村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

土方歳三の後姿---3


このタイトルで、たくさん書く予定ではなかったが、成り行きで3回目になってしまった。

前回、函館に幕末の頃存在した遊廓兼料理屋『武蔵野楼』について触れた。
僕の本の舞台がその武蔵野楼だったので、どこにあったのかを確かめたくて、何年も探っていた。
先月も現地へ行ってみて、新しい発見はあったのだが、二つの説が出てきて、ますますわからなくなってしまった。
でも、実際存在したことは確かで、榎本や土方たちが会合に使っていたことも確証を得たので、それでいい。

函館半島のいくつかの坂道を探索したあとは、坂道を下って函館湾沿いを駅方面へ歩いた。すると、湾内を半周する遊覧船乗り場に到着する。
勿論、乗った。


歳三は、釣り船に乗って沖へ出た。
元号が明治に変わって、そろそろ一年を迎えようとしている。
新緑の箱館半島が空の青さと海の青さに挟まれて、なんとも美しい。
右前方に弁天台場が見える。ここに籠って、戦うことになるであろう。それも、あと数日か。

箱館湾の向こうに半島が見える。
坂道が何本も確認できる。
その坂道の中ほどに、いくつかの外国の領事館などが見えるが、何軒かの遊廓も目立っている。その中で、3階建ての『武蔵野楼』がひと際、威容を誇っている。

箱館の空気は美味い。
北辺の地だけあって、ひんやりとしている。
5月に入ったとはいえ、まだ空気は冷たい。
深呼吸をすると、肺の奥底にまで染み渡っていくようだ。

船頭に、艪を漕ぐ手を止めさせて、自分は仰向けに空を眺めた。
腰を下ろした船頭は、煙管を取り出して、ゆっくりとふかし始めた。
煙草の煙が、空に向かって揺らいでいく。
そのさきに、すっきり晴れた青空に雲が三つ浮かんで見える。

一つは近藤であり、もう一つは源さんであり、他は総司郎であった。
船頭は、船べりに煙管を「コン、コン」と、かん高くたたいて吸殻を落とした。
自分も、すぐにあの雲の仲間に入るような気がした。


この日も5月の新緑の美しい日だったのだが、あいにく、お陽様は殆んど出ていなかった。

IMG_1922.jpg

翌日、
五稜郭へ、朝一番で行った。
少しだけ陽が出ていたので、急いだ。
ヤッパ、晴れた空の下がいいに決まっているからだ。

五稜郭タワーが新設になって、一度も上っていないので、一度は体験してみたかった。
そして、上空から五稜郭を眺めたかった。

箱館湾に遊弋している甲鉄艦は、弾が4キロは飛ぶといわれるアームストロング砲を積んでいた。
楽に、五稜郭まで届いてしまう。
政府軍は、本当に打ち込んできた。
奉行所の建物が、吹っ飛んだ。

新設されたタワーは、高さが約90mらしい。
見晴らしがとても良いので、箱館山、海、一本木関門あたり、そして五稜郭など、当時の様子が、手に取るように理解できる。

それに、数年前、箱館奉行所が御陵郭内に再構築されたので、それも、上からみてみたかった。
丁度、桜の満開のタイミングで、見事であった。

Image568.jpg

僕は、ひねくれ者だから、開業したばかりのスカイツリーの大げさな騒ぎが大嫌いだ。
大体、格好も良くない。
絶対に、いかない。
それに、入場料も高いし(2,000円)。
だから、東京タワーを贔屓にしている。
こちらは、格好もいいが、美しい。
それに、僕ら、団塊世代には、敗戦後の東京が復興してゆく、一つの象徴だった。

中学1年の時、僕のクラスに、よく嘘をつくT君というのがいた。
担任の先生が、
「このあいだ出来たばかりの、東京タワーに行った人いますか」と、聞いた。
何人か、「ハーイ」と手を挙げた。

先生が、「昇ってみて、どんな風に見えましたか」と、聞くと、
手を挙げてたT君は、「地球が丸く見えました」と、言った。
流石に、先生は、「そこまではーーー」と、返事に困っていた。
僕は、このシーンを50年もたった今でも良く覚えている。
(T君は、『ちびまるこちゃんに出てくる、藤木君に似ていた』)

この五稜郭タワーだって、
高さは問題なくスカイツリーに負けるが、見晴らしは、比較にならないほど素晴らしいはずだ、と期待した。
そして昇った。
期待通りだった。
それが、この写真だ。
たくさん撮った。

Image543.jpg Image544.jpg

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残念ながら、曇ってきてしまったので、半島方面はかすんでしまっていた。

Image548.jpg Image573.jpg

このタワー、
1,2回はお土産屋やレストランだが、イベントが出来るようにもステージなどが造られていた。
五稜郭祭りの時、ここで土方コンテストをやるためのものだろう。
余談だが、僕は、今から8年位前、その審査員を頼まれたことがあった。

(p)563、5381、
Image563.jpg Image5381.jpg

ついでだが、
この辺りの桜は、本当に見事で、皆さん一度はこの時期に行って見て欲しい。
花見が出来るように、タワー側が青いシートを敷いて、既にセッティングしてある。

Image5371.jpg

僕は、(株)五稜郭タワー社長のNさんとは親しくて、土方歳三資料館をはじめ、日野市内をご案内したこともある。
歳三の銅像を作る時も、「土方家にご挨拶してから」と、言うので、制作者の小寺氏と一緒に行ったこともあった。
この小寺さんはローマにお住まいの方である。

だからか。
わからないが、出来上がった歳三の像は、いまひとつ何かが違うような気がしてならない。

Image5461.jpg
 
ついでに言うと、土方歳三資料館の庭にあるベートーベンのような歳三も、ちと違うか。
僕は、高幡不動にある和服の歳三が、最も実物に近いのでは、と思っている。

これで、このシリーズはおしまいとする。
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土方歳三の後姿---2

このタイトルで、再び書くつもりはなかったのだが、成り行きでそうなった。
先日、函館に3日間いた。

函館の飛行場から、僕の著作を扱ってくれている「土方歳三記念館」に、まずもって駆けつけた。

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お土産品のコーナーには、土方本としては、確かに僕の本のみが平済みに置かれていた。

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いつも注文の電話をくれるN女史は、「この本の裏表紙、土方さんの背中が良くて」「函館の土方さん、そのもののようです」と仰ってくれた。

その後、社長のSさんが応接してくれて、約2時間も館内を案内してくださった。
本の感想を語ってくれ、「最初の書き出しが、とてもいい」と力説。
きっと、中島登や立川主税がのこした歳三への回想が清新な感慨だったのかもしれない。

社長も従業員も気に入ってくれているなんて、深く感謝しなきゃいけない。
その社長さんは、大河ドラマのときのことを想いおこしてこういう。
「あの時は、参りました。週刊Bに4ページに渡って書かれてしまいました。『本物の資料がなく、全部偽者で、荒稼ぎ』のような表現」で。

続けていう。

「それなら、一念発起して実物を集めよう」と。
そうはいっても、新選組の実物は、函館ではそう簡単には手に入らない。
「だけど、戊辰戦争で使用したものは、この函館にはたくさんあります」
だから、できるだけ、函館戦争時に使用された実物を買いあさったそうである。

そして、見事な真剣が陳列されている。
僕は、この方面については深い認識があるわけでもないので、多くのコメントは避けるが、『虎徹』や『二代目兼定(通称、之定)』、まさかの『菊一文字』があった。
中には、鑑定書付きの物もあった。
関心のある方は、是非行ってみては。

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次に、函館半島の坂道に久しぶりでいってみた。
ここに来たのは、かれこれ7~8年前だから、懐かしい。
この数年で、随分と観光地化されて、新しいお店が増えていた。最も、修学旅行やツアーのお客さん相手のお店が多く、近頃流行の現代風のたたずまいである。

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このあたりに来る目的は、
ロシアやイギリスの領事館やハリストス協会、函館公会堂なぞもあって、エキゾチックな気分に浸るのもいいのだが、僕の場合は、自分の書いた『人間土方歳三』の舞台、“武蔵野楼”のあった場所の確認なのである。

以前にも、このあたりかと見当を付けた場所はあったのだが、確信まではない。
その場所は、常盤坂の中腹の辺り、姿見坂辺りにかけて妓楼が並んでいたと推測していた。

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今回も写真に撮ってきたが、『姿見坂』の標識には、こう書いてあった。
  【かつて、坂の上にあった遊郭に因む名で、遊女たちの艶姿が見られたことからこの名が付いた。
遊郭は江戸の吉原を模し、付近は茶屋町と呼ばれて賑わいを見せたが、明治4年の大火で消失し、宝来町へ移った。】

このような表現がなされていたので、てっきりそれが正しいと今まで思ってきたが、これは、きっと函館市の教育委員会の学芸委員によって書かれたものだと推測する。

だが、また、違った資料も出てきた

『函館百珍と函館史實』という書物には、こうある。

島と云うのは今の豊川町附近の俗称であった。
此の辺は越後井粟村の松川弁之助、佐藤広右衛門と云う人々が官の許を得て万延元年に埋立てた処である。そして周囲に堀を通じ橋を架して往来したから自然島と呼んだのであろう。

此処へ最初に遊女屋を設けたのは今の安田倉庫の附近であったそうな。
夫れは文久の末から元治の頃であった。
島の盛んであった頃は遊女の賦金が年々三百両も納められたと云うから可成盛ったものと見える。
其後開拓使となって明治六年二月二十七日に台町、蓬莱町と共に豊川町も遊廓指定地として公許されたが翌三月の二十五日の布達で台町、蓬莱町の両廓に移転を命じて居る。夫れで間もなく豊川町の遊廓が廃滅となった。

此島の遊廓で第一の全盛を極めたのは武蔵野楼であった。
今の豊川町の入口の橋の袂に豪気な三層楼の家台骨を構へ、其頃珍らしかった屋上庭園など設け、女郎衆は孰れも一粒選の奇麗首計りと云う素ばらしい景気であった。

図は函館図書館所蔵の武蔵野楼の錦絵にして明治初年のものなり。楼は今の 松田商店の処にして十年程前には武蔵野の土蔵が の印を其儘に残ってあった。

武蔵野楼

今の豊川町というと、函館の有名な「赤煉瓦倉庫群」の辺りである。そこに、武蔵野楼があったという記述である。
それは、文久から元治にかけて作られたが、明治6年の3月には取り壊されて、台町、蓬莱町に移ったとある。

僕は、今回も函館地元の古老たちに、何度か、遊郭のありかを聞いて回った。
大概は、「蓬莱町にあった」という答えだった。
すると、上の書物の記述に合致して、それが正しいような気がしてきた。

すると、これまで、姿見坂と常盤坂のあたりで、丘の中腹であったというのは、ちと違うかもしれない。
豊川町は、もろ、海岸沿いだから。
あるいは、両方にあったか。

まあ、この辺りは、少し違っていても良い。
大事なのは、武蔵野楼という妓楼があったという事実であるから。

つづく
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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