村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

受講生たちが、『新選組村瀬塾』を作ってくれた


この4月だったか、僕の担当している講座について触れた。
府中の駅前にある『多摩交流センター』が行っている“多摩市民塾”からの依頼で、10回連続新選組講座を行なった。

「新選組」だけで、10回やるのだから、じっくり深く潜行することが出来た。
と、言いたいところだが、
終わってみれば、まだまだ、時間が欲しかった。
「20回連続にしますか」と、問われたのだが、それではいかにも長いので、10回にしたが、―――。

講座は、1回2時間である。
おしゃべりだけでは、ちと長い。
だから、映画や、ウォーキングを入れた。
映画は、いつもの、栗塚ものだが、ウォーキングは、『試衛館から伝通院』『土方歳三資料館から、石田寺、高幡不動』『源三郎資料館や彦五郎資料館』『東海道品川宿界隈』などを盛り込んだ。

講座を進めているうち、
大国魂神社が近かったので、丁度、『くらやみ祭り』の日には、途中で講座を打ち切って、皆で、祭りに繰り出した。
この神社こそ、
近藤や土方、沖田、井上、山南などのルーツと言えるところだから。

最後の品川界隈のウォーキングでは、
泉岳寺が近くにあったので、そこも入れた。
ところが、赤穂浪士のお墓の入り口に高島嘉右衛門の墓碑があったので、燃えてしまった。

そう、
僕は、若いころから、嘉右衛門ファンなので、こっちに火がついてしまったのである。
まさか、そこに、お墓があるとは、思ってもいなかったので。
だから、前回まで、
3回にわたって、高島嘉右衛門のことについて書かせてもらった。


ところで、
この講座、10回が無事終了したのだが、
受講生の方々が、このままお別れしたくないと言い出した。
「もっと、やろうじゃないか」、と。
前回の時も、そういう声はあったのだが、実現はしなかった。
でも、
今回は、気合の入り方が違っていて、熱つく語る人が何人かいて、てきぱきと行動を開始してくれたのだ。

だから、すでに、
「会則」や「加入申込書」まで出来上がっている。
そして、この会には、誰でも参加できるようになっていた。
皆さん、お忙しいのに、あまりに懸命にやってくれるので、大変恐縮している。

少しだけ、内容を紹介すると、

 名称 『江戸文化歴史村瀬塾』or『新選組村瀬塾』
 毎月第2土曜日に開催。
 会費は、月700円程度。
 とりあえず、この9月から来年3月まで、開催する。

 
会長は、Nさんという女性である。
この人は、50歳を過ぎたころの女性だが、事務局として、これまで幹事を担当してくれていたHさんという26歳の女性がやってくれることになった。
全体では、
半数以上が男性なのだが、どういうわけか、女性が積極的である。
このHさんは、例の、薄桜記から新選組にのめりこんで行った人である。

彼女は、
いまでは、受講生たちのアイドルであり、重要な幹事さんである。
そして、近くの市役所の職員である。
「皆さんと一緒に、新選組について語れるのが楽しい」と、言っている。

新選組つながりで、一つの新しい団体が成立した。
皆さん、生き生きとして新しい輪を作ってくれている。
やっぱ、大げさだが、
人間は、きっと、いつも、人間を求めているんだろうな。
新しい“絆”を求めているんだ。

また、僕がサックスを演奏することを、すでに、皆さん知っていて、講座の中で「聞かせてもらえないか」、と言われた。
きっと、トータルで、人生を楽しみたいのだろう。
それで、いい。
僕も、協力しないわけにはいかない。

今回は、自分の宣伝になってしまった。
恐縮してます。
スポンサーサイト

NHKの大河ドラマで取り上げてほしい人物 高島嘉右衛門――3


~~その気になりさえすれば、三菱財閥を超える創始者になることだって容易にできた。
だが、彼は、己の富のために働くことより百千万の人々に幸福を招来する道筋を選んだ。
そして、明治9年には、きっぱり、実業界からは身を引いた。~~


高島嘉右衛門のエピソードは、実に魅力的でその多くを紹介したいが、たくさんありすぎて、その全容を載せるわけにはいかない。1年をかけて、じっくりドラマ化してほしいが。

前回、日清・日露戦争での高島嘉右衛門のかかわりを少し紹介した。
彼の晩年のエピソードでは、伊藤博文への暗殺を予言したことで有名であるが、そのいきさつを振り返ってみよう。

★ 明治38年5月25日
 この日の夜、伊藤(博文)は高島台(横浜)に嘉右衛門を訪ねた。
この頃の嘉右衛門は、若いころの無理がたたってか、腰を悪くして床に伏していることが多かった。伊藤は、いたわりの声をかける。

「‐‐‐高島さん、あなたは、私に限らず、多くのリーダーたちに多くの、良きアドヴァイスを与えてくださった。そのお陰もあって、今日の我が国があるといっても過言ではないでしょう。

‐‐‐横浜のあの高島旅館時代には、船が出る前に、皆さん、あなたに立筮(りつぜい)をお願いしていた。そして、安心して旅に出たものです。

‐‐‐今の日本には、ロシアとの紛争をはじめ、大きな課題がありすぎる。あなたには、まだまだ、ご健在でいてほしいのです」

 伊藤と言えば、今や、西郷、大久保、木戸などと並んで、維新から近代日本の創立に及んで、大功労者であり、元勲であり、首相である。
だが、伊藤は、嘉右衛門に対して単なる実業家以上の好意を寄せてきたし、代えがたき友人であった。
また、その予言能力にも頼ってきて、幾多の難局も乗り越えてきた。
しかし、そういう合理的、打算的な側面からの付き合いだけではない。
二人には、若いころから、男同士の信頼、意気投合があった。

だから、自分の長男博邦は、嘉右衛門の長女たま子と結婚させた。
二人の親交は、単なる親戚づきあい以上でもあった。

嘉右衛門さえその気になれば、伊藤博文という大重鎮を背後に得て、岩崎弥太郎を超える財閥だって作ることは容易であったであろう。
だが、彼は、明治9年には、実業界からは身を引き、『易』を通じて、社会に貢献する道を選んだのである。

嘉右衛門は、「易は、売らない(占い)」を自分の座右の銘としてきた。
だから、一度として、占いで金をとったことはなかった。
頼まれれば、心安く易を立ててあげた。
そして、その交友関係から勢い、政界や軍人からの依頼が多かった。

明治6年、江藤新平の求めに応じて易を立て、斬首を予言したが、江藤は自分の死をいとわなかった。
というのも、江藤は、その前年、自分で作った斬首禁止令があるのだから、まさか、自分がそうなるとは思ってもいなかった。
だが、佐賀の乱を起こして、斬首されてしまった。
また、西南戦争の西郷の死も予言した。その後の、大久保利通の暗殺もである。

また、日清・日露戦争の一部始終を予言してすべて当たっていたが、歴史の表舞台には、あらわれてきていない。
日清戦争の結末は下関で、伊藤博文と陸奥宗光が清国の李鴻章に当たったが、その二人とも、嘉右衛門の筮竹に日本の行く末を聞いていた。
日本は、戦勝国として清国から、賠償金や都市の割譲、西欧並みの最恵国の待遇を得たが、遼東半島の権利はその後の三国干渉によって譲ることになった。
これが、ロシアとの戦争に発展する。
日露戦争である。

日露戦争は、最終場面で、ロシアのバルチック艦隊がどのルートを通るかで、日本の行く末が決定的になるところだったが、嘉右衛門は、見事、対馬海峡を通過する予言を得ていた。
これにより、東郷平八郎は、例の名言「天気晴朗なれども、波高し」を打電して、勝利を得た。

その後の処理は、アメリカの仲裁で、ポーツマスで条約が結ばれた。これも、事前に立筮していた。
この条約締結に当たった小村寿太郎は、随分と苦労をし、決して十分な戦利品は得られず、ロシアに対して寛大な処置となった。
だから、日本に帰ってきてからというもの、マスコミをはじめ暴徒化した民衆にも散々叩かれ、いつ暗殺されても不思議のないほどであった。

嘉右衛門は、これらすべてを予言していたが、こう付け加えている。
「財政上は十分でなく、不利と見えても、戦勝国がこのような寛大な措置をしたということで、世界各国の人々は、日本という国を称賛するに違いない」と。
更に、戦勝を盛んに煽っている人や驕っている人に比べて、冷静な一言を発している。
「今後、戦費調達のために起債した外債の償還も、約6千万円に達しているが、国民が、綿の服で我慢し、生糸を海外に輸出すれば、その程度の金は償還することが出来る。
何も心配することはない」としていた。見事である。

伊藤博文は、明治42年、ロシアとの関係改善のため、大蔵大臣ココーフツォフと会談するべく、大陸に渡る。
この少し以前、伊藤は、北海道の嘉右衛門の農場で、七言絶句を読んでいた。

  この身を捨てて 国難に当たろう
  辺り一面の霧が 旅装を濡らす
  石狩平野の秋の夜に見る夢は 
  黒龍江を渡って使命を果たすことだけだ


なんだか、明治10年の西郷隆盛の心境に似ている。あの時代、幕末に生きた維新たちは、身を捨てて、というよりも、死地を求めて国難に当たる覚悟をしていたのか。

嘉右衛門が、今度の渡航を止めるのも聞かず、伊藤は、最期の旅に出たのだ。
函館の土方歳三も、自分の最期の場所を求めていた。自分だけが、のうのうと生き延びようとは思ってもいない。
西郷も江藤も伊藤も、皆同じだ。

10月26日午前9時ごろ、ハルビン駅で、伊藤を暗殺したのは韓国の国粋主義の青年安重艮(あんじゅうぐん)であった。

話は違うが、
この7月30日のサッカー日韓戦で、韓国サポーターが大横断幕を張って、再びFifaで問題になっている。
この時、安重艮(あんじゅうぐん)の姿の大きな幕も一緒に掲げた。
日本の総理大臣を暗殺した犯人の幕を、祖国の英雄の姿として掲げたのである。
ここまでやるか、韓国、と言いたい。

韓国人の日本を恨む気持ち、いかばかりか。
教育か。
でも、ここで、一つの疑問がある。
一般に、伊藤博文を暗殺したのは、安重艮となっている。
彼は、ロシアの警察に逮捕されて、日本に直ちに送られ、処刑されている。

だが、
伊藤の随行員だった室田という人物が、のちに回想録を書いていて、そこには、「伊藤の体内から取り出された銃弾は、安重艮が使用したブローニングの七連発銃のものでなく、フランス騎馬銃のものだった」と記している。
えっ?、!。
今となっては、真偽の程はわからない。

高島嘉右衛門は、
自分で予言して位牌に書いたとおり、大正3年10月16日83歳で没している。

おわり

村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
    サイトに関してのお問い合わせ(動作不具合など)は管理人までお願いします。
    村瀬へのメールはこちら






リンク
月別アーカイブ
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

カテゴリー
カレンダー
07 | 2013/08 | 09
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
最新の記事
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

最近のコメント
最近のトラックバック
ブログ内検索
RSSフィード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。