村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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――海音寺潮五郎談――6……2

「土方歳三はなかなかの戦上手、驚嘆した」
「天才だ」
「庄内藩にも、温情で接した西郷」
――海音寺潮五郎談――6……2

この間、『――海音寺潮五郎談――6……1』で、西郷自らが出陣して奥羽地方に向かったところまで書いた。
でも、途中、京都に寄ってみたら、とんでもないことが起こりつつあり、急遽鹿児島へとんぼ返りということになったのだ。
藩主の忠義が出陣して、敵方を制圧しようとしていたのだ。
とんでもないことである。
それでなくとも、薩摩が政権を握ろうとしていると世間から誤解されているのに、そんなことされたら、維新の精神が踏み潰されるどころか、戦争で死んでいった者たちに申し訳が立たないのである。
島津久光の政権が、現実のものになってしまう可能性があるからだ。

西郷は、これまでにない、新しい世の中を創らなければならないのだった。
それは、薩摩でも徳川でも毛利でも山内でもない、身分制のない近代的国家である。ただそれは、一部の良識のある学者や政治家、革命家、さらには民間人の中でも限られた人たちだけがわかっていることであり、多くはまだ幕藩体制が続くと思っていた。
西郷自身でさえ、(これは僕の推測だが)これには抵抗があったのではないかと思う。でも、自分のことはどうでもよいのである。とうに、捨てている。

だから、今度は、多くの人々は薩摩幕府なのである。
大方ががそう思っていたし、西郷が先頭に立って戦争を行なったのは、それが目的、つまり薩摩政権の樹立だと思われていた。
最も西郷を悩ましたのは、鹿児島地方の士族連中の多くが、お膝元がまだそう思っていたことであった。
『今度は、自分たちの番だ』と。

西郷が真に苦労したのは、敵方をやっつけることではなく、味方の者たちを、殿様から自分の手下までほとんど全部を、欺かなければならなかったことである。
「このたびのご維新は、薩摩や長州のためのものではごわはんど」を、言い含める作業が残っていた。
勿論、戦争の最中にはそんなこと、口が裂けてもいえない。腹の中に収めておかなければならなかった。尤も、この部分については、大久保もまったく同じ立場で、二人が眼と眼で解り合っていたことなのであった。

明治になって、これを、この思いを改めさせなければならなかった西郷の苦悩は、並大抵のものではなかったろう。
だが、日本の歴史上、戦争を行なって勝ったほうは、必ず次の政権の担当者になってきたし、それが世の常識だった。
古今東西、そうである。
それが、今回だけは、明治維新だけは違っているのであった。潰した大将の西郷は身を引いて鹿児島へ引きこもり、各藩から代表者が出て仲良く連立政権を作ろうというのである。さすがに、徳川だけは除いたが。
それは、龍馬が新政府の構想を練ったとき、自分の名を政権の中枢からはずして西郷にいぶかしがられたのとよく似ている。西郷は坂本に言った。
「これには、坂本さんの名がありもはんがーーー」
「わしゃあ、世界の海援隊を作ってーーー」
と言う、あの有名なやり取りである。

明治維新は、表面づらだけを見ていたのでは、本当のところを見失ってしまう。
海音寺先生は、それを指摘したかったのではないかと思う。勝海舟も誤解されてきている。徳川方からすれば『裏切り者』扱いである。
一面、そう見られても不思議はない。
本人も、覚悟の上だったろう。でも、信念を貫き通した。それは、きたるべく日本の未来のために、徳川に拘っている場合ではないということである。これは、榎本武揚も同じである。箱館では、徳川として戦ったが、その後は日本のために役立った。松本良順も同じである。

今、たまたま、『愛国心』が国会でも取りざたされている。
教育や法律で押し付けがましいのは、どうだろう。
最近、当家の前の有名なすし屋の駐車場に、右翼の街宣車が十数台まとまって止まっていた。何台かに『愛国』の文字がでかでかと焼き付けられている。
戦時中の『富国強兵』『挙国一致』など、思い出す。
『増税』『我慢』『欲しがりません、勝つまでは』の時代が来るのか。
そういえば、宮原久雄さんがおっしゃっていた。
「昭和19年に国からの徴発があって、刀を出してしまった」と。「それが、沖田総司のものではなかったか」と。

榎本や勝、松本は日本と言う国のために働いた。明治政府に抱えられたが、彼らは、裏切り者ではない。
でも、これまで伝えられてきている歴史は、必ずしもそうはなっていない。本人たちの本当の苦心、苦悩を伝えていないのだ。
表面づらのことばかりを語っているからである。
それを、海音寺さんは言いたかった。でも、途中でお亡くなりになってしまった。
僕に、少しでもお役に立つのなら、お手伝いをしたいのである。
だから、書く。

話を、『庄内攻め』に戻す。
上のような事情で、一旦西郷は藩主忠義を連れて鹿児島へ帰った。6月14日である。
西郷嫌いの久光を諭して再び、出帆できたのは8月6日だった。随分と時間を要している。この間、散々久光からの嫌がらせがあったのだが、粘り強く頑張ってようやくの出征なのであった。
西郷は、鳥羽伏見の戦のあと東征に向かってあの有名な無血開城にこぎつけたのだが、そのときの役職が『征討大総督主席参謀』で最高位の役職と言っていい。だが、今回は単に、三小隊の一将だった。久光の西郷に対する悪感情が伝わってくる。

西郷が、部下の兵を伴って新潟港に上陸したのは8月11日だった。
このときの有名な話として、
『あの、西郷さんの頭が、丸坊主だった』ということだ。
何故だ、と言うことが取りざたされてきた。
いろいろ、考察されている中で、やはりここは海音寺先生の論を披露したい。

  「何故の剃髪であるか、今日でも疑問にされています。徳富蘇峰翁は、当時越後地方に出ていた薩摩人と長州人との間にややもすれば感情の行き違いがあり、意思の疎通を欠く心配があったので、そのためではないかと考察していますが、これは薩摩藩内部のことを知らないための結論で、それをよく知り、久光の当時の心事を勘定に入れ、さらにこの出陣にこぎつけるまでの西郷の惨憺たる苦労を考えるなら、見解は違ってくるはずです。自分に対する久光の不服と疑惑とを解き、その心をなだめるためであったろうと、私は考えています。
   私は西郷の剃髪は、鹿児島出帆以前であったろうとまで考えています。彼は久光にその姿を見せ、自分が出陣するのはすべて日本国家のためを思えばこそのことで、自分一己の野心は露ほどもないことを形の上で示したのではないかと思っているのです。」

この先、当時の越後・東北地方の状況を述べるのですが、やはり先生の文章で紹介する。

  「西郷が越後に到着した時、最も官軍をてこずらした長岡城は陥り、官軍を恐れさせた河合継之助は戦死し、越後地方はほとんど平定していました。当時、官軍の本営は新発田にありました。官軍の参謀黒田了介、吉井幸輔、山形狂介らは、数ヶ月前には官軍の最高位の将軍であった西郷が今度は薩摩軍の一将として出陣してきたことに驚きつつも、代わる代わる訪ねてきて尊敬の意を表して、本営に来ていただきたいとたのみました。が、西郷はいろいろ理由をこしらえて出てきませんでした。
   この事実を、普通には、西郷の誠実で謙退の精神によると解釈しています。西郷の性格についてはずっと説いてまいりましたように、誠実で謙譲で無私無欲の人柄ですから、この通説も全然見当違いではありますまいが、私は主たる原因はやはり久光にあったと見ています。
   おそらく久光は、西郷が誠心誠意をつくして弁解し、髪をそりまでしてその心を表明したに関わらず、まだ疑惑を捨てず、その出陣に当たって、“与えられた地位を守り、決して越権の行為があってはならんぞ。違反したら容赦はせんぞ。心に硬く刻んでおけ”と言うようなことをいって釘をさしたので、越後についても薩摩軍の一武将たる分を守って、どう進められても官軍本営に顔を出さなかったのであると推理します。
   このことについては、書いたものなどは全然残っていませんが、以上のように考えるのが、最もすらりと胸に落ちるように、私には思われるのです」

この先、西郷がこうまでして何故出陣したのか紹介したいが、紙面の都合上、次回の予告編を書いて終わる。
後年、山県有朋が彼の著書「越の山風」の中で、そのときのことを書いている。
つづく
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コメント
あんざいみちよさま、ご熱心ですね。
函館で、中島親子の話を聞いて、---。
そうですか、いいですね。

ところで、元会津藩士が警視庁に入って、西南戦争に参加した動機は、「薩摩に一泡吹かせる」のが動機だったと言うことですね。
そう、僕もそう思っていたんです。そして斎藤もその抜刀隊に参加している。

思えば、文久3年8月からは会薩は仲良く京都で公武合体していたんですが、その後、薩摩に裏切られた形になっています。
だから、その恨みは今日まで引きずっているらしい。

でも、その恨みはむしろ、その時点では、明治政府に向けて欲しかったように思うのですが。
明治政府の警察権力にくっついて、純粋な薩摩の若者を殺したように思えてーーー。

薩摩や長州と言う『名』が、感覚的、生理的に否なんでしょうね。この頃は、斎藤一は藤田五郎って名かなあ。あの人、会津の人のように思えてーーー。
理屈抜きに、会津のためなら何でもやるっていうことかな。謎の人ですね。
2006/05/28(日) 22:16 | URL | 村瀬彰吾 #VvKxtd/k[ コメントの編集]
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2006/05/27(土) 22:58 | | #[ コメントの編集]
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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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