村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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――海音寺潮五郎談――6……5

「土方歳三はなかなかの戦上手、驚嘆した」
「天才だ」
「庄内藩にも、温情で接した西郷」
――海音寺潮五郎談――6……5


明治元年9月27日に、黒田は庄内藩の城下鶴岡に入っている。
西郷も一緒だった。二人のほかに薩摩の武将としては、大山格之助がいた。西郷は、黒田、大山とともに鶴岡城内を点検し、兵器を納受して、銃器は新発田の総督本営に送らせることにした。
銃器は、総数4900挺もあった。
官軍の諸隊は次々に鶴岡城下に入り、一晩か二番泊まっては立ち去っていった。このとき、総数15165人いたと、この頃鶴岡にいた会津藩士の南摩綱紀と言う人が計上している。
ここで、再び海音寺さんの文章で、

   この多数の兵が入っているのに、市中は至って平和であるとも、南摩は書いています。
「庄内の降伏においては、藩士は帯刀を禁ぜられず、前のままいつも佩びている。皆自宅に閉居謹慎しているが、用事があれば平日のごとく外出し、市中の商店も普段と変わるところがない。官軍もまたそう乱暴ではない」
   官軍が温情を持って降伏を受け入れ、軍規を厳しくして兵等を取り締まり、その占領が最も穏やかにいっていることがよくわかりますね。これは私には黒田の背後に西郷があって、指導したためと思われるのです。
   
「大西郷秘史」という本があります。
明治から大正にかけて『武侠世界社』という雑誌社が東京にあって、この社で出版した本です。この中で、当時薩摩藩士だった高島鞆之助の思い出話として、

   ある日、藩主酒井忠篤が西郷の宿舎に表敬訪問に来たと言うのです。
西郷の今度の出陣は、官軍の将領としての地位は至って低く、単なる薩摩軍の一武将に過ぎませんが、一般の常識では官軍の総大将と言う観念がありますから、酒井の殿様も敬意を表するために訪問してきたのでしょう。
   西郷は驚きながらも、周囲の人々を、かりそめにも無礼な振る舞いがあってはならないと戒めて、忠篤を迎えました。
   言語応対、まことに丁重で、忠篤を上座に座らせ、自分は下座に端坐平伏して、恭敬のかぎりをつくして応対しました。

   高島は、西郷のその応対振りを見て驚きもし、不思議にも思い、歯がゆくもあって忠篤が帰っていった後、西郷に向かって、
   「先生、ただいまの先生の応対振りは、あまりにもご謙譲にすぎて、どちらが降伏者か、わからんようでごわした。こちらは官軍、向こうは賊軍、そして戦い負けて降伏したのでごわすから、もう少し威を張って御応対なさるべきではなかったでしょうか」
   といいますと、西郷はにこりと笑って、
  「戦に負けて降伏なさったのでごわす。官軍に対しては、何事がなくても非常な恐れを抱いていなさるはずでごわす。仮にも17万石の大名ともある人が、あの慇懃な様子であったではごわはんか。それに対して、こちらが厳しい調子の言葉でも出したら、思うところを言いなさることもできんじゃろ。あれで丁度よかのでごわす」
   と言ったというのです。
 
     庄内藩は会津藩と並んで、東北諸藩連合の中で最も勇敢執拗に戦った藩です。その上、度々言うとおり三田藩邸焼き討ちの主力を勤め、秋田口の戦いでは島津一門の島津新八郎を討ち取っているのです。骨髄に徹する恨みを薩摩兵にもたれているに違いないと思い、降伏を申し込んでも大いに恐れていましたのに、最も温情を持って降伏を受け付けられ、その上西郷の藩主に対する態度がこのようでありましたので、全藩感激すること一方でなく、庄内藩士らは西郷を慕い、今日伝わる『大西郷遺訓』は、庄内藩士らが西郷を東京や鹿児島に訪ねたとき、彼らに西郷が語ったことを集録したものです。
   
   庄内の西郷崇拝は当時から深く、明治3年8月には酒井忠篤は、政府の許可を得て薩摩遊学のために藩士70余人を選抜して、引き連れて鹿児島に行き、翌年4月まで滞在して、西郷の教えと薩摩藩の軍事教育を受けました。
   明治4年から6年までは西郷は東京に出て、中央政府の参議になっていましたのでこの期間、庄内人らはよく東京に西郷を訪ねて教えを受け、明治6年秋以降は西郷は国に帰りましたので、庄内人らは遠く鹿児島に西郷を訪問しています。
   『大西郷遺訓』はこれらの西郷訪問の間に西郷の言った事を集めて、庄内人らが発刊して世に広まったのです。
   西郷崇拝と西郷研究とは、今日でも庄内では相当盛んに続いています。西郷の精神は、鹿児島よりむしろ庄内に残っていると言ってもよさそうです。
(庄内編は終り)

つづく

ここで、西郷さんの顔を皆さんに紹介したい。
あの人は、どういうわけか写真が1枚も残っていない。一般的には、『写真嫌いだった』ということになっている。
本当のところ、どうだかわからない。
一説には、常に命を狙われていて、暗殺者が狙っていたので、一目でわかるような写真は残さなかったともいわれている。確かに、敵方(徳川幕府側)に限らず、見方の薩摩藩内部から、それも最も実権を握っていた藩主の父久光から狙われていたのだから、危ないどころじゃない。
西郷は、最も尊崇する前藩主斉彬とその子供たち全員が久光派によって殺されたと思っていた節がある。自分だって、狙われていることぐらいは、知っていたに違いない。だから、写真を撮らなかった?
う~ん、わからない。
でも、西郷を尊敬する人が多かったので、似顔絵が何枚か残っている。
最初に紹介したいのは、昨年僕が鹿児島へ行った時に眼にしたものだ。
この絵(No1)がなんとなく、一等似ているのではと思っているので、好きなのだ。
実は、今、僕の携帯の壁紙に使っている。見るたびに、自分が叱られているようで、気が引き締まる。
なんとなくいいのだ。


(解説)No1 大牟礼南搪作
『西郷隆盛 ――その生涯――』東郷實晴著の表紙に使われていたものです。

次が、よくどんな書物、作品にも使われるエドアルド・キヨソーネ作の絵である(No2)。


キヨソーネは明治政府が招いた人で、明治天皇や岩倉具視、大久保利通などの肖像画も書いている。
ただ、この絵は、顔の上半分を西郷さんの弟の従道の写真を基に、下半分を従兄弟の大山巌の顔を参考に描いたものらしい。(黎明館所蔵)

次が、あの有名な上野の銅像である(No3)。


(デアゴスティーニ・ジャパン発行 『日本の100人』週刊紙NO.11』より)
西郷隆盛没後20周年に彫刻家の高村光雲が制作したもの。
顔が似ていないので、主賓にまぬかれていた奥様のいとさんは、
「宿んしは、こげんなお人じゃなかったこてえ」とつぶやいた。何故、晴れの式典の席で、そのような言葉を発したのか。
僕には、おいとさんの気持ちがわかる。
彼女は、うちの人ほど、国のために全身全霊を傾けて働いた人はいないと、強く確信していた。だが、維新の後は明治政府をはじめ、暗殺を試み、西南の役まで起こさせて殺したではないか。何故、維新の最大の功労者であるうちの人がそんな仕打ちを受けなければならなかったのか、その悔しさが鬱積していた。
そうしたのは、最も仲のよかった大久保一蔵だった。薩摩藩内部で殺し合いをしている。でも、一蔵どんも11年5月には紀尾井坂で暗殺された。何と、むごい(大久保を殺したのは石川県氏族上がりらしいが)。そして、戊辰戦争や西南戦争で、西郷の兄弟・息子まで命を落とした。
いとは、鹿児島で家を守っていたが、悲しくも無念でならなかったのである。そのうえ長らく主人は、「賊徒」にされていたのであった。
明治天皇をはじめ周囲の人々の尽力で、ようやくその汚名が晴れはしたものの、いとは気分がすっきりはしていなかった。

この銅像を見ると、吉之助の本当の姿ではないような気がしたに違いない。世間は、うちの人の見方を間違えているといいたかったのではないだろうか。顔が似ていないばかりではない。「あん人はこんな着流しで外を歩く人ではありもはん」といいたかったのではないだろうか。ウサギ狩りの模様だというが、ここは東京の上野ではないか、と言いたかった。
そして、それは、僕には、奇しくも作家海音寺潮五郎氏の感性(無念)と似ているのではないかとも思えるのだ。
「世間は、なんで、わかってくれないんだ」
どうして、「西郷という人間を曲げて伝えるんだろう」という恨めしさだ。

最後に、西郷さんの家の隣に住んでいたという画家の肥後直熊が西郷没後50年に描いた絵を載せる。


(黎明館所蔵・No4)(デアゴスティーニ・ジャパン発行 『日本の100人』週刊紙NO.11』より)

この人は幼少の頃から、西郷さんにかわいがられたそうだ。その時の記憶で書いたものらしいが、とっても表情が穏やかである。これも真実の西郷さんを物語っているようで、好感が持てる。
自分のなすべき仕事は、大方済ましてきたが、既に何回かは捨てたこの身命でごわす。あんたたちが、私のからだが必要だと言うなら、お預けしよう、と言う表情だろう。勿論、自分も政府に「申し上げたき一件」があったから、兵を連れて東京へ向かったのではあるが。
多分、暴発寸前の薩摩の若者たちを前にして、「おいの命は、おはんらに預けもそ」という心境になっている姿ではないかと思う。

西郷さんは、明治10年9月に死んでいる。
まだ、100年と数十年前なのに、あまりに伝説的過ぎる。この間の終戦後何年かの間、直接西郷さんの話を聴いたことのある人が、何人も生きていた。そういう人たちの回顧談が、今、テープで残っていて、鹿児島の維新資料館で聞くことが出来る。
でも、真実が伝わっていないように思えるがーーー。

つづく
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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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