村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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――海音寺潮五郎談――6……4

「土方歳三はなかなかの戦上手、驚嘆した」
「天才だ」
「庄内藩にも、温情で接した西郷」
――海音寺潮五郎談――6……4

官軍の庄内行きの司令官は、薩摩人黒田了介だった。
副司令官は長州人品川弥次郎で、この二人、因縁の中である。
その意味では、西郷も。

慶応二年1月の薩長連合のとき、品川は新選組や幕府の厳しい監視の目をくぐって長い間、京の薩摩屋敷に匿われながら、長州藩の諜報作業をしていたことがあった。同時に桂小五郎(この頃は木戸貫治か)のお付のようなこともしていたし、監視役も兼ねていた。黒田はその際、西郷の手先となってその意を汲み、一等、最も働いたし、この頃から西郷は黒田を腹心の部下として育てようという思惑があった、と伺える。

まずは庄内で、酒井侯をはじめとした降将の人たちへの扱いについて、西郷自らが『範』を示す必要があった。
そして、仕上げが箱館だった。榎本以下の救済である。
このときも、心配で、自ら箱館に駆けつけた。このことは、既に書いた。
ただ、こういうことは、新選組や幕府軍サイドからのみ眺めていると近視眼的な見方になってしまうので、おうおうにして全体像が見えてこない。少し、紙面から眼を離して遠目で見てみよう。
土方が戦死したときの相手方、官軍側の状況は、実態はどうであったのか、知っておくのも必要だ。

新政府軍の参謀が黒田清隆であったことはよく知られているところだ。
極刑を主張する長州閥幹部に対して、榎本以下の命を救うために、粉骨砕身、どれだけ彼が苦労したか。また、このとき、どうして西郷隆盛が箱館にいたのか。
(榎本と黒田の交流、心温まる友情は、別な機会に書く)
戦争勝利のために西郷がいなければならなかったのか。
そんな必要はないと思うが、何か理由があったのか。

黒田と品川の二人は、西郷が第1次長州征伐の際に行なった寛大なる処置をよく知っている。次に薩長連合の際の采配も見ている。そして、次は奥羽地方の降将への扱いを適切なものにすることだった。
黒田と品川の両人だったから、薩長の不和や軋轢なぞはなく、見事に強調して行えたわけで、西郷がいたので、なおさらうまくいった。
西郷は、維新がなったこれから、敗残者に対する扱い方を、多くの指導者たちに伝授する必要性を感じていた。
決して人としての道をはずさないように、若い権力者たちに教えなければならないのだった。
そして、たまたま、この二人だったのが幸いした。
西郷の思い通りの結果に帰することができた。黒田が、見事な采配を振るったのである。
ここから先は、再び海音寺先生の達文をお借りする。

   (黒田清隆ら官軍)9月18日に庄内行き官軍は米沢を出発して、この日、中山駅まで行きますと、上ノ山藩主松平伊豆守の家臣が、主人の命を受けて待っていて、降伏謝罪の嘆願書を差し出しました。
   その日、官軍は上ノ山に入り、翌日、黒田は本丸で上納された兵器を点検した後、重役らを引見して、
「この上は官軍の先鋒として、帰順の実効を立てなされよ。必要な兵器は下附します」
と申し渡して、その通りにしました。
この黒田のやり方を見ますと、第1次長州征伐の時や江戸城納降の時の西郷のやり方に似ているとは思いませんか。黒田と言う人は酒乱の悪癖があって、後年にはいろいろ評判の悪い人ですが、この頃はその生涯において最もその人物に輝きがあって、世間でも西郷の跡継ぎとなるべき人物と言っていたのです。西郷もまた彼を最も愛していましたので、彼は西郷の一番弟子を持って自認し、事ごとに西郷のやり方を学んだのです。おそらく、西郷が手を取るようにして、裏面にあって教えたのではないでしょうか。これらのことは私の見当だけで、その証拠はないのですが、やがて庄内の降伏を受け入れた際には、歴然たる証拠があります。
この日、山形藩もまた降伏を嘆願してきました。これに対しても、黒田は同様な処置をしました。
この以前から津軽藩は官軍側となり、南部藩は秋田方面に一度出てきましたが、一戦に打ち破れ、さらに秋田藩兵に追撃されて領内に退いてからは、まるで萎縮して再び出てくる気力を失っていました。ですから、いまや庄内藩は会津藩とともに孤立無援となったのですが、それでもなお手ごわい抵抗を続けました。
9月22日は会津の降伏開城した日ですがおそらくそんなことは、庄内藩では知らなかったでしょうが、会津が重囲猛攻の中にあって、その抵抗の全力が尽きようとしていると言うくらいのことはあるいはわかっていたかもしれません。そのためであるかどうか、翌23日、官軍が進んで清水駅に入ったとき、庄内の家臣二人がいまや官軍先鋒を勤めている米沢藩人の介添えで、藩主酒井忠篤の降伏謝罪嘆願書を差し出しました。

このときのこととして、庄内藩に伝承される話があります。それはこうです。
『黒田はその旅宿において嘆願書を受けたのですが、庄内藩士らに応対している間、度々席を立って奥へ入っていった、どうやら奥に誰やらがいて、それに相談し、指図を受けるものの用であったと言うのです。またその際、庄内の使者の従者らは坊主頭の大男が風呂に入っているのを見たが、よほどに官兵らに尊敬されている人物のようであった』と言う話も伝承されています。

多分、庄内人らの観察は当たっていましょう。奥の部屋にあって黒田に指図した人物も、坊主頭の大男も、西郷であったに違いありません。思うに、西郷はひょっとして黒田が薩摩人の一人として藩邸焼討ちの恨みを忘れかねて、むごい扱いをするかもしれない、しかしそんなことがあっては王師仁慈の大精神にそむく、と案じたのではないでしょうか。西郷が久光の厳しい自由拘束を我慢し、大変な格下がりになってまで、このたびの出陣をした理由の一つはこれだったに違いないと、私には思われるのです。

黒田に情理そなわったよき受降ぶりをさせることは、単に黒田に男を上げさせるだけではありません。王師仁慈の大精神を日本国民に仰がせ、将来の日本のためにも大いに役立つと思ったのでありましょう。これはまた、敬天愛人の彼の信仰的哲学の自然の発露でもあります。

黒田がどんな風にして庄内藩の使者に応対したかは、庄内藩の記録に残っています。使者に選ばれた吉野遊平は、米沢藩士大滝新蔵に連れられて黒田の旅館に行き、名簿(名刺)を差し出しますと、黒田は吉野一人を一室に引見しました。その部屋には余人をおかず、唯一人で、言語応対すべて極めて丁重で、すこしもおごり高ぶったところがなかったので、吉野は意外でもあれば、一種の感動すら覚えたそうです。

このとき黒田は、使いの吉野遊平に恥をかかせないように、また土産を持たせてやった。
当時、降伏した側にとっての最大の関心事は、「お家」の継続が許されるのかどうかと言うことだ。
城の明け渡し、武器の没収は当然止むを得ないことなのだが、あとは殿様をはじめ幹部連中の斬首、切腹のこと。武士として、辱めを受けず、立派に死なせてもらえるのかどうか。
黒田はこの時、約束してやった。
「酒井家の社稷の継続は必ずお許しになるでござろう」と。そして、「それは、決してお疑いなさらぬように」とまで、付け加えている。
『社稷の継続』とは、命ばかりでなく藩の財産も保証するという意味であろう。ただこの場合、これまでの石高どおりかどうかはわからない。
あの徳川家だって、西郷は家来の数からしても最低100万石は必要だと考えていたのだが、70万石に減らされた。明治政府は、西郷の思惑通りには行かなかったのである。
使いの吉野は、多分、大泣きに泣いて感謝し、帰っていったに違いない。

つづく
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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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