村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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――海音寺潮五郎談――7

「土方歳三はなかなかの戦上手、驚嘆した」
「天才だ」
「悠々自適している様を装って、機会の到来を待っていた西郷」
――海音寺潮五郎談――7

「西郷は無責任だ」と、言った人がいる。
長州の木戸孝允、大村益次郎などだが、箱館が収まったあとは戊辰戦争終了で、確かに西郷は故郷へ帰ってしまった。
これから日本は創業の苦難が山積しているのだから、それに関わることなく故郷に帰ってのんびり暮らそうとは、無責任きわまるってことだ。
僕は思うのだが、じゃあ、西郷が戻ってきたら歓迎するのかと聞きたい。きっと極度に奢侈贅沢を嫌う彼の高潔さから、彼ら自身が困ることになるので、邪魔臭く扱うはずだが。
西郷の誠心一徹な身構えは、あの当時の汚染された政府高官たちには胡散臭い存在であっても、好むものではないはずだからだ。

堺屋太一に至っては、「陸軍大将が兵を率いて何が悪い」と西南戦争を引き起こしたとか、「子孫のために財産を残した」と書いているらしい。また、「鹿児島県だけ税金を安くしろ」と西郷が運動していたと言うことらしいが、本当なのか。堺屋さんほどの影響力のある人が言えば、皆が信じる。
何かの間違いに違いないと思うのだが、もし本当なら、僕の西郷感の根本が崩れてしまう。

「陸軍大将が兵を率いる」件については、明治4年には、本当に言ったと思われる。
だって、明治4年7月の廃藩置県の時には、薩摩、土佐、長州の兵を8000人集めて御親兵とし、自らがその頂点に立った。どんな内乱が起きても最高責任は西郷が負うし、自分が兵を率いて鎮撫してみせるから、思い切り改革を進めなされと言ったということだ。
そのくらいのことは言うだろう。
だって、廃藩置県は明治維新の総仕上げであって、と言うより、維新そのものであったのだから、西郷自身何が何でも成し遂げる必要があった。勿論、暴動が起きれは武力に訴えてまでも。

西南戦争のときは、ちと、事情が違う。
彼は、とことんいきずまってしまった。自らが起こした維新がこんなていたらくで国民を苦しめ、一部の政府高官が贅沢三昧の生活を送り、汚職がまかり通っているのか。この現実に対して、大きな責任を感じていたのである。
責任感の強い西郷は、自分の責任であると思い続けていた。
これはまた、坂本龍馬の言った「日本を洗濯する」意味で、もう一回本当の洗濯をしなければならないと考えていたと思うのだ。
つまり、『維新のやり直し』をするために、兵を率いて政府に対して『申し上げたき議』があると、明治10年2月鹿児島を出発したのだ。
これが西南戦争に発展してしまった。
この時の明治政府は、西郷軍が九州を超えて本州に足を踏み込む事態だけは避けなければならなかった。そんなことをさせたら、日本国中の不平不満の分子が氏族百姓を問わず、立ち上がってしまう。それまで、全国の不平士族は、西郷が立つのを心待ちにしていたのだから。

堺屋太一の言葉に反論したいのだが、適当な資料が見つからない。
誰か、助けて。
でも、西郷の行動、発言、その軌跡などをたどれば、蓄財や財産形成、鹿児島だけを贔屓などするタイプの人間ではないことがわかるはずだと思うのだ。
征韓論論争のことも、世間を誤解させる記事を書く人が多くて、本当の西郷の実態を伝えていないのだが(西郷自身、海音寺さんも指摘しているが、『征韓』と言う言葉は一度も使っていない。遺韓と言っている)、この西南戦争へ突入するいきさつも正確さを欠いている記述が多い。
いかにも、西郷が戦争好きで、兵を率いて威圧的な雰囲気を感じさせる記述が多いのに閉口する。海音寺さんの文章で、ちと長くなるが紹介する。

   西郷は無欲無私、功名富貴にはまるで恬淡なひとではありますが、自らが主唱し、自らが中心になって始めた維新革命が最も肝心な初一念を忘れ、ふやけきって堕落し、民の災いになることが多いと思われるとき、悠々自適などしていられる人ではありません。彼は最も良心的な人です。愛情深い人です。革命途上に死んだ先輩や同輩や後輩に対しても、国民に対してもすまないと、いつも胸に焼金を当てられるような気持ちであったに違いありません。
敬天愛人の彼の信仰哲学が許しません。
   
   それでは、彼は何時起とうと思っていたのでしょう。
   政府の堕落がきわまって、国民の不満と憤りがきわまれば、きっと自分を待望する機運が盛り上がるであろう。そのときこそ兵を率いて東上し、政府を根底から作り直そうと考えていたのだと私は見ています。

   ですから、明治7年に佐賀の乱が起こったときも起たず、明治9年に神風連の乱が起こり、これに呼応して筑前秋月の乱がおこり、その翌日に萩の乱が起こっても、起たなかったのです。これらの乱はすべて西郷を当てにして、自分らが起こったらきっと西郷が立ってくれるだろうと思って起こしたのですが、西郷ははやり立つ子弟らを叱りつけ押さえつけていました。時期尚早であると、彼は見たのです。

   これまでの西郷観は勝海舟作の『城山』の琵琶歌の「わが身一つを打ち捨てて、若殿原に報いなん」と言う文句や、副島種臣の西郷に対する弔歌、「ぬれぎぬを乾さうともせず子どもらの、心のままにまかせたる君」などが元になって、いつか民衆の心理に形成されて定着したのもだと思いますが、私に言わせれば、海舟の琵琶歌のこの部分と副島の弔歌に対するに当たっては、明治と言う時代の空気を考えなければならないと思うのです。
   
   明治と言う時代は、皇室に対する忠誠心が至上道徳とされていた時代です。殊に明治初期は維新革命が尊王を旗印として革命勢力を結集して旧政権を倒して新政権を樹立し、新しい政治方式を強行している時期でしたから、最も尊王が強調され、政府に対する武力を持ってする抗議はすべて天皇に対する反逆とされました。真実は鳥羽伏見戦争でも、奥羽戦争でも、奥羽や北越の諸藩の反抗も、佐賀の乱も、神風連の乱も、秋月の乱も、萩の乱も、単に政府に対する反抗で、天皇には関係はなかったのですが、天皇に対する反逆とされました。
すべて革命の時代の善・悪・正・不正は、道徳を持って基準にするのではなく、必要、不必要が基準になるものなんです。だから、そうなるのです。

   海舟にしても、副島にしても、西郷の清潔にして純粋な志をよく知り、最も親しい友であっただけに、西郷が逆賊とされることに忍びなかったので、本人の意思ではない、子弟らが事を起こしたのであり、子弟らを愛するあまりに、一身を任せたのであると庇うためにあのように詠ったのだと、思うのです。

   西南戦争の起こる直前、西郷が私学校の壮士らのとりこのようになって、壮士らの監視なくしては人と面会も出来なかったことは、アーネスト・サトウが鹿児島で実見して、手記に書き残しています。
   サトウは上海から東京に帰るに当たって、パークス公使から鹿児島に回って西郷の様子を調べてくるようにと命令されて、鹿児島に来て、西郷へ面会を求めますと、壮士ら数人が西郷に従った上で、サトウと面会させたと書いています。サトウは鹿児島から陸路をとって肥後路に入るのですが、すでに西郷軍は陸続きとして大雪の中を進発中であり、サトウは寒さと飢えに苦しみながら旅を続けたのです。

   ですから、西郷が一身を壮士らにまかせきっていたことは事実です。しかし、彼自身、立つ気がなかったのではないと、私は信じています。前に書きましたが、遺韓大使事件の会議が、暴力的に岩倉・大久保派に否決された時に、維新のやり直しの決心が固まり、その心を抱いて辞表を提出したに違いありません。そして、悠々自適している様を装って、機会の到来を待っていたのです。

つづく
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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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