村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

――海音寺潮五郎談――8――1

「土方歳三はなかなかの戦上手、驚嘆した」
「天才だ」
「西郷なしには成就できなかった廃藩置県」    
――海音寺潮五郎談――8――1

『南洲翁遺訓』の中に、次のような文章がある。
「万民の上に立つものは、おのれを慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節倹につとめ、職務に精励して、民の手本とナリ、民がその勤労振りを見て気の毒に思うほどでなくては、政令は行なわれないものである。しかるに今日は創業の時期であるのに、贅沢な屋敷を営み、美衣を着し、美妾をたくわえ、私財を増やすことを考えている役人が多い。こんな風では、維新の完成はできないであろう。今の有様では、明治元年の革命の義戦もまるで私利私欲のためにしたような有様になっている。自分は天下に対し、戦死者に対して面目なく思っている、と言ってしきりに涙をこぼされた」

『南洲翁遺訓』は、西郷が、自分のところへ訪ねてきた庄内藩士らに折にふれて語ったことを集積編集したものだ。
最近、日銀総裁が私的な蓄財をしていて、各方面からその無節操振りを指摘されているが、改めて西郷さんのこの言葉をかみ締めて欲しい。尤も、こういうせりふは何も西郷が最初ではなく、古今東西、民の上に立って働くものは当たり前の心構えなのだが、その気構えさえない人が政府や重要な役所の高官にいることが問題である。そういう人を選ぶ側にも責任はある。

西郷が、政府の腐敗を憂え、憤っていたことは在国中も在政府のときも、また征韓論が決裂して国に帰ってからも変ってはいない。彼は理想主義者であり、本質的な永久革命家であった。

維新がなった後、明治政府にとって、最大の命題は『廃藩置県』であり、これが為されなければ革命の本旨が成り立たないし、これなしには日本という国が近代的な中央集権国家になり得ないことも熟知していた。
しかし、これは維新の最大にして最高ランクの難事業であった。何しろ、まだ日本全国に胡坐をかいている諸大名をとり潰し、財産を取り上げてしまうことだし、四民平等にして武士としての特権もなくしてしまおうと言うものだ。

明治3年の頃は、東京政府の中で中心になって動かしていた三条や岩倉、大久保、木戸などは、このまま政府高官の腐敗を放っておいてはいけないとわかってはいても、手の施しようがなかったのが実情のようだ。しかし、何とか改善する必要があった。信用のない政府の行なう廃藩置県なぞ、国民から支持されるはずはないのである。大暴動に発展してしまう。
何とかして大改革を断行して、政治を建て直し、先に進めなければならない。もうこうなると、ここから先は、神や仏に頼るしかない。
政府の誰でもが思い浮かべた。
『西郷』を。
西郷を呼んで政府の中心に据えようと考えた。
西郷が智謀に優れているからではない。智謀は岩倉や大久保にはかなわない。そのとき必要だったのは、政治に対する国民、世間からの信頼だったのだ。それには西郷の『徳望』が役に立つのである。
それに、思い切った大改革を進めるには、西郷のような神がかった存在をトップに据え、たくましい決断力と大徳望が備わった人を中心に据えて、天下の人々の魂を奪ってしまわなければ成就できないことを知っていた。
でなければ、予想される起こりうる大混乱を鎮めることなぞできないと考えたのである。

西郷出馬の相談がまとまった。
誰が説得に行くか、これがまた難しいのである。
丁度、弟の西郷従道が欧州から帰ってきて、まず鹿児島に帰着しようとしていたので、従道に西郷を口説かせようと言うことになった。従道は明治3年10月14日に東京を発っているので鹿児島着は22か23日頃の到着であった。勿論、汽船で。

従道の話に、西郷は涙を流して聞いていたと言われている。
東京の政府は、政府高官たちが腐敗しきっていて打つ手がない、これでは、これから控えている大改革なぞとても出来そうもないということだった。
西郷にしてみれば、自分が行なった維新であるから、当然責任がある。自分のしてきたことでもあるので何とかしなければならない。すぐにでも、東京へ飛んで行きたかった。でも、以前にも何度も書いてきたが、薩摩には西郷にとって天敵とも言える島津久光という最大の難関が存在していた。

西郷を憎む、この藩主の父が、おいそれと見送ってくれるわけがないのだ。しかも話の内容が中央政府に仕えると言うことだし、行けば最高位の役職が与えられることはまず間違いない。
久光はずっと何年も前から西郷を憎いと思ってきた。殺さなかったのは、西郷の声望が高く、殺せば藩士らがいきり立ち、藩内が騒然となること必定だと思われたし、大久保が久光に近づいてそのように入れ知恵してきたのだ。
だから、面白いことに、自分よりずっと位の低い藩の中堅どころの藩士に嫉妬してきてきたのだった。

この時の中央政府の要人は公家からは三条と岩倉、薩摩は大久保、長州は木戸そして山縣あたりであった。
この連中が、この時点でどれほど西郷を欲したか、後の征韓論や西南戦争にいたるあの経過のことを見ると、考えられないほどに西郷を崇拝している。と、言うより、必要とした。
『廃藩置県』と言う大命題を敢行するには、後先言ってられない、どんな面目も捨てて西郷に頼らざるを得なかったと言うのが実情だろう。
だから、
上記の重鎮たちが、全員、考えられないことだが、西郷を欲して、説き伏せに鹿児島に行ってしまったのである。
正確には、木戸は長州に行ったのだったが。それも、西郷を引っ張り出すためだった。

この連中、みな久光がよい返事を出さないことは、百も承知している。だから、策略を練った。久光公もご一緒に、政府にお入りいただくと言うものだった。しかも、朝廷からのお声がかりで。すると、長州からもと言うことになり、毛利敬親に会う必要があった。木戸が行った。
当時の、政治の独特なバランスである。
西郷は、岩倉や大久保にこう言った。
「拙者のためにこのようなお手数をおかけ申して、なんとも申し訳ごわはん。拙者もあながち出るのを拒むわけではござらん。しかし、出るとなれば考えと言うものがごわす」
大久保は、
「おまんさあの考えでよいのでごわす。大改革をやってくだされ」
岩倉も、同じ事を言った。

久光へは、わざわざ大げさに勅使を差し向けて『政治参与』の職を用意したと言うので、気をよくしたのか、作戦にうまく引っかかってしまって、
「拙者は今病気養生中で動けない。重症ではないので、年が明けて春になるころには回復しようから、それを待って上京しよう」と言った。

西郷は、このとき、
「大改革を決行するには、薩長だけではいけない。土佐も、佐賀もです」と、言ったと思われる。
これは僕の想像だ。これから廃藩置県と言う大改革をしなければいけない。薩摩や長州だけの意見では偏りすぎである。それでなくても維新時のこの両藩の功績から、やっかみが大きい。だから、このとき既に佐賀からは副島種臣、大隈重信、江藤新平、大木喬任などが参加はしていた。それにもうひとつ、この時既に、長州系の功労者に贅沢奢侈に走り、腐敗した高官が目立ち始めていて、これらを何とか阻止したかった。西郷の最も嫌うところである。
それらを排除するために、純粋な佐賀系、土佐系の志士上がりを欲したのではないかと思う。

久光は、この時、特に西郷と大久保を呼んで、
「このごろ、中央や他国では封建制度と郡県制度の長短を論じ、封建を廃して郡県の制度とすべきであると議論が盛んであると聞くが、わしは日本は封建でなければならんと信じている。その方ども、決して迷わされてはならんぞ」
と言った。
ふたりとも、
「かしこまりました」と言うしかなかった、ということだ。
これから、東京に行って、久光の厳命に背いて封建大名を廃止する法令を通さなければならない心境を思うと、どんな気持ちで聞いていたのか。
これを可能にするには、久光の個人的な威厳を超えて、朝廷と有力各藩の結束が必須だったと考えるべきだろう。それで、佐賀や土佐、長州の藩主までも動員なのである。
封建制を維持したい大名はたくさんいただろうが、最も権力を持っていた久光を、自らの藩主の父ではあったが、孤立させなければならなかったのである。
後に、有名な話として、明治4年7月14日『廃藩置県』が敢行されたとき、西郷と大久保に騙されたと、久光は怒り狂い、夜通し、錦港湾に花火をあげさせて鬱憤晴らしをしたと言うことだ。

つづく
スポンサーサイト
コメント
コメントの投稿
【Font & Icon】
管理者にだけ表示を許可する
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
    サイトに関してのお問い合わせ(動作不具合など)は管理人までお願いします。
    村瀬へのメールはこちら






リンク
月別アーカイブ
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

カテゴリー
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
最新の記事
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

最近のコメント
最近のトラックバック
ブログ内検索
RSSフィード