村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

――海音寺潮五郎談――4

土方歳三は、「なかなかの戦上手であった」―――4
――海音寺潮五郎談――

ここのところズーと、土方が戦死した後、箱館の旧幕府脱走軍が降伏するまでの経過を、海音寺潮五郎氏の文章で紹介してきた。
僕の言葉で、僕の考え方・意見で言うより、どうしても海音寺さんの原文を読んで欲しいからである。
本当に優れている研究、文章、そして人を皆さんでもっとわかって欲しい、評価して欲しい。そんな気持ちから、書いている。

なぜ、しつこく書くかというと、氏の書いた西郷隆盛がすべて本屋さんから消えてしまって、まったく手に入らないからだ。僕が日野をご案内した人はたくさんいるが、その中で「そうまで言うなら、読みたい」とおっしゃる方がいるのだが、買えないのだ。売ってない。

前回は、明治2年5月11日に土方が戦死した後、榎本以下の脱走軍幹部たちがどのような経過で降参していったかを『氏』の文で紹介した。
官軍参謀の黒田了介と箱館政府軍総裁の榎本武揚との交渉・友情ぶりは、少し垣間見えたのではないかと思う。
では、このとき、西郷は何を思い、していたのか。
 
西郷さんは、安政6年の冬、安政の大獄で幕府の捕吏に追われ、錦港湾に清水寺の月照上人と共に入水自殺を図ったのだが、自分だけが助かってしまった。
その後も藩主久光の怒りにふれて、何度か殺されそうになったが、島流しで生きながらえてきている。こうした自分は、神から命を授かって、新しい時代に向かって世に役立つことを期待されて生きながらえてきたのであり、役目がすめば、さっさと身を引いて用なしであると考えてきた。

だから、明治元年の初冬には、戊辰戦争の先も見えてきたので本人はふるさとに帰り、後は西郷の精神を引き継ぐものに任せればよいと考えた。そんな訳で在国していたのだが、明治2年5月1日、何を思ったか、鹿児島をたって5日に品川に着いた。
箱館に行くためであった。

その頃、官軍を指揮していたのは長州の大村益次郎であり、一応挨拶に官軍軍務局に足を向けた。
このあたりのやり取りは、再び、海音寺先生のお言葉で続けたい。

   …………大村益次郎に会いますと、大村は持ち前の無愛想な調子で、
  「貴殿が北海道にお着きの頃には、もう平定しているでござろうから、おいでになる必要はないでござろう」
と言いました。
実際、西郷が品川についた5日頃は、まだ中央への連絡はありませんでしたが、蝦夷島軍は諸方面が破れて、五稜郭と弁天島堡塁につぼみつつあったのですから、大村の戦術眼の的確なことは驚くべきものがあります。しかし、西郷が北海道に行かなければならないと思い立ったのは、戦況が心配だったばかりでないと、私は推理しています。戦況のこと以外に、黒田がどんな受降ぶりをするか、それを案じていたのだと信じています。

 きっと西郷は、
「了介どんは、わしの第一次長州征伐のときの受降ぶり、江戸城の受降ぶり、庄内の受降ぶり、ずっと見てきているから下手をするとは思わんが、長州の人たちは幕府に対しては深い恨みをずっと抱いているから、ひょっとして押し切られて、情知らずなことをするかもしれん。行く必要がある」
と、思ったに違いありません。
ですから、西郷は大村に対して、
「ごもっともなお言葉でごわすが、せっかくそこまで来たのでごわすから、行かせて下され」
 といいました。西郷ほどのものがこうまで言うものを、大村も無下に拒みは出来ません。出張の命を授けました。
 …………
 西郷は5月16日に品川を出発し、25日に箱館に到着しました。
 申すまでもなく、五稜郭の明け渡しがあり、榎本以下の4人が陣門に降伏してから一週間たっています。
 西郷はすぐ引き返し、6月1日に東京に着き、15日には東京をたって帰国しました。

 この事実を、西郷と大村との戦術眼の優劣を語るものと言っている人があります。確かに大村は戦争の天才でした。これに比べれば、西郷は数等おとります。専門家が専門外の人より、その専門の分野で勝っているのは当然のことです。
 しかし、その優秀さは、その専門分野内でだけのことです。英雄は、将に将たる器でなければなりません。将に将たる器とは、優れたいろいろな専門家をうまく使いこなす人物ということです。即ち、自分以上の技術ある人物を使いうる人物ということです。
 漢の高祖が、「なぜ陛下は天下を統一して天下人になることが出来たのですか」という、臣下の問いに答えて、
「俺の競争相手だった項羽は戦争の大天才で、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ずとるという、不敗の人物であったが、人使いが下手だった。たった一人の謀臣である范増(はんぞう)ですら使いこなせず、恨みを抱いて立ち去らせたが、俺は人使いの名人だ。  
謀(はかりごと)を帷幄(いあく)のうちにめぐらして勝ちを千里の外に決する参謀的働きは、俺は張良におよばん。 
国家を鎮め民を撫し、切らさぬように糧食を送り続ける政治家的手腕は、俺は蕭何(しょうが)におよばん。 
百万の大軍を率い、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ずとるという将軍としての働きは、俺は韓信におよばん。この三人は皆人中の英雄じゃが、おれは三人を見事に使いこなした。これがわしの今日ある所以だ」
 と言ったという話があります。専門の技能などというものは、英雄を品評する場合にはさして重要なものではありません。専門の技能に執着する限り、自分の力量以上の者を使いうる人物、即ち英雄は網から漏れてしまいます。
 とりわけ、このとき西郷が来たのは、私の推察が当たっているとすれば、黒田の受降振りを心配したためでもあるのです。必ずや、西郷は黒田から詳しい経過を聞き、
「よかった、よかった、それでこそ了介どんでごわすぞ」
とほめ、さらに榎本はじめ降伏した人々の命を是非救うように骨をおりなされよ、それでなければ、仏造って魂入れずということになりもすぞと訓戒したに違いありません。
証拠があります。
つづく
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コメント
嬉しいコメント、ありがとう
おお、ヤッパ、いてくれたんですね。
このブログを読んでくれている方の中に、海音寺さんファンが。
もう、めちゃくちゃ、うれしい。
だって、あんな立派な人、滅多にいない。
西郷も大尊敬なのですが、海音寺さんも人間的に素敵な方です。

なんていうか、生き方がストレートなんですよね。
はっきりしていて、見えてるんです。
だから、いろんな出来事に対して、もし海音寺さんならきっとこういうだろうな、とかがわかる。
西郷ならこういうに決まってる、というのと同じで。
だから、僕の中では、西郷と海音寺さんは同列なんです。

その観音寺さんが、西郷が誤解されて現代に伝えられているので、いても経っても居られず、正確なところを世間に知らせなければいけない。
命のあるうちに書かなければと、他の仕事をすべて断って、西郷の生涯を書き続けたらしいですね。

でも、どうだったんでしょう。彼は、全部書けたのでしょうか。途中でお亡くなりになってしまったとも。
ただ、海音寺さんは、こうもおっしゃっていらした。
『僕はもうこの歳だから、西郷の全生涯を史伝として書くのが精一杯。とても、小説などにはできない。誰かが、僕のを元にして書いてくれるといいんだがーーー』と言い残していました。

そうですね、書きたいですね。でも、大きすぎてね。
今は、氏の作品を楽しませてもらってます。
2006/05/12(金) 21:18 | URL | 村瀬彰吾 #VvKxtd/k[ コメントの編集]
私も海音寺さんの「西郷隆盛」を読みたいです
私も海音寺潮五郎さんの作品が大好きですが、最近では絶版で手に入らない作品が多く、嘆かわしいです。

私が知る限り海音寺さんの西郷モノは紹介されている「敬天愛人 西郷隆盛」以外に、
 文春文庫の「武将列伝」に収録の内容
 同じく文春文庫の「史伝 西郷隆盛」
 新潮文庫の「西郷と大久保」
があります。

私自身「敬天愛人 西郷隆盛」が手に入らず未読なので何とかしたいと思っているのですが、どこからかで復刊してもらい、多くの人が簡単に読める状況にならないかと願ってやみません。
2006/05/12(金) 19:00 | URL | モモタ #-[ コメントの編集]
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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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