村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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NHKの大河ドラマで取り上げてほしい人物 高島嘉右衛門――2


こういう偉大な人物がいたという事実は、意外と歴史に伝えられない。
いくら、実業家として、国家への貢献者として立派であっても、
多分、
預言者(宗教的)として、有名だからであろう。

まさか、
明治政府の高官たちが、様々政治的施策を講じるのに、嘉右衛門の占いに頼っていたとは、到底言えないし。
そんなこと公表したら、日本国全体の信用にかかわる。

でも、
為政者だからこそ、国家の行く末にかかわることだから、間違えるわけにはいかない。迷いが生じたとき、こうした占いに頼りたくなるのも当然である。

そういえば、
僕の母がまだ健在だったころ、こんなことを言っていた。
八王子の石川というところにたいそう当たる『お伺い』があって、
新宿の花園町からも(当時、僕の家族は新宿に住んでいた)訪れる人は多かったという。
そのお伺いには、地元ばかりでなく、全国から連日、訪れるお客が絶えなかった。
太平洋戦争も末期、昭和20年の頃、陸軍大将クラスの人が隠密にやってきて、お伺いに真剣だったそうである。

どんな因縁か、
僕の今の住まいは、その石川のすぐ近くである。
確かに、T教会という教団がある。
中央高速の八王子インターから、ほど近いところである。
この手の占いにしてはとても人気があって、連日、日野駅からタクシーで早朝、まだ暗いうちから急ぐ人たちがいる。
順番取りに、急ぐのである。

聞けば、古代の中国では、
『易経』は、君子の学と言われており、この卦を頼りに、当時の権力者たちは、行動を起こしていたとも伝えられている。
この地球の上では、現在でも、占いによって部族の行動を決めている地方もあると聞く。

長い人類の歴史の上では、神や仏を信じたり、頼ったりするのと同じように、こうした『占い』に頼るってこと、当たり前のようにあったのではないか。

それでは、前回の続き、
嘉右衛門が伝馬町の牢につながれたところから、はじめよう。

 伝馬町の牢獄の中で、『易経』という本を畳の下から発見する。
(と、言われているが、あるいは、差し入れだったかも)
  毎日、毎日、読みふけり、完全に暗記してしまい、64卦の卦辞はもとより、384爻(ぎょう)の爻辞をすべて暗記した。

  後日、百発百中といわれた高島易の基礎は、この伝馬町の中での精進と鍛錬によって確立された。


 易を立てるには、筮竹(ぜいちく)が必要であったが、タケは手に入らないので、紙こよりを50本作って、のりで固めて代用した。

 まず、自分自身の今後の運気を占ってみた。
  すると、『水雷屯』(すいらんちゅん)の二爻を得た。卦辞と爻辞によって占断しえたものは、「悩みの中に希望を失わず、時を待て。出獄の可能性はあるが、10年を覚悟せよ」であったという。

 模範囚となった嘉右衛門は、監獄の吟味役和田重一郎という人物の身上を占ってやったところ、見事言い当て、副奉行の役に付けたので、6年で出獄できた。

 横浜に戻った嘉右衛門は、まず異人館の建築から手を付け始めた。次々と事業を拡大して、横浜の公使館、領事館の建築は、嘉右衛門とそのグループの独占状態にまでなった。

 嘉右衛門が名通訳横山青年、アメリカ人ビジンと組んで外国公館の建築に実績を上げていたころ、特に仲が良かったのはオランダ領事タックとイギリス公使パークスであった。

  中でも、最大級の工事は、イギリス公使館を総工費75000ドルで請負、短期間で立派に完成させてパークスを驚かせている。
  次に、儲けたお金で、近代的な和洋折衷の旅館「高島屋」を建築した。

 慶応三年当時、江戸と京阪とを結ぶ最速交通手段は船であり、 横浜~神戸間であった。そのため、政府の要人や関係者たちが関西への出張や洋行には、殆ど、高島屋を利用するようになった。
例えば、三条実美、木戸孝允、大久保利通、大隈重信、伊藤博文、山形有朋、陸奥宗光、副島種臣、渋沢栄一、福沢諭吉などである。

 これから長旅に出る人たちの多くは、旅の安全を願って、立筮を所望する人がいるのは、当然である。これらの重要人物たちは、往復に高島屋を利用した。
嘉右衛門には、居ながらにして、欧米の最新情報を得ることができた。そして、これらの情報をもとに、次々と新しい事業を進めていった。

 *横浜港周辺に灯台を建設
 *下水道の整備
 *伊勢山下に様式の高島学校創設
 *神奈川海岸の埋め立てと鉄道敷設
 *ガス灯の設置

これらはすべて、我が国最初の事業であった。

 嘉右衛門は、洋行者から欧米の蒸気機関車のことを聞き、早くから鉄道の必要性を唱えていて、政府に新橋―桜木町の鉄道敷設を申請していた。
だが、政府は、鉄道は国営とする方針を出していたので、潔く引っ込めて、そのための海岸埋め立てを申請して許可を得た。
この埋立地は、高島町と名付けられて、今も残っている。

 当時はまだ、電灯がなかった。
 続いて嘉右衛門は、ガス灯の設置に取り組んだ。
  ガス灯が、日本で初めて夜の街を照らしたのは明治5年のことで、横浜が最初である。今でも、本町小学校前に、『日本最初のガス会社跡』の碑が残っている。
銀座、新橋にガス灯が灯ったのは明治7年のことで、ちなみに、この工事も嘉右衛門が施工した。

 このほか、名古屋にセメント会社を設立し、それまで輸入に頼っていたセメントを国産化した。

 また、北海道の開発に尽力し、北海道炭鉱株式会社の社長にも 就任した。

 高島嘉右衛門は、易に頼るばかりでなく、いち早く時代の流れを読み取り、将来を予測し、実行に移す才能があり、商才もあった。
また、当時の高官たちとも親交があったので、彼が望めば、三菱のような財閥を築くことも可能であった。
しかし、彼は、政商ではなかったし、財閥の道も選ばなかった。

 明治9年、彼は、実業界から引退し、高島台の屋敷に隠棲して易学の研究に没頭したのである。

 実業界を引退した嘉右衛門は、易の研究に没頭し、明治19年に『高島易断』という易経と占例を記述した著書を出版した。

 熱田神宮の神職の要請によって、易について、社前で講義をしていたが、その年は干ばつが続き、近郷の農民数百人が参詣して雨乞いの祈祷を行っていた。
  嘉右衛門は、筮竹を取って占った。
  『萃』(すい)の上爻がでた。
  「これは、洪水の象であって、今日から6日目に大雨が降ります」といった。
  それから、6日目、午前中は拭ったような晴天で、一片の雲もなかったが、午後2時ごろになって、にわかに雲がわき風が起こって大変な暴風雨になり、大洪水となったのである。

 『高島易断』には、日清、日露戦争に関する占例が多い。
 特に、日露戦争のロシアバルチック艦隊対策であった。
  東郷司令長官はじめ、軍幹部たちが最も判断に苦しめられたのは、ロシア軍が対馬海峡を通るか、太平洋を廻って宗谷海峡を通るのか、どちらのコースでウラジオストックへ入るのかの決断であった。
嘉右衛門の立筮では、『節』の初爻を得た。この卦の爻辞には「戸庭を出でざれば、咎めなし」とあって、連合艦隊は、本拠地を動かなければよいという判断であった。
連合艦隊の基地は、韓国の済州島にあり、対馬海峡の入口なので、易の啓示は正しかった。


つづく
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大河の主人公なら、一度、“高島嘉右衛門”をやってほしいな

NHKの会長の机には、常に、全国各地から大河ドラマの主人公に、当地の英雄を題材にしてくれという陳情書類が積まれている、と聞いた。

僕が、『新選組!』を担当していたころの話だから、もうかれこれ10年も前のことになるが、おそらく、今もそのことは、変わらないであろう。

大河ドラマの主役の出身地だったり、活躍した舞台であったりすると、大勢の観光客を呼ぶことができるから、各地とも、お客欲しさにお願いするのである。

でも、NHKの下請会社が、大河に関連したメイン会場づくりを作れと、法外な料金を要求してくるのが実態のようだ。
それに応じなければ、一切、大河関係のキャラなどは使わせないという、締め付けである。
何せ、主役の近藤勇に香取慎吾、土方歳三に山本耕史という表現さえ、広報をはじめ様々なPRに、使わせないのである。

当市も、それに困ったことがあった。
『新選組!』の時は、少しだけ応じて、なんとか、キャラクターを使わせてもらったことがあった。

僕が、NHK対応の最初の窓口だった。
まったく、要領がわからなかったので、先進地に聞いてみた。
うちの前年が金沢市と石川県の「利家とまつ」であった。
2度、足を運んで、実情を聞いた。

次に、当市に好意的に教授してくださったのが、赤穂市の担当者だった。
赤穂市は、『忠臣蔵』で、すでに4回、経験しているということだった。
「とにかく、お金をたくさん要求してくるが、その割には、大した施設は作らないから、気をつけなさい」と、忠告してくれた。
赤穂市は、結構な赤字を出したらしい。
今年の会津は、たくさん、お客が押し寄せているというがーーー。

先日、妙な手紙が来ていた。


平成25年5月吉日

村瀬彰吾様
懐かしむ会幹事

B市長と新選組フェスタを懐かしむ会(思い出づくり)開催のお知らせ



八王子のホテルで、懐かしむ会をやるらしい。
実は、B市長は、5期の在任を終えこの春退任した。
この間、僕もいろいろ、この人とは仕事で思い出はあるが、とりわけ新選組では、その思いも深い。

最初の出会いは、ごみの改革であった。
ワースト1の当市が、多摩地区トップクラスに改善された。
あの時、ごみ課長であった僕に、「よく、やってくれた」と、喜び合った。
次に、新選組担当主幹になった。
そして、新選組のふるさと博物館の館長だった。
この頃、あの小説を書いた。

この前市長と一緒に、新選組フェスタを懐かしもうというわけだ。
僕にも、お知らせが来たので、行ってみるつもりだ。


そこで、本日の本題である。
“高島嘉右衛門”という人、意外と知られていない。

あまりにすごい人なので、どこから説明してよいやら、迷っている。
早い話が、
三菱財閥を作ったあの岩崎弥太郎より、もっとスケールがでかくて偉大なる実業家が、幕末の横浜にいたということ。
そして、儲けたお金のほとんどは、公につぎ込んだ。

例えば、横浜の街を作り、初めてガス灯をともし、新橋から横浜に海を埋め立てて列車を通した。
だから、今だに、横浜には、彼の功績をたたえて、高島町という町名も存在している。
また、その予言能力から、時の総理大臣をはじめ、権力者たちが政治的判断に困ると、彼の予知を頼りにして群がってきたという。
一説によれば、それで、日清・日露の戦争も乗り切ったといわれている。
つまり、『勝てる』というお墨付きをもらったというわけだ。

この人、天保3年生まれで、土方歳三より3つ上だ。
長寿を全うして大正3年に82歳で亡くなっている。ちなみに、長倉と斉藤(一)は、大正4年まで生きたから、殆んど新選組の面々と同時代の人である。
だが、一般に、意外と知られていない。

「国士」という言葉がある。
国を想い国を憂え、国の為に優れた働きをなす者を指して言う言葉で、「国色」「国香」とも言う。最初に思い浮かぶのは、吉田松陰あたりか。
でも、高島嘉右衛門こそ、真にこの名に相応しい存在だったのではないだろうか。

この人、
なぜ、実業家として、そんなに莫大な蓄財ができたかというと、一言でいうと、『超能力者』だったからだ。
もう、お気づきの人もいるかもしれないが、
この人の名=“高島嘉右衛門”の高島は、あの「高島易断」の創始者なのである。
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僕がなぜ、この人を知ったかというと、もう、約30年以上も前、高木彬光の『大予言者の秘密―易聖・高島嘉右衛門の生涯』を読んで、大きな衝撃を受けたからであった。
でも、その頃は、こうしたブログや文章を書くなぞということはしていなかったから、ただ、胸の中に秘めているだけだった。

だが、つい数日前、突然僕の胸に火がついてしまった。
あの高島嘉右衛門のお墓に偶然出会ってしまったのである。
今、僕が担当している講座のウォーキングの下見に品川宿へ行ったのだが、泉岳寺もそのルートに入れた。

過程を省略して、結果だけを言うと、その墓は、赤穂浪士四十七士の墓のある泉岳寺境内にあったからだ。
しかも、その場所が、大石や四十七士の墓の入り口のすぐ右側にあった。
かなり、立派なのだが、一般的には、殆んど伝えられていない。

それでは、嘉右衛門の超能力の一端を紹介しよう。
文章にすると長くなるので、箇条書きにする。
 
大実業家として、大預言者としてーーー

★ 安政二年の大地震後、木材需要に乗じ大儲けし、深川で押しも押されもせぬ大材木商となる。

安政二年秋、なまずが異常発生している。
心身統一して観音経を誦して筮竹を切ってみた。
見よう見まねであった。
出た卦は『離為火』(江戸の町が、大火に見舞われる)。
これは、大変、一大決心をして、千両の大金を無担保貸しで頼み込む。
そして、材木を買いあさった。

10月4日、大地震。
江戸百万の住人のうち、20万人が死んだ。
材木の値は、3日で4倍に跳ね上がった。儲けは、2万両であった。
この時、嘉右衛門、わずか22歳であった。

ところが、よいことばかりではない。
翌安政3年8月15日、この日は空前の台風に見舞われた。
何せ、永代橋の橋げたが折れて、橋全体が崩れ去ったほどである。
この時、嘉右衛門の所有する深川の材木すべてが、大波に流されてしまう。
そして、逆に、2万両の借財ができてしまう。

嘉右衛門のこの時期の心境、「毎日毎日、重い石を背負って激流を遡るような思いだった」と述懐。

★ 安政6年6月2日、横浜港開港の日に、「肥前屋」という屋号で横浜に伊万里焼の店を開店し、大儲けするが、貨幣の売買で牢獄入りに。

鍋島藩直売店のようなものだったので、他店よりもはるかに安く、品物も豊富で、外国人客だけでなく、日本人客も多く利用するようになり、大変な繁盛ぶりとなった。
それだけなら問題は起こらなかったのだが、貨幣の交換、売買に手を出してしまった。
(僕は、あの小説『人間土方歳三』のP65に「輸出と不平等条約」という見出しで、その当時の小判と銀貨との交換比率について詳しく述べたが)
諸外国との貿易が始まってからというもの、日本の金貨が大量に、海外に持ち去られた。

簡単に言うと、
外国から持ってきたメキシコ洋銀3枚で小判1枚に変えられたのだが、その小判を、本国に持ち帰って、逆に銀に交換すると9枚になった。
濡れ手に粟とは、このことである。
当時、借金苦にあえいでいた嘉右衛門は、これに手を出してしまった。
これで、大分借金はなくなったのだが、ご法に触れた。
呉服橋の北町奉行所に、自首することにした。
この時、彼は29歳、万延元年(1960年)である。

つづく
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
    サイトに関してのお問い合わせ(動作不具合など)は管理人までお願いします。
    村瀬へのメールはこちら






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