村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

「高島嘉右衛門」について講演依頼が来た(1)

あの、「高島嘉右衛門」について、講演依頼が来た―――その1

~~嘉右衛門の父、嘉兵衛は、それはそれは見事な人生を送った人で、この人だけでも、立派な小説やドラマになる人だった~~

以前、このブログで高島嘉右衛門について触れたことがあった。
あの偉大な人物について、日本の歴史では、殆んど紹介されてきていない。

何故なのか。
きっと、都合悪いことが多いからなのだろう。
明治以降、事をなした人物に対して、その評価が何か変だ。
明治維新の最大の功労者、坂本龍馬や西郷さんは、靖国に祀られてはいない。
日本の発展に功労のあった人を、祀っているのが靖国ではないのか。

靖国神社の正面参道にひときわ大きく銅像が際立っているのは、大村益次郎である。
日本陸軍創設に、功労があったということらしい。

僕は、学生時代、神田神保町のジャズ喫茶に毎日入り浸っていたのだが、九段会館でコンサートがあったりした後靖国が近いので、よく皆で、あの辺りを歩いたことがあった。
あそこへ行くたびに、何か、違和感を感じた。

大村は、戊辰戦争時に、朝廷側に立って戦った兵士たちを慰霊する目的で、東京招魂社(後の靖国神社)建立を提案したという。
だとすると、銅像が高く聳え立っていても不思議はないのだが、それだって、東軍に偏っているし、個人的なものだ。
(京都の霊山護国神社は、幕府側に立って戦った人たちは、祀られていない。
どういう訳か、でも、新見錦だけが慰霊されているという。
新見が祇園で切腹した話は、本当か。
殺られたのでは。もう一度再調査が必要だ)

もし、竜馬や西郷があと20年生きていたら、東軍・西軍ともに平等に戦死者を祀ったに違いない。

その後靖国は、日清日露、大東亜戦争で戦った兵士たちを慰霊する神社に変貌した。
日本陸軍、海軍が護ってきたのである。
もし、日本国が国のために亡くなった人たちを慰霊するのなら、ここじゃなくて、新たにそのような場所を設けたほうがいいような気がするが。

例によって、のっけから話がそれてしまった。
嘉右衛門のお話だった。
k公民館から講演依頼が来た。次のような趣旨でやってほしいというものだった。

     ~~~~~~~~~~~~~~~
題名「高島嘉右衛門の生涯」
~日本で初めてガス灯を灯した実業家~

目的 鉄道敷設のため、横浜港の埋め立て事業やガス灯の設置など、偉業を成し遂げた実業家の生涯について学びます。

     ~~~~~~~~~~~~~~~

僕の個人的な話で恐縮だが、僕の父方の家系の商売は暦の販売だった。
父、次雄は明治38年生まれで次男だったから、本家へ養子に入り『油商人兼金貸し業』になったが、上の兄力蔵は『高島易断本暦』の編纂で家業を継いだ。
今でも勿論、子孫が(僕のいとこにあたる)が継いで、商売は続けている。
親戚なので、来年の暦を送ってもらった。
表紙をめくると、高島嘉右衛門の写真が現れる。
正五位 勲四等 故呑象高島嘉右衛門
大正三年10月16日没82歳

暦
高島嘉右衛門ーーp

こんなわけで、高島嘉右衛門のこととなると、僕も多少の縁があるのか、血が騒ぐのである。

幕臣で勝海舟という人がいたが、この人の父親は勝小吉という人で、
息子の麟太郎とともに小説などで「親子鷹」として知られている。

嘉右衛門の父嘉兵衛も、この人独自の伝記やドラマがあっても不思議はないほど傑出した見事な人物であった。まるで、時代劇の主人公になってほしいような人だ。
ここでは、嘉兵衛の偉業を取り上げてみたい。

嘉兵衛は天保年間、京橋三十間掘りあたりで材木商を営んでいた。
この頃、あの天保の大飢饉が起こった。
夏だというのに、朝から霜が降る始末。綿入れを着なければ寒くていられないほど、盛岡辺りでは冷害で、田畑は全滅であった。

遠州屋嘉兵衛の取引先南部藩江戸屋敷は、国許からの急飛脚で、餓死者が20万人は出そうであるとの知らせを受けた。
南部藩勘定奉行、江戸留守居役、用人たちは、一同、頭を抱えてしまった。国許にいる殿から、何か、対策を講じろというのだった。

そこで、兼ねて、機転機略が衆人より抜きんでていて、様々な相談に、これまでものってもらっていた嘉兵衛に善後策を持ちかけた。

「……、これは、大変な難問でございますな」

さすがの嘉兵衛も、腕組みしてしまった。
三人が帰った後、しばらく熟考した。
そして、駕籠を呼んだ。
「鍋島藩の江戸屋敷だ」

当時の鍋島藩藩主は直正と言って、天保元年に藩主の位をついでまだ4年しかたっていなかったが、藩政の改革を次々と実行に移し、『九州に鍋島あり、鍋島に閑叟(かんそう)あり』と、評判が高かった。
後日、彼は反射炉を築いて鉄砲の製造に勤め、官軍の勝利に大きく貢献した。
大村益次郎が上野戦争で使用したアームストロング砲は、閑叟が購入した鍋島藩のものである。

この鍋島藩にも、嘉兵衛は取引先として深く信用されていたが、藩主にお目通りなぞ出来るはずもなく、用人の成富助左衛門に会って、南部藩の窮状を訴えた。
成富は、「拙者も、深く、心からご同情を申し上げる」と、深くため息をつきながら、一通りの反応を示した。
つかさず嘉兵衛は、
「ありがたき仰せにございます。そのお言葉を伺ったら、向こうのご重役方も涙を流して喜ばれましょう。つきましては、この際、お言葉だけではなく、そのお情けを形に現してはいただけませんか」
「なんと、……」
「ご当家のお殿様は、常日頃から、諸侯たるものは一国一藩のことだけではなく、日の本、国全体に目を配らねばならぬ。諸外国の船が我が国の近海に相次いで姿を現すようになってきては、いずれ我が国も一丸となって、外夷に当たらねばなるまいと、おっしゃっておられました。これは、まことで…」
「いかにも」
「それならば、お願いいたします。南部の民も、肥前鍋島の民も、同じ日の本の民に変わりはございますまい。万一、鍋島御領内に凶作飢饉のようなことが起これば、お国元、江戸表のお役人方は、一人残らず死力を尽くして領民の救出に当たられましょう。南部藩の後家来衆は、今そのような立場に追い込まれておるのでございます」

「…、どうしろと、言うのじゃ」
「飢えたる者には、百万言の説法よりまず一椀の粥を与えよと申します。鍋島さまの余剰米を、一時、南部藩へご融通下さりたいのです」
「えっ、…して、その代金は」
「……、なんとか、コメの暴騰前のお値段で、…」

だが、この時、南部藩の江戸表の蔵の中には、支払うべき3万石に値する11万両の1割もなかった。
この大飢饉で、大阪の米相場では、米価が暴騰することは必死であったが、まだ、この時点では、情報が行きわたっておらず、その直前であった。
藩主、鍋島閑叟の好意で、直ちに3万石が、暴騰以前の金額で盛岡南部へ融通されることになった。

嘉兵衛は、
「…、手前も商売人の端くれでございます。殿様のお言葉に従われ、目に見えている当然の利ザヤを見逃されるとは、――さすがに『葉隠』の教えを継承なさるご家中、商人根性などは微塵もございませんなと、手前も心から感服仕りました」
用人の助左衛門は、
「そこで、代金だが、国元よりコメを積んだ便船の出港と同時にいただけるということで、よろしいな」
「当然のことでございます。命に代えて、お約束いたします」
とは言ったものの、11万両という途方もない大金である。全く支払う当てはなく、途方に暮れていたのだが、今はただ南部60万人の命を救うために後先はともかく、やるだけのことをやるとの心境であった。

つづく

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『村瀬塾』京都ツアー


どうやら、大好評だったようだ

p1--幾松の女性
幾松の女性

p2--祇園祭の山車
山車の提灯

祇園祭のさなか、塾生たちと京都へ行ってきた。
3日間とも、丁度暑い時期で、皆さんの体力と相談してタクシーで廻ることにした。
これは成功だった。
2日目なぞは、20,000歩も歩いて、皆さんへとへとだったから、あれがあの炎天下、京都の町中をバスや電車じゃあ参ってしまう。

最初に、料亭「幾松」でお世話してくれた女性を写真に載せた。
これでお分かりだと思うが、彼女の笑顔と言い、その気遣いは最上のものだったので、先頭に持ってきた。
あそこは川床で、その佇まいといい料理の味といい絶品だったが、働く女性たちのおもてなしも爽やかで、鴨川の川風と一緒になって、爽快な気分だった。
その分、値段も高かったが。

初日は、壬生あたりだったが、先ず『新徳寺』から始まって『壬生寺』『八木邸』『前川邸』『光縁寺』の順だ。

p3--新徳禅寺2[1]
新徳寺の本堂

p4--壬生寺・近藤銅像
壬生寺

p5--光縁寺
光縁寺

新徳寺は、前回も書いたから改めてコメントしないが、めったに入れないところなので、皆さんご満悦。
壬生寺では、100円玉を入れると、三橋美智也の歌が流れるが、今回の塾生の方々、皆さんで【ああ、新選組』を合唱されていた。
そういう年頃の方が多かったので、素直に声が出ていたのだろう。

八木邸は、僕はもう、本当に何十回も入っている。
その割に入館料が高いので(饅頭込みで1,000円)入りたくないのだが、そういうわけにもいかないので、入る。
それに、最初からガイドが長々と説明する。
ほっとくと、30分は優に超える。
こちらも、先刻承知なので、「15分でお願いします」と、言っているのに、平気で40分は超える。
「もう、そろそろ」と言うと、
「何か、不満でもあるのか」と、怒り出す始末。

お客さんの中には自分のペースでゆっくり、その時代に浸りたくて来てる人がいるのだ。
ガイドは、自分の勉強してきたことを思い切り発揮したいから、その全部を言わないと気持ちの整理が出来ないのだ。
お客の事情なんて、後回しなのである。
八木邸も、もうそろそろ考えてほしい。

前川邸もなんだか、変。
あそこは、正面の長屋門を入るところまでしか、以前から見学できないが、以前は左側に土産屋があって、少しは雰囲気があったのだが、今は、製紙工場になっている。
もともと【紙屋さん】だから、それでいいのだが、商売が先なのだろう。

相も変わらずが、光縁寺の住職である。
門をくぐると、大概はそこに住職がいて、「お急ぎでなければ、ご説明しましょか」と言ってくる。
ぼくも、彼のことはよく知っているので、面白いから、「手短に、お願いします」と言ったら、
「それでは、本堂の方へ」と常套句。
本堂の中央に立って話し始めた。この人の話も長~い。
それが、早口で、半分は聞き取れない。
早いばかりでなく、京都弁が混じるので、江戸っ子には、どうにもわからないのである。
でも、それが滑稽なので、僕はいたずら心で、わざと皆さんに座って聞いてもらった。
想像通り、多くの塾生たちは、「よく、聞き取れなかった」「でも、面白かった」だった。

初日から、沢山の経験をして、皆さん盛り上がった。
何と言っても、この日の夕食、「幾松」での懐石だろう。
その雰囲気ばかりでなく、掛け値なしで、料理がうまい。

p5,5--三条大橋から鴨川
三条大橋から鴨川

2日目の朝一番で、淀へ。
タクシーの運転手、
「淀に、何かあるんですか。私ら、何度も、この競馬場には来ていますが、新選組に関係あるなんて聞いたことがないですわ」

3台のタクシーで10人が分乗していったのだが、3人の運転手全員が、“東軍の慰霊碑“があるのを知らない。
だから、そこを探すだけで、競馬場の周りをグルグル。
僕は、以前に行っているのだが、周りの景色が変わってしまって、探すのに苦労した。
馬鹿でかい駐車場の隅にあるのである。

何とか見つけてお参りし、次に【妙教寺】に向かったが、この寺も地元でも知られていないせいか、見つけるのに大分苦労した。
ここは、本堂の壁が大砲の弾で打ち抜かれているのだが、そこがそのままにして残しているのである。
住職は留守だったが、奥様が出てきて、ご丁寧に様々説明してくれた。
そして、最後に、鳥羽伏見の戦で打ち込まれた大砲の『実弾』まで見せてくれた。
タクシーの運転手、
「へえ~、こんなところに、こういう場所があったとは。いい勉強になりました。
次のお客さんには、教えてあげまひょ」

次に伏見へ向かうつもりでいたが、つい僕が口にしたことで、一緒に言った女性が、「そこを、ぜひ見たい」と言い出した。
そこは、【流れ橋】といって、時代劇の撮影でよく使われるところである。
淀から約20分ほど下流へ下ったところで、本名は【八幡橋】という。
いかにも、黄門さまが、助さん・格さんを連れて歩いていく姿が目に浮かぶような情緒があるのだ。
それから、寺田屋へ一目散だ。
ここは、坂本龍馬が幕府の役人に慶応2年1月23日に襲われ、風呂に入っていたお龍さんが裸のまま飛び出して、急を告げたといわれる有名な船宿である。

午後は、西本願寺、島原へと繰り出した。
島原では、輪違屋・角屋が有名だが、中には入れない。
だが、この時期だけ、輪違屋の中に入ることが出来た。
とても、幸運であった。

P5,55--輪違屋

輪違屋
その後、二条城に行ったが、突然の休みだった。火曜日なので大丈夫なはずなのに。
『殿様商売』なのだ。
急きょ、東山に向かって『霊山歴史館』に行った。
ここも、当初は、竜馬関係の資料館だったが、その後は、新選組一色に変わった。
久しぶりに言ったが、今は、幕末歴史観に変わっている。
あそこは、その時々に合わせて、展示物が変わるところだ。

2日目最後は、霊山前の「維新の道」を下って、高台寺を右に見てその下にある伊東甲子太郎ゆかりの月真院へより、八坂の塔を見ながら坂を下って、池田屋に一目散。
途中、高瀬川をのぼりながら、ここいら辺りで殉難した人たちのお話など、

p6--高台寺[1]
高台寺(月真院)

旅籠池田屋は、しばらくユニオンというパチンコ屋だったが、今は、『華の舞』という居酒屋になっている。と言っても、中は4階もあるビルで、新選組を堪能できるようになっている。

p7--池田屋
池田屋

p8--旅籠・池田屋
旅籠・池田屋

3日目は、女性たちに嵐山に行きたいという希望があったので、朝一で行った。
ここは、僕が、山南さんが自決する日の朝に、沖田君と雪の嵐山という見出しで書いたところであるので、その時のことを説明した。
嵐山は、一年中、いつ行っても気持のよい観光地である。
気分が爽やかになるリフレッシュポイントだ。
帰り道、運転手が気を聞かせて、嵯峨野の竹藪の中をゆっくり走ってくれて、落ち着いた気分を味わった。

そのあと、前日行けなかった二条城に直行した。
だが、京都の夏はとにかく暑い。二条城の庭先で、我ら、ぐったりであった。
旅の最後は、祇園の花見小路、1件の料亭で湯豆腐コースで過ごした。

盛りだくさんの急ぎ旅であったが、充実していたと思う。
これで、我が塾も江戸付近の新選組関連地から京都まで走破した。
次は、会津か函館である。
きっと、良い旅になる。
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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