村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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――海音寺潮五郎談――6……1

「土方歳三はなかなかの戦上手、驚嘆した」
「天才だ」
「庄内藩にも、温情で接した西郷」
――海音寺潮五郎談――6……1


越後の長岡藩が落城したのが明治元年の9月に入ってから、奥羽地方の会津が落城した。
のもおなじ9月24日、庄内が墜ちたのは2日後の26日だった。

庄内の酒井家は徳川譜代でも名門の家格で、幕府が開かれるずっと以前から家老役を務めた家柄だった。
その酒井家が江戸の警察任務に就くようになったのは、文久3年からだ。例の清川八郎の術策があって、京都から舞い戻ってきた浪士連中を浪士隊新徴組として預かってからである。
主に、三田界隈の警備を命じられた。
こんなことになったのも、幕府の権威が失墜して江戸の治安が乱れ、奉行所の行なう従来の警察力では始末に終えなくなったからだ。
特に、慶応3年の冬になると、江戸市中の治安は乱れに乱れ強盗殺人、焼き討ちなどが頻繁に起こるようになっていたのだが、こうした時、三田の薩摩屋敷に多数の浪人が集まって、いわゆる“御用盗さわぎ”が始まった。

西郷が、ここに浪人たちを集めさせたのは、事実である。間違いない。
でも、それは、それなりの考えがあってのことだ。
西で倒幕の挙を上げる際に、江戸界隈でも騒ぎを起こして幕府の武力を分散させる計画だったのだ。だが、実際には、江戸にいた無頼の徒が名を詐称して騒ぎを起こしてしまった。
西郷は、「まだ時機が熟していないから、しばらく自重しなさい」と指令したのに、はやりにはやって関東各地で騒ぎを起こしたばかりか、乱暴狼藉の度を一層上げて、庄内藩の屯所に鉄砲を打込んだり、江戸城二の丸に放火して焼き払いまでしてしまった。
この仕返しとして、幕府は薩摩屋敷を焼き討ちした。

この計画は、幕府が立てたのだが、戦術は幕府お抱えの砲術士官フランス人ブリューネ大尉であり、実行部隊は譜代の9藩で、主力は庄内だった。ブリューネは土方や榎本たちと一緒に、蝦夷地に遠征している。この焼き討ちが鳥羽・伏見の戦の動機になったことは有名だ。
この後、戊辰戦争は官軍側が勝ち進んでいよいよ奥羽攻めになったのだが、長州と土佐は会津を特に憎んだ。それは当たり前で、京都時代、京都守護職を初め新選組、見廻組にはいじめられ、特に文久3年8月18日のクーデター以後は、京都内に侵入すれば直ちに斬られたり捕縛されて拷問にあったりしたのだから、その怨念にはすざましいものがあった。その上、池田屋騒動では有能な若者たちが新選組に斬られた。この恨みは忘れようにも忘れられない。
その仕返しである。
一方、庄内と薩摩も因縁があった。例の薩摩屋敷の焼討ちである。だから、庄内藩は薩摩藩の憎悪の的となっていると思い込み、勇敢執拗に抗戦した。
庄内が官軍に墜ちた9月26日以降、庄内藩の酒井家は一同惨殺されるのは覚悟したし、お城も領地も没収されることを覚悟した。

西郷は、奥羽地方の諸藩が連合して官軍に反抗しているというので、自ら藩兵を繰り出して戦地に赴いた。
この時の逸話を一つ入れたい。
西郷はこのとき、6月5日に京都に着いている。すると、薩摩藩主忠義が自ら兵を率いて関東へ出兵する寸前だったのである。
何故。
これは推測だが、久光(忠義の父)が『薩摩幕府』を夢見て息子の忠義に手柄を立てさそうとしたに違いないのだ。だから、藩主自ら戦地に赴かせようとした。
西郷は、これを必死に止めた。
そして自ら供をして、島津家の当主忠義を薩摩に帰らせた。
なぜか。
この頃になると、『世間の目』というものが気になり始めているのである。
徳川政権を、取りあえず薩長主力の軍隊で崩した。薩摩は長州の何倍もの兵を繰り出して戦い、次の政権は島津で仕方ないと誰もが思い始めていた。
徳川政府が260年も続いた後だけに、その後の政体が近代的な身分制度のない国家になるなぞとは、誰もが思わない。この国は、鎌倉幕府が成立してから、670年以上ずっと武家による政治が続いてきている。幕府政治以外は考えられないのである。だから、次は薩摩が取って代わるのだろうと、誰だってそう思うし、そこいらじゅうで囁かれていたのである。

久光は、「当然自分が将軍になる」ぐらいの目論みはあったに違いない。だから、西郷や大久保の行なう革命に協力もしてきたのである。そもそも彼は、公武合体論者で幕府を倒すなぞという発想はなかったのである。それが、今日まで西郷の言いなりになってきたのは、きたるべく将軍の道が開けることを楽しみにしていたと思うべきである。
だから、息子の忠義を戦地に送ろうと発想した。
始末悪いことに、これは何も久光だけの思惑ではなくて、多くの薩摩武士が、また同じように思い始めていたということだ。そして、また、長州でも同じく毛利の殿様が次の将軍になるのではと思い始めていた。そんなことでは、何のために革命を起こしたかわからない。

西郷や大久保の革命の目的は、侵略してきている欧米の列強に負けない軍事力を持ち合わせた近代的国家の創設であり、版籍を奉還し、藩を廃して新たな県を置くということで一致している。この限りにおいては、薩摩幕府どころか、島津家の領地まで取り上げてしまうということになるのであった。
とても、久光の思惑とは合致するものではなく、内緒で政策を進めなければならなかった。
それが、たとえ西郷個人の主義にあおうがあうまいが、なさねばならないことなのであった。だから、西郷は、理想的な国家を作り上げたら、自分は腹を切って毒殺された先君斉彬様のお側へ行くと考えていたのかもしれない。

ところが、話は飛んでしまうが、西郷が考えていた理想国家とはまったく違うものが出来つつあった。
政府の高官たちは、豪華な邸宅に住み、夜毎酒池肉林にふけり、贅沢三昧に国民から吸い上げた金銭を浪費していた。そればかりでなく、政治は腐敗し、特に長州出身の高官たちは一部の商人と結託して贈収賄を繰り返していた。
こうした事態を西郷が見逃すわけがない。こんなことでは、維新で死んでいった若者たちに、何と申し開きが出来ようか。こんな国を作り上げるために回天を行なったのではない。こんなことなら、徳川のままでよかったということになるのだ。
明治期に入ってからの西郷の戦いは、新政府との戦いであった。維新は西郷を先頭に進められたといってよいが、その西郷自身が納得していない。新たな戦いが始まってしまったのである。
その相手が長州ならまだすっきりもするが、何と、二人三脚で歩んできたあの大久保一蔵と、公家の重鎮岩倉具視を筆頭とする連中なのである。その中にはのちに警視庁を創設した川路利良や弟の従道らもいた。皆、西郷吉之助が育ててきた連中である。その彼らに反目されてしまった吉之助はいかなる気持ちだったのか。
これが、西南戦争に発展する。
西南戦争とは、だから、『明治維新のやり直し』なのである。
不平不満の旧氏族の反乱なぞでは、決してない。少なくとも、西郷や彼を取り巻く人たちの中には、そんな人たちはいなかった。便乗した連中はいたとしても。
熊本の戦では、当初西郷軍が優勢だったが、警視庁は抜刀隊を急遽組織して熊本に送り込み、これが成功して政府軍は勝利した。この抜刀隊の中に、あの斎藤一がいた。
なぜ、斎藤一が警視庁に参加したのかは、謎である。

島津久光は、なにがなんでもわが子忠義が「海陸軍務総督」に任命されることを望んでいた。それには、自ら藩軍を率いて戦場に出て行って大勲功を立ててくれることが必要な条件だったからだ。だが、西郷は、総督の話が出たときは強引にも辞退させている。戦場におもむくこともさせなかった。
久光の不満と怒りは、頂点に達していたというべきだ。
西郷は、薩摩には、なんら野心はないということを、示さねばならなかった。それでなければ、革命の意味がないからである。新しい世の中はやってこないのである。
                                 つづく
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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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