村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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――海音寺潮五郎談――6……3

「土方歳三はなかなかの戦上手、驚嘆した」
「天才だ」
「庄内藩にも、温情で接した西郷」
――海音寺潮五郎談――6……3


西郷は、薩摩藩藩主の父島津久光からは、極端に嫌われていた。久光にしてみれば、何一つ思い通りになったものはないからであり、それどころか藩内外の人望、声望は西郷一点に集まり、自分にはちっとも人気が集まらなかったからだ。
維新が行なわれれば、てっきり自分が薩摩幕府の将軍になるか、悪くても息子の忠義がなるだろうと思っていたに違いない。
ところが、ふたを開けてみれば連立政権であり、それも薩摩からは自分も息子も参加はしていない。どこの藩も毛利だって山内だって肥前だって藩主連中は、政府の幹部クラスにその名を連ねてはいなかった。
久光は、西郷に騙されたと思い続けている。
だから、あの時島流しなどにしないで、いっそのこと殺しておけばよかったものをと、臍(ほぞ)をかんで悔しがった。西郷の人気ばかりが上昇し、自分の評判は決していいとは言えない。
このままでは、薩摩幕府どころかお家の財産そのものだって怪しくなってくる。下手をすれば、明治政府に取り上げられてしまうかもしれない。そんなことはさせるものかと様々妨害をするのだが、西郷は久光の意に反して、苦難の末、『廃藩置県』まで持っていってしまった。
薩摩藩さえ、なくされてしまった。

それは明治4年以降のことであるが、今は、まだ元年の9月である。
官軍の総大将で東征を行なった西郷さんだが、今は単なる薩摩の一武将として3個の小隊をつれての参戦となった。
常識なら考えられないことだが、西郷はそれでも満足していた。急ぎ、奥羽地方に行かねばならない事情があったのである。
そうはいっても、大西郷である。彼に対するそれなりの扱いというものがあるだろうに。が、久光は彼を、自分の腹心としか見ていない。むしろ、あの偉大なる西郷を自分だけが操れる。俺だけが、命令できる、と、酔っていたかもしれない。
だが、心の底では西郷に馬鹿にされていることも悟っている。
だから、余計に腹立たしいのだ。

もし、西郷が普通の人間だったら、立身出世型の役人だったら、野心のある革命家だったら、あれ程のカリスマ的徳望があった人だったのだから、薩摩藩内でクーデターを起こし、自己に権力を集中させることは容易に出来たはずだ。何も、島津家を倒して西郷家を起こすと言うことでなくても、自分を見出してくれ、古今東西の名君と評判の高かった島津斉彬派の復権のために、運動する可能性はあったと思うが。
その斉彬は、久光派のために毒殺された。本人ばかりでない。子供たち全員が、謎の死を遂げている。西郷はすべて、久光派の呪詛によって行なわれたことだと思っている。でも、西郷は復讐なぞ考えない。
いや、側近の若者たちからは散々そうした提案、誘いはあった。斉彬を慕うニセ(青年)は多い。だが、西郷は、いくら尊崇する先君斉彬公のリベンジとはいえ、誠実一路な人間だっただけに、他人と争い、自らが頂点に立とうとするタイプの人間ではなかった。
飽くまでも薩摩藩から禄をいただいて一家を養っている薩摩武士なのだから、藩主の命令に従い、ご奉仕をするのである。
自らが権力の中枢に位するなぞという野心は微塵もない。この部分については、誰の誘致、助言も聞き入れない。
頑固一徹の人間だった。

前回の予告編で、山県有朋の著書「越の山風」の中から紹介すると言った。
こうだ。

   「予は十四日(8月)、新津を出発し、片野十郎と共に新潟に赴く。西郷に面会のためなり。西郷はさきに奥羽援兵の増遣準備中に、越後の急警しきりに至りしのみならず、戦地における薩・長の関係についても憂慮するところありし由にて、終に自ら越後路に来ることに決心し、兵を率いて越後に着海し、新潟に入りしなり」

兵の増援が必要で、西郷が引き連れていったと言うことだが、何も西郷自身が行く必要もないと思うがーーー。
むしろ、薩摩と長州の軋轢が既にあちこちで始まっていたので、その調停役としていった。彼しかいなかったということか。
う~む、こんな理由?僕は、西郷が行った本当の理由は、別にあったのではと、思っている。それは庄内藩をはじめとした各藩が降伏した際の、接し方・遇し方のことである。絶対に間違わないようにしなければいけないのだった。それを見守るため、また、参謀の黒田たちに教えるために、久光に散々嫌がらせを受けながらも、出征したことは間違いないと思っている。
この遠征で、西郷は最初から庄内を目指していた。それは、会津と庄内が最後まで屈強に抵抗していたと言うことも結果としてあるが、僕は、特に、庄内との接し方に失礼のないよう見守り、自ら指導するために行った思う。

鳥羽伏見の直接の引き金になってしまった薩摩屋敷の焼討ち、それを行なったのは新徴組を抱えて江戸を警備していた庄内藩だった。もともと江戸で挑発行為をしていたのは薩摩側でもあるので、この両者が凄惨な殺し合いをしないとも限らない。

慶応3年12月25日、三田にあった薩摩藩江戸屋敷が焼かれた。これは、そもそも薩摩側にその原因はあり、挑発したのだから当たり前である。
だが、西郷の狙いは飽くまでも、京都で事を起こす際、敵方の勢力を東西に裂くことにあって、だから東でも事を起こさせたのだった。しかし、戦争と言うものは苛酷なもので、予想外のことも引き起こしてしまうものなのである。この12月は既に江戸は無政府状態になっており、奉行所を始め幕府の治安能力は殆ど機能していなかった。だから、強盗野党の類が横行し、勿論殺人事件も平気に起こっていたが、犯人は検挙されない。
これらは、関係ないものまで薩摩の仕業とされていたのである。
西郷はこれらの所業について、心を痛めていたのではないだろうか。そして藩邸焼討ちをする羽目になった庄内藩の兵士たちに対して、『申し訳ないことをしました』と反省とともに今や、敵に対しての謝罪、憐れみさえ抱くようになっていたと思うのである。だから、黒田や品川らに重刑などの処分をさせてはならないのであった。
『武士は相身互い』であり、夫々の立場で戦わなければならない。だが、降伏した相手には、それに相応しい応対・温情が必要なのである。敬天愛人、これが天に導かれた人の歩むべき道なのである。
西郷は、パークスやアーネスト・サトウらと接触している中で、白旗をあげている降伏者に対する西洋流の作法を心得ていったのは事実だが、というより、『人の道』を説いているのであった。

つづく
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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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