村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

歳蔵の恋人―――5

前回の「歳三の恋人―――4」では、殆んど恋人らしい記述はなくて終わってしまった。
たった最後に

『浅草には、歳三と山内容堂と高尾太夫との三角関係の面白い話がある。』

という文章だけ書いた。

確か2006年だったと思うが、僕は、歳三が吉原に通った話を短編にしてここに紹介したことがあったと思う。
タイトルは、「すってん業平になった土方歳三」で、話の内容は、歳三と土佐の殿様山内容堂が、吉原の花魁“吉野太夫”を奪い合う物語であった。

その話の発端は、浅草の『駒形どぜう』の五代目の奥方からある贈り物をいただいたことからであった。
その方は渡辺栄美さんといって、何かの拍子に僕のことを知って、『老舗、駒方どぜう』で発行している「どぜう往来」という小冊子を送ってくれたことに始まる。

この冊子の最初に、“のれんと柳”という連載のコーナーがあって、そこに栄美さんが歳三と容堂が吉野太夫を巡って争った話を紹介されていたのである。
このことは、以前にもここで書いたので重複していて恐縮なのだが、古い話なので、再びこの話題を載せさせてもらう。

先月の20日に、僕が今担当している講座で、「新選組大江戸ツアー」を行なったのだが、新宿に集合して試衛館から二十騎町の近藤の旧宅跡を通過して伝通院まで、歩いた。
文久三年2月8日に、近藤や土方歳三、沖田などが実際に歩いたであろう行程に沿って歩いてみた。
約50分ほどで到着した。

この伝通院の隣りは、小石川という地名で、子母澤寛が試衛館の存在したところだと間違えたところである。
その後、司馬遼太郎も間違えたし、多くの作家たちが間違ってしまっている。

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どうやら、永倉新八が小樽の新聞記者に語った内容がそれだったらしく、そのまま信用したからであろうが、日野の佐藤家や小野路の小島さんのところにある様々の資料から、牛込柳町に試衛館はあったということで間違いはない。
まあ、永倉さんだって、もう50年以上も前のことを思い出せといわれて、過去のことをまとめて話すのだから、こういうことも起こるだろう。

伝通院には、千姫を始め徳川家縁戚の人たちの墓が多くあるが、あの清河八郎の墓も阿連という恋女房と並んで奥の方にあった。
清河は、もともと出羽の最上川沿いの地方の出の人だから、伝通院とは縁もゆかりもないだろうに、どうしてここに墓があるのかわからない。
徳川ゆかりの菩提寺なのに。
清河が発起人となって実現した、浪士組の出発地点だったからだろうか。
山岡鉄舟あたりが気を使って、ここに弔ったのだろうか。

この伝通院を後にして、地下鉄の春日まで15~6分歩いて行き、東京メトロに乗って約15分ほどで『蔵前』に到着する。
蔵前といえば、江戸時代は米蔵が多く並んでいたことで有名だが、僕らは、蔵前国技館があったところで懐かしいし、大相撲はここと決まっていた。
今は、両国国技館だが。

蔵前駅から、ものの5分も歩くと『駒形どぜう』に到着する。
ここで、本来なら、昼食をとるべきだったのだが、何せモノが「どじょう」だけに、20人以上の受講者たちの中には難しい人もいる。
だから、仕方なく、昼食はてんぷらにした。

僕はメガホンで拡声して、駒形どぜうの前で歳三の話をしてしまった。
天気の良い土曜日で、赤い毛せんを敷いた縁台に並んで待っているお客があふれている中でである。
図々しいにも、程があるか。
ドジョウはグロテスクだが、外ににおってくるあの美臭は、うなぎにも引けをとらない。

5代目の御夫人栄美さんは、残念にも、僕に小冊子を送ってくれた直後に亡くなられた。
だから、僕は、一度もお会いすることが出来なかった。
息子さんの6代目越後屋助七氏が僕に、そのようなお便りをくれた。

きっと、浅草に、脈々と伝わる歳三と容堂の恋敵のお話は、これからも語り継がれていくことだろう。
このお話は、二度目で恐縮だが、ご覧になっておられない方も多いだろうから、多少脚色しなおして、もう一度「すってん業平になった土方歳三」を4回に分けて連載する。

(改)『すってん業平』になった土方歳三―――1
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(改)『すってん業平』になった土方歳三―――1

安政6年10月、25歳の歳三、江戸は牛込柳町の試衛館道場で師範の近藤勇のもと、連日剣術の稽古に励む土方歳三。


牛込柳町『天然理心流試衛館』
江戸は初冬に入っている。
欅や銀杏(いちょう)の葉も赤や黄色に色づいてきて、この頃はめっきり朝晩が冷える。それに、四季のうち、江戸では特に秋が短いように歳三は感じていた。
秋の日は釣瓶(つるべ)落としというが、さっきまで陽が出ていたかと思えば、もう暗くなっていて、暮れるのは早いし朝も明けるのが遅くなってきている。
ついこの間までは、寅の刻(午前4時ごろ)から半時も過ぎれば世間も見えてきたのだが、試衛館のあるここ市ヶ谷柳町も、明け六つ(午前6時ごろ)を待たないと明るくならない。
朝の静寂の中に、野菜やしじみの引売り、棒手振の声のみが響いている。得意の節回しで、江戸の街は早朝から独特の雰囲気をかもし出している。
「にんじん、だいこん、ほうれんそうーーー取れたて~え」
「なっとう、とうふーーー」

それにしても、江戸は連日大獄の嵐で不穏な毎日が続いている。先日7日も伝馬町につながれていた越前藩の俊雄、橋本佐内が斬首された。弱冠25歳であった。続いて、長州藩の吉田寅次郎(松蔭)も処刑が近いと、瓦版は伝えていた。
歳三は、この吉田のことが気にかかっていた。勿論、話をしたことも逢ったこともないのだが、優れた人物であることは耳にしている。試衛館に度々助っ人に来てくれている飯田町の神道無念流の道場の剣客から聞いているからだ。
ここには塾頭に桂小五郎をはじめ、高杉晋作や品川弥次郎等、後に維新で活躍する長州の新鋭が集まっていて、それらは皆吉田の薫陶を受けていた。
後のことだが、慶応4年になって、歳三は宇都宮で受けた傷を癒しに会津に逗留したことがある。七日町の清水屋と言う旅籠に一月ほど落ち着いたのだが、そこは嘉永4年、吉田松陰が肥後の宮部鼑三(池田屋事変で横死)と東北へ旅したときの宿でもあった。
吉田の『身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし大和魂』という辞世の句は、歳三の辞世の句に強い影響を与えている。 
よしや身は 蝦夷が島辺に朽ちぬとも 魂は東の君やまもらむ
試衛館のあるのは柳町の中心から東のほうへわずかに行った坂の上だったが、南は江戸城、北は戸塚、西は、若松、河田、内藤新宿、東は筑土八幡、伝通院(浪士組が集合した)方面で、柳町から北を眺めれば、まだ田畑や雑木林が目立っていた。

急激に寒さが増してきたせいか、土方歳三も、だんだん朝起きるのも億劫になってきたが、眠い目をこすりながら顔を洗いに、井戸端にやってきた。
と、先に起きていた若者から不意に声がかかった。
「土方さん、ここのところあの刀見ませんが、何故、差さないんですか」
天保13年生まれの総司、今年で18歳になる。筋肉質の眩しいほどの白い肉体を誇らしげに見せて、井戸端で上半身裸になり、手ぬぐいで首筋をぬぐっている。
歳三の顔も見ないで言った。
足音で、誰だかわかるのである。
「なんだ、藪から棒に。朝からくだらないこと聞くな。……人に預けているだけさ」
と、誤魔化した。

総司には、歳三が嘘を言っているのはわかるのだが、どうして質なぞに入れているのかがわからない。勿論金が入り用だからなのだが、純粋なこの男には、色街や遊郭で金を落とす意味がよくわかっていない。

その程度に世間知らずで、純粋だった。
物心がついた10歳のころから、何しろ剣一筋で育てられてきた。いや、もっと正確に言えば、5~6歳の頃からだろう。そもそも沖田家は、剣術にはそう熱心でもなかったが、何しろ、すぐ近くにいる親戚の井上本家が天然理心流に余念がなく、幼い頃から総司は、井上の世話になって育ってきている。

総司は幼少の頃は宗次郎とも言ったが、天然理心流の三代目宗家、近藤周助に11歳のときに預けられた。勿論、幼くして天稟の才があったからだ。それは誰もが認めることであったので、早いうちにどこかのよい道場に内弟子として預けたほうがよいと周りの者たちも考えていた。

たまたま、親戚筋に当たる井上本家の次男で、源三郎の兄に当たる松五郎が周助門下だったので、世話になることになった。松五郎自身が八王子千人同心の世話人をしていて、剣は天然理心流だったし、弟の源三郎も幼い頃から習っていた。
武蔵野、とりわけ日野という地域では、天保あたりから弘化、嘉永、安政と至るに及んで天然理心流が盛んであったし、師匠の周助も養子で既に免許皆伝に上っている島崎勇も、多摩地区をしじゅう指南に訪れていた。

その理由としては、土方歳三の義兄の佐藤彦五郎が日野宿の名主で、宿場の治安維持、安全対策として嘉永2年の頃から、この流派で剣術の稽古を始めていたからだ。天然理心流を始めるにあたっては、当然、松五郎の世話になっている。

佐藤家と井上家は目と鼻の先であったが、そのことばかりでなく、同宿の引率者としてこの二人の親交は肉親と同等のもがあった。松五郎が将軍のお供で上方へ行っているときも、日光勤番で赴任しているときも、手紙で互いに近況報告をして身の安全を祈っている程である。

総司が18にもなって世間知らずなのは、彼が純粋だったからという意味合いだけではない。預けられた先の、近藤家にはそうするだけの余裕がなかっただけのことである。むしろ、借金の使いに何度かいかされて、さすがの総司もほとほと嫌気がさしてきていた。

もう、この頃には、どこでもいいから試衛館さえ出られればいいと思うようになってきていた。その総司の夢が叶えられて京都に行けるのは、あと3年我慢しなきゃならなかったわけだが。

せっかくノブ姉さんにせがんで買ってもらった10両もした長刀だったが、歳三の手元にはもうなかった。
総司の思っているとおり、質に入れてしまったのである。

何故そんなに金が必要なのか。
25歳といえば男盛りである。歳三だって、少しは女っ気のある盛り場で遊びたい年恰好である。
それに、歳三ほどの色男を、世間の女たちは放っておかない。ここ、試衛館のある柳町界隈の娘たちの間でも、土方歳三の評判は大したもので、誰が最初に彼を射止めるかが噂の種にもなっているほどだ。

近頃歳三は、町娘には手を出さないようにしている。10代の頃、随分と失敗した経験があるからである。最大の失策は、奉公先の娘に手を出し、間違って稚(やや)を作ってしまったことであった。その時は、彦五郎義兄さんや為次郎兄さんに世話になって、金でようやく事を収めたのだが、二度とあんな経験はしたくない。だから、町の女に手を出すときは、祝言を挙げる時だと心に決めていた。

そうはいっても、血気盛んな年頃でもある。からだは我慢してくれない。だから、最近では、吉原まで通っている。
ここが不思議なところだ。
歳三の今の身分では、吉原に通い続けられるほどの金があるはずがない。せいぜい岡場所である。

江戸の頃は、お上に認められている公許の遊郭は新吉原だけであった。この吉原以外はすべて総称して岡場所といわれた。
岡場所の中で、最も人気のあるのは深川である。ここには辰巳芸者という玄人がいて、何しろ気風がいいので人気があった。辰巳の由来は、江戸の中心江戸城から見て巽の方角(東南)にあたるからであるが、気風のよさは、もともと男が着る羽織を身に着けて男風の名で座敷に出たため人気が上がり、羽織芸者とも言われた。

歳三は、深川には一度しか行かなかった。
どうも、肌が合わないのである。あんな男みたいな意気のいい女はいやなのだ。この男は、若い頃から女に癒しを求めていた。
自然、年上が好みなのである。
深川のほかに、根津、谷中、芝明神や麻布氷川なぞにも通ったことはあった。これらは伏玉屋といって一見お茶屋のようではあるが、中では子供を抱えて自家営業をする遊女がいた。



つづく

歳三の恋人―――4

―――幕末と新選組と市民講座―――

多摩交流センターの市民塾で「新選組講座」を担当しているが、約半年に及ぶ長~イ講座の第4回目が先日行われ、『新選組大江戸ツアー』と称して、試衛館から浅草まで地下鉄と徒歩で行ってきた。

すると、都営地下鉄が、開業50周年記念事業として「龍馬と幕末」というタイトルでスタンプラリーを開催していた。
今年は、日本中どこへ行っても龍馬ブームである。
そこで、江戸時代の古地図と付近の旧跡を紹介しているパンフレットを配っていたので、いただいてきた。

Image4221.jpg

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このパンフ、龍馬なのに何故か【1】に「試衛館」として、新選組から始まっている。

また、この付近の地図を見ると、どうしても僕は「内藤駿河」という広大な屋敷に目が行ってしまう。
ここは徳川時代は高遠藩内藤家の別宅だったが、今は新宿御苑といわれている公園で、都会のど真ん中だが美しいし、市民が憩える、数少ない安らぎの場所となっているところだ。

僕も、大学受験に失敗して浪人生活をしている頃、ここで英気を養った経験がある。
朝一番で新宿図書館に行ってそこで学習したものだが、その図書館のすぐ横が新宿御苑の正門だったのだ。

この屋敷の右下に沖田総司が永眠した植木屋平五郎の離れがあったし、さらにそのすぐ右脇が、今年二度も入院した「慶応病院」がある。
ちょうど、この地図で、JR中央線の「信濃町駅」の左上『永井シナノ』と書いてあるところか。

このパンフの【2】が、「華族女学校」になっている。
ここは、説明にもあるように、龍馬の婚約者千葉さなが、明治になって一時舎監として勤めていたところである。
龍馬とさなは、正式に婚約を交わしたのであろうか。
結納の品として、千葉家からは父定吉が龍馬に小刀を授けたといわれ、何も持たない龍馬は、桔梗紋の入った袖をちぎってさなに授けたといわれている。

さなは、終生この袖を龍馬の形見として大事に抱き続けた。
華族女学校でも、学生たちに見せては、自分が龍馬の婚約者だったと証明していたと言われている。
だが、

哀れである。
明治に入って、どんな功績を残したものでも、死者は忘れられていた。女学生たちの殆どは、龍馬を知らない。
吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作など、そして清河八郎や有村治左衛門や兄の雄助等、維新を迎える前に命を終えた志士たち、情報通信網が未発達の時代では、知られてなくても仕様がない。

それに、明治以降、政府にとって都合の悪い功労者は、教科書にも載せない(今でも、同じ)。特に、徳川の功績者なぞは、逆賊として扱われていたから、忘れられて当然なのである。
功労者龍馬でさえも、過去の人間として忘れられた。
逆に、勝者は栄えた。
でも、今は、この話ではない。

実は、この7月、友人のあさくらゆう氏達とこの付近を探索したことがあった。
ブログでも、紹介した。――7月8日付の『試衛館ツア―――1』をご覧いただきたい。

そこで、≪千葉束道場跡≫に行ったのだが、ここは、さなの兄重太郎が明治に入って、養子の束に道場をもたせたところとされている。
そこは、市ヶ谷駅から暁橋に至る途中の左側で、今は防衛省になっている広大な尾張殿の屋敷の殆んど目の前である。

このときの、僕の期待は、沖田総司が生前、その道場で修業をしていて欲しかったということだ。
何故?

それは、今でも沖田家に、総司北辰一刀流免許皆伝が伝えられているからである。
普通は、絶対にありえないこととされているが、沖田家の菩提寺専称寺の墓石にもそのように彫られているから、始末悪い。

「天然理心流の総司が北辰一刀流免許皆伝」
常識では考えられないことが、沖田家に伝えられえている。
これを、説明できる人は、今のところ誰もいないであろう。

子孫の周治さんとは、僕は親しくしているが、彼はその皆伝書を見たことがあるという。
是非見たいものだが、長男の整司氏が昨年亡くなられれて、代が変わって見ることが難しくなっている。

千葉束道場には、もしかして、北辰一刀流免許皆伝のさなも剣術を教授していたかもしれない。何しろ、自分が勤めていた女学校からすぐ近くなのだから。

総司は、そこの道場で稽古をしていたことはありえない。だって、そこは、明治になってから作られたところだからだ。

今回のツアーは、天然理心流試衛館から浪士組が出発した伝通院まで歩くのが第一の目的である。
試衛館の面々が、どういうルートで歩いていったのか。
きっと、わいわいがやがやと、腰の物だけを頼りに着の身着のままで参加して行ったに違いない。

次に、浅草の浅草寺近辺を散策して解散なのだが、浅草といえば「今戸神社」である。
ここは、総司が逝去した地としてすでに記念碑が立てられているところだが、今は千駄ヶ谷説が有力となっている。

でも、不思議なことに、千駄ヶ谷の方には碑も立っていない。
こちらを最期の地と信じる人が多いのに。
この理由は、新選組の悲しい運命と関係がある。

京都の『新選組同好会』の代表をしていらっしゃる横田氏は、二条城の脇で刀剣屋さんを営んでおられるが、悲しい実態を僕に力説していた。

今から約6年前、NHKの大河ドラマで『新選組』を放映すると発表があった頃、すぐさま僕は京都へ行った。
そこでいろんな人にお会いしたが、横田氏は、
「京都市も府も、新選組にはこれまで冷たくて、関係する旧跡に記念碑一つ建ててくれないんですよ」
確かに、新選組といえば壬生寺近辺が一番有名な観光スポットだが、ここには「碑」が全くなかった。
行政に運動してもやってくれないので、横田氏らが身銭を切って立てた、と言っておられた。

あさくらゆう氏はこう言う。

「今、新宿区にお願いしているんですよ。総司の最期の地に、記念碑を立ててください、と。でも、なかなか実現しなくてーーー」
「試衛館の跡地だって、今から数年前デスモン」

だから、確かに、総司が死んだとされる植木屋の離れの地点に行っても、何もそれらしいものはないのである。
これが、新選組の実態である。

浅草には、歳三と山内容堂と高尾太夫との三角関係の面白い話がある。


つづく

村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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