村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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沖田総司の出自について

この間の5月21日(日)、日野宿本陣文書検討会の主催で沖田総司の特集をやった。
これは日野と市ヶ谷試衛館をイントラネットで結んで、僕とあさくらゆうさんとでお話しする試みであった。


その時の報告は、何日かまえにここでしたのだが、今日は一歩進めて、面白い報告があるので、また書く。
その時僕が書いた記事の一部を、再び引っ張りたい。

それは、総司のお母さんの出と考えられる宮原家のことを、お話していたときのことだ。宮原家は、井上本家・分家のある日野北原の北側に位置するのだが、昔は四ツ谷と呼ばれていたところだ。今でも四ツ谷子供広場をはじめ、その名残はたくさん残っているが、以前は『四ツ家』とも書いたそうだ。
四つの家だから、四家である。それは、長く伝えられてきているのは、加藤・天野・小島・宮原で、確かに今でもあの辺はこの四家の名が多いし、(特に加藤と天野が多いが)それは武田の落人だといわれている。
僕も、勿論そのように考えてきたのだが、昨年の秋、宮原家のご当主久雄さんとお話していたとき、久雄さんのおばあさまが「うちは、もともと立川で、柴崎にいた」とおっしゃっていたということだ。
「玉川は通称“あばれ川“と呼ばれていて、川の流れが何回かここ数百年で変わった。(そういえば、歳三の家も弘化三年に大水で流されたということだ)もともと柴崎にいたうちは、いつの間にか日野に編入されていた」ということを久雄さんはおばあさまから聞いていたそうだ。

僕は、自分の本を書くとき、とにかく史実に沿って書くことを至上の鉄則に思っていたから、ゼンリンの地図を張り合わせて、あのあたりの地形を随分長い時間眺めていたのを思い出した。
そして、その地図を改めて、見てみた。
甲州街道を挟んで日野宿、その北側に北原、四ツ谷、井上本家と分家、そして宮原家と見ているうちに、多摩川が宮原家のすぐ北側にあることに気がついた。
確かに、おばあさまがおっしゃるように、川の流れが変われば、日野になってしまうことが地図を見ているとわかるのだ。
実は、昨日、あの中継をしている時、その地図を持ち出して皆さんに説明していたのだが、(四家のことと、大野姓が井上分家の周りに多いことを知ってもらうためだ)、説明しながら気がついたことがある。

このような記事を書いた。
これをご覧になった日野宿本陣文書検討会の主宰者、munn様が図書館で貴重な資料を探してきてくれた。
これは立川市側の書物なのだが、江戸時代の多摩川の流れが示されているものだ。この中の地図の一つに、1804年(享和4年・文化元年)当時の玉川の流れを示しているものがあった。
1804年と言えば、歳三の生まれが1835年で、総司が1842年だろうから、まだ30年ほど前のものだが、その頃の流れが、日野の北原や四ツ谷の丁度北側のあたりで、川の流れが二股に分かれている(下地図参照)。


宮原久雄さんのおばあさまがおっしゃっていた、「うちはもともと立川で、川の流れが変わったので日野になってしまった」という証言は、なるほどこういうことだったのか、と証明出来るのかもしれない。
つまり、宮原家は1804年(文化元年)当時は川の二股の中州にいたのだが(かなり広範囲)、大水によって南側の流れがなくなって、北側の流れだけになったのかもしれない。いづれにしても、1820年(文政3年)には宮原家は日野の台帳に載っているので、この頃は既に柴崎村ではなく日野の四ツ谷にいる。これは、もっと調べれば、正確なことがわかるはずだから、近々再びこの話題にふれるが。

ただ、玉川って川は通称「あばれ川」と呼ばれていて、しょっちゅう流れが変わったらしい。最近でも、ここ30年ほどで微妙に何回かかわっている。(といっても、現在は堤防が両岸にめぐらされているので、その範囲内でのことだが)僕が杉並から日野へ来た頃とは違う流れをしている。
僕が日野に来るようになったのは1974年だが、この年、有名な多摩川の決壊があった。狛江市で、流域沿いの住宅が流され、その映像が何回となくテレビで映し出されたあれだ。あの時は民家が19棟流され、1270戸が冠水した。
今、僕の手元に「おもな多摩川の洪水」と言う一覧表があるが、1742年からのものだが、大きいものだけで16回あった。
もし多摩川に、堤防が築かれていなかったら、今だって大きく流れが変わるはずだ。ただ、昭和30年ごろだったか、上流に小河内ダムと言う馬鹿でかいものが出来たので、今は水の量が極端に減ってしまい、当時の面影はないが、相変わらず、暴れることはしている。
土地柄か。

手元にある資料を見ていたら、日野側のもので、――「日野町有形絵図」貞享元年(1684年)3月佐藤信行家蔵―― が出てきた(下画像参照)。


図録「新選組のふるさと日野」より掲載
新選フェスタIN日野実行委員会発行

こういうコメントが書かれている。

  『日野宿の最も古い絵図で、甲州道中は万願寺の渡船場から日野宿に入っている。同年5月には、上流の日野渡船場に移り、既に下河原から北に向かう渡船場が見られる』
この図を見ると、明らかに玉川は南側に支流のような流れが描かれている。本流が上辺でカットされてはいるが。
これらについては、もっと調査する。乞うご期待!!

それから、僕のブログを最近読むようになった方には、『宮原』と言う家についてよくわからないかもしれないので、知っている人には邪魔かもしれないが、その関係について述べる。

新選組で6番隊長をした井上源三郎は日野は北原の出で、兄が八王子千人同心をしていた井上松五郎である。
この松五郎、天然理心流3代目宗家を継いだ近藤周助を物心両面で支えていたと同時に本人も周助の高弟でもあった。
この松五郎の長男で、泰助と言う人がいた。
この泰助、12歳で新選組に入隊し、あの鳥羽伏見の戦を体験した。
その戦で自分の叔父に当たる源三郎が戦死した。
戦死した叔父の生首を持って淀の辺りを徘徊していたのだが、とうとうある寺の前に埋めることにした。
だが、その寺の名を忘れてしまったので、今となっては何処に埋められているのかがわからない。
この意味では、土方歳三と全く同じである。
この泰助が後年、総司の姉ミツ宛に出した(と思われる)手紙の下書きが見つかった。
この下書きは今、井上源三郎資料館に展示されているが、どんなときに書いたかと言うと。

おミツさんの長男で芳次郎と言う人がいた。この人と泰助の妹との縁談が持ち上がり、様々経緯があってトラぶってしまった。
そのときに彼がミツ宛に手紙を出しているのである。
この中で、泰助は改めて井上本家と分家、沖田家と宮原家との関係をお互いに確認するためになぞっているのである。
これまで、総司の父は白川藩の沖田勝次郎だと言われてきている。
でも、最近、これについても異論を唱える人が出てきている。
そのくらい不透明である。

じゃあ、母親はと言うと、誰も全くわからないから、沖田総司のどんな専門家、著述家でも不明のまま済ましてきている。
もっと言えば、姉のミツについても、本当の姉なのかどうかわからない。
何故なら、残っている戸籍には『近藤藤蔵(周助)の長女』となっているからだ。
一般的には総司の実の姉で、井上分家の林太郎が沖田家に養子に入ったことになっているがーーー。
(このことについては、チョー複雑なので今は書かないが、近いうちに改めて、このことだけで僕の考えを述べる)

母親だが、日野では、一部ではあるけれども、宮原家の娘が『総司の母親だ』と言われてきている。
僕がそう思うのは、いくつか根拠があるが、並べてみると、さっきの芳次郎と泰助の妹ハナが祝言するときの媒酌人が宮原久五郎であったと言うことだ。
この人の写真を昨年の秋、このブログに載せたことがある。
この久五郎さんは、総司の母の弟じゃないかと僕は思っているのだが(天保5年10月9日生まれで、近藤勇と同じだ)、年齢的にである。
また、ミツの孫の重治が死んだときに、どういうわけか、沖田家の菩提寺の専称寺に弔わないで、薬王寺の宮原家の墓に入れていることである。
他にもいくつかあるが、なんにしても、昨年何度かお会いして、当主の久雄さんに様々宮原家に伝わるお話をお伺いしたとき、「沖田総司は、うちの先祖」だと伝えられてきていることである。

総司が死んでまだ140年足らず。
この間、新選組関係の子孫は、自分が子孫であることを固く閉ざして、口には一切出してこなかった。
賊軍であると言うこと以上に、悪役の新選組なのである。いまでこそ『新選組のふるさと』公言しているが、言っている行政だって、表立っていえるようになったのは、ここ10年ほどである。

ひっそりと暮らしてきた100年なのである。
だが、ようやくそれも晴れて子孫であることが言える環境になってきている。
宮原家の人たちも、多くは語らないが、問われれば話してくれるようになってきたのである。
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コメント
いけなくて、残念
6月11日は、歳三の日記について、富澤政恕著「旅硯九重日記」からさぐっていくのですね。
よい企画ですね。僕はその日から九州へ行くので、東京にいないのです。残念。
僕も、ぜひ、参加したかった。
だって、やっぱ、すごく関心があるもの。
きっと、日野のどこかにあるに決まっているんだけど、一体何処でしょうね。
もしかして、佐藤家のどこかにーーー。

昨日、佐藤福子さんが僕のところにお見えになって、また、新しい資料が出てきたそうですよ。
中身について、実は、知っているんだけど、まだ言えないのです。
近々、ご本人から発表されると思います。
という具合だから、歳三の日記もどこかにきっとある。
あってほしい。
元治元年4月までの、歳三の日記でしょ。
いいですね。
どの程度、突っ込んで書いてあるんだろう。
例えば、女性関係などで、君鶴とか君菊とかありましたよね。
上七軒や島原、祇園も行ったでしょうね。大坂にも。

僕の本の中でも、「旅硯九重日記」については、大分触れました。だって、少ない新選組の資料の中で、富沢さんのあの日記は松五郎の日記と並んで貴重なものですからね。
両方とも、嘘偽りのないほんとのことが書いてあるはずですから、当時の新選組の状況を探る第1級の資料ですね。
勉強会の様子、あとで教えてください。

彰吾

2006/06/09(金) 21:57 | URL | 村瀬彰吾 #VvKxtd/k[ コメントの編集]
沖田総司な紫陽花!!
村瀬さま、先日は沖田総司に関する貴重な講演ありがとうございました。

高幡不動尊の紫陽花も総司忌の頃には咲き揃うようです。墨田の花火と言う種類は総司のイメージに重なる純白可憐な紫陽花で毎年開花を楽しみにしています。

今後も謎の多い沖田総司についての検証を期待しています。6月11日の公開例会では「土方歳三の日記」の行方を富澤政恕著「旅硯九重日記」からさぐります。


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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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