村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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坂本龍馬を斬った男―――今井信郎?その1

前回、慶応3年11月頃の情勢について触れた。
昨年、NHKで龍馬伝を放映したせいか、まだその名残りがあって、先日もBSで龍馬暗殺の真相のような番組をやっていた。

相変わらず、一流といわれる作家が"薩摩説"などを唱えているが、発想としては面白いが、もう、あれだけ”見廻組実行犯“の証言が重なってくると、観念するしかないだろう。
その見廻組だが、以前にも何回かここで触れたが、僕には多少の縁がある。

2005年の3月16日付のブログだから、もう、相当古いが、京都見廻役蒔田相模守について触れ、彼と土方歳三が幕末の京都で親しく交わっていたらしい記事を書いた。

そして、その相模守のお孫さんが偶然日野に住んでいて、僕に手紙をくれ、その後親しく交わらせていただいている話も書いた。
その方は、蒔田障子(あきこ)さんという人だが、今では、もう90歳に近い。

お孫さんがご健在でおられること自体、不思議なくらい、幕末が近いことになる。
蒔田広孝という備中浅尾藩一万石の藩主は、慶応3年当時はまだ18歳だったというから、その孫が大正年間に生まれても不思議はない。
広孝は弟に領地を分けてやったりしたから、石高が1万石を割ってしまい、旗本に落とされていたものを、何とか大名に復活するために運動し、羽田沖の埋め立てで功績を残し、再び大名に復活した(高直し)ばかりだった。

会津藩が京都守護職に任命されて貧乏くじを引いたのと同様、浅尾藩も同様に貧乏くじを引かされたのだろう、その後直ちに、京都見廻役に任ぜられている。
慶応2年には、長州の第2奇兵隊らによって備中の浅尾陣屋が焼討ちにあっている。

これで、京都の治安も、大大名が守護職で中大名が京都所司代、そして小大名が見廻役という具合に組織的には、一貫して統制が取れたことになる。
いかにも、徳川幕藩体制の面目躍如なのか。

こう見てくると、幕府の閣僚たちは、前年(文久3年)に設立された新選組に対して、あまり快く思っていなかったのではとの想像が働く。
わざわざ、同じ京都の治安にあてつけがましく見廻組を押し付けてきたのだから。

判るような気もする。
だって、百姓かそれに近い分際のものに頼って治安を図るのでは、いかにも世間に見栄えが悪いからであり、実際、新選組は乱暴狼藉を働く浪人ばかりでなく、市民へも威圧的であったから守護職の評判もいまひとつだった。

でも、結果は、見廻組より新選組の方が遥かに体制維持のために働いた。
意地だ。
『武士以上に、武士らしく』という厳しい法度を設けて運営した戦略が功を奏した。

確かに、見廻組の組員は直参であり、講武所などでは腕の良い手練(てだれ)だったかもしれないが、でも、やっぱ、旗本の次男、三男である。
良家のお坊ちゃまなのである。
身体を張って、命を懸けて、戦闘部隊に参加するという点で、新選組ほど徹底は出来なかったのではないか。

それに、幕藩体制下の武士は、家格や家柄で役職が決められているから、出世という魅力がない。そこへ行くと、新選組は働きによって給料も上がれば、ボーナスも出るし、組頭程度には出世できる。
浅田次郎の『壬生義士伝』という小説は、吉村貫一郎の新選組入隊から貧困にあえぐ家族への仕送りの物語だった。

ところで、腕の良い講武所の指南役としていち早く思い出すのは、佐々木只三郎だが、今井信郎という男もいた。
佐々木については、2005年6月5日のブログで触れているので、今回は今井信郎だ。

この今井信郎という男、恐ろしく怪力の人だったらしい。

何でも、『片手打ち』という技が得意で、片手で相手の面を取って頭蓋骨を砕いて即死させ、以後、片手打ちを禁ぜられたと伝わる。
18歳で直心影流に入門し、僅か3年で免許皆伝を取得したというから、恐ろしいほどの大変な遣い手である。
講武所剣術師範から、慶応3年10月、見廻組組士となる。
見廻組に入ってからまもなく龍馬暗殺の命令が出たことになるが、100名以上はいたと思われる組員の中から、誰が刺客の人選をしたのだろう。

このとき、見廻組を取り仕切っていたのは、誰あろう佐々木只三郎である。佐々木は蒔田相模守組であったが、蒔田広孝は6月に辞任していたから、この時点での見廻役は小笠原長遠という人であった。
実行部隊としての権力は、佐々木がにぎっていたので当然佐々木の人選であろう。

龍馬暗殺の刺客として、後年今井が語ったところでは、佐々木を筆頭に今井のほか、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の名が挙がっている。
踏み込みの順序を決めるにあたってくじ引きをしたが、最初、今井は3番を不服としてやり直しを要求し、次に1番を引いたと伝わる。

慶応3年11月15日、午後2時に所司代千本通屋敷内の佐々木の役宅を出たとあるから、随分と綿密な計画を練って挙行したと思われる。
最初、東山の祇園社に武運を祈ってから祇園石段下の行きつけの料亭「久菊」に潜伏し、夜を待ったとある。夜8時に、料亭を出て近江屋に向かったらしい。

この料理屋は、異説もあって、先斗町の「瓢亭」だったという人もいる。そこに4時間ほどいて、見張りを近江屋の外に残した。伝令からの連絡で、一人の武士が入ったという。中岡であろう。
そして一人の少年が入り、もう一人の武士が入ったという。(これは土佐藩士の岡本謙三郎という人物らしい)
しばらくして、この少年と岡本は出てきたという。
これらから、坂本ともう一人の武士(中岡)が在宅していることは明らかだと確信したという。

近江屋の位置からして、祇園よりは距離的に先斗町のほうが真実味がある。



つづく

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土方歳三書簡の一節

『京師表時勢柄追々切迫の由』
――土方歳三書簡の一節(慶応3年11月1日)


ここのところ、いろんなところから要望があって、あちこちでライヴを行なっている。
中でも、吉祥寺駅ビル『アトレ』では、ひと月か、ふた月に一度は必ずやる。

今週も二つあって、一つはA市のショッピングモール、もう一つはT市で行なわれるシャンソンの伴奏である。
昨年あたりから、カラオケの伴奏は頼まれるがシャンソンは始めてである。
でも、結構いける。
テナーサックスという楽器は、こういう伴奏にも相性が良い。

ところで、このブログにもコメントを寄せてくれている清水泰郎氏は、吉祥寺駅ビルライヴのプロモーションをされている方である。
ご自身は、何年も前から若い女性を伴って『打ち水音頭』というものを夏になるとあちこちの商店街などで行なって来ておられる方だから、今年も特にお忙しい。

その清水氏が、僕の『人間土方歳三』も気に入ってくれて、これを朗読したいと、既に何本か自分の声をテープに録音して僕のところに送ってくれている。
近いうちに、どこかのライヴハウスで朗読するから、サックスの生演奏もしてくれと頼まれている。
面白そうだ。
具体的に決まったら、ここのブログでお知らせしたい。

その清水氏が、朝日新聞の切抜きを送ってくれた。

Image4681.jpg

土方歳三の書簡を佐藤彦五郎記念館で公開するというのである。
これは、長らく、佐藤家の菩提寺の大昌寺に保管されていたものを子孫にお返しするというものであった。
この手紙の存在は、以前から広く知られており、真新しいものではないが、実際に見ることは出来なかったから、ファンには魅力的であろう。

僕は、このころのご時勢と、新選組の土方歳三や近藤、沖田などの心境を量る上でも貴重な資料だと思っている。

今回の表題を、

『京師表時勢柄追々切迫の由』――土方歳三書簡の一節(慶応三年11月1日)とした。

これは、歳三がその手紙の中で、実際に宛先はないが彦五郎(多分)あてに書いていたものである。

この慶応三年という年は、6月に新選組の面々が直参に取り立てられていて、歳三は「見廻組肝煎格」という役職であった。
昭和13年まで生きて、新選組で最も長生きしたと思われる池田七三郎が子母澤寛に語った話によると、

「黒紋付に仙台平の袴をはいた歳三は、一万石や二万石の大名にも引けをとらなかった」

と、証言している。

歳三は、二度目の隊士募集に、慶応3年9月の下旬に京都を出立した。
10月8日に日野の佐藤家についているが、このとき斎藤一が一緒だったと「聞き書き新選組」は語っているが、間違いである。
斎藤は、御陵衛士の伊東一派に潜入しているので、ありえない。
斎藤が新選組に帰還するのは11月10日だといわれている。

このとき、井上源三郎が歳三と一緒だったことは事実であるが、その割には、井上家にもそのほかこの地で(日野)、源さんのことは、不思議と語られていない。

歳三はこのとき、何人かの新入隊士を引き連れて京都に引き返しているが、先の池田のほか、新選組に入りたくて京都まで押しかけていったこともある松本捨助、源さんの甥に当たる井上泰助、また、このあたりで(武蔵野国や甲斐国)隊士募集の下工作をしていたといわれる中島登などがいた。

慶応3年という年は、新選組内で6月に立て続けに事件が起こっている。
10日に幕臣取立てが決まり、その2日後に不満に耐えかねた佐野七五三助、茨木司ら4名が守護職邸を訪ね脱退請願書を提出するが拒否され、その場で切腹したとされる。
その翌日15日には、屯所が、西本願寺から不動堂村に移転しているし、そのまた7日後には、武田観柳斎が殺されている。

慶応3年は、その後は新選組としてたいした事件は起きていないが、再び、11月と12月に大きなものが集中している。
11月は、坂本龍馬暗殺事件が15日で(結果として犯人は見廻組らしいが、当時は新選組が疑われていた)、18日が油小路暗殺事件、12月は7日に天満屋騒動、18日に近藤狙撃事件である。

唯、10月14日に例の大政奉還が京都の二条城で告示されるのだが、このときは、土方歳三一行はまだ江戸にいて、21日に立っているが、初めてこの情報を耳にしたのが大津についた時で、11月1日だったらしい。

いち早く、佐藤彦五郎にこの大事件の速報を届けているのが、今度公開された手紙である。
だから、『京師表時勢柄追々切迫』なのである。

この頃は、情報の届くのが今から見れば極端に遅いのは使用のないところだが、それにしても、「大政奉還」という大事件だから、江戸には早飛脚で届けられたに違いない。
船を使い、その気になれば、3~4日で届くといわれているので、歳三が気を使って速報のつもりで出した手紙だが、もしかしたら、もうとうに彦五郎のところには、その情報は入っていたかもしれない。

いづれにしても、この大政奉還という大転換は、近藤や土方歳三には、大ショックだったに違いない。
せっかく直参に取り立てられたのも束の間、その徳川幕府が崩壊するのであるから。
それだけならまだしも、12月9日には王政復古の大号令で、慶喜が罪人とされて、『徳川断絶』の危機が迫ってきた。
忠臣蔵は、浅野家断絶を徳川将軍家が行なったものだが、今度はその徳川が薩長によって断絶の危機にあるわけだ。

(よく、西郷は徳川を武力討伐するために、徹底して戦争を仕掛けたといわれるが、それは、時代を変革するためにそのとおりであっただろう。だが実際は、徳川を残すために西郷は最後まで100万石は残してあげたいと、主張した。しかし反対する藩も多く、最終的に70万石で駿府に移転となった)
こうした時期の、近藤や歳三の心境を改めて考察してみたい。

幕府は、ペリー来航を事前に知っていた

 ――NHK『歴史秘話ヒストリア』を見て――

偶然、というか、表題にあるこの番組を横目で見た。
この歴史シリーズは、大分長い間『その時歴史は動いた』というタイトルだったし、以前は『堂々日本史』などという題名だったこともある。
この番組で日本史を勉強される方も多いと思うし、もしかして、大河ドラマ以上にまじめに見ている人もいるはずだ。

だから、僕は、この番組の作り方が気になる。
歴史の真実に沿って、きちんと検証しているのだろうかと。
ドラマではないから、そのあたりは大河とは大きく違うが、でも、主役や主題にスッポットを当てて輝かせているから、単なる「聞き書き」程度の内容でも、いかにも「史実」みたいに作るから誤解も生むし、余計な誇張も多い。
このあたりは、割り引いてみていく必要がある。

例えば、『井伊直弼』という人がテーマだとすると、日本のテレビ局というのは、大概が、「井伊は、本当はよく勉強もしていて、開明的な人で、大老自らが通商を開始したのに、殺されてしまった」「再評価が必要だ」という、作り方をする。

この場合は、殺した18人の水戸を中心とした浪士たちは軽はずみなテロリストとして描かれることが多い。
でも、逆に、水戸浪士たちをテーマに描く時は、その逆になる。
その度に視聴者の意識、見方は変えられてゆく。
きっと、わが国の歴史教育に一貫したものがないから、このような現象が起こるのだろう。

止むを得ないか。
歴史とは、時の権力者が上手く利用するものだから。

僕は、井伊直弼という人は『徳川幕府の権威』なるものを回復させるために大老という権力の座について手腕を振るい、逆らう連中は大獄の捕縛の対象としたと思っているから、先見の明があった人だとは思われない。
むしろ、洋式の調練を刀槍に戻させた旧式の人間だったと思っている。

でも、番組というのは、作り方でどうにでも視聴者の意識を変えることが出来る。
よく行なわれる『世論調査』と同じで、この世論調査なるものが世間の風評を生んでしまうものではないのか。
話がそれて恐縮だが、僕には、この調査、意図的に質問項目を作って、結論をある一つの方向に持っていっているように思えて仕様がない。

どの新聞社も、どのテレビ局も、一斉に殆んど同じタイミングで同じ質問項目で行なう。
まさか、新聞社が横の連絡を取っているとも思えないが、きっと関係者は、その結論はわかってやっているはずだ。
結果、国民(有権者)からの集計は殆んど同じような答えで出てくる。
「国民の多くが、このように考えています」とキャスターが締める。
視聴者は、「それじゃ私も」となる。

誰かが、『世論』を作っている。
毎年、総理が変わるのは当然だ。
でも、そのキャスターは、「諸外国からは、毎年変わる日本の首相に辟易している」と、結ぶ。
こういう放送局もあっていいが、わが国の場合は、国営的放送も含めて全部が一斉なのだ。

鳥越俊太郎というジャーナリストがいる。
この、一斉に右向け右の時代にあって、
彼は、数少ない『自分の意見を、自分の言葉で喋る常識人』だと僕は思っている。
だが、彼が喋ると、周りの解説者(その資格もないほどの人が多いのだが)と雰囲気が大きく違うことがある。
何だが、鳥越さんの方がずれている様な結びになることがある。
彼はガン患者だが、もっともっと長生きして欲しい。

またまた、話が大きくそれてしまった。
ペリー来航のことだった。
これだって、殆んどの日本人は、突然やってきた黒船4隻の艦隊に幕府の幕閣たちは慌てふためいて、止むに止まれず開国してしまったと、思い込んでいるし、そのように教えられてきた。
どうしてだろう。
不思議でならない。

あらかじめペリーがやってくることは、幕府の高級官僚たちは先刻承知で、「あ~あ、とうとう来ちゃった」が、本当のところだ。
これは、僕がその証拠を開かすまでもなく、いろんな書物で紹介されているから当たり前のことなのだが、一般には知られていない。
何で、こんなことが起こってしまうのだろう。

いろんな書物と書いたが、その書物の出所は「オランダ別段風説書」というものである。

長崎に、『出島』という扇形の島が人工的に出来ていて、ここだけが江戸の時代、外国人たちが日本に踏み入れられるたった一つの場所だったことは、よく知られている。
とはいえ、その外国人とは、オランダ人と清国人だけだった。
そのオランダ人から、江戸初期から『オランダ風説書』として海外の情報が毎年幕府に入ってきていた。
鎖国をしていたからといって、幕府は国際情報について何も知らなかったわけではなく、大概のことは知っていたとするべきである。

特に、アヘン戦争が終わって清国と英国が結んだ南京条約のあたりから(1842年)、幕府の求めによって毎年提出されてきた『オランダ別段風説書』は、注目しなければならない。
毎年起こっている、世界のあらゆる情報が網羅されているのである。
オランダの目的は、どの国よりも早く日本国と通商条約を結んで利権を得たいから、幕府に情報を与えて詰め寄っているのである。
そして、日本国を守るのはオランダである、と。

ペリーがやってきた1853年6月当時の、この別段風説書をざっと見てみると、様々な情報が盛りだくさんだが、特にペリー関係だけを見てみると、こんな風だ。

  日本に向かうペリー艦隊12隻
  船の名前、トン数、大砲の数、乗組員の数、船長の名などが述べられている。
  また、インド洋から東の大英帝国の軍艦18隻も同時に述べられていた。

  1852年、アメリカ国務省からペリーに命令が出されていて、日本派遣目的は、第一に通商であり、次に薪水の補給、そして遭難船員の保護にあった。
又、半未開の国が相手だけに、武器弾薬を積みいれての威嚇も許されていた。

1840年のアヘン戦争で清国の一部(香港)が割譲され、次に極東の日本が餌食になることは誰の目にも明らかだったのだが、当時の日本の権力者たちには、何らの策も打ち出せなかったのが実情である。

唯、今と違って、情報といえば瓦版ぐらいの時代だから、一般市民には正確な情報なぞは入っていない。
黒船の来航は脅威だったに違いない。
大八車で疎開したという話は、嘘ではないだろう。

村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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