村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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生涯で、ただ一度の最高なライヴ


昨日、吉祥寺の駅ビル『ATRE』でライヴを行った。

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僕の芸名「癒部次長」の単独演奏である。
本当は、先週の土曜日に、地下にある『ゆらぎの広場』でやることになっていたのだが、今回の震災で中止になったものを、”チャリティーライヴ”に変えて、一週遅れでデパート側が行ったものだ。

場所も1階入り口に変えて行ったので、土曜日の午後でもあり、大変な人出で熱気がむんむんだった。

前回のブログで、僕は自分の仕事の「カルメン」が中止になったのをお伝えしたが、世間のこうした催しは大方中止になっていた。
でも、2週間経過した現在では、そうしたムードも変化してきて、逆にチャリティーライヴやコンサートが行われるようになってきた。

この吉祥寺駅ビルのライヴはその先駆けのようなもので、いち早くやったものだから、道行く人々の関心は一通りではなかった。
何故か、僕がその第1番目に指名された。

午後1時、3時、5時の3回ステージで、それぞれ30分ずつなのだが、今回は最初に店長のあいさつから始まった。
そのあと、僕も簡単なトークを行って、演奏に入ったのだが、いつものプログラムと違って、それにふさわしい曲を並べて演奏した。

『G線上のアリア』から始まって、僕のCDに入っている順番に演奏していった。
とくに、『ニューシネマ・パラダイス』が好まれたようであった。あの曲の持っている独特な哀愁が、今のご時世にぴったり合ったのだろうか。
驚いたのは、僕の音を聞きながら、道行く人々が足を止めて涙ぐんでいたことだった。
こんなことは、かつて経験したことがない。

こうした現象が拍車をかけたのか、僕の前に置かれていた「義援金箱」の中が、どんどんあふれていった。
皆さん、躊躇することなく、当たり前のように献金している。
僕は、演奏しながら、目の前に札を入れていく人々を見ていたが、老若男女、子供までもが募金している。
それも、ほとんどが、札である。
千円札が最も多かったが、中には5千円、一万円もいた。

驚いた。
今回の大災害の影響は、人々の心を奥深くまで傷つけ、それが慈悲の心に変わって、苦しみ悲しみを伴に分かち合っているようだった。

皆さん、僕の演奏をじ~と見つめるように、かみしめるように聞き入っていた。
吉祥寺はジャズの町であり、音楽盛んな街である。
楽器を背負っている人がとにかく多い。
だから、緊張感が並大抵ではない。

僕は、音をはずさないように、音色を美しく奏でるように気配りしていたのはいつもの通りであったが、それより、被災者の方々にいくらかでもお役にたてるように、少しでも癒すことができるように、できるだけ感情をこめて息を吹き込んだ。

いつもは、こんなことをすると、あまり良い結果は出てこないのだが、昨日だけは違った。
本当に、その通り、鳴ってくれたのだ。
こんなことは、滅多にない。

それに、いつもにない美しい音色も出ていた。
最近、こんなに気持ちよく演奏できたことはない。
誰かが、後押ししてくれたようだった。
それが募金の金額につながっていってくれたなら喜ばしいかぎりである。
そばで聞いていた、店長や関係者もそのように感じてくれていたらしい。
3回のステージが終わったころには、義援金箱の中は札であふれていた。
感無量である。

この時、朝日新聞の記者が取材に来ていた。
僕にも、インタビューをした。
まさか、載らないだろうと思っていたが、今朝の朝刊に記事になっていた。
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さすがに、写真までは載らなかった。
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僕の演奏は、このHPの「MUSIC」でも聞けるようにしてあるので、まだ聞いたことのない人は、どうぞお聞きを。
そして、まだ義援金をしていない人は、明日にでも。

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震災とカルメンについて


『大惨事』人間とは、極限状態に直面すると、そこから意外な新しいものを生みだすものなのか

このたびの震災と津波の大惨事は、千年に一回と言われるほどのもので筆舌に尽くしがたく、なんとも表現の仕様がない。
「お悔やみ申し上げます」などという言葉では到底及ばず、なんとも表現できない。
ただただ、『沈黙』。

普通の地震や津波などというものではない。
地球のどこかで、地殻変動が起こってしまった感じさえする。それが証拠に、未だに毎日何回も揺れている。この東京も長野も九州までもだ。

もっとすごいのは、日本列島が沈没したり、大陸と再びくっついたりする現象なのかもしれない。
今回、そこまではならなかった。
僕らには超でかい地震と津波なのだが、数十億年続く長~い地球の営みからすれば、小さい現象なのかもしれない。

生活物資が不足していて厳しい寒さが続く中、避難所生活をしている人々なのだが、その人たちの間に独特の連帯意識、仲間意識が生まれて、新しい友人、自治組織が出来つつあるようだ。
中には、比較的大きい子供たちが、幼児などを相手に遊び始めている姿を見ると、胸が熱くなる。
子供心に、今何が大切なのかをきっと、感じ取っているのだろう。
「自分たちが、小さい子の面倒を見よう」
きっと、親たちは、この惨状の中でやることがたくさんあって大変だろうから、せめてお手伝いできることはしようということなのかもしれない。

このたびの惨状を見て、全国からの支援の輪の大きさは半端でない。いても立ってもいられない、兎に角駆けつけたいと言う気持ちになっている若者が多いと聞く。
また、海外からの支援も多岐にわたっていて、これまでわが国とあまり交流はなかったと思われる国々からも、募金などが寄せられている。
ラジオで放送していたが、クロアチアという国でも、「とても他人事とは思えない」という感情から募金活動が行われていて、日本に送金すると言う。
この国も、今、失業者が多くて貧乏な人が多いのだが、そんな中から多くの労働者が、援助を申し出ていると言う。

こうした現象は、「日本人に生まれてよかった」などという狭い考え方でなくて、世界中の人々の温かい“人情”が伝わってくるものだと思える。
だから、
テレビでスポーツ選手などを使って、日本人の強靭性などを強調するCMを流し、ナショナリズムを高揚させるような雰囲気をかもし出しているが、あれはよした方がいい。

あの東北の海岸線に住む人々たちの今後は、想像を絶する労苦が伴って復旧、復興に向かうことだろう。

今年24歳の僕の息子が今朝、「宮城にボランティアに行こうかな」と、迷っていた。
「でも、怖いな」とも、言っていた。
それは、誰だって、あの惨状を見れば、怖くなるだろう。

「兎に角、行って来い」と、励ました。
きっと、
ひと回り大きくなって戻ってくるはずだから、僕としては、是非行ってほしいと願っている。

僕のメインの仕事、「カルメン」公演が中止になった。
一年前から準備を開始して、半年間毎週合唱練習に励んだ結果、前日にはすばらしいサウンドのゲネプロを行い、輝いて本番当日を迎えたのだが、その日の朝中止となった。

こんな状況だから、当たり前と言えばそうなのだが、なんとも口惜しい。
この一年間の努力は、この日のためにあったのに、その日が消えた。
合唱団の多くの人たちが、悔し泣きした。
そして、観客のいない客席で、みなしてアンコールで歌う予定だった『大地讃頌』を顔をぐしゃぐしゃにして歌った。

僕は、あの人たちのために、何とか来年、この努力が日の目を見ることが出来るようにしてあげたいと思った。
これから、その調整に入る。
でも、簡単ではない。
指揮者、ソリストたちのスケジュール、オケの意向、会館大ホールの空き具合、練習スケジュールと場所、またその指導者とピアノ伴奏者など、調整に暇がないほどだ。
何より、チケット販売に頼って行う行事だから、それが売れるのかどうか。
その見込みを立てなければならない。
未だ、中止になった「カルメン」のチケットの払い戻しの半分も終わっていない中で。
僕の中に、そのヴァイタリティーが残されているのだろうか。
仕事とはいえ、チョー大変。

それと、今年の5月連休に予定されていた『新選組まつり』が中止となった。
栗塚さんには5日から3日間、日野に来てもらうことになっていた。これは、中止ではない。
大国魂神社のくらやみ祭りは中止になったらしいが、「燃えよ剣ツアー」は『東日本大震災復興支援事業』として行うことになった。
だから、栗塚氏には、予定通り来てもらうことになるだろう。
このことについては、改めて、ここでお知らせもするし、『日野宿本陣文書検討会』のサイトで確かめて欲しい。

本日の「カルメン」中止

管理人です。

東日本大震災の影響により

本日の「カルメン」公演は中止になりました。

中止になるのか、延期にするのかは追ってご連絡します。

村瀬からのメッセージも後ほどUPします。

被災地のみなさまには心よりお見舞い申し上げます。

「カルメン」について


今年の、僕のメインの仕事は、「カルメン」である。
日野市で藝術文化の仕事をしているが、今度の日曜日に自分の仕事の本番が控えている。
ざっと、こんな内容である。
3月13日(日)、午後3時開演
ひの煉瓦ホール(市民会館大ホール)
曲目  「カルメン」ハイライト  ビゼー
     交響曲第7番      ベートーベン

出演  カルメン    森山京子
    ホセ      村上敏明
    エスカミーリオ 吉川健一

管弦楽  TAMA21交響楽団
合唱   コーラルファンタジーinひの、浅川少年少女合唱団、合唱団「響」

昨日も一日中、リハーサルだった。
ソリストは、カルメンでは我が国を代表する森山京子さんだし、期待していい。
ようやく、合唱団もまとまってきた。
何せ、昨年の春、公募して集めた合唱団約80人が、半年間練習を重ねて研鑽してきた集大成である。
初めてのフランス語に取り組んだ人が、ほとんどだった。皆さん、よく頑張った。
この合唱団は、『第九』を歌うために集まってきた人たちなので、大方、「カルメン」は初めての経験だった。
ひと月前までは、まったく歌えなかったのだが、ここへきて急に出来上がってきた。アマティアとはそんなもので、とても聞かせられないと思っていたものが、本番直前になると、急速に出来上がってくるものなのだ。
きっと、気持ちの問題なのだろう。
最初、売れなかったチケットも、今では、3階席の一部を残すのみとなった。思いのほか、売れた。
きっと、よい演奏会になる。

『すってん業平』になった土方歳三―――3



瓦版屋になった土方歳三
 歳三は、幼い頃から、先手を打って相手を打ち負かしてきた。
何よりも、先が大事なのである。だから、剣にしても喧嘩にしても、歳三の流儀は立会いと同時に先んじることであった。
世の剣客といっても、捨て身で突進してくる相手には恐怖感が先にたち、本来の実力が発揮できないうちに負けてしまうことが往々にしてある。
それが隙である。

歳三は、剣そのものは総司などと比べれば劣るのだが、勝負には強かった。喧嘩のときは常に捨て身で勝負してきた。これは誰彼に教わったものではなく、自然に身についていた。
天性の才覚か。

ただし、道場での稽古は苦手だった。互いに蹲踞(そんきょ)して見詰め合い、呼吸を合わせて「始め」だから、機先を制するわけではなく、剣術そのものの実力で争わなければいけないからだ。歳三は、道場では負けが多かった。総司や山南、後には永倉や原田などにも遅れをとることはちょくちょくあった。

自分の住処を日野から試衛館に移してからも、付近の女どもにはもてた。大概が、「役者にしたいほどだねえ」という台詞が返ってきた。
歳三は知っていた。
多くの遊女たちは、役者と遊びたがっていることを。
だから、その武器を最大に使わせていただくことにした。

長崎屋の若旦那が、歳三を瓦版屋として皆に紹介したのは、安政6年の11月も末に近い頃であった。今日の日のために、自分の顔かたちをより役者風に仕立て、磨きをかけた。元来すっきりしている目鼻立ちではあったが、さらに際立たせた。
歳三が座敷へ入って座ったその瞬間から、その場に居合わせていた遊女たちの視線が一斉に一点に集まった。それを感じていた歳三であったが、座敷ではわざと寡黙で通した。そして、唯、只管筆を進めた。そのほうが効果があると知っていた。
この男の、女に持てるための「動物的な感」であった。

憎いほど、歳三の狙いは当たっていた。
滅多に座を立たない高尾太夫が、歳三の前に現れたのである。
そして、言う。
「そなたは、町人であろう。瓦版屋だということだが、その筆の運びは筋が通っている。一介の物書きとは思えないが」
そもそも、花魁とは美貌のほか、教養のある遊女を意味している。太夫とは、その中でもとびっきりどんな芸事にしろ、習い事にしろ優れている女である。当然、書も優れているのである。茶道、華道、書道は当たり前で、囲碁、将棋にまで精通しているのである。

「それに、それは剣ダコであろう」
超一流の人物は、一流を見抜く力を持っている。
歳三は、当然視てくれると自信を持って書き綴っていたから、これは思い通りに事が運んだのだが、まさか剣術で出来た手のひらのタコまで見抜かれるとは思わなかった。太夫という遊女の底知れぬ大きさ、人を見抜く不気味さを感じた。
歳三がどんなに瓦版屋に化けても、高尾太夫のほうでは、歳三の嘘を見破っていた。では、どんな職業なのか。さすがの太夫もそこまではわからなかった。当たり前である。その当時の土方歳三は試衛館の食客で、きちんとした職業なぞなかったのだから。
後は、男と女である。理屈はどうでもいいのであった。

高尾太夫は歳三を欲した。役者のような面構えであったが、それは二の次であった。一流を見抜いていたというべきか。
これまで出会った男にはない特別の魅力、神秘的な霊気を感じていたからである。
歳三も、太夫のすべてに熟練しているその技に、身のとろける満足感を味わうことになった。
歳三は、何度も何度も通った。勿論、金が尽きてしまった。あらゆる物を質に入れた。ようやくできた一両、二両の金で、何とか太夫に会うことができた。が、そもそもそのようなはした金で太夫に面会が出来るわけがない。これは、太夫側の特別な計らいであった。  
吉野が歳三を欲したからであった。


上野寛永寺境内
翌安政7年、大老の井伊直弼が、桜田門外で水戸浪士に暗殺されて、年号も万延と変わっていた。
もうとうに亥の刻(午後10時頃)を廻っていたから世間は暗闇なのだが、吉原だけは行灯に灯が入っていて、まるで昼間のような明るさであった。そのような時刻に、歳三は吉原を後にした。陽気はすでに春を感じていたが、夜中ともなれば冷える。昼間の暖かさで薄着をしてしまった歳三、幾分猫背姿で先を急いでいた。

歳三の帰り道はいつも決まっていて、上野東叡山寛永寺の境内を通り抜けて不忍池脇を右に折れ、湯島天神を左に見てそのままほぼ一直線で柳町に向かうのである。
寛永寺は、寛永2年(1625年)秀忠の隠居後、3代将軍家光のときに本坊が建立され、初代住職は天海上人である。当時の年号を取って寛永寺とし、京の都の鬼門(北東)を守る比叡山に対して江戸城を守る東の比叡山という意味合いから、山号を東叡山とした。比叡山は琵琶湖をいただき、竹生島を持っている。江戸では不忍池を配置して、中に弁天島を置いた。
寛永寺は、徳川将軍家はもとより諸大名の帰依を受け多いに栄えた。承応3年(1654年)、後水尾天皇第3皇子守澄法親王が入寺して以後は、代々皇族が門主を勤め「輪王寺宮」と尊称され、日光山、比叡山の山主をも兼務して絶大な宗教的権威を持っていた。
広大な敷地の中には東照宮まで包含している。家康を奉るために作られたものだが、社殿は藤堂高虎によって草創され、家光によって大改造されたものである。内外ともに金箔が施されており、きらびやかな装飾や彫刻が施されている。

夜陰に沈み、森閑とした寛永寺の境内に入ったとき、異様な空気を感じた。
いつもこの境内を北から南方向へ入って不忍池の北に配置してある東照宮の脇を抜け、湯島天神の方へ向かうのだが、大概は夜中で人気はまったくなく、静寂な中にも迫り来る荘厳な寺院の圧力を感じるのだが、今晩はちと違う。何か、騒(ざわ)ついているのである。
そして、殺気というものを感じる。
歳三はこれまで、人というものを斬ったことがない。真剣の勝負というものの経験がないのである。
胸が高鳴った。
一応、腰には安物だが、長刀は刺していた。
東照宮へ向かう参道沿いにあるけやきの大木の陰に、人影のような動きを感じた。それも一人や二人ではない。
「俺を狙っているのか」
 まさか。
狙われる理由が思い当たらない。後ろを振り向いてみた。人の気配はまったく感じられないから、「やっぱり俺が目当てか」

「一体誰が、どうしてだ」
 思い当たる節がないのだ。
 歳三の歩調が幾分、ゆっくり目に変わった。あたりの気配を探るように、そして敵は何人程度いるのか探るようにである。同時に、逃げ道を探した。すぐ前の辻を右に折れれば寛永寺の五重塔で広い境内の中だ。左に折れれば別な神社を左に見て目の前に大池ということになる。
 何にしても、相手は一人や二人じゃねえ。
 こんなことに関わっていては、命がいくつあったって足りるものじゃない。逃げることにしたが、右か左か。
 判断がつかなかったが、その時の感で、歳三は辻までやってきたとき、咄嗟に左の不忍池方向へ走った。前方に待ち構えていた何人かの刺客たちも、歳三の動きを見て一斉に後を追った。

 月は出ていた。
 薄く雲がかかっており、はっきり人影を確認できるほどの明るさではなかったが、注意して凝視すればわかる程度であった。
 歳三が猛然と走り出したそのとき、そこに一人の刺客が待ち構えていた。後ろから追ってくるのを感知していたから、もたもたしてはいられない。前後で挟まれちまっては、一巻の終わりである。いち早く目の前の浪人風の黒影を倒さなければ、自分は追ってくる連中の餌食にされてしまう。
 こういうところの咄嗟の判断が、歳三は特に優れていた。土方歳三という人間に天から与えられた天性の感というのか、すばやく腰のものを抜いていた。
 待ち構えていた刺客の殺気よりも、数倍の殺気を発していた。猛然と突進して体当たりする直前で、抜いておいた長刀の刃で男の脛を払った。相手が戦闘態勢に入る前の出来事であった。刺客は、猛然と進んでくる歳三に、間合いをあわせる余裕がなかったのである。
「ギャアー」
 だが、土方歳三も斬られてはいた。
 相手の刺客も一応の腕はもっていたらしく、大刀を抜いて間合いを計って突進してくる歳三を横へ払ったのであったが、低い姿勢で飛び込んだその背中にわずかにかすっただけであった。それでも、歳三の背中はひどく斬られていて、血しぶきが上がった。
 ひざの下を斬られた刺客は、その場でだらしなく倒れた。一本は完全に切り離されていて、もう一本も骨を切られてだらんとしている。
「ウウ、ヤマッタ。ゲニ、マッコト」
 その瞬間には、歳三の姿は見えなくなっていた。
 追っ手が現場に到着したが、ホシの姿は見えない。

深手ではなかったが、かなりの出血である。
いつもは池の西を通って南へ下がっていたが、今は東側であった。このまま下がると御徒衆の住む街に入るが、その手前で料亭を探した。池の途切れたあたりに数件が見えた。とりあえず、その中の『池之端』という一軒に飛び込んだ。
 暖簾をくぐって、店の入り口で倒れこんでしまった。
 料亭といっても、このあたりは男を相手する商売が主流だから、飯を食べる時刻が過ぎても開いている店はあるのである。

つづく

『すってん業平』になった土方歳三―――2

12月24日のここのブログで、以下のようなコメントを書いた。

『このお話は、二度目で恐縮だが、ご覧になっておられない方も多いだろうから、多少脚色しなおして、もう一度「すってん業平になった土方歳三」を4回に分けて連載する。』

そして、4回のうちの第1回を載せた。
その後、そのままにしておいて、ちっとも第2回が出てこない。
お叱りを受けた。
直ちに第2回を載せます。
申し訳ありません。


『すってん業平』になった土方歳三―――2

吉原通い
歳三は、吉原へ行ってみたくなった。
あそこへ行けば、自分が求める理想の女、癒される女に出会えるかもしれない。
吉原は、江戸で唯一の遊郭である。

江戸時代、公許されていた遊郭は、江戸では吉原、京都では柳町の島原、大阪では新町であった。これらが三大遊郭と呼ばれる。ほかには長崎の丸山など20箇所以上あった。この場合の公許とは、公認という意味ではない。せいぜい営業の許可を得ている程度なのである。これらの場所以外、遊女屋が集まっていても遊郭ではなく、岡場所なのである。『岡』の意味は、中心のもの以外の総称みたいなもので、岡目八目などともいう。

吉原は最初、日本橋の人形町付近にあった。有名な明暦の大火によって焼けた後、今の千束四丁目あたりに移転した。だから、夫々「元吉原」「新吉原」などとも呼ぶ。

吉原は「おはぐろどぶ」と呼ばれる用水路で囲まれている。遊女がおはぐろを捨て、そのために水が黒く濁ってこの名がついたものだが、このどぶを渡るとそこが吉原大門であった。大門をくぐればすぐそこが「待合の辻」で、上級の遊女がここで客を待つ。

歳三がはじめてここに足を踏み入れたとき、丁度、花魁が禿(かむろ)や振袖新造を引き連れて揚屋に向かう『花魁道中』に出くわした。
なんとも優雅な姿である。高尾太夫であった。江戸の吉原では、高尾太夫が花魁の位としては最高で大阪では夕霧、島原では吉野だった。
歳三は、この太夫と呼ばれる最高位の花魁こそ、自分が求めていた女の姿のように思えた。自分に相応しい、と。

大変な思い上がりである。
どうにか、お近づきになりたいと思ったのだが、どうにも出来るわけがない。何せ、花魁を上げるには数十両を超えて数百両の金を用意しなきゃならない。だから、お大尽のあそびなのである。
だが、歳三だって、百姓ではあったが石田のお大尽の息子なのである。自分には、その資格があるように錯覚していた。尤も、その錯覚とは金持ちというより女に持てるという意味で、第一級品だとおもっている。だから、吉原でも当然女が寄ってくるという前提に立っている。

『おれは、銭がなくたってもてて見せる』
今に見ていろ、なのである。
人間、そうなるとその一念が通じるものなのか、どうにかなってゆくから不思議である。だが、それは誰にでもあるものではなくて、この土方歳三という人間だけに天が与えたものなのかもしれない。男っぷりばかりでなく、刀槍は無論、洋式の争いごとに長けているその才覚までも。
安政6年の秋には、土方は、高尾太夫宴席の末席に座っていた。

歳三が吉原に、最初に足を踏み入れたときは、金もなかったのだが、見学だけで帰ってきた。自分なりに作戦を考えた。まず、何とか太夫の宴席に入る手立てはないものかと。
二度目に足を踏み入れたときに、例の大門をくぐってから、客の出入りをじっくりと見ていた。どんな連中がどんな女たちと遊ぶのかを。

遊女といったって、随分と位によって格付けがされている。最高位が太夫で、次が格子、散茶と続くが、これ以下は普通の遊女で、花魁とは言わない。
花魁と座敷を一緒に出来るようになるには、結構な段階を踏まないといけない。まず、大金持ちが前提である。
たとえば、大店の若旦那が何人かの若い衆を連れて、吉原でも一番の老舗茶屋『三浦屋』へ入って豪遊する。そう、最初は茶屋に金を落とすのである。
次に、その茶屋に花魁を頼み込むのである。
花魁を上げるには、相当な金が要る。その資格があるかどうかを、それまでの実績で、茶屋は計ることになる。

ようやく花魁に座敷に来てもらうことができたとしても、最初は花魁が上座にすわりお客は常に下座である。しかも、最初から口なぞ聞いてもらえない。離れたところにすわり、飲食もしないのである。たくさんの芸者を呼んで派手に遊ぶだけである。二回目も、殆ど同じで、相手にされない。
三度目になってようやく馴染みになれるのである。
勿論、馴染金というものが必要になる。この段階から、花魁に気に入ってもらえれば、床入れも可能だ。だが、馴染になってもらえる保障はない。花魁に選ぶ権利があるのである。

島原では、何と太夫に正五位相当の位が与えられていた。十万石クラスの大名にそん色ない格式なのである。そのくらい、知識、教養を身につけていて初めて太夫になれるのであって、花魁の中でも最高級の位に君臨していた。
場所は吉原であったが、この太夫に近づこうというのだから、歳三の思い上がりも桁違い、ここまでくれば頭が下がるというものだ。
しかし、この思い上がりが後年の土方の飛躍につながっていく。

歳三がまず考えたのは、瓦版屋であった。
まず、瓦版の表題から考えた。江戸百態、江戸自慢なぞだが、結局は『江戸みやげ』にした。
一人前の物書きになるための修行中の身の上であり、吉原と花魁について『ネタ取り』にやってきたことにした。
まず、高尾太夫を、ここのところ頻繁に座敷へ上げている廻船問屋『長崎屋』の若旦那に近づき、「一人前の瓦版を出せるように、日々精進しています。相撲や芝居にあるような遊女の番付表を作りたいので、ご協力をお願いしたい」と、申し出た。
これが功を奏して、その若旦那「面白い」と、二つ返事で許してくれた。これで、念願の太夫の座敷へ上がれることになった。

普通じゃ、こんな申し入れ、聞いてもくれないし、問題にもされないのだが間がよかった。
若旦那も、座敷では、遊女たちの興味のある面白い話題を探し、面白おかしく座を盛り上げるのだが、ここのところネタが尽きていた。そこへ、歳三がタイミングよく「遊女番付」の話を持っていいたものだから、「これは座興じゃ」ということになった。
歳三は、その日のために、瓦版屋の調度品をそろえた。
頭に乗せる手拭、よく見る法被、印半纏(しるしばんてん)である。後は筆記道具と紙があればよい。

土方歳三は、丁度いいことに、書が得意だった。親戚に書家で有名な本田家があって、歳三の実家から多摩川を渡れば谷保天神、その前が本田家であった。本田家は医家としても名をはせていたが書家としても有名であった。そこへ、閑を見ては書を習いに通っていたから、後年の歳三の手紙を見ても、男性的でありながら流麗な流れを持っていて魅力ある品のよい書体を身につけていることがわかるのであるが、それが、こんなときに役立った。

歳三は、自分の顔かたちに自信を持っていた。これまでも随分とこの武器を使わせてもらって得をしてきた。失敗もあったが。
そして、これまでの女性遍歴から、おれの顔かたちはどんな女にも通用するはずだと確信に近いものまで持っていたのである。
歳三は、十代の後半から街の女たちの評判になっていった。石田村には大した数の女はいなかったが、日野宿まで出れば数は勿論、質もいいのがいる。歳三は有頂天になって遊んだ。だから、日野宿のゴロツキどもの餌食にされるようになった。所詮、隣り部落、石田村の百姓の倅(せがれ)に過ぎないのである。

歳三が、喧嘩が強くなったのは、この連中のおかげである。天性の感に加え、日々、喧嘩に負けない方法を考え、工夫していたからであった。この方法はたまたま、天然理心流の極意に通じていた。
『肉を切らせて骨を切れ。骨を切らせて、命をとれ』というものだ。
これを可能にするものは、近藤から習った『気組み』であった。この『気』の入れ方は、最初が大事であって、敵方に先に『気』を入れられてしまうと、遅れをとる。これは修正がきかないものらしい。このことは人の一生に似ていて、最初の歯車が自分にあわないと、死ぬまで狂ってしまうものだと、後年、近藤は歳三に言った。
最初、遅れをとっても、忍耐し精進しているうちに、そのうち運が廻ってくる事もあるという。

近藤は言った。
「長州の桂ってやつは、ツキのない奴で逃げの小五郎だったが、慶応2年あたりから運がついてきやがった。その後は、飛ぶ鳥を落とす勢いで、うまく薩摩と手を組んで運をつかんだ。剣もそうだが、人生も見切りってものも必要だ。あの犬サルの薩摩と長州が手を組んだんだぞ。両方とも、うめえ見切りをしたってことよ。その点、徳川は何時までも一つにこだわった。これも生き方だが、時流ってものがあったのさ」

つづく
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
    サイトに関してのお問い合わせ(動作不具合など)は管理人までお願いします。
    村瀬へのメールはこちら






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