村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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歳三の恋人---1

―――幕末と新選組と市民講座―――

前回、多摩市民塾の講座のことをご紹介した。

先週の土曜日に第2回目があったが、例によって脱線の多い僕の話は、余り進んでいない。
いくら10回の講座だからといって、こんな調子では、新選組を最後まで語れないのではないかと、自分でも心配になってきた。

第2回目は、テレビドラマになった『燃えよ剣』の第1作目を見ながらお話をした。
これは勿論、司馬遼太郎原作で脚本、監督が結束信二さんで、いつ見ても心地よい雰囲気の作品である。
だから、僕の講座では、何回か連続の場合は必ず、どれかの巻をみんなで鑑賞することにしている。

ただ、司馬さんの小説が原本だから、創作話が多い。
どこまでが真実でどこからが作り話かを分けて楽しむことにしている。
それに、あの人の作品は必ず濡れ場が用意されている。
映画だから、あっても良いのだが、講座室で参考に見るには、少し刺激がありすぎることもある。
あの『燃えよ剣』は、栗塚さん主演だが、おゆきさんとのラヴシーンがよく出てくる。

この第1作は、『新選組前夜』というタイトルがついている。
この表題の通り、試衛館の面々が浪士組の中に入って、文久3年2月8日に小石川の伝通院を出発するまでを描いているものだ。
この小説は、のっけから濡れ場が出てくる。
今の時代では、どうってことのない仕草なのだが、いきなり「くらやみ祭り」から始まる。

この「くらやみ祭り」ってのは、府中大国魂神社の別名六所宮のお祭りで今でも続いているが、現代では5月5日に行なわれる例大祭である。

普段、農作業で忙しい男女が、この日ばかりは日暮れた境内の暗闇の中で、気に入った相手とねんごろになっても良いというありがたい風習が伝えられているが、本当にあったものか、僕は知らない。
面白いことに、僕の行なっている多摩市民塾のビルはその大国魂神社の目と鼻の先なのである。
司馬さんは、ここに何度も足を運んで燃えよ剣の冒頭の部分を考えたらしい。

歳三は、この第1巻で猿渡(さわたり)宮司の娘「さえ」と暗闇の中でよい中になるのだが、実はこの女、土方歳三を狙う七里研之助の女だった。
浅草だったか、手に入れた和泉守兼定で歳三がはじめて斬ったのが、この七里研之助である。
大国魂神社の宮司、猿渡家というのは今でも代々続いていて、神社の横の鳥居の目の前に大邸宅がある。
今、東京競馬場でレースが開催されていて、来週天皇賞が行なわれるが、僕は、今でも時々この競馬場に行くことがある。

この間、府中の駅から歩いて競馬場へ行く途中、この神社の脇を通ったときに、偶然、猿渡家の邸宅を発見した(府中駅から競馬場へ行く抜け道で、一番いいのはこのルートである)。
燃えよ剣の中でのことだと思っていたのだが、実際、今でもそこにあった。

でも、この辺りのお話は、全て司馬さんの創作話であり、実際にはそんな事実は全然ない。

僕は、自分の本「人間土方歳三」を書くとき、試衛館から京都へ行った人たちが、いつ頃から人を斬り始めたのか、どう設定したらよいのか悩んだ記憶がある。
司馬さんは、燃えよ剣の中で、当たり前のように歳三が人を斬るシーンを作っていたが、そんな簡単に斬れるものではないような気がする。

木刀や竹刀を使って、道場でしか経験のないものにとって、いくら腕が立つといっても殺人は全く別のものに違いない。

僕は、これから京都で行なわれるであろう幾多の修羅場を前にして、試衛館の面々はそれぞれに、試し切りつまり辻斬りを行なうことにして、夜な夜な街に出て行ったとした。
特に、あの頃は外人斬りが流行っていたので、それで試したと。
出なければ、いきなり京都で、恐怖の集団など作れるわけがないと思ったからだ。

新選組のお話をしていると、「はっ」と、息が詰まることがある。
それまで、当たり前のこととしてすごしてきていたことが、新たな疑問として浮かび上がってくるからである。
上記の真剣での勝負もそうだし、金の工面などもそうである。

文久3年の秋口の、土方歳三が郷里へ当てて出した手紙に、
『女にもてて、もててどうしようもない』
という内容のものがあったが、これらの女はみな、芸子や舞妓などのプロである。
一体、どうしてそのような贅沢できる金銭があったのか、不思議でならない。
まだその頃は、幕府も会津も、出来たばかりの新選組に対してそれほどの評価は下していなかったし、平隊士一人頭、せいぜい月3両の給金だったろうから。

最後に、菊池明氏が解読、解説してくれた歳三の文を紹介しよう。
これは、文久三年の11月に小野路の児島家宛に出した手紙の一節である。

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  小島兄参

 なおなお、拙義どもを報告有志とめがけ、婦人慕い候こと、筆紙に尽くしがたく、まず京にては嶋原花君太夫、天神、一元、祇園にてはいわゆる芸子三人ほどこれあり、北野にては君菊、小楽と申し候舞妓、大阪新町にては若鶴太夫、ほか二、三人もこれあり、北の新地にてはたくさんにて筆にては尽くしがたく、まずは申し入れ候。

   報国の心を忘るる婦人かな
        歳三いかがの読み違い
   
   今上天皇
     朝夕に民安かれと祈る身の
       心にかかる沖津白波

歳三が、この手紙を郷里に送った同時期に、つまらないものとして
小包を送っているが、友人たちが空けてみると、芸妓たちの艶書、
つまりラヴレターが数通入っていたという。

続く。
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10月から半年間、新選組の講座を受け持ちます

10月2日から、連続10回で新選組の講座を担当している。

僕の住んでいる多摩地区には、多摩交流センターという文化的な事業を行う組織があり、その中に「多摩市民塾」というカルチャーセンターのようなものが設置されている。

京王線の府中駅の近くにあるのだが、多摩交流センターは、(財)東京市町村自治調査会の中にあって、当然都からの援助によって運営されている。

僕は、その多摩市民塾の講師に選任されたので、約半年間、10回にわたって新選組のお話をすることになった。
今年は、坂本龍馬の年なので、新選組と龍馬を絡めて「多摩が生んだ新選組と坂本龍馬」というタイトルで、塾生を募集した。

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30名を限定したのだが、申込が多くて抽選になった。7月の末に僕も抽選に立ち会ったのだが、落ちた人も大勢いて、なんだか気の毒で、別な企画で、その人たちを集めてお話したいくらいだ。

この市民塾は全部で19もの講座が用意されていて、それぞれみな人気があるらしい。
内容もあるのだろうが、何せ安い。
10回で、参加費が5,000円なのである。
だから、多摩地区のあらゆるところから申込が来る。
東京都のやることだから、安くて当たり前なのだが、ほかのカルチャーセンターのお客も吸収してしまっているかも。

今から半年も前に、カリキュラムを提出させられたのだが、すでに塾生には印刷して配ってある。

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昨日、第1回目の講座があった。
男性が7割で、女性は3割と少ない。
こうしたカルチャーセンターには、大概、女性の申込が多く、男性は少ないものらしいが、どういうわけが僕の講座は男性が多かった。
新選組だからか。

ベリーが日本にやってきた嘉永六年あたりから話を始めた。
この年の3月に、龍馬が初めて江戸にやってきている。
彼は、土方歳三と同じ歳だから、天保六年生まれの18~9歳だったろう。

タイトルが新選組と竜馬になっているので、歳三と龍馬を引き合いに出しながら幕末を語った。

僕の話はいつも脱線が多く、レジメのとおりにはやったことがない。
昨日も、浪士組が出発する文久三年あたりまでは行きたかったのだが、龍馬が江戸に初めて出た嘉永六年のまま、そこからあまり進んでいない。
お話しているうち、あの大河ドラマの年のことが思い出されて、それを皆さんにエピソードとしてご紹介なぞしていたからだ。
「龍馬伝」をご覧になっている方は半分以上いたが、皆さん、多少、ご不満なようだ。
やっぱ、あのどたばた騒ぎと画面が見づらいらしい。
「篤姫のときは、しっとり落ち着いていて見ごたえがあった」、という声も多かった。

『生麦事件』も取り上げた。

あれは、文久2年8月21日、薩摩の殿様島津久光の大名行列が引き起こした国際紛争である。
(正確には息子の忠義が藩主で、久光は何も官位がない人なのだが、とにかく威張っていた)

この年の3月に薩摩を1000人の兵を連れて出発し、京都に乗り込んだ。全国の攘夷の志士たちが勘違いして、「いよいよ、薩摩が倒幕に立ち上がった」と、勢いづいた。
だが、久光という人は、公武合体を主張する日和見な人で、幕府と事を起こそうなんて考えは毛頭ないのだ。
それで、有名な「寺田屋事件」を4月23日に起こしてしまい、薩摩藩士同士で壮絶な斬り合いとなってしまった。
久光の厳命で、腹心の剣豪が斬りに向かったのだ。
そして、若い命が失われた。これは、維新史でも凄惨な事件として語られている。

清河八郎なぞも、この機会に事を起こそうと、京都に赴いていたのだが、この事件のあおりを受けて、再び関東に帰ることになった。

後に、同じ寺田屋で、龍馬が幕吏に襲われるという事件も起こったが、これはたいしたことはなかった。

久光は、天皇の勅書を持って江戸に向かった。
このあたりは、抜かりがない。
何も位がないから、江戸城に入る権限はないはずなのだが、天皇のお使いできたという大義名分がある。
徳川方もないがしろには出来ない。
この頃は、井伊大老が暗殺され、幕府の権威も失墜していて回復に努めたいときだったので、すべて孝明天皇の要求を受け入れることになった。

久光は、意気揚々と江戸から帰り道についたところ、相模の生麦村に差し掛かったところで、行列を横切った2人のイギリス人を有村俊斎などが斬ってしまった。
これが、国際問題に発展しないわけはなく、謝罪ばかりでなく賠償金として幕府に10万ポンド、薩摩に25000ポンドを要求してきた。

翌文久3年、当時世界でも最強を誇るイギリス軍と事を構えるわけにもいかず、幕府はとうとう10万ポンドを払わされた。
これは、当時の公式決定ではなく、幕府老中小笠原長道行が勝手に支払ってしまった、という措置にした。
イギリスの強硬姿勢に対して、なすすべもなく、弱腰な外交を批判されないよう、「あれは、小笠原が勝手にやったこと」として、事を収めたのである。

この始末、つい最近のわが国と隣国とのトラブルに似ていません?
「検察が勝手にやってしまった」と、始末した。4人の人質を取られてしまったのだから、やむを得なかった。
だが、賠償金までは払わないだろうがーーー。

温故知新。
これからの、日本を考えるとき、幕末に起こった様々な事件はきっと参考になる。
領土問題になっているこの一件は、北方領土でロシアや竹島で韓国とも同じことが言える。過去を正確に振り返ることだ。
歴史を検証することによって、何らかの解決の糸口が見つかるかもしれない。

村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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