流派は全国には広がらなかった。

次に、このツアーの最後として、『廿騎組屋敷近藤邸跡』へ赴いた。
試衛館からは、歩いて数分である。
ここは、慶応3年10月に、道場をたたんで住まいを移したところだと伝わる。
3代目周助(周斎)は、ここでその翌月亡くなった。
近藤勇の処刑された慶応4年4月25日頃は、妻子のツネさんと娘のタマちゃんは中野の成願寺に隠棲していて、その後は勇の生家の調布市上石原へ移住した。
どういう訳か、ここは手放している。
これも余談だが、この廿騎組屋敷の近藤邸跡は、今、落語関係のある有名タレントの住まいになっている。

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ここまでで、本日のツアーは一通り終了である。
蒸し風呂のような梅雨の暑さの中、自分としては良く歩いた。
万歩計を持っている人が、「15000歩は、超えました」などといっていた。
その後は、再び歩いて『牛込箪笥町地域センター』に移って、あさくらゆう氏の講演を聞いた。

ここで、眼からうろこの新しい発見があった。

ゆうちゃんは、もう何年も前から親しくしている研究家だが、彼の特徴は、歴史を真正面から捉えて間違ったものを排除してゆく正攻法にあると思っている。
この点、僕ともよく似ているところだが、それだけに、波風立てたくない人等にとっては厄介な存在なのかもしれない。

この度の発見もそのうちの一つで、数日前の毎日新聞の一面にそれは掲載されていた。

さなの新聞記事

龍馬の婚約者、千葉さなは、生涯独身を通したということになっているが、龍馬の暗殺後、元鳥取藩士と結婚していたとする明治36年10月5日付の記事を見つけた、というのである。
故司馬遼太郎のコラムなどから、独身説が広く知られてきているが、実は一度はそのようなことがあったということだ。
その後、わけあってすぐ離縁しているが。

実は、僕が、眼からうろこというのはこのことではなくて、清河八郎が記した「玄武館出席大概」(清河八郎記念館蔵)である。

清河が、当時最高学府といわれていた江戸の安積艮斎塾で学ぶ傍ら、北辰一刀流の修行をしていたのはよく知られているところだが、龍馬との接触の可能性が出てきた。
この書物の中に坂本龍馬の名があり、同時にあの有名な幕臣、清河と親交のあった山岡鉄舟(当時は小野鉄太郎)も載っていたのだ。
嘉永6年当時は山岡は小野姓であり、龍馬が初めて江戸に出たのもこの年だし、清河の記述にある坂本は、最初から千葉周作の玄武館で修行をしたことになる。

すると、これまで言われてきた周作の弟定吉の桶町道場は違うのでは、との疑問が出てくる。
ついでに、ゆうちゃんが言うには、この時点で(嘉永6年)定吉はまだ桶町に道場は構えてはいなかった、というのだ。
だから、龍馬の玄武館門人説のほうがしっくりいくという。
なるほど。

でも、龍馬は乙女姉さんに定吉の娘“さな”のことを手紙で紹介しているのも事実だから、桶長道場でのことは、もう少し後の安政年間以降のことかもしれない。

楽しい発見をご披露してくれて、あさくらゆう氏には改めて、感謝する。

(終わり)


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試衛館ツアー―1

試衛館ツアーに参加した。
秋の講座に向けて、龍馬関連の貴重な資料を得ることが出来た。―――1
         

今、ベルリン『第九』体験記を書いている途中なのだが、総司忌関連で魅力的なツアーが催されたので、参加してきた。

市谷柳町試衛館を運営されている中居清次さんのグループが主催のツアーで、それは、7月4日に開催された。
この日、午前11時30分にJR中央線市ヶ谷駅に集合して、ほぼ半日ウォーキングしながら見学して、最後に“あさくらゆう氏”の講演を聞く企画だった。

僕は、10月から隔週の土曜開催で10回連続『新選組講座』を引き受けているが
(TAMA市民塾――既に、30名を超えたので、抽選)、
その中で一回、新選組江戸ツアーを行なうことになっている。
そのツアーの出発地が試衛館なので、どうしても体験しておく必要があった。

歩く行程を示すと、

 JR中央線市ヶ谷駅~~市谷八幡社~~千葉束道場跡~~植木屋平五郎墓所~~土方歳三親戚、伊勢屋跡~~ 沖田総司逝去の地~~(サンバカーニヴァル見学)~~試衛館跡~~廿騎組屋敷近藤邸跡~~あさくらゆう講演

市ヶ谷駅の目の前に防衛省が置かれているが、ここは、あの有名な東京裁判が行なわれたところで、三島由紀夫が切腹自殺したところでもある。
最初に訪れたのは、『市谷八幡社』で、その防衛省の広大な敷地のすぐ脇の神社だった。

僕らは、あさくらさんを先頭に「試衛館」の幟旗を立てて、十数人で歩き始めた。
ちょっと、異様な感じの団体である。
何せ、旗はともかく、法被を着ている人が数人いる。
それも、真っ黒の法被に背中にどくろの画が描かれているのだ。すれ違う人々も、みなビックリだ。
すでに、新選組ファンならご存知の、近藤さんが着ていた道場着で、背中に奥さんのツネさんがどくろの図を縫いこんだあれである。
確か、今、町田小野路の小島資料館に現存しているものだ。

この日はやたら陽射しが強くて、チョー暑かった。
僕は、梅雨時でもあるので、折りたたみの傘を用意してあったので、それを差して歩いた。
手術後の自分には、まだ、身体が全快でもないので、湿気と暑さがたまらなく苦痛であった。
最初の市谷八幡社の階段がきつかった。

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次が『千葉束道場跡』である。
何故、ここへ行ったか。
総司に関してだが、菩提寺の専称寺墓石に北辰一刀流免許皆伝の文字が彫られているけれど、その信憑性を確かめたいためであった。

それに、北辰一刀流と総司という意味では、僕もこれは深く関係している。
沖田周司さん(沖田ミツ子孫)と僕との交流の中で、彼が、「総司は、北辰一刀流免許皆伝で、その巻物を見たことがある」と、証言しているからだ。

沖田総司の最後の地に近いここは、彼が修行した近藤道場「試衛館」にも近い。
だから、千葉道場があったと聞くや、それは、是非見ておく必要があると、思ったわけである。

結論から言うと、期待はずれであった。
ここは、千葉重太郎(龍馬と一緒に、勝海舟を殺しに?行ったといわれている人)の養子“束”が、明治に入ってから道場を併設したというところで、総司には、全く関係のないことがわかった。
何の変哲もない小さな社で、今は、道場跡といっても実感の湧かないところであった。
やはり、総司と北辰一刀流とは無縁だったのか?

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北辰一刀流といえば、“千葉さな”のことが気にかかる。
彼女のことは、この日、あさくらゆうさんの講演の主題でもあるので、後に譲る。

次が、植木屋平五郎の墓がある『安養寺』であった。
この平五郎は、総司が最後に息を引き取った植木屋離れの主人であって、女優江波杏子の祖祖父に当たる人である。
NHKの大河の時は島田順司が演じていた。

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平五郎は、天保5年生まれだから、近藤と同じ年である。
庭師として嘉永5年には、新宿大宗寺横丁で修行したとある。
ついでに、この大宗寺とは落語で有名な末広亭よりもう少し四谷よりにある寺で、歴代の内藤家を弔っている寺である。

余談だが、僕が生まれる数年前の昭和19年3月まで、偶然にも、うちの家族はこの新宿大宗寺横丁に住んで古着屋を営んでいた。
うちの母親は信心深い人で、金比羅様を深く信仰していたが、そのお告げがあって、直ちに西荻窪へ越したという。
後年、おふくろが僕に行ったことがある。

「引っ越した一週間後にB29が飛んできてね、新宿近辺を襲撃したんだよ。後で、各務さん(隣りの洋品屋)が言っていたけど、うちの居たところに、見事に爆弾が炸裂していた」って。

引っ越していなければ、僕は産まれていなかっただろう。

その次が、『土方歳三家の親戚、伊勢屋跡』である。
江戸期には小間物商を商っていて、家伝の石田薬の販売元であったらしい。明治以降は質屋を営業していたが、ここで歳三の甥、力三郎が奉公していたという。(後に、画家)
今は、国道20号沿いにあって、四谷3丁目より少し四谷よりの位置にあり、モスバーガーになっていた。

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次が、有名な『総司逝去の地・植木屋平五郎離れ』である。
行ってみたら、何と、僕がこの3月入院していた慶応病院の真裏であった。

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新宿御苑の横の窪んだ土地の辺りで、今はその辺りは、マンションが林立している。
昔は、高遠藩の下屋敷のあったところだから、鬱蒼とした静かな武家地だったところだろう。
家康が江戸にはじめて出てきたころ、西の固めに武田の遺臣たちに命じて八王子同心を作らせたが、ここ、内藤新宿も内藤家に広大な土地を与えて防備させたのである。それが、今は、新宿御苑となった。

(続く)

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ベルリン『第九』体験記-3

同室の宝田さんは今年、後期高齢者に仲間入り。
7日間、同室のベッドで語り合った。


――― ベルリン『第九』体験記-3 ―――


今回のベルリン「第九」は、日本から60人の寄せ集め合唱団で参加した。
たまたま、ドイツ側も60人ほどの人たちで、合計約120人の合唱団で第九を歌ったのである。

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リハーサルの前の合唱団

日本から行った人たちは、大概が一人の参加で、北は北海道から南は沖縄まで、あるゆるところから参加があった。
だから、殆んどの人が、6月10日の午前7時30分に、成田で初めて顔を合わせた人たちである。

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初顔合わせーー成田の待ち合わせ室で

僕の同室だった旭川の宝田さんは、今年、後期高齢者の仲間入りをするという。
旭川では、毎年、第九を行なっているといっていた。
オケも合唱団も人数が少ないので、本番にはどうしてもトラを頼むらしいが、近くにはいないので札幌から応援に来てもらうということだ。

この旭川の副会長さんが、たまたま、日野の第九の会長の従兄弟に当たる人で、昨年、日野で行なわれた『第九と名曲アリア』を聴いて感動したということだった。
それをプロデュースしたのが僕なので、ちょっとはいい気分だったが、彼らと交わっているうちに、たちまち反省することになった。

この宝田さんとは、7日間も同室で、隣のベッドで寝た。
朝はお互いに目覚めが早く、4時過ぎには眼が覚めている。
この時期、ベルリンというところはやたら陽が長い。
夜10時ごろまで、明るいのである。
そして、朝4時前には明るくなる。
ろくに、暗い時間がない。

寝不足の中、枕を並べて様々な話を、宝田さんとはした。
旭川といえば、僕らの世代では、絶対に『氷点』である。

陽子という女の子が主人公で、三浦綾子原作のあの悲しい小説は、テレビドラマになり映画になったが、一世を風靡し、圧倒的な人気であった。

『壬生義士伝』もテレビドラマ、映画になったが、残念ながら比較にならないほどのものである。
旭川は、時には、零下30度にも下がる土地であり、冬は雪で閉ざされる。四季の移り変わりが鮮やかで、近くには富良野や美瑛があるから多くを言わなくてもお分かりのように、ロマンチックな場所なのである。

今、あれに匹敵するほどのドラマがあるだろうか。敢えて探すと、NHKの朝ドラでやっていた『おしん』を思い出す。
おしんで小林綾子という女優は世に出た。
氷点では、内藤洋子という女優だった。
やはり、あれ1作で世に出た。
すごい人気だった。
でも、あの人、その後どうしたのかーーー。

宝田さんとは、氷点以外にもたくさんのお話をしたが、旭川近辺で行なわれている『第九』の話に感動した。
旭川周辺の町では、様々な形で「第九」が行なわれているらしい。
旭川商業高校はブラスバンドが優秀な名門校らしいが、そのバンドと合唱団が「第九」を演奏したらしい。

「ヘエ~、ブラスバンド用の譜面があるんですか」

と、聞くと、

「近くの自衛隊から、借りたそうですよ」

ということは、自衛隊も、地域の人たちと一緒に「第九」を演奏しているのかと聞いたら、やはり、そうだという。
そうか、ブラバンでも出来るってことか。

すると、宝田さんは、もっと意外な実例を紹介してくれた。

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今年後期高齢者になる宝田さん(左端)

宝田さんは言う。

「○○という町では、公民館で第九をやりましたよ」

僕は、実は、町の名前を昨日まで覚えていたのだが、今日になって忘れてしまった。

「これは、寺の和尚さんが自発的に行なっているものですよ。ご自分もどこかの音楽大学を卒業されて、どうしても『第九』をやりたかったらしい」

それは、地域住民と共に行なうもので、オーケストラの人数も少なければ、合唱団も充分でない。

「ヴァイオリンにしても、その他の弦楽器にしても、ろくにそろっていないので、足らないところはシンセサイザーを使って補ったらしいですよ」と、言う。

勿論、合唱団だって、理想的に各パートがバランスよく取れているわけではない。
それでも、第九を演奏してしまうところが、いい。
終わると、皆さん、大きな感動と得るらしい。
一度、見てみたくなった。
機会があったら、行ってみるつもりだ。

成る程、全国各地で、皆さん工夫されて、それぞれの「第九」を行なっているのだ。

そうか、これがもしかして、本来の「フロインデ(友)」であり、「フロイデ(歓び)」なのかもしれない。

僕は、今まで、形にとらわれすぎていた。
よくよく思い出してみれば、日本で最初に「第九」を初演した徳島の板東俘虜収容所では、男ばかりだったし、ろくに楽器だってそろっていたわけではない。

理想的なフルオーケストラで、充分な合唱人数で、名だたるソリストを迎えて、勿論プロの指揮者で仰々しく奏でる。
ぼくは、これこそ、「第九」だと思い込んでいた。
だが、これからは、考え直そう。
自分たちなりの、「第九」を作るってことが大切なんだと。

宝田さんは、「日野さんから、たくさん得る物がありました」と、言ってくれたが、むしろ、僕のほうがたくさん学ばせていただいた。

(続く)

村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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