村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

――海音寺潮五郎談――3

「土方歳三はなかなかの戦上手、驚嘆した」
「天才だ」
――海音寺潮五郎談――3

この間、海音寺潮五郎氏の箱館戦争時の土方について、原文を紹介した。
じつは、あの西郷隆盛第4巻には、その続きがあって、それも興味深いので紹介したい。
つまり、土方が戦死した後、脱走軍の幹部たちは何を想い、自らの身の振り方をどのように考えていたのか。
官軍代表の黒田了介は、旧幕府脱走軍幹部連中に対して、どのように対処したのだろうか。そして、西郷はどう関わったのであろうか。結果は皆さんご存知のように、命は助けられた。その経過、情報について僕が余計なコメントを挟むより、海音寺氏自らの文章で紹介してみる。

  「なんと言っても、数が違います。蝦夷島方はせいぜい二千ぐらいしかないのに、官軍方は後から後から追加して、総計では1万近くはあったでしょう。東京湾脱出以来のいろいろなことで軍艦を失い、海軍力がひどく低下したことも計算に入れるべきでしょう。彼らは北海道にこもりきりで、ただ1回の宮古湾出撃を別にしては、ぜんぜん、本土出撃をしていません。もし、彼らが一衣帯水のところにある青森地方に攻撃をかけ、この地方を混乱させ、次第に南下していったら、天下平いで間がないのですから、諸藩はまた騒ぎ立ち、明治新政府の混乱は目も当てられないものになったかもしれません。そうできなかったのは、海軍力が微弱になっていたからだと思われます。
  
 ともあれ、蝦夷島軍は次第に圧迫されて、5月11日には五稜郭に追いこめられて総攻撃を受けることになりました。この日、土方歳三は戦死しました。
銃弾を首筋と肩の2箇所に受けて即死したのです。
  
 うっかり忘れるところでした。フランス人らは5月1日の夜遅く、港内に碇泊し
ていたフランスの軍艦に逃れました。彼らが榎本軍中にいることを、日本政府がフランス政府に厳重に抗議したために、この運びになったのです。フランスは幕末以来、幕府方にひいきして、いろいろ力づけていましたから、このフランス軍人らの榎本らに対する助力も、フランス政府の内意を含んでいた疑いがあります。

 総攻撃は翌12日にも続行されました。この日も蝦夷島軍の損害は大きく多数の幹部級のものが死傷しました。しかし、官軍のほうは敢て迫りませんでした。
 実は、この以前から、官軍側では招降の事を考えていたのです。これは黒田了介の発意だったようです。このときの官軍は薩長をはじめとして、諸藩も出兵していたのですが、なんと言っても薩長軍が主力であり、強くもありました。その将領としては長州から山田市之允(後の伯爵、顕義)、薩摩から黒田了介が出ていたのですが、その黒田がまず招降策を考えて、山田やその他の人の同意を得たと思われます。それは、戦後東京の大久保一蔵に顛末を報告した手紙の中に、榎本らの勢いが縮まって五稜郭に閉じこもったときの形勢を述べた次に、以下のように記してあります。

『天皇のお心は民の苦しみをお救いになることを第一として給うのである故、真に過ちを悔いて謝罪降伏の実行を挙げる者には、寛大のご処置を持って遇せらるるのであると、かねてから拙者は体得していますので、どうにかして賊中へ降伏せよと申し入れたく考えていました……』

この黒田の心は西郷の「敬天愛人」の思想ですね。この頃の黒田は最も熱心で優秀な西郷の弟子だったといえましょう。
   黒田はかなり前から勧降使を送ろうと考えていたのですが、その便宜がありません。ところが、ここに高松凌雲という人物がありました。蘭法医で、幕府の奥医師となっていた人ですが、榎本らと共に江戸を脱出して、軍医長となっていましたが、戦争が始まりますと箱館に病院を作り、ここに傷病者を収容して治療に努めていました。この病院は官軍側でも承知して攻撃を加えない了解がついていました。
   黒田はここを利用しました。
  
 あたかもこの病院に会津人で当時は遊撃隊の隊長を務めていた諏訪常吉という者が重症を負って入院していることを知りました。このものは薩摩人池田次郎兵衛という者と、昔知り合いでありましたので、池田を見舞いにやりました。12日の夜が更けてからであったと、高松凌雲が後日談しています。

   池田は病床を見舞って、武士は相見互いでござる。この上は、ご養生専一になさるようにと、25両の金を送り、その後、
「五稜郭の人々は飽くまでも戦われるご決意でござろうが、戦えば戦うほど人命を失い、国家の憂えが加わることになります。榎本さんはどんなお考えでごわすか。ここのところを、貴殿、よくお考え下さって、ご周旋いただくわけにはまいらないでござろうか」
と頼みました。
しかし、諏訪はなかなかの重傷で、この数日の後には死んでしまったほどですから、引き受けることができません。苦しい呼吸をつきながら申しました。
「拙者はご覧の通りの容態で、身動きもできません。その話はここの病院長の高松凌雲殿と小野権之丞(ごんのじょう)殿にしていただきましょう。ご両人をお引き合せいたします」
高松と小野とに紹介したわけです。小野も旧会津藩士で藩主容保が京都守護職時代には、会津藩の用人として京都でずいぶん立ち働いた人物でした。
高松と小野とは、池田の頼みを聞いて、榎本らに手紙を書いてもって行かせました。手紙は5月13日の夕方に、榎本の手に届きました。

榎本は、幹部らと相談の上、城を枕にして討死と決定して、この旨を高松らに返書しましたが、その「追って書き」のところにこうあります。
『入院中の者にたいして、官軍から手厚いお取り扱いしてくださいます由を承っています。厚くドクトル(原文のままです。高松のことですよ。榎本のハイカラぶりがわかりますね)から、よろしく御厚礼申し上げてください。それから、お届けします書籍2冊は、拙者がオランダ留学中に大いに勉強した海律に関するもので、皇国無二の書籍でありますから、兵火のために焼けてしまうことは残念であります。ドクトルから官軍の海軍アドミラルへお贈りください。』

   この書は、海上万国公法の書で、元来フランス人の著書であったものを榎本がオランダ留学中にオランダ人に頼んでオランダ語に翻訳してもらい、専心に熟読して愛蔵していたものであったそうです。
    ………………(中略)………………
   何よりも、城を枕に討死と心を決めている身でありながら、祖国のためを思ってこれを敵将に贈る心は尊いと言わねばなりません。
   黒田は感動して、鮪五匹と酒五樽とを官軍の名で贈りました。
    ………………(中略)………………
   五稜郭内では、首脳部の人々は涼しく覚悟が定まっていましたが、下々の士気は日に日におとろえて、脱走者が続出して来ました。こうなっては、最後の戦いもはかばかしいことは出来ません。榎本らはついに、自殺して士卒の命に変わりたいと、官軍に申し送りました。5月16日のことでした。
   官軍ではすぐこれを許し、翌17日に官軍会議所で榎本らに応対して降伏の条件を取り決めました。
………………(中略)………………
   翌18日、榎本は副総裁松平太郎、海軍奉行荒井郁之助、陸軍奉行大鳥圭介の3人を伴って、五稜郭近くの官軍の軍門に出頭して降伏しました。
   この4人が首謀者というわけです。ここは長州藩の陣屋だったので、長州藩の軍監が面会して、武器を取り上げ、かごに載せ、長州兵が護送して、箱館に連れて行きました。
   大鳥がこのときのことを、後年書き記しています。
   「自分はかごの中で、われわれ4人はきっと切腹させられるのだろうと考えてい
たのだが、やがて箱館につくと、官軍本陣の近くの猪倉屋という町屋に連れて行か
れた。
ここで護衛の長州兵は他藩の兵(思うに薩摩兵でしょう)と交代したが、いずれ
も少しも苛酷な取り扱いはせず、酒肴など供せられて丁寧なことで、不思議に思うほどであった」
   黒田が熱心に榎本の自殺を止めて、その志を翻させたことは言うまでもありません。 

   西郷は、明治元年初冬に鹿児島に帰り、ずっと在国していましたが、自ら薩摩軍の総差し引きとなって5月1日、藩船三邦丸で鹿児島を出発し、箱館に向かいました。5日に品川に着いて、直ちに大村益次郎に会いました。
                                つづく
スポンサーサイト
コメント
コメントの投稿
【Font & Icon】
管理者にだけ表示を許可する
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
    サイトに関してのお問い合わせ(動作不具合など)は管理人までお願いします。
    村瀬へのメールはこちら






リンク
月別アーカイブ
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

カテゴリー
カレンダー
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
最新の記事
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

最近のコメント
最近のトラックバック
ブログ内検索
RSSフィード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。